三ノ章 月夜に吠えよ黒き虎(二)
黄林寺 退魔僧伝
三ノ章 月夜に吠えよ黒き虎(二)
風が吹き、月下に強くうねりくねり、暗緑の海が波を作る。
広い、広い、草の海だった。
刻限は、上弦の月が澄まし顔のように、蒼い光を注ぐ頃。
頑丈な樫木の柵に囲まれた、広大な土地と、草。
そこは牧草を育み、家畜を養う、牧場だった。
家畜たちが寝息を立てる畜舎の前、つまり、草の広がる只中に、ぽつねんと、一個の奇妙な影が、鎮座していた。
剃り上げた頭。
僧衣と袈裟を纏う、肉厚、筋骨隆々の体躯。
彫りが深く、また、しわを刻んだ、微笑を浮かべる顔、首から下がる数珠。
僧形である。
年は、五〇か、六〇か、判別はできないが、ともかく、老いている。
老僧がたったひとり、肌寒い夜風をものともせず、まるでひとつの置物になったかのように、牧場の草の上に、腰を下ろしている。
老僧は、黙したまま、正面を見据える。
闇の奥には、薄く月光の染める、山の輪郭がぼんやりとそびえていた。
どれくらい、そうしていただろうか。
待ち侘びた時間へ応じるように、やがて、山のほうから、なにかが近づいて来た。
黒い闇の中を動くのも、また黒き影。
一歩ずつ草を踏むのは、ひとの形であった。
黒い衣服を着て、肌も日焼けしたのか、垢に汚れているのか、浅黒い。
髪も黒いが、そこには白髪も混じっている。
男であった。
山奥から牧場に踏み入るのは、黒い、擦り切れたボロ雑巾のような服を来た、男。
三〇以上、いや、四〇以上はいっているかもしれない、中年である。
肉体は、鋼鉄や岩石を思わせるほどに屈強な風情を持つ。
男はしかも、裸足だった。
いったいどのような生活を送れば、山中を裸足で生き、平然としていられるか。
闇に浮かぶ黒き輪郭、うらぶれた風体の男は、僧の前まで、来た。
「……」
「……」
互いに、互いを見る。
老僧は男が牧場の柵を飛び越す時点で、気配を察していた。
黒い男は、牧草地を半ばまで歩いた時点で、察していた。
最初に口を開いたのは、草の上に座す老僧だった。
「それはもしかして、なにか武道の道着ですかな」
と。
男の着ている服を指して、言ったのだ。
男は否定も肯定もしなかった。
しかし、事実、男の来た服は、空手着である。
空手とは、この大陸より海を隔てた彼方にある、小さな島国の武術であった。
沈黙の後、男が口を開く。
「お坊さま、か」
「ええ」
「なにゆえ、このような場におられる」
「そちらこそ、なにゆえ」
「……」
男が黙り、老僧はふふんと笑った。
まるで、悪戯好きの悪ガキが、そのまま年を取って老人になってしまったような、どこか茶目っ気を持った、魅力のある微笑だった。
太く、獰猛でもある。
「実はですな。相談を受けたのですよ。近頃、付近の農家の家畜を、喰らうものがいると。ご存知かな」
「……」
男は黙る。
僧は語る。
「牛や馬、豚を喰らう、恐ろしい獣。黒い影であったと。黒い獣であったと。見たものは言うんですな」
「……」
黙る。
語る。
「訓練された番犬を何匹も繋いであったが、それも逆に殺され。矢を射ったものもいるが、躱されたと。いやはや、恐ろしいですなあ」
「……」
「さて、貴殿は。いったいなぜ、この牧場に来られたか」
老僧が立ち上がる。
肩幅と胸板の厚みに見合った、長身である。
身の丈、六尺三寸(約一九〇センチ)ほどはあろう。
ふたりの距離は、もう少し踏み込めば、一気に、拳も蹴りも、入る間合いであった。
目に見えぬ強烈な、刃金を噛み合わせるが如き、気迫が放射された。
一流の武人同士の放つ闘気だった。
「御坊。立ち去られよ」
「ふむ。それは、ちと難しい」
「というと」
「黒い獣の一件を片付けねば、頼みにきたこの牧場主のかたに、申し訳が立ちませぬでな」
「難しい、か」
「ええ」
「こちらも、僧侶を傷つけるのは気が引ける。あまりやりすぎぬよう、気をつけよう」
「ほう」
次なる刹那、男が漆黒の突風と化した。
僅かな踏み込み、その距離ほんの一跨ぎ。
絶妙の間合いを消し去り、腰の捻りの果てに男の太い腕が空間を抉る。
拳である。
通過した場にあった空気分子を根こそぎぶち抜くような、重く、強烈で、速い。
一流の剣客の斬撃さえ見劣りしそうな、正拳。
狙いは老僧の顎である。
顎先を掠めるように殴られると、首を支点に脳へ衝撃が訪れ、外的にはほとんど傷がなく、失神に至る。
傷つけぬよう退かせるのには、なるほど、覿面であろう。
だが男の拳は、掠めるどころか触れもしなかった。
半歩だけ、老僧の体が後方に移動したのである。
「ほう」
男が嘆息した。
彼が踏み込んだ瞬間、老僧もまた、同じだけ退いたのだ。
「さて、どうしますかな」
「どうする、とは」
「正当防衛を、するかどうか」
「退けと言ってもどかぬか」
「退けませんなあ」
「そうか」
「そうですな」
太く重いものが空気を削る、ゆったりとした僧衣の袖がはためく、ばさりという音が続く。
老僧の返礼、男にも負けぬ瞬速の拳二閃、左の牽制、右の剛拳。
男、これを平手で弾き、巨体と思えぬ軽やかさで距離を取る。
老僧、追う。
拳の距離を離れる、蹴りが出た、男の蹴りだ。
右、下段、回し蹴り。
物凄い蹴りだった。
当たれば関節をぶち砕く。
老僧、膝を上げ、下腿で受け流す。
ばちぃい、と、弾ける如き音がする。
「……」
「……」
双方、構え、互いを見る。
身長は、やや老僧が上、肉厚さでは男も負けていない。
そもそも、年齢において、圧倒的有利は男にあろう。
だが、吹き付ける燃えるような闘気は、老僧まったく見劣りしない。
そればかりか、叩きつける技の数々、相手の動きを見切る慧眼の冴え、あまりに鋭く。
誰がどう見ようと、目を見張るばかりの武芸者だった。
「御坊、どうしても……引いてくれぬか」
「義理があり申す」
問答の帰結はやはり揺るがず、双方、さらに闘気を高密度に放出し、間合いに張り詰めさせていく。
じりじりと。
ひりひりと。
焼けるように、冷たいはずの夜気が灼熱する。
握る拳は、かすかに震え。
その緊張に呼応するかのように、夜闇の空気に、妖気が漂いだした。
それは、黒き男から、漏れ出るものであった。
――ふうっ
――ふうっ
息が荒くなり、目が血走り、構えた手が、脚が、震える。
男が、呻くように、言った。
「だめだ……もう……抑え、きれぬ……」
その変化に、老僧は目を開き、これには流石に驚いた。
変化というより、それは、変化と呼ぶべきであろう。
ざわざわと体表が蠢き、黒き波となる。
体毛である。
全身を黒き毛で包みながら、男の手が、脚が、太く、長く、変じる。
顎が伸び、歯が鋭く伸びる。
耳の形状が変わる。
瞳孔の色が変わる。
変わる、すべてが変わる。
「ふぅうう……しゅう、ふう、ぐぅるぅううっ」
ひとの上げる呻きに非ず。
獣の上げる息吹であった。
爪を立て、牙を剥き、男は僧を見た、獣は僧を見た。
獣であった。
虎であった。
漆黒の虎が、ひとの取るはずの武芸の構えのまま、黒い空手着を纏い、燃えるような闘気を、煮え滾らせる。
「こうなっては、私にも、制御しきれぬ……御坊、最後に、名を」
その虎が、必死に自身の内部より生じるものに耐えながら、牙の並ぶ赤い口の中より、告げた。
老僧は、目を細めながら、じり、と、わずかに体を固く構えつつ、答える。
「黄林寺大僧正、リュウガイと申す」
「私は、島崎、八郎兵衛……っ」
老僧――リュウガイ和尚。
黒虎――八郎兵衛。
次なる刹那、双方は月下に旋風と化した。
轟っ。
凄まじい、相手の腹の底から骨の髄まで震え上がらせる、大地を鳴動させんばかりの、吠え声。
漆黒の猛獣、八郎兵衛、鉤爪の生えた足の先で踏み込み、間合いを一瞬にして無に帰す。
先程のひとの姿でも素早かった動きが、さらなる別次元へと昇華/繰り出す突き/貫手の一閃/飛矢にも勝らん。
顔面目掛けて飛び込む貫手を、流石は名にし負う、退魔の聖殿、黄林寺の大僧正、リュウガイ和尚/気功術にて硬気功と固めた腕で、防御し払う。
その時出た音は、さながら太い鋼鉄の柱をぶつけ合うが如き。
さもあろう、片や、鎧胴を着た人間を、丸々と貫通して余りある突き、もう一方もまた、その攻撃を受け切る絶技の内勁拳。
「墳っ!」
八郎兵衛の攻撃を受け流しつつ、和尚は右手の掌底で顎を狙う。
決まれば必勝にして必倒、打ち込んだ瞬間に、相手の内部に勁力をぶち込む気功を秘めている。
「っ!」
だが、それが触れる刹那、和尚は突如、前に踏み出した右足で、逆に側方へ跳ねるよう、跳んだ。
ザウっ――
なにかを引き裂くような音がした。
黒虎、八郎兵衛より距離を僅かに取る和尚。
その右脇腹のあたり、袈裟が裂けていた。
虎の左手、鋼刃の如き爪を立てた、貫手が掠めたのである。
先程、和尚の顔面を狙って繰り出した右の貫手は囮/己の顎に掌底が迫るのと同時に、八郎兵衛は左貫手で和尚の胴を狙ったのである。
「ほぉ」
和尚の目が、鋭く細められ、全身から立ち昇る氣は、尋常ならざる鋭さと研ぎ澄まされる。
これまで、数え切れぬほどの妖怪妖魔/悪鬼魔性の諸々と戦い抜いてきたリュウガイ和尚だが、黒虎、八郎兵衛の見せる武威は、筆舌に尽くし難いものであった。
和尚の右手での掌底に、自分の右手で胴を狙った貫手、側面から抉りこむように繰り出す鉤突きを繰り出すのは、和尚からすると、自分の腕と体で陰となり、視認できない。
袈裟の生地に触れた段階で察し、回避する、和尚の神速の反射がなければ、伸ばした貫手の指の分、八郎兵衛の攻撃に分があったろう。
偶然などではない、研鑽に研鑽を重ねた武芸者だからこそできる、技の組み立て、コンビネーションがそこにあった。
単に力が強いのではない。
単に動きが素早いのではない。
魔獣の速力と筋肉が、ひとが練り上げた武芸、武術の礎を持っている。
威力という点でいえば、魔剣カラド・ボルグの一閃のほうが上だろう。
しかし、攻防の機微、技の見切り、鍛錬の度合い、総合的な戦闘力は、比べ物にならなかった。
「こりゃあ、『俺』も本気でやらにゃあ、危ねえなあ。へへっ」
その、想像を超えた強敵を前に、和尚はまるで、新しい遊び友達と出会った悪童のように、ニヤリと笑う。
漆黒の魔獣、牙を剥き、咆哮轟かせ――迫る。
下段、回し蹴り。
威力/速度/タイミング――全てが桁外れの絶技。
当たれば足が折れるどころか、両足が諸共に引き千切れて有り余る。
「破ぁっ!」
和尚、なんと、真っ向から打ち返した。
内勁の気功で鋼と化した、右下段回し蹴り。
蹴りと蹴りとのぶつかりに、空気が弾ける、爆発するような音が生じ、踏み込んだ双方の軸足が、衝撃で地面にめり込む。
そして、始まる。
剛撃に剛撃を打ち重ね、さらに重ね、躱し、見切り、ぶつけ、弾き――ぶち当てる。
超肉体と武芸とが、究極の次元で研ぎ澄まされた、化物同士の勝負であった。
眩い月華のみが、この稀代の名勝負を、見下ろしていた。
「三年前のことでしたな。牧場を営む農家の方より相談を受け、牧畜を喰らう黒き虎というのを探っておったとき、出会い、立ち合った。それが、あの御仁。島崎八郎兵衛殿。虎に変形する、空手使いでした」
しみじみと、和尚はそのときのことを思い出し、語った。
黄林寺、本堂、そこは、和尚の私室である。
机に腰掛けた和尚の前に、ふたりが座っていた。
異国より訪れた、空手使いの、褐色の娘、真鶴。
その隣に、ふとした奇縁で彼女と知り合った、この寺の中級僧、ゲンコウ。
真鶴は、亜人なのだろうか、感情の高ぶりに呼応するように、猫の耳を生やし、尾を伸ばしている。
和尚が口にした、八郎兵衛の話に、一層、感情が揺さぶられているようだった。
八郎兵衛なる男は、少女の、仇であるという。
「それで、どうなったんだよ! 教えろ! あいつは……八郎兵衛はどうなった! まさか、殺したなんていうんじゃねえだろうな!」
黒猫のように、黒い髪から伸びる耳、そして腰元の尾の毛も逆立てた少女、真鶴は、もはや座っているほど落ち着いてもいられず、立ち上がり、目の前の机に手をかけ、和尚に迫る。
母の仇にようやく近づいたことに、よほど感情が高ぶるらしい。
それを前に、和尚はなにかを思案し、憐れむように目を細める。
沈黙も長くは続かなかった。
「殺してはおらんよ。あのとき、結局勝負はつかなったのでね」
「勝負がつかなかった……和尚様が、勝てなかったのですか!」
ゲンコウが、目を見開いて驚く。
無理もない、天下に名だたる武門の聖域、黄林寺の大僧正、リュウガイ和尚をして、勝てぬほどの男が、この世にいるのかと。
退魔僧として和尚の教えを受ける弟子だからこそ、にわかに信じられぬことである。
和尚の実力を知らぬ真鶴は、その限りでないが。
「へっ。あんたみたいな老いぼれじゃあ無理だろうな。だから、あたしがあいつを狩りに来たんだ、国を出て二年、ようやく……なあ爺さん! 教えてくれ! あいつは今どこにいる! あいつはどこに行ったか知らねえのかよ!」
「……」
和尚、なにを思うか、真鶴の言葉に、腕を組み、また黙念と視線を伏せる。
いつもの陽気で気さくな、茶目っ気のある老僧とは違う、思いつめたような風情があった。
「八郎兵衛殿は、生きておるか、死んでおるか、わかりませんが。向かった先におおよその検討はつくのですが……教えるわけにいきませんな」
と。
一瞬、呆気にとられた真鶴が、すぐ、爆発した。
手を伸ばし、机の向こうの和尚の襟元を掴む。
小柄な少女と思えぬ力であった。
「どういうことだテメぇ!」
「お、おい、お前」
「うるせえ! お前はすっこんでろ!」
傍らのゲンコウに怒声を放ち、ギラギラと殺意と敵意に燃える瞳を、和尚へ向ける真鶴。
だが和尚は、相も変わらず、どこか憂いと寂寥を持つ様相で、黙念とするばかりである。
「お嬢さん、あなたに八郎兵衛殿の居場所を教えれば、どうなるかわからん。わしは迂闊に教えるわけにいかんのだ」
「なにぃ!」
「復讐など忘れ、故郷へ戻られよ。おなごであれば、なおのこと」
「うるせえ! うるせえ! 女なのが、なんだってんだよ! 故郷だぁ? 生きて帰ろうなんて思っちゃいねえ! あたしは……あたしはあいつと刺し違えてでも、仇は討つ! 母さんの仇を……どうしても教えねえってんなら」
「なら?」
「力づくで聞き出す!」
言うや否や、真鶴は迷わなかった。
右手で和尚の襟を掴み、引き寄せ、左の拳が唸る。
ここは、黄林寺総本山である、そこで大僧正たるリュウガイ和尚に、こうまで真っ正直に喧嘩を売るものなど、いまだかつていなかったのではないか。
少女と思えぬ素早く重い拳が、和尚の顔面を狙って飛ぶ。
傍らのゲンコウが止める暇さえなかった。
だが、拳は空を切る。
和尚の分厚い掌が、菩薩の如く顔の前で立てられていた。
「っ!」
真鶴の驚愕。
殺すほどの気合を入れて放ったものではないにしろ、手を抜いた覚えはない。
その自分の拳を、まるで流水の如く、和尚に横へ流された。
さらに、和尚の左手が、襟元を掴んだ真鶴の右手へ向かう。
瞬間、ぞっと背筋に走った危機感に従い、真鶴は手を離した。
「っぶねえ!」
「ほぉ」
和尚も、やや驚きに声を上げる。
「点穴を突いて、動きを封じるつもりであったが。さすがは八郎兵衛殿の妹弟子。寸前で察しおる」
「てめえ……油断ならねえ爺だな」
ばっと距離を取り、真鶴が一歩下がる。
和尚も腰を上げ、ゆるりと構える。
一触即発、机を挟んだ形で、両者はにらみ合う。
ゲンコウは一瞬どうしたらいいか分からず呆然とし、だが、すぐに自分も立ち上がった。
寺の最高責任者が、部外者に危害を加えられる場面である、退魔僧として捨て置けぬ事態であった。
だが、少女をどう止めていいかわからない。
喧嘩に割って入ったときもそうだが、無骨に過ぎるこの青年は、女というのにどう対処していいかわからない。
「ゲンコウ、手は出さんでいい。下がっていなさい」
「で、ですが」
「よいのだ」
迷う弟子にそっと告げ、和尚が、動く。
ゆるりと、まるでいつもと変わらぬ散歩のように、机の横へ回り、真鶴への距離と詰めていく。
「……っ」
真鶴、腰を落とし、右手を引き、正拳を発射可能な構えを取りつつ、ぎりりと歯を軋ませる。
和尚のあまりに泰然とした様相が、あまりに自然で、隙を感じさせず、気圧されそうになる。
「どうなされた。わしごとき老人に押されるようでは、あの八郎兵衛殿を討とうなど叶わぬ夢であろうぞ」
「う、うるせえ!」
言葉で相手を翻弄するのも、また兵法。
煽られた真鶴は、自分から攻め込む。
ざっと距離を詰め、右拳、と見せかけ、上段回し蹴りで和尚の顎を狙う。
小柄な体が、腰から伸びる黒い猫尾と、黒髪のポニーテールを翻す様は、なんとも可憐であり、同時に美しい。
蹴りの軌道も迷いなく、素早さ、タイミング、どれをとっても一流だ。
しかし、相手はあの、黄林寺大僧正、リュウガイ和尚なのである。
幾つもの攻防で虚実を入り混ぜての蹴りならまだしも、いきなり一発目での大ぶりな蹴りが、当たろうはずもない。
和尚は僅かに後ろへ下がって躱す。
だが、それは真鶴も想定していたことらしかった。
「これなら、どうだぁ!」
くるりと、小さな体を一回転、バックハンドの拳、左裏拳を送り込む。
和尚、また僅かに下がって躱す。
その次の一手こそ、真鶴の本命。
右手が唸る。
いつの間に、腰の後ろから引き抜いたのか、分厚い樫木と、末端部の鉄鋲が黒光りする双節棍、ヌンチャクであった。
一応、殺さぬようにという加減か、肩を狙った一撃。
それ以外の速度、威力、共に本気の一撃。
当たれば骨まで砕けよう。
単なる拳、蹴りの間合いに慣らされた後にこれが来ると、対処しきれぬと思われぬ手管であった。
されど和尚には微塵の焦りも驚きも、まるで垣間見えない。
ゴッ――
鉄と岩がぶつかったような音だった。
真鶴が、自分の右手を痺れさせた衝撃に目を剥く。
和尚は牛の頭蓋でも砕くような、真鶴のヌンチャクを、片手で払っていた。
肉と骨の感触ではなかった、分厚い岩と同じ硬度。
(硬気功!)
傍らのゲンコウが、心中で唸る。
硬気功とは気功術の一種、呼吸法により丹田で練った氣により身体強度を増す、大陸系拳法、北派にある技術である。
黄林寺でも広く鍛錬される武芸であるが、真鶴の振るう強力な武器を、ほとんどその威力を感じさせぬほどの氣の練りは、そう瞬間的にできるものではない。
和尚の手はまさしく、びくともしなかった、微動だにもしない。
「くっ! この……」
次なる連携に少女が移ろうとした、それを許す和尚にあらず。
点穴を突くのを狙ったのであろう、人差し指を立てた指拳が、ぼっ、と、空気を抉り、迫る。
顔めがけて来るこれを、真鶴は身を屈めて躱す。
だが、それは囮だった。
和尚の伸びた手、その袖元から、何かが飛び出た。
「うわ!」
真鶴が声を上げ、体勢を崩し、床に倒れる。
とっさに手を突き、転がり、自分の足首を見る。
彼女の足首に、なにかが巻き付いている。
それは、紙だった、経文かなにかを記した帯状の紙が、足首を締め上げる。
さらに、和尚が手を振るう、もう一枚の紙の札が、真鶴の手首にも巻き付いた。
「な、なんだこれ! 畜生! 離せ! てめえ……この! まともに勝負しろ! ジジイ!」
真鶴は、足首も手首も縛られ、床の上で転がり、罵声を発する以外できなくなる。
それは、真言を刻んだ術符であった。
本来は妖怪や悪霊といった魔性のものの動きを封ずるため、和尚がいつも、僧衣の袖の内に隠しているものである。
まさか、生身の乙女に使うとは思わなかったろう。
四肢を拘束された娘を見下ろしながら、和尚はどこか、困ったような、悲しいような顔で、言った。
「その程度の腕では、あの御仁の足元にも及ばんよ」
と。
やがて、丁々発止のやりとりの気配を察してか、他の僧侶たちが、和尚の部屋に駆けつける。
その彼らに、和尚は真鶴をどうするべきかを、しばらく考えてから、告げた。
ただひとり、ゲンコウは、やはり最後まで、どうするべきか悩み、動けぬまま、黙ってすべてを見ていた。
「てめえら! この! 全員ブッ殺すぞ! てめ、このお! 離せバカー! ほどけー! ちくしょー! ブッ殺すかんな、クソ野郎! 変態! バカー! アホー!」
蔵の中から、ひっきりなしに声が響く。
真鶴である。
両手足を拘束された真鶴は、あれから、寺の中にある蔵に押し込められた。
あのまま拘束を解いては、また暴れだすであろうからだ。
とりあえず、今日はここに押し込んで、改めてどうするか考えるというのだ。
そのことを考えると、和尚もやや、頭が痛い。
蔵を離れ、また、和尚の部屋。
そこではやはり、和尚が腕を組み、ふうむ、と考えこんでいた。
「失礼致します」
「おう」
戸の前からした声に、応ずる。
訪れたのは、昼と同じく、また、ゲンコウであった。
肉厚屈強な青年の五体が、おずおずと、和尚の前に訪れ、座した。
「どうした。あの娘のことか」
「はっ……」
ゲンコウは、頷いた。
「お前も、妙なことに関わってしまったな」
「はっ」
ボリボリと、いつもの癖で、顎先を指で掻く和尚。
頷く、ゲンコウ。
一瞬、沈黙が降りる。
「和尚様は……」
「ふむ?」
「和尚様は、あの娘を、どうなさるおつもりですか」
「さて、どうするかな。そこのところ、わしにもまだいい考えが浮かばぬ。とりあえず、明日、ゲンナ大老が戻ったら相談するが」
ゲンナ大老、リュウガイ和尚と同期の高僧で、実質、この寺のナンバー2という立場である。
今、別件の事件の調査のため、寺にいない。
また、沈黙となった。
やがて、ゲンコウが、口を開いた。
「あの娘は。母の仇と、言っておりました」
「うむ」
「その島崎某という男は、本当に彼女の仇なのでしょうか」
と、ゲンコウは問うた。
青年は、和尚が三年前に戦ったという、島崎八郎兵衛を知らない、ましてや異国で起こった惨事など、調べようもない。
真鶴という乙女が、嘘を言っているとは思えない、あの純真そうな瞳に浮かんだ、涙、激情、それらが偽りとは到底思えない。
だが、自分が師と仰ぎ尊敬するリュウガイ和尚は、その島崎八郎兵衛を、どこか尊敬するような口ぶりである。
まったく印象を異なる両者は、果たしてどちらが正しいのか。
それを、問うているのであろうか。
和尚は腕を組み、黙考。
静かに、答えた。
「事実であろう。実はわしも、そのことは八郎兵衛殿ご自身から聞いた」
「っ!」
ゲンコウが、顔を上げた。
わなわなと、青年は震えた。
無骨強靭、筋骨隆々の肉体が、内に秘めた筋肉を隆起させる。
僅かに、怒りの匂いさえあった。
和尚に是非を問うような気配である。
「和尚様。なぜ、あの娘を止めるのです。それが本当なら、その島崎という男、いえ、魔性は、我ら黄林寺が討つべき悪しきものではないのですか」
「……」
今度は和尚が沈黙した。
青年の過去を知るからこそ、言葉に迷うのであろう。
老僧はしばし時を置き、諭すように、言う。
「この一件は、少し事情が複雑でな。安易にお前に、全てを教えるわけにもいかぬ」
「しかし!」
「お前の気持ちもわかるが、今は黙って下がれ。よいな」
「……」
俯くゲンコウ。
青年は静かに、顔を上げ、立ち上がった。
「わかりました。では、失礼します」
静かに告げて、背を向け、部屋を出ていく。
和尚はまた、腕を組み、ため息をついた。
「参ったねえ、こいつぁ」
快活で明るい和尚も、今回の一件に関しては、流石に渋い顔をするばかりだった。
「ちくしょう……くそっ……ようやく、あいつの手がかりに、近づいたのにっ」
蔵の中、床の上に転がった真鶴が、呻く。
悔しさに歯噛みし、怒りを沸騰させている。
何度も、何度も、手首に、足首に、力を入れ、捻るが、拘束術符は単なる力では千切れない。
それでも、何度も試す。
床の上で身をよじり、細い腕が、赤く血を滲ませて。
一〇年の月日/母の死に様/血まみれ/喰われた――悲鳴/牙/黒い虎――島崎八郎兵衛!
あいつを殺す、そのために、祖父の元で鍛え抜いた空手。
兄弟子? 知ったことか……殺す。
絶対に、この手で。
「くそ……くそ! こんな、もん……このっ」
ふう、ふうと、息を上げながら、獣の力を引き出す。
だが魔性の力であるほど、和尚の施した術はその拘束力を増す。
痛みも意に介さない様相で、何度も転がる。
そのとき、おもむろに、蔵の戸が開いた。
「あ! て、てめえ!」
足を踏み入れた人影を見上げ、真鶴が叫ぶ。
そこに立っていたのは、身の丈六尺半(約二メートル)以上、壮絶に分厚い筋肉の要塞。
昼間、真鶴と一戦交えた男。
ついでに、乳も揉んだ男。
ゲンコウであった。
「騒ぐな」
「な、なにしにきやがった……」
「今、解いてやる。動くな」
「え……お前、なにいって……ひゃ! うわ、さ、さわんな痴漢!」
「ち、ち、痴漢ちゃうわ! 黙ってろ! 他のみんなにバレルぞ」
「……っ」
ごそごそと、いそいそと。
ゲンコウは真鶴の手に施された、拘束の術符を剥がしにかかった。
余人ならともかく、彼はこの黄林寺でも、上級僧への昇格を考慮されるほどの退魔僧である。
同じ退魔僧の使う術符の扱いならば、お手の物。
特殊な真言の加護を持つ暗器の刃を、そっとあてがう。
静かに刃を走らせると、意外なほど、術符は両断された。
自由になった手首と足首に触れながら、真鶴は、ゲンコウの意図がつかめず、じろりと、怪訝な顔つきをした。
そんな彼女に、ゲンコウは拘束された際に奪われたヌンチャクを渡す。
「来い」
一言そう告げると、先に立って、蔵を出た。
「ふわぁ~っ」
男が、大あくびをする。
寺の僧侶は早寝早起きが原則である、ゆえに、不寝番の役が来るとつらい。
中級僧のひとり、ソウヒという。
黄林寺では、夜になると、外部の壁周りや表玄関の大扉に、警護のものが立つ。
数多の宝具、魔具を収蔵した蔵を守るためでもあり、また、火急の件で妖怪騒ぎが起きたとき、内部の僧たちに取り次ぐ任もある。
ソウヒは眠い目をこすりつつ、そうして、立っていた。
すると、珍しいことに、内部から、戸が開いたのである。
「お。なんだ、ゲンコウじゃねえか。それに……えっと、そちらさんは」
出てきた相手に、ソウヒはきょとんとした。
見上げる巨漢。
凄まじい筋肉と骨格を持つ男は、同じく中級僧である、ゲンコウだった。
ゲンコウは馬を一匹、引いている。
馬には、見目好い、黒髪と褐色の肌、黒い空手着に、半纏を着た、娘がひとり。
そうだ、他の兄弟弟子から聞いている。
なんでも今日、和尚様を相手に、大立ち回りをして、蔵に押し込められた女の子がいると。
原則的に、女人禁制の寺であるが、退魔の任の関係上、依頼者や相談で女性が来ることもある。
まさかその相手が喧嘩をふっかけてくるとは、前代未聞であるが。
「昼間、ふん縛られたっていう。どうしたんだい」
「ああ。様子も落ち着いたようなので。街まで送るよう、和尚様から言われたんだ。俺が見送る」
「ふうん」
疑う必要もなかった。
ゲンコウは、寺の中級僧の中でも、特に生真面目で皆からの信頼も厚い。
まさかそんな男が、自分を騙しているなど、想像もできまい。
ソウヒは素直にうなずいた。
「そうか。気ぃつけてな」
「うむ」
短い自然なやりとりをして、ゲンコウは馬を引き、真鶴と共に、夜の道へと消えていく。
後ろ姿を見送るソウヒは、ふと、想った。
「しかし、そんなことでわざわざ。方天戟なんかいるのかね」
と。
彼が馬にくくりつけていた、自慢の長柄武器が、月下に長い影を、落としていた。
「なあお前……どういうつもりだよ」
夜の道を、馬に乗って走る。
真鶴のすぐ後ろに、雲を突くような巨漢が、一緒に乗っていた。
ゲンコウである。
焼き付けるように明るい月光の下、山道も苦もなく走れた。
ゲンコウはある地点まで来た時、手綱を引いて馬を止める。
「ここだ」
「あ?」
「三年前、和尚様が、件の島崎というものと仕合った付近。その男が、潜んでいたという山だ」
「なに!」
真鶴が目を剥く。
ゲンコウは、懐からひとつの巻物を出した。
黄林寺、退魔僧の依頼歴の書である。
いついつ、どこどこで、如何なる妖魔、悪魔、妖怪と対峙し、これと戦ったか。
そういう記録を細かくつけている。
三年前という日付を聞いた時点で、ある程度のあたりをつけていた、それを、この書で絞り込んだのである。
見事に、和尚がその日、ここの近辺で、黒き虎に変形する妖に出会ったことを突き止めた。
「おそらく、すぐ目の前の、この山の奥だろう。とりあえずまっすぐ進めば、なにか見つかるかもしれん」
「それ、本当かよ……」
「ああ」
「でも、なんで……なんでお前、あたしにそんなことするんだ。どうしてだ」
真鶴には、理解できなかった。
今日出会ったばかりの男である。
それも、真鶴はゲンコウを殴り倒している。
そのゲンコウが、自分にこうまでする理由が、理解できない。
ゲンコウは、馬にかけていた、愛用の方天戟を担ぐ。
そして、しばし、言葉に詰まった。
やがて少し視線を横へ流しつつ、口を開いた。
「俺も、同じだからだ」
「同じ?」
「俺も、幼い頃。家族を妖怪に殺されたことがある。兄弟だった」
「……っ」
今度は、真鶴が言葉に詰まる番だった。
「寺に入った理由もそれだ。あいにく、俺は復讐は果たせなかった、和尚様が、その妖怪を斃されたからな」
「だから、あたしに手貸すってのかよ」
「そうだ」
迷うことなく、ゲンコウは頷いた。
担いでいた肉厚刃の、方天戟を、瞬速にて振るう。
風を薙ぐ質量、白銀の斬光が、夜闇を断つ。
込められた氣、勁力の迸りに、薄く炎が揺れるように、仄光る。
丸太のように太い腕も、纏った羅漢服を引き千切りそうに膨れ上がった。
うちに秘めた筋肉の隆起は、金剛力士さながらであった。
「お前ひとりでは、手に余るかもしれん。是非に、俺の武芸も助けに加わらせてくれ」
「ふんっ。まあ、さっきの恩もあるしな。いいぜ。足手まといになんなよ?」
「案ずるな。これでもけっこう、できるほうだ」
「へっ。あたしにぶっ倒されたくせに~」
「う、うるさい! あれは、その……たまたまだ」
昼間のことを思い出し、赤面するゲンコウ。
真鶴は戦意の高揚か、ついに仇に近づいたことへの、怒りの熱意か、闇夜にも目を爛々と金に輝かせる。
すでに、猫化が始まったのか、頭には耳、腰から尾が伸びていた。
腰の後ろに挿したヌンチャクに手を触れながら、少女は、生い茂る山の木々の合間へ、進み出る。
「待ってろ……島崎っ。ようやく、あたしの手で……っ」
小柄な少女。
長身肉厚の巨漢。
まるで正反対のふたりは、静かに、夜闇の山へと、進んでいった。
「た、大変です、和尚様!」
私室で書物を整理していたリュウガイ和尚の元へ、弟子がひとり、駆け込んできたのは、夜も更けようという頃合いだった。
中級僧のハクリという男であった。
「あの娘が、いません。それにゲンコウのやつも」
「なにい?」
腰を上げた和尚は、即座に理解に至った。
「ゲンコウのやつ……」
優しい、青年であった。
真面目である。
それに、正義の心を持ち、幼い頃に肉親を失った過去を鑑みれば、真鶴に同情を示すのは当たり前だった。
このときばかりは和尚も、彼にことの事情を全て語らなかったことを、後悔した。
「ハクリ! 厩は見たか?」
「え? いえ」
「行くぞ」
立ち上がり、和尚は弟子の若者よりも素早く向かう。
ハクリも後に続いた。
そこでもまた、和尚の予想通りの状態となっていた。
厩に休ませている馬たちの、そばにある、騎馬のための鞍。
その鞍を結んでいる革紐、そして足を乗せる鐙、つまりはステップ部分が、切られている。
ゲンコウがやったのだろう。
最低でも一日は、代用を用意するなり、修理するなりで時間がかかる。
丁寧にも、ゲンコウの残した一筆の書も残っていた。
『大変申し訳ありませぬ。どうしても心騒ぎ。収まらず、あの娘の仇討ちに助力する所存。どうか一日、お時間をいただきたく』
と。
「あんのバカ弟子……ったく、お人好しにも程があるぜ」
くしゃりとその書を丸め、和尚は歯噛みした。
とんでもないことであった。
あのふたりが、とてつもない危険に、巻き込まれる可能性がある。
今、島崎八郎兵衛が【どういう】状況であるか、状態であるか、それは和尚にさえ、想像もできないのだった。
「ハクリ! ゲンナ大老はまだ戻っておらんか」
「はっ。まだです……」
「なんてこった。大老の霊獣がいりゃあ、まだ手もあったんだが……」
「あの、和尚様。ゲンコウは、いったい」
「説明し辛いが、あやつ、件の娘の仇討ちに、助太刀しよりおった。下手をすると」
「すると?」
「ふたりとも、虎の胃の腑の中に入りおる」
「ええ!」
凝然とする、ハクリ。
普段から泰然としている和尚の顔に、珍しく、真に迫った焦りが浮かんだ。
「おい。ハクリ。武器庫へ行くぞ、それから足で追うしかない」
べったりとするような、粘液質の闇を、天より注ぐ銀月の光が裂いている。
この山は、どうにも、普通の山河よりも、大気中に満ちる氣が濃い。
「龍脈地、らしいな」
「なんだそれ」
ゲンコウの呟きに、真鶴が問う。
歩きながら、彼は応えた。
「大地に流れる、地脈。大地の力の流れの、強く表出する場所だ。なにかの儀式をするのに、ちょうどよい場所でもある」
「へえ」
「その島崎というのは、妖怪か?」
「まあ、そんなもんさ」
「なら、それでなんらかの影響があるかもしれんな」
「どっちだって、構いやしねえ。ぶっ殺すだけさ」
「……」
ゲンコウが黙った。
真鶴の言葉に潜む、ギラギラとした怒りと憎しみに当てられた、だけではない。
視線の先、岩肌の覗く山肌の壁に、さらに濃く深い黒暗淵の虚を、見出したのである。
洞穴だ。
底の、先の見えない穴蔵。
その奥から、形容し難いほどに、ぞくり、ぞくりと肌に刺さる、妖気が流れてくる。
一歩、近づく。
それだけでさえ、全身の細胞に不快感が走る。
「おい」
「ああ……」
こんな山に、生物の不安と霊的な危機感を煽るものがあるとすれば。
それは、妖物であろう。
この山に潜む妖。
ふたりの探る虎へ変形する空手家、島崎八郎兵衛であろうか。
可能性は、極めて高い。
「……」
「……」
静かに、声を殺し、ふたりは近づく。
ゲンコウは両手で方天戟を構える。
真鶴は、すぐにでもヌンチャクを抜けるよう、右手を腰の後ろへ回す。
すぐに抜かないのは、鎖の立てる音で、相手に気取られぬためだ。
ゆるり、ゆるりと、地面に薄く広がる草で、音を立てぬようにしながら。
やがて、洞穴のすぐ縁まで、たどり着く。
中から、臭いがした。
獣臭であった。
なにかがいる。
潜んでいる。
ゆっくり、ゲンコウが覗き込んだ。
闇に満ち、見透かすことができない。
どうする? そう、真鶴が視線で問う。
ゲンコウは、懐から、魔封じの術符を出した。
さきほど、真鶴を拘束していたものを同じである。
それを先んじてこちらから投じ、妖怪が、島崎八郎兵衛が潜んでいるなら、これに先手を打つという気だろう。
一瞬、止めるべきか真鶴は迷う。
だが、止めなかった。
ゲンコウが、大胆に、一歩踏み込む。
手を振るう。
気付かなかった。
彼はそのとき、洞穴の中に貼られていた、別の術符を、踏みしめ、破いてしまった。
同時に、拘束術符を、投げる。
闇の奥から、光がふたつ、灯った。
ぎらり、ぎらりと濡れ光る、刃のような閃光。
見開かれた、魔獣の眼光。
血走った白目の中央にある、金色の双眸。
――轟
――轟
と。
腹の底まで、脊髄の芯にまで、響き、恐怖と悲鳴を生むような、圧倒的な妖気と気迫。
放たれた拘束術符など、なんの意味もなかった。
獣はそれを、刃よりも硬く鋭い爪で引き裂いた。
雄叫びを上げながら、穴の奥から飛び出す。
ゲンコウは寸前で後方へ跳躍した。
真鶴も、同時に跳んだ。
ふたりの間を通過し、黒い塊。
聳える巨躯が、大地をがりがりと爪で抉りながら、止まる。
獲物を逃した獣は、ゆるりと振り返る。
それは、虎であった。
全身を漆黒の体毛で覆われた、優に七尺八寸(約三メートル前後)以上か、いや……さらに、上か。
圧倒的なまでの、絶望的なまでの巨躯を持つ、虎。
妖気をめらめらと炎のように噴出する、妖虎であった。
虎が、吠えた。
山の木々全てが震え上がるほどの、怒りと敵意と、空腹と食欲に狂った、咆哮だった。