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三ノ章 月夜に吠えよ黒き虎(三)

黄林寺 退魔僧伝


三ノ章 月夜に吠えよ黒き虎(三)


 静寂、濃くおぞましい血の匂い、闇と、それを引き裂く銀月の光。

 夜の山の木々の合間を、それらが、満たしていた。

 岩肌を見せる山の石壁、地獄の底へ通じるような洞穴ほらあなが、ぽかりと虚空のように開いている。

 洞穴の前に広がる、草地は、凄絶せいぜつなる様相であった。

 幾重にも、幾重にも、強く踏み込んだ足跡、爪跡が、あちこちに乱れている。

 三種類。

 体格の大きな男の足跡。

 下駄を履いた小柄な人間。

 そして――超絶の質量を誇る、巨獣が飛び跳ねたであろう、鋭い爪の痕跡。

 三つの存在が、入り乱れて戦いを繰り広げられたのだ。

 見よ、大地ばかりでなく、周囲に生えた木々の幹にも、爪や刃がぶち当たった跡が残っている。

 中には、太い幹が折れる寸前のものさえあった。

 想像を絶する膂力りょりょく業前わざまえを誇っていることを示している。

 むっと、血臭けっしゅうが香る。

 果たして、三種の存在の、誰が流したか。

 それなりの量の血潮が、大地を潤す。

 血の臭いに混じり、焦げ臭い煙も、薄く揺らいでいた。

 地面には、戦いの後の遺物が散らばっている。

 である。

 梵語サンスクリット真言マントラを刻んだ、仏道法力の、破邪の術を用いるふだであった。

 爆裂と煙幕、辛子剤を混入したもので、相手の意識や知覚を撹乱するためのものだろう。

 そして、月の銀光を浴び、ぎらりと輝く、刃金はがね

 槍の矛先と、三日月状の刃である、月牙を二つ備え持った長柄武器の穂先。

 ――方天戟ほうてんげきの、穂先だった。

 穂先だけが、の先から折られ、虚しく、地面に刺さっていた。

 隣には、もうひとつの武器。

 双節棍ヌンチャク

 極東の琉球国に伝わる、空手の武器だ。

 それだけが、洞穴の前に、残されている。

 方天戟ほうてんげきの使い手は、いない。

 双節棍ヌンチャクの使い手は、いない。

 屍さえない。

 巨獣はどこへ、ふたりの人間はどこへ。

 ただ、静寂と月光、闇だけが、そこにある。

 いや……

 その静けさを、穴の奥で蠢く闇が、乱した。

 黒いなにかが、ずるずると、ずるずると、引きずりながら、這い出てくる。

 それは、二本の足で立った。

 ひと、だろうか。

 そうでない、なにかだろうか。

 月の光に濃く顔に影を作り、顔立ちさえ定かならず。

 体格から男ということだけはわかる。

 ボロ布のような、黒く垢に汚れた服を纏う。

 男はしばし、闇の中で黙念と立ちすくみ、やがて、視線を周囲に向ける。

 はたと、男は視線をある場所で止め、凝然ぎょうぜんとする。

 双節棍ヌンチャクの、鉄鋲てつびょうを柄尻に備えた、無骨な作りを、見つめたのだ。

 やがて、男は歩き出した。

 静寂と闇の中を、大地に刻まれた爪の跡を求めて。


「ん……く……ぁ……?」

 痛み。

 苦しさ。

 疲労。

 小さな体を走る幾つもの不快感と、身を揺らす振動、浮遊感。

 真鶴は、意識を取り戻した。

 自分は、どうなったのか。

 たしかに、戦いが始まった、あの黒い虎と、憎いかたきと直面したことは覚えている。

 そこから、どうなったか。

 真鶴の小さな体は、誰かに背負われていた。

 そんなやつには、ひとりしか心当たりがない。

 自分を背負うやつを、後頭部から、剃り上げた僧形そうぎょう剃髪ていはつを見つめ、真鶴は眉をしかめた。

「お、おい……」

「起きたか」

 身長六尺九寸(約二メートル)前後はあろう巨躯に、鍛えに鍛え抜いた筋肉の要塞のような体つき。

 退魔の聖殿せいでん黄林寺こうりんじ黄林僧こうりんそう、中級僧の位を頂く猛者。

 ゲンコウであった。

 自身も兄妹を妖怪に殺された過去を持ち、母の仇を求め報仇ほうきゅうの旅をする真鶴に、助力を申し出た熱血漢。

 彼は真鶴を背負い、夜の闇の中、森の中を、歩いていた。

 なぜ、このような状況になったか。

 真鶴は朦朧とする意識の中、徐々に、漠然ばくぜんとしていた記憶を、手繰り寄せていく。

 妖気に満ちる巨大なる黒虎こくこ、母の仇である、あの男――そう、島崎八郎兵衛しまざきはちろべえ

 この世に妖怪变化ようかいへんげの、妖気を放つ黒い虎など、そう何匹もいるものではない。

 当然、双方はあやまたず激戦の火蓋を切った。

 真鶴は鍛え抜いた空手を、双節棍ヌンチャクの連撃を。

 ゲンコウは黄林武芸こうりんぶげいにて磨いた武術、気功を練った方天戟の刃を。

 それぞれに黒虎へ叩き込んだ。

 結果……無残なものだ。

 黒き虎の持つ力は、想像をあまりに超えていた。

 針金のように太く硬い体毛は、皮下の筋肉の強固さに加え、さらに妖気が凝集されていたのか、名工めいこうの鍛えた鎧兜よろいかぶとさえ凌駕りょうがするほどに硬質だった。

 真鶴の双節棍ヌンチャクは弾きかえされ、ゲンコウの方天戟ほうてんげきは、柄の先が耐えきれずにへし折れた。

 そして、相手を狩るつもりが、逆に狩り殺される寸前の様相と成り果てた。

「くそっ……」

 悔しさに、真鶴は涙を浮かべて歯噛みする。

 逃げ惑い、転げ回り、ゲンコウが割って入らなければ、死んでいただろう。

 彼が持っていた撹乱用の符を炸裂させなければ、確実に今自分は死体になっていた。

 最後に喰らった黒虎の体当たりで吹き飛び、気絶して、あまりにも情けない。

 そんな彼女を、ゲンコウは背負って、逃げたのだろう。

「怪我はないか」

「ねえよ……」

「そうか」

 不機嫌そうに答える真鶴に、あくまでゲンコウは平素である。

 男の巨躯は、小揺こゆるぎもせず、ただただ、歩く。

 真鶴は、黒髪の合間から耳を、腰から尾を伸ばし、猫のそれのような形態を見せる。

 この山一帯に満ちる、龍脈由来の強い氣の波動に反応したのだろう。

 少女の正体は未だ判明しないが、亜人のそれと似ている。

 その鋭敏な知覚が、臭いを感じ取る。

 血の臭いだ。

「おい、お前」

 ぞくりと何かを感じ、真鶴は上ずった声を上げる。

 だがゲンコウは、歩みを変えず、進む。

 彼は真鶴の声を遮るように、呟いた。

「見ろ。山小屋だ、あそこで少し休むぞ」

「あ、ああ……」

 あまりに声の調子が平然としているので、真鶴は言葉を飲み込み、頷く。

 いつ誰が建てたものとも知れぬ、朽ち果てた山小屋が、ぽつねんと闇の中、月光に照らされている。

 少なくとも、夜風から身を護る程度には、形を保っていた。

 ゲンコウは少女を背負ったまま、戸を開け、中へ入る。

 そして真鶴を下ろし、どかりと、壁に背を預けて座る。

 天井は破れかけ、小屋の中へは、燦々と月の光が注いでいた。

「おい、お前! それ……」

 そのときになってようやく、息が乱れ、どろどろと血を垂らす面相を、真鶴は知ったのだ。

 ゲンコウの顔は、乾きかけた血にまみれていた。

 その乾いた血の上に、また鮮血が垂れる。

 是非もない。

 彼の左目の上を、ざっくりと、深く三本の先が走り、皮も肉も割いている。

 目玉などとうに形を有してはいない。

 黒虎こくこの鉤爪は、若き僧を隻眼に変えていた。

 さらに、真鶴を連れて逃げる際に負ったのか、胸元や肩、あちこちに浅く爪で削られた跡があった。

 ゲンコウはこの状態で、泣き言一つ言わずに、少女を背負ってここまで逃げたのである。

 信じ難い強固な意思と肉体である。

「なんで、そんな……バカっ、なんで!」

 真鶴は涙目になり、叫んだ。

 昨日会ったばかりの男だ。

 ここまでされる義理などない。

 自分など放って逃げればいいのだ。

 それを、なぜ。

 彼はこうまでするのか。

「わからん。ただ、放っておけん……しかし、寒いな。今日は冷える」

 血を流し過ぎたのだろう。

 まともに止血もせず、真鶴を背負って夜の険しい山道を歩き続け、黒虎から逃れてきたのである。

 もしもの時の煙幕と炸裂の術符じゅつふを使わなければ、とっくに死んでいたろう。

 その符もすでに使い果たしている。

 今襲われれば、後がない。

「逃げろ」

 おもむろに、まるで運命を決別するように、ゲンコウが言った。

 真鶴は沈黙した。

 その沈黙を、重ねてゲンコウの言葉が破る。

「俺は……置いていけ、お前だけでも……」

「そんなっ」

「俺は黄林寺の退魔僧たいまそうだ……覚悟は……っ」

「お、おい! おい! お前、おい!」

 がくりと、ゲンコウはうなだれ、それ以上の言葉をつむげない。

 意識が、ついに途切れたのだ。

 彼の肩をつかみ、真鶴が叫ぶ。

 虚しい声が、小屋に響き渡った。


「ったく、馬もなしで、軽功けいこうで走り続けるなあ、こたえるぜえ。年ぁとりたかねえなあ」

 ふうと息をつき、老僧は担いだ荷物を背負直す。

 凄まじい長身に、肉厚の骨格と筋肉、タフで強いが、明るく人好きのする顔立ちで、若い頃はさぞ二枚目だったろう。

 だが今日、今この時、老僧の顔には、険しい焦りが垣間見えた。

 背負っている長大極まる荷物の疲労もあるが、しかし、老いたその身は、引き連れた上級僧らを上回るほどの強靭さで山道を走破する。

 まさに超人である。

 名にし負う、悪鬼羅刹と戦い抜く聖なる退魔の僧侶、黄林寺の長、リュウガイ和尚、そのひとであった。

 今和尚は、長く起伏の在る山道を、身を軽くし、動きを素早くする気功の技、軽功術を用い、ひたすらに駆け抜け、ある場所を目指している。

 それは数年前、島崎八郎兵衛と戦い、また、彼と約定やくじょうを交わした場所である。

 どうしてもその事情を、真鶴という少女に打ち明けることができず、いたずらに事態をややこしくしてしまったのが、悔やまれた。

「浮世ってのはままならねえぜ、ちくしょうめ」

 普段はなるたけ、高僧として、ある程度威厳を保つことを(本人の感覚では)意識するリュウガイも、愛弟子の危機に、伝法でんぽうでいなせな口調が漏れていた。

 ゲンコウが直情的で生真面目が過ぎ、人情家なことを、考えられなかったとは。

 真鶴とゲンコウ、ふたりは果たして、まだ生きているのか。

 考えれば考えるほど不安になる。

 馬が使えぬ以上、一晩走り抜いてもたどり着けるかどうか、間に合うかどうか。

「和尚様、見てください!」

 共に走っていた上級僧のひとりが、叫んだ。

 リュウガイは目を剥く。

 なんたる、不運か。

 皆が駆けていた山道の先が、がけ崩れで埋もれていた。

「ぬう……」

 思わず、リュウガイも呻く。

 とてもではないが、このままでは、到着は翌日の昼にはなろう。

 その時、彼方より、音が響く。

 ――ごう

 ――ごう

 巨獣が血に飢え、怒りにたぎる、壮絶な雄叫び。

 木霊こだまするその先に、呪いに満ちた妖怪の獣がいた。

 それがゲンコウと真鶴に迫る危機なのは、明白だった。

 もう一秒さえ争う状態なのだ。

「しかたねえ……おい! こっちへ来い!」

「和尚、ですがそちらは」

 和尚は、視線を前でなく、横へ流して叫んだ。

 ゲンコウたちに直進するのでなく、和尚は隣にそびえる別の山へ足を向ける。

 師が何を考えているか測りかね、上級僧らもたじろぐ。

 和尚はそこへ、一喝して声を上げた。

「とにかく、こっちからやるぞ! 黙って来い!」

 言うや否や、歴戦の老僧は、武芸を極めた上級僧の弟子たちも上回るほどの脚力で、飛燕の如く山肌を駆け上がった。

 あと何分、保つか。

 あと何秒、保つか。

 事態は、状況は、今や切迫の時であった。


「む……んっ」

 男は呻く。

 全身を蝕んでいた痛みと倦怠感、流血と夜気がもたらす、骨の髄まで凍るような寒気。

 それが、じんわりと溶けるように、ぬくもりが広がって、体を癒やす。

 流れていた血も止まり、傷口から射し込むような鋭い痛みも緩和されていた。

 体の前面を、なにか、とても柔らかいものが、押し付け、包む。

 甘いかぐわしい、花香かこうの如き匂いも、彼の心を慰めて。

 まだ開く右目を、青年は開く。

 破れた天井板から注ぐ月光が、小屋の中を薄く包む。

 すっかり闇に慣れた目は、光景を余さず捉えた。

 受けた傷を覆うのは、さらし。

 そして彼に触れるぬくもりとは――

「ようやく……起きたかよ」

「な! お、おま、おまえ、なにをっ~!」

 あまりのことに、ゲンコウは裏返った声を張り上げた。

 前を開いた彼の羅漢服の中、筋肉質に発達し、鍛え抜いた肉体の上に、覆いかぶさるもの。

 それは、艷やかな褐色の肌。

 なめらかで、柔らかく、そして、豊満だった。

 弾力を詰め込んだ大きな果実。

 真鶴は身長五尺前後(約一五〇センチ)の小柄な体なだけに、余計、乳房の膨らみが目立つ。

 普段はさらしできつく締めていたものは、想像よりもなお大きい。

 ゲンコウの凍てついた体を、乙女は自分の肌で温めていた。

 上からかけた普段使いの空手着の下、小麦色の小柄な少女、長身にして筋骨隆々の男、まったく異質の肉体と肉体は、夜の闇の中、重なる。

「しゃあねえだろ……お前、あのままじゃ危なそうだったし。こっち見んなアホ!」

「すまん!」

 シャー! と金色になった瞳で威嚇する真鶴。

 ゲンコウは慌てて視線を逸らす。

 だが見ずとも、ぎゅっと胸板に押し潰される乳肉のやわさは、乙女のポニーテールに結った黒髪から香る甘い匂いは、女を知らぬ純朴な男を、陶酔に誘った。

(や、柔らかい……こいつ、想像以上にでかい……それに、いい匂いがする)

 まだ子供の時分に寺へ入り、その後も真面目一筋で生きてきた男に、真鶴の瑞々しい体と美しさは、信じ難いもののように感じられた。

 それは、真鶴も同じだったかもしれない。

「ごめん……」

 おもむろに、乙女の桜色の唇は、それまでの強気さが嘘のように、か細い声音を漏らした。

 弱々しく、今にも風が吹けば、さらわれてしまいそうだった。

「気にすることなどない。俺は、自分の意思でお前に助太刀しに来た。責を負うとすれば己自身だ」

「でも……だからって」

 見るなと言われたが、ゲンコウはちらと視線を下げる。

 真鶴の綺麗な瞳が、涙に濡れ、震える頬が嗚咽を漏らす。

 それまで復讐の恨みと怒りに駆られていた乙女は、自分のために片目を失い、死にかけた男への罪悪感に、押し潰されていた。

「あたしが弱いから……あたしが、弱いから……ごめん」

「……」

 震える肌、震える肩、震える声。

 ゲンコウの巨躯に寄り添う乙女は、初めて、彼の前で弱さを吐露する。

「あたしも、お前みたいに男に産まれてたらな……羨ましいよ、こんな強くて、でかい体なら……あいつにだって……女になんか産まれなきゃ」

「そんなことはない!」

 強い言葉が、傷ついた男の口からほとばしる。

 ゲンコウは少女の細い肩を掴んだ。

「俺は、お、お前が女であることは、決して間違っていることでは……ない! そう思うぞ! 自分の今のあり方を自分で否定なぞ、悲しいこと言うな!」

 つかえながら吐く、つたない言葉だ。

 だが熱く、強い。

「こんな綺麗で可愛い女に産んだ母も、お前の父も、お前をきっと誇る。絶対だ!」

「~っ!」

 まっすぐ見つめながら言うゲンコウに、真鶴の小麦色の顔が赤面した。

 まるで火が点いたようだった。

 彼女は顔を恥ずかしそうに逸し、ゲンコウの視線と言葉から思わず逃げる。

「バカ言ってんじゃねえ、バカ……聞いてるこっちが恥ずかしいじゃねえか……」

「す、すまん!」

「ああもう……暑苦しいやつだな。でも、そんだけ元気なら、善かった」

 褒められたのが、内心悪い気はしないのか、真鶴は先程見せた悲嘆や苦しみを紛らわせ、微笑を浮かべる。

 真鶴とのやりとりに、ゲンコウも血の気を取り戻していた。

 経絡の氣の巡りも回復し、痛みと疲労も和らぐ。

 真鶴はそっと、彼の上から離れた。

「あっち向け! 服着るから」

「あ、ああ」

 自分と彼の上にかけていた服を、真鶴は纏う。

 視線を横へ向け、聞こえる絹擦きぬすれの音が、どこか扇情的だ。

(しかし、これからどうするか。書き置きから、和尚たちが来てくれるかもしれんが。ともかく山を降りて人里へ……)

 自身も羅漢服の帯を締めながら、今後のことを思案する。

 その、瞬間だった。


 ――ごう

 ――ごう


 肌に突き刺さるような強烈な殺気と妖気が、形なき空気の中で灼熱し、腹の底まで響く太い野獣の吠えごえで震える。

 大地を蹴る振動。

 血腥ちなまぐさい獣の呼吸。

 小屋の薄い木壁きかべの向こうから、身の毛もよだつ殺意と妖気が、疾風しっぷうと化して迫る気配。

「ど、どうする」

「とにかく外へ」

 ふたりが出来たやり取りは、そこまでだ。

 壁が音を立て、粉々に吹き飛ぶ。

 黒い体毛に覆われた、筋肉と骨格と、妖力とは凝集した生きた『魔』は、なんと、小屋そのものを突進により、ぶち抜いて来た。

 衝撃。

 ただ、衝撃。

 意識が瞬く間に寸断され、遅れてようやく、痛みと浮遊感が襲う。

 ゲンコウはその時、なんと、瞬間的に動き、真鶴を抱きしめて守った。

 あまりにも愚直であった。

 それがこの男のどうしようもない生き方なのだ。

 吹き飛んだ木片と共に、空中を舞ったふたりは、幸運にも分厚い腐葉土の上に落ちる。

 何度か地面の上をバウンドして転がり、幹にぶつかりようやく止まる。

「ぐ……」

「か、はっ……」

 如何に朽ちかけた代物とはいえ、小屋一軒を一瞬で粉砕してのけるほどのパワー。

 粒々とした巨躯は、傷一つどころか、疲弊さえ微塵も感じさせず、今や土台と床板だけとなった小屋の残骸の上で、呼吸するたび、筋肉を隆起させ、金属のように硬く艷やかな漆黒の体毛を逆立たせている。

 煌々と夜闇の中で殺意に燃える、黄金の双眸そうぼう

 黒虎こくこの姿は、まさに地獄の具現の如し。

 抱き締めた真鶴をかばいながら、それでもゲンコウは立ち上がる。

 並の人間ならば、小屋を粉砕した体当たりで死んでいた、多少、頑丈な人間でも、木の幹に直撃した衝撃で背骨がへし折れていたろう。

 まだ死なず、まだ立ち上がることができるのは、その身を鍛えに鍛え抜いた黄林寺の退魔僧であるゆえか。

 しかし、これほど規格外の化物を前に、死ねずにいるというのは、不幸ともいえた。

 むしろ即死していたほうが、苦しむ時間が少なく、救いであったかもしれない。

(どうすれば……どうすればいい……これほどの怪物を相手に、勝つどころか、逃げることさえできんのか)

 絶望に歯噛みするゲンコウ。

 その腕に抱いた、真鶴のか細い体、体温、香り。

 自分の命ならばともかく、この娘の命が奪われると思うと、やるせない思いが募る。

 果たして若人わこうどが、絶体絶命の窮地にあるとき、遥か彼方の師は、この光景を見通していた。


「見えた」

「はっ。確かに、距離、約四里(約二キロメートル)、風、右より微風、標的周辺ではおそらく左から」

 高い、高い、山のいただきであった。

 僧形そうぎょう

 しわを刻んだ顔に、険しきものを浮かべたる、リュウガイ和尚、そして、上級僧の高僧ら数名。

 硬質な山頂の岩肌に並び立つのは、ゲンコウ救助のために寺を出た面々であった。

 和尚と、上級僧の中でも法術に長けた僧、テンケイは、共に目をすがめ、眼球になにか、文様の如き輝きを生じさせていた。

 気功術、法術の一種、千里眼法せんりがんほうである。

 優れた術者ならば、遥か地平線の彼方まで見据えることのできる秘法。

 それにより、和尚とテンケイは、遥か先にいるゲンコウと真鶴、ふたりに迫る黒き虎を、木の梢の合間から視認しているのである。

 しかし、見たところでどうするか。

 如何に黄林寺の僧侶が様々な武芸と法術を誇るとはいえ、これほどの長距離の相手を攻撃する方法があるか。

 ――あるのだ。

 それを、和尚は今、背負っていた巨大な布包ぬのづつみの中より、取り出した。

 鈍い鋼鉄の輝きが、月下に顔を出す。

 弓。

 ただの弓ではない、複数種の鋼の板を束ね、重ねた、鋼弓こうきゅうである。

 張ってある弦まで金属製であった。

 大きさは、全長にして和尚の身長なみ。

 矢を、共につつみに入れていた矢筒やずつから取り出す。

 そのまま小型の槍に使えそうなほど巨大な矢であった。

 当然、矢も鋼で、魔をはらう聖句、飛翔体を加速させる梵語サンスクリットの術式が、真言マントラとして刻んであった。

 鋼鉄の弓、鋼鉄の弦、鋼鉄の矢。

 全ての重さだけでも二五〇斤(約:一五〇キログラム前後)以上ある。

 和尚はこれを、生身で持ち歩いてここまで来たのだ。

 気功術、氣による強化があるとはいえ、それを運用する肉体の能力は、超人と言わざるをえまい。

 これから起こる現象は、さらにその上をいくものだった。

「……っ」

 見守る僧らは、あまりのことに絶句した。

 距離、約四里(約二キロメートル)、弓でられる限界を遥かに超えている。

 狙う狙わないの次元ではない。

 和尚は重すぎる、巨大すぎる弓を持ち、矢を取りつがえ――引いた。

 ギ――

 ギギ――

 鉄を束ねた弓が想像を絶する力に屈し、張力を発生させて曲がる。

 元の形に戻るべく張力が引くその力、力自慢の巨漢とて、耐えきれるものではない。

 和尚の腕の筋肉が、胸の筋肉が、背の筋肉が、気功術による内力と共に、凄まじく膨れ上がる。

 遂に、弓は完全に引かれた。

 今にも破裂しそうな力が、そこに凝集していた。

 弦を引く力は、推定で八三〇斤(約五〇〇キログラム)。

 それも、一瞬だけ引くだけでなく、弦を引いたまま、狙いを定めている。

 目は依然として千里眼法を別に術式として編んでいる。

 こんなまねのできる人類が他にいるとは、到底思えなかった。

 ゆるり、ゆるりと。

 番えた矢の先端が、上に持ち上がる。

 やや、斜め上、まっすぐ先に雲間の闇夜を見据える。

 静かな呼吸の中、和尚は息を止めた。

 放った。


 生臭い息を吐き、血に飢え、渇いた獣が、じりじりと迫る。

 黒き虎は、ふうふうと呼吸しながら、牙を剥いた。

 白い牙が、黒い体毛の中で銀に輝くようだった。

「く……」

 震える真鶴の体を抱き、ゲンコウは睨む。

 意味のない行為だ。

 もはや真鶴は、復讐どころでなく、目の前の圧倒的暴威に震え、怯えていた。

 無理もない。

 乙女がどうこうできる領域を超えた相手だった。

 天の月が、静かに濡れたような月光を降り注ぎ、全てを冷たく見つめている。

 夜を白銀の鉄光てっこうが断ち切った。

 まるで、なにかの神威しんいが断罪をもたらすかのように。

 遥か遥か彼方より到来した退魔の鋼が、超高速の攻撃を、予測不能のタイミングでぶち当てる。

「ギャアアアアアアアアアアアアアアっ!」

 まったく予想できぬ時と場で、背面から射られ、巨獣が咆哮。

 地の上でのたうち回り、背に突き刺さった異物に鮮血を噴出。

 大地に爪を立て、口から血と怨憎えんぞうとを太い鳴き声で吐き出し。

 虎は荒れ狂う。

 誰が知るか。

 約四里(約二キロメートル)を隔てた先より、正確に獲物を捉えた弓矢の絶技、否、神技。

 拳法けんぽう剣槍けんそう、法術、気功術のみならず、弓を取らせても天下無双。

 だがしかし、それは彼にとって、失敗に他ならぬ一矢であった。


「チキショウ! くそったれ! 外しちまった!」

 普段の気さくな好々爺然としたものでなく、その身魂しんこんにある熱く猛々しい益荒男ますらおの口調で、リュウガイ和尚は叫んだ。

 命中はした。

 したのだが、外した。

 本来ならば、一矢で心臓を穿うがち、一矢で確実に息の根を止めるつもりの渾身の攻撃であった。

 それが、心臓を僅かに逸れ、虎はまだ生きたままである。

 むしろ、下手に手傷を負わせたことで、余計に魔獣を興奮させてしまったといえる。

 和尚はすぐさま、第二矢だいにしを放たんと、新たな矢を右手で取り上げた。

 が、天運が仇なした。

 高い山のいただきを、白いかすみが覆いだす。

 どこから吹かれてきたか、水分を多く含んだ霧風きりかぜが、凍える高度の空気に揉まれ、白色に視界を包み込んでいく。

 千里眼法を用いたとしても、見通せぬほど濃く、彼らの周囲を曇らせて。

「和尚、どうなさいます!」

「しかたねえ、もう一度徒歩で向かうぞ! どれだけ軽功で駆けても、明け方になっちまうが……クソっ! ゲンコウ! それまで死ぬんじゃねえぞ!」

 口惜しくも、己の助力が届かぬことに、断腸の思いでほぞを噛むリュウガイ和尚。

 ただただ、弟子の幸運を天に、御仏に祈りながら、彼らはまた、険しい山を下って走りだした。


「あれは、もしや……和尚様っ」

 虎の背に撃ち込まれた矢、そこに刻まれた梵語サンスクリットの術の語を読み、ゲンコウはすぐさま思い至る。

 見上げる彼方、今や白く煙る霞に包まれた山頂、そこから射られたものだろう。

 この世にあってこれほどの武芸の極みに達するものは、五指もおるまい、我が師こそ紛れもないそのひとりということは、ゲンコウにもわかる。

 しかし、救援の矢に第二射はない、視界を閉ざされれば、如何に和尚とてこれ以上の救いの手は差し出せない。

 ゲンコウはまた、おぞましき魔獣の前で、たったひとりの身となった。

 その事実を鑑みれば、恐怖と死の予感に総身は震える。

(死ぬのか、俺はっ)

 そんな男の腕の中で、より細く、小さな肩が震えた。

「あ……ぅあ」

 しがみつく温かく柔らかな感触。

 恐怖に縮んだ舌先が、言葉にもならぬ嗚咽しかもらさぬ。

 復讐の旅の果てに、絶望の死地にたどり着いた乙女、真鶴。

 母の仇を討つどころか、その身は絶体絶命の窮地にあり、魔獣の前で死を待つ運命にある。

「っ」

 ゲンコウは、ぶるりと腹の芯より生まれた熱に、体に力を得る。

 涙に濡れた少女の眼差し、その無念。

(死ねるか……こんなところでっ)

 我が身の死は、自分ひとりの死ではない、自分が死ねば共にこの娘も死ぬ。

 それだけは断じて許しがたいものだった。

 ゲンコウは真鶴を地に横たえ、立ち上がった。

「歩けるようになったらすぐ逃げろ」

 そう言い残し、青年はひとり、まだ痛みに軋む体で、もう一度、魔なる黒虎こくこの前に、進み出た。

 ――ごう

 背を貫く矢の痛みに、凄まじい怒りをたぎらせ、虎が吠える。

 びりびりと腹の芯まで響く、凄まじい太さと力を持つ咆哮ほうこうだ。

 目に見えぬ殺意が、大気の中で灼熱と化す。

 黒き体毛、その下で凝集する筋肉の束は、城塞じょうさいの如き盤石ばんじゃくの装甲。

 筋肉組織もそうだが、なにより、高密度、高出力の妖力が皮下に蓄えられており、これが難攻不落を極める。

 黄林寺の中でも、中級僧とはいえ、膂力りょりょくに秀でたゲンコウの方天戟さえ、穂先が通らず、逆に折れてしまったほどだ。

 しかも今、ゲンコウは素手である。

(なんとする。やつを仕留めるために、なにができる)

 青年は構えながら、思案する。

 袖の内にまだ暗器を秘めてはいるが、通じないのは目に見えていた。

 この超絶の魔獣を相手に、我が手はなにができる、どう活路を見出す。

 その時、青年の胸中に、昨日師が見せた絶技が、掠め過ぎた。

 かの偉大なる師は、指一本で太い木の塊を粉々に粉砕してのけた。

(できるか、俺に……いや、できなければ死ぬ。ならば、やるより他に道はない)

 ゆるり。

 ゆるりと。

 絶対の死地にあって、緩やかに、ゲンコウは動く。

 腰を落とし、右手を引く。

 顔から、緊張が消え、瞑想めいそうに耽る高僧の如き落ち着きが発露する。

 ――コォぉお

 ――ホォおお

 腹の底から、静かだが、一定のリズムのある呼吸。

 調息だった。

 呼吸法により肺から取り入れた空気が、丹田で練られ、血流と共に全身の経絡に巡り征く。

 目に見えぬエネルギー、ひとが用いる神秘の力、生命の力、氣の力が、ゲンコウの中で一点に集中する。

『ゲンコウよ、お前さん、外功の鍛えは相当なもんだ。腕力じゃもうわしより上だろうよ、だがその反面、ちと内功の練りが足らん。これからは、もうちっとそのへんも磨きな』

 師の言葉を思い出す。

 もっとだ、もっと練れ。

 今ある窮地さえ忘れ、ただただ無心にて氣の巡りに意識を注げ。

 さながら、月輪を映す波なき凪いだ湖面。

 怯えも焦りも、殺意さえなく、ゲンコウの心は無形むぎょう水月すいげつの高みへと近づく。

「ぐるっ……」

 黒虎こくこが、そこに感じ取る異常さ、形容し難い凄絶な気迫に飲まれ、たじろぐ。

 普通なら、敵は吠え、叫び、狂い、殺意や恐怖で動く。

 それが、今のゲンコウにはまったくない。

 やがて場に満ちる緊張に耐えきれず、虎は動いた。

「ぐぉおおおおお!」

 ゲンコウを超える巨大な肉の質量が、突風と化して飛びかかる。

 爪が、牙が、白く鋭いそれぞれの獣の武器が、神速となって襲う。

 だが、遅い。

 相手が地を踏みしめ、跳躍の姿勢を取った段階で、ゲンコウは動いていた。

 軽く膝を曲げ、流れるように、跳ぶ。

 長身で筋肉質な体と思えぬほど、若き青年の肉体は、重さがないように跳躍した。

 軽功術である。

 飛びかかる虎の、その、さらに上へ。

 舞い上がる。

 空中で身を捻る。

 ぼっ――

 突きが、繰り出された。

 踏み込んで力を叩きつけるのではない。

 ただ回転し、腕の筋力だけで十分。

 手の先は、掌底であった。

 その掌底の中心が、虎の背に刺さった矢の後端に、触れた。

ぁっ!」

 凄まじい雄叫びが、腹の底から轟く。

 声以上に、ゲンコウの手の平から発生したエネルギーは、矢を通し、突き刺さった虎の肉体の中へ、その奥へと、染み渡る。

 想像を超えた、氣の力。

 練りに練られた気功の絶技。

 硬い体毛、表皮、筋肉、それらを硬質化させる妖力の守りを通り越し、柔い内臓へと。

「ギャぁ、アアア! がぁああああ!」

 虎の口から、絶叫が上がる。

 口から、耳から、目から、矢の刺さった傷、さらに、肩やあちこちの肉を突き破り、奔騰ほんとうする血飛沫。

 地面に落ちた巨躯は、絶命寸前の状態と成り、やがて叫ぶ力さえ衰え、ひくひくと死の痙攣を始めた。

「浸透勁……できました、和尚様」

 着地し、残心に構えたゲンコウは、呟く。

 打ち込んだ対象の内部へと氣の力を伝達し、浸透させ、内側から破壊する。

 東洋大陸は北派武術の深奥しんおうに、青年は遂に、一歩踏み込んだのである。

 黒虎こくこは様々な内臓器官をズタズタに破壊され、もはや死の寸前。

 これで、勝ったか……

 先の一撃に、全勁力を注ぎ尽くし、片目の喪失、失血、全身への打撲、擦過、無数の傷と疲労に、ゲンコウは片膝を突く。

 その刹那であった。

「グゥウルォオオっ!」

 血反吐と共に、崩折くずおれていた黒き巨躯が跳ね起きる

 ほとばしる、四条の白き斬光、鋭き鉤爪の一閃。

「っ!」

 ゲンコウは咄嗟とっさに腕を上げ、防ぐ。

 もう内功による勁力けいりょくの防御さえない。

 ざっくりと腕の肉が削がれ、衝撃に逞しい肉体が吹っ飛ぶ。

「が、ぁあ」

 何度も地の上を転がり、倒れ伏す。

 それでもまだ息はあった、黒虎こくことて相当の深手である。

「ぐ……くそっ」

 立ち上がる余力もなきゲンコウ。

 死に瀕した虎がにじり寄る。

 最後の瞬間まで、目の前の獲物に牙を剥くそれは、野生の本能さえ超えた怒りのためか。

 内に宿る妖気のため、尋常の獣に推し量れぬ攻撃性に突き動かされている。

「やめろ! それ以上そいつに手ぇ出すんじゃねえ!」

 そこで、痛ましい声が夜闇に響き渡った。

 それまでの死闘の趨勢すうせいを、地に伏し、震えて見守るしかなかった乙女が、立ち上がっていた。

「あたしが……相手だ」

 拳を握り、腰を落とし、構える。

 真鶴は、未だ死なぬ魔神のような黒虎こくこを相手に、勇気を振り絞って立ち向かう。

 虎は乙女の覇気に反応し、目標をそちらの獲物へと切り替えた。

「やめ……やめろ、逃げろっ。俺はいい!」

 血反吐を吐きながら、ゲンコウが叫ぶ。

 だがその時にはもう、虎は真鶴へと向かって、飛びかかっていた。

 真鶴は歯を食いしばり、待ち構える。

 せめて……せめて一矢報いる。

 母の仇のために。

 自分を守るため、命を賭けて戦ったゲンコウを、今度は自分が守るために。

 刺し違える覚悟で、少女は迫り来る巨虎きょこ黒影こくえいにらんだ。

「グガぁあ、アアア!」

 血と臓物と唾液にまみれ、吠え、走る、狂える虎。

 正拳を打ち込まんと拳を握り締める真鶴。

 両者を隔てる距離、ほんの一跨ひとまたぎ。

 それを引き裂いたのは、側方から突如飛来した、もう一つの黒影こくえいであった。

 飛び後ろ回し蹴り。

 空中を飛びながら、回転運動のエネルギーへ、見事に自らの体重を乗せている。

 黒虎こくこの胴を捉える業前わざまえは達人の冴えである。

 虎が地に落ち、転がり、だがすぐに跳ね起き、新たな敵を睨んだ。

 影も地に立った。

 襤褸雑巾ぼろぞうきん以下の、擦り切れた垢と土まみれの黒い空手着を纏い。

 れた体は、もはや生気せいきさえない。

 それでも双眸には、煌々と意思が輝いていた。

「なっ……お前……」

 枯れた男の体は、真鶴と虎の間に立つ。

 真鶴はその後姿に、なにもかも忘れて放心した。

 自分を救ったその男に、なにをするべきかも忘れた。

 ただ、呆然と硬直する。

 そんなことに頓着とんちゃくせぬ黒虎こくこは、絶命寸前の身で、最後のにえを求めて狂奔きょうほん

 丸太のような太い前足が、剃刀かみそりの如き鉤爪が、突進と共に斜め上方よりたぎり落ちる。

 ばしぃっ! と、弾けるような音、炸裂する衝撃が、虎の爪を前足ごと払う。

 男の腕が、円を描く。

 これ以上ないほど完璧な円形の動きが、爪撃そうげきを弾き、防御する。

 まわし受け。

 空手にある防御の基本形だが、男のそれは速度、タイミング、どれをとっても神技の域であった。

 だが、男の枯れた肉体は、矢継ぎ早に繰り出された、黒虎こくこの牙までは、防ぐことも、かわすこともならず。

「ぬっ……!」

 皮膚と肉どころか、骨まで噛み砕く音がした。

 男は呻く、しかし、呻く声さえか細い。

 倒れもせず、肩に食いつき、肺まで達する牙の侵入に、泣き言ひとつ漏らさぬ。

 ひび割れた皮膚からは、血があまり出なかった。

「真鶴」

 おもむろに、男が、背後の少女の名を呼んだ。

 それは、低く、優しい声だった。

「すまなかった」

 ただの一言、そこに込められた万感の想い。

 虎の牙がさらに深く食い込み、左腕を、肩ごと食い千切ろうとする。

 そこへ、男は、残る右手を閃かせた。

 指を立てた突き技、貫手ぬきてである。

 立てた指は人差し指と中指の二本のみの、二本貫手だ。

 硬質な体毛と筋肉の防御には、通じない。

 だが、肩のすぐ上に食らいついていた虎の顔面、目玉は、別である。

 鈍くえげつない、おぞましい音が響く。

 断末魔の絶叫が、肉と骨を噛む牙の合間から轟く。

 ――ごふっ

 ――ごぼっ

 男の指は内部で頭蓋の内を掻き、脳髄をえぐる。

 血のあぶくを吐き、虎はやがて、びくびくと何度も痙攣し、崩れ落ちた。

 それきり、もう二度と、動くことはなかった。

「……っ」

 男は、自分の足元にうずくまった巨大な虎のしかばねを、じっと見下ろす。

 そして一度、振り返った。

 この三年間を山中で過ごした顔は、ひげに覆われ、贅肉ぜいにくはほとんど削げ落ちて、皮膚は縮み。

 昔日の面影はほとんどない。

 だが背後の真鶴を見つめる目だけは、昔となにも変わらない。

 男は、静かに微笑んだ。

 一瞬後、男の体も崩れる。

 これまで忘れていた運命を、受け入れて。

「お、おい……おい! お前……八郎兵衛! 嘘だろ……おい!」

 真鶴は、駆け寄る。

 倒れた男の体を掴む。

 驚くほど軽い体だった。

 乾ききり、水分さえほとんどないと思われた。

 憎い仇だった、絶対に殺すと誓った相手だった。

 だがその死に目に、少女が顔に浮かべたのは、悲しみ。

「嘘だろ……嘘だ……」

 ぼろぼろと、涙が出た。

 少女は男の屍の上に、覆いかぶさり、むせび泣く。

 嗚咽と共に、彼女は、呼んだ。

「お父さん……」

 ずっと秘めていた男の、もう一つの呼び名を。

前 後 中 全三編のつもりでしたが それでも長すぎるので1234の四編でいきます

もう一回つづきます

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