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三ノ章 月夜に吠えよ黒き虎(一)

黄林寺 退魔僧伝


三ノ章 月夜に吠えよ黒き虎(一)


「ぬぅうううん! でりゃあ! おおおりゃああ! ぬおおおおおりゃあああぁぁぁあっ!」

 大声を張り上げ、大男が腕を振るう、手に握る長大なる長柄武器ながえぶきが、唸りに唸る。

 轟々と、轟々と、それはもう、ひとという形の嵐のようであった。

 振り上げ、振り下ろし、薙ぎ払う、突く、突く、また振り下ろす、振り上げる。

 一瞬とて休まない。

 想像を絶する筋力と持久力である。

 手にする武具は、柄の先に付けた大ぶりの穂先の刃で大気をつんざく。

 穂先の形状が独特だった。

 左右に三日月のような反った刃、月牙という、斬撃のための刃を。

 中央に槍と同じ諸刃をした、鋭い刺突のための刃を。

 合計三つの刃を持っている、この武器の名は、方天戟という。

 薙ぎ払い、ぶった斬る、突き出し、貫く、当然石突での重い打撃も可能、おおよそ刃を持つ長柄武器として、あらゆる攻撃を可能とする。

 だが、穂先の刃は前述した通り、三つもの特性を持ち、大きくかさばるため、携帯にも不利、また、十全じゅうぜんに使いこなすのにも相当な体格と鍛錬を必要とする。

 それをこの男は、全て満たしていた。

「おおりゃあ! おおりゃあ! おおおおおりゃああああ!」

 腹の底から、筋肉と気力の限りに荒ぶる叫び。

 どれだけ声を上げても武器を振っても、後から後から力が湧いてくるように、男はまるで疲弊というものを見せない。

 方天戟はその重さを忘れ去ったかのように、縦横無尽に風の如く奔り、朝靄あさもやを白銀の銀光で引き裂き続ける。

 踏み込む足捌きのたび、足元の土はえぐれ、土埃つちぼこりも舞うが、それもまた、方天戟にてぶった斬る。

 男の周囲を、まるで竜巻のように、白いもやと、土埃と、刃のきらめきが舞い上がる。

 どれだけそれを続けたか。

 朝日が男の影を濃く伸ばしたとき、ようやく、動きは止まった。

「ふう」

 一息つく。

 動きを止めたため、男の五体がはっきりと見えた。

 男の服装は、羅漢服だが、上半身が裸であり、物凄いとしか形容のしようのない、肉の要塞であった。

 身長はおおよそ六尺半(約二メートル)以上はあろうか、ガンダーラには西洋人も多数いるが、純粋な東洋人であるこの男は、中でもかなりの体格に恵まれていよう。

 上背だけならまだしも、腕、足、胸板に、腹に背中、首、肩、男は己の肉体のありとあらゆる部位の筋肉をまんべんなく鍛え上げ、分厚く作り上げていた。

 胸板の厚みなど、常人の肩幅以上ありそうだ、胸郭に、大きな箱をまるごと入れてもまだ余るのではないか。

 なるほど、これほどの肉体であれば、その手に握った方天戟を、瞬速にて操るのも、頷ける。

 場所は、広大な屋外の修練場であった。

 塀に囲まれ、傍らには、宿舎や仏像を収めた寺院、五重塔の型をした禁断の宝具や魔具を収めた封印の禁呪蔵が、並んでいる。

 山の中腹に立てられた、寺であった。

 いつもは大勢の僧侶が修練に励む広場で、男はひとり、汗を流していた。

 顔を見れば、まだ若い、青年であった。

 二十代も始めの頃くらいか、いや、まだ十代かもしれない。

 肌の色艶もよく、全身から汗の熱気と共に活力のみなぎりを感じさせる。

 顎も眉も太いが、不細工ぶさいくという風情はない、むしろ、逞しくも愛嬌がある。

 如何にも、男らしい男、であった。

 頭を剃髪ていはつに剃り上げている、僧形そうぎょうであった。

 退魔の聖殿、ここ、黄林寺の僧侶である。

 日常の一部である日々の稽古、しかし、彼はかなり早くからそれを行っている。

 周囲は無人であり、屋外稽古場の広場には、孤影のみが刻まれている。

 それもそのはず――

「こんな早くから、随分と精が出るじゃあないか、ゲンコウ」

「は! これは和尚様! おはようございます!」

 青年――ゲンコウが振り返る。

 そこには、彼と比べても見劣りしないほど凄まじい肉体を、老いてなお維持している、黄林寺大僧正が、立っていた。

 リュウガイ和尚であった。

 しわを刻まれた顔に、在りし日の精悍な風情を残し、持ち前の気安い人懐っこさを持つこの老僧こそ、この寺の退魔僧の頂点だった。

 誰もいない早朝、それこそ、日が昇るのに前後するほどの時間から稽古に励む弟子を前に、しかし、リュウガイ和尚は苦笑を浮かべていた。

「お前さん、今日がなんの日か分かってるかい」

「は! なんでしょう! 特別な予定はなにもなかったと思いますが! しかし皆遅いですな! 稽古の時間が始まってしまいます!」

 暑苦しい。

 一語一語にいちいち力みが込められている、ゲンコウという青年、鍛えに鍛えた筋肉の五体のみならず、精神まで活力のみなぎる男である。

 和尚はいつもの癖で、指で顎先を掻きつつ、ため息混じりに、こう告げた。

「今日は休みだぞ、ゲンコウ」

「……はっ! そ、そういえばそうだった気が!」

 生涯仏門に帰依きえし、心身を鍛えに鍛え、武芸と法力で悪しき妖怪妖魔、悪鬼魔性の眷属と戦う、黄林寺の黄林僧。

 彼らと他の仏門徒を隔てる差は様々だが、ひとつ挙げるならば、黄林寺の僧は退魔僧として、あくまでも実戦を想定する現実主義者リアリストとしての側面が強いことがある。

 苦行に打ち込み悟りを目指すようなことを繰り返すことで、むしろ実戦で使い物にならぬほど肉体を酷使するなど、愚の骨頂。

 現実に強くなるためには、肉体という器は限界を超えすぎてはいけない。

 だから、まだ鍛錬の足りぬ初級僧、中級僧は一日あたりの稽古の時間を控えている。

 一定以上、鍛錬の進んだ僧になると、自己鍛錬に励み、自己管理を覚える。

 また、月に何度か、一日の稽古を抑える休息日、つまり、休みがあった。

 まさに今日が、その日だった。

 それを忘れ、筋肉に手足のついたような修行馬鹿のゲンコウは、ひとり、朝の独り稽古に励んでいたわけである。

「なるほど! 通りで師匠がたもいないわけですな!」

「ったく、お前、気づかないでやってたのかい」

「はい! 熱中してまったく気付いておりませんでした!」

 呆れる和尚。

 今まで見てきた弟子の中でも、ゲンコウほど、稽古と自己鍛錬に打ち込む男は、そういない。

 御仏や、寺の教義、衆生しゅじょうへの献身、理由は、様々あろう。

 だがこの青年の鍛錬を支える熱意は、もっと、もっと、純粋ストイックに見えた。

 熱い、若さと活力、才能、肉体を、より速く強く磨くことに、どこまでも生真面目なのである。

 その成果が今眼の前にある、鋼鉄の肉体であった。

 ぱんぱんに内部から張り詰めた筋肉と血流が、あふれんばかりに力を燃やしている。

 見ているだけで暑苦しいほどだ。

 しかも、あれだけ朝稽古をして、なお、精力を持て余している。

「和尚様! よければご指導お願いできませんか!」

「おいおい、今日は休息の日だと言ったろう」

「どうかお願いします! こんなふうに和尚様と向かい合って稽古する時間、なかなかありません!」

「ううむ」

 なるほど、たしかに。

 和尚も、寺の最高責任者となると、あれこれ些末さまつな仕事も多く、中級僧の指導は、上級僧のものたちに任せることが多い。

 それに、このゲンコウ、腕前はもう、中級僧では最上位に属するほどのものである。

 最近寺を去った、上級僧に昇格目前であった、ゴウジンという中級僧がいたが、そのゴウジンに次ぐ実力を持つものとされていた中級僧が、ゲンコウ、それともうひとり、ライレイという青年である。

 研鑽に研鑽を重ねた愛弟子の熱意を見ると、和尚も、苦笑いと共に、頷くよりなかった。

「ま、よかろう」

「本当ですか! ありがとうございます!」

「ただ、ほんのちょっぴりだけだ。よし、ちょっとこっちへ来なさい」

「はい!」

 和尚はそう言って、屋外修練場の、壁際、端の方へと歩く。

 そこには、幾つかの器具が並んでいた。

 木人である。

 太い丸太柱に、四角い形状の木材を幾つか挿してあり、それに手足をぶつけ、型稽古や手足の鍛錬に用いる器具である。

 えて例えるならば、西洋の拳闘士ボクサーが使うサンドバッグの、拳法版の如き存在だろう。

 黄林寺の退魔僧の使い方は激しく、並ぶ木人の各部位には、あかのみならず、血の跡までつき、硬い樫材かしざいでさえ、すり減ってしまっている。

 そんな中から、和尚は、横棒も折れてしまった木人の前に立つ。

 ひとの胴よりもなお太い、丸太の棒だけが、ぽつねんと佇んでいた。

 和尚はそれをぽんと叩き、ゲンコウに、問う。

「ゲンコウよ。こいつを粉々に砕けるかな?」

「はっ! もちろんできます!」

 ゲンコウは頷く。

 純粋な筋肉の力は十二分、加えて、黄林寺の退魔僧として、内勁も覚えている。

 硬く握りしめた拳が、岩のようにぎりりと唸る。

 和尚はそれを見て、にやりと笑った。

「拳じゃなく、指一本なら、どうだい」

「指、一本ですか!」

 流石にゲンコウもぎょっと驚いた。

 握りしめた拳ならまだしも、指一本。

 和尚はにゅっと、自分の太い人差し指を伸ばす。

 ゲンコウも、釣られて、自分の指を伸ばす。

 しばし考え、彼は顔を上げた。

 メラメラと、瞳に闘志が燃え滾っていた。

「やってみます!」

「うむ」

 和尚が脇に退く。

 ゲンコウは、腰を落とし、構える。

 貫手ぬきてという、五指を揃えて突く技が世にはあるが、指一本拳で胴より太い木材を粉砕せよとは、やるものはいるのか、考えるものはいるのか。

 だが、師に問われ、首を横に振る男ではなかった。

ふんっ!」

 腹の底から気力を搾り上げる、物凄い声を上げ、踏み込み、捻り、振り下ろす。

 恐ろしいほど太い腕が空気をぎ、ゲンコウの指が、丹田より練り上げた氣の力、いわゆる、勁力を込めて、突き入れた。

 ごっ、と、硬い音が響く。

 ゲンコウの手が、止まっていた。

 指は深々と、勁力を込めて木人の丸太を貫いていたが、粉砕には至っていない。

 あくまで、指の貫通である。

 それだけでも恐ろしい破壊力だ。

 しかし、師の問うた効果では、ない。

 手を引き、ゲンコウは顔をしかめる。

「で、できませんでした……」

「うむ」

「和尚様。本当に、指一本で砕くなど、できるのですか」

「どきな」

 和尚の口調が、少し変わっていた。

 寺の最高責任者としての、やや丁寧なものから、伝法でんぽうさを帯びた、男としてのそれに、である。

 老僧が構える。

 ほとんどゲンコウのものと変わらなかった。

 腰を落とし、手を引き、指を立てる。

 違いも、あった。

 ――コォぉお

 ――ホォおお

 腹の底から、静かだが、一定のリズムのある呼吸。

 調息だった。

 呼吸法により肺から取り入れた空気が、丹田で練られ、血流と共に全身の経絡に巡り征く。

 動いた。

 速度は、ゲンコウよりずっと遅かった。

 速くないわけではない。

 普通人が殴る程度はあろう。

 それが、ずんと、丸太に当たった。

 軽く、めり込む。

 そこからさらに変化した。

 腰の捻り、肩の捻り、手の捻り。

 指先が、ぐりりと回る。

 刹那、驚天動地の破壊は発生した。

「ほい」

 まるで、大したことでもないような、気軽な掛け声だった。

 和尚がそう言った時には、丸太が爆弾でも仕込んだかのように、砕けたのである。

 一片一片が指に摘むほどのサイズに変じ、中心からぼんと弾け散る。

 ばらばらと、辺りに木片がばら撒かれた。

 ゲンコウはあまりのことに、呆然と立ち尽くし、やがて、はっと気付いた。

「し、浸透勁!」

「おうよ」

 弟子の言葉に、悪童のように笑う和尚が頷く。

 浸透勁、それは、拳法の中でも、大陸系北派に伝わる絶技である。

 氣の力、勁力を、対象の内部に伝搬させて破壊する。

 肉体の純粋な機能を鍛える外功とは逆の、内功の功夫クンフー

 上級僧でも当然使える技だ、ゲンコウとて多少覚えはあるが、しかし、これほどまでに見事に決まるのを、彼は初めて見た。

 木人に使用される木材はかなり硬い、粉々にするなどそうできない。

 それを、和尚は軽々とやってのけたのである。

「ゲンコウよ、お前さん、外功の鍛えは相当なもんだ。腕力じゃもうわしより上だろうよ、だがその反面、ちと内功の練りが足らん。これからは、もうちっとそのへんも磨きな」

「は、はい! ありがとうございます!」

「ま。今日はこのへんで終わりにしよう。これからわしも、筆など買い揃えに、街に行く。お前もどうだ」

「街ですか」

 それまで熱血に滾っていたゲンコウが、少し肩を落とす。

 和尚は肩を竦めた。

「他の若いもんは、むしろそのほうが喜ぶだろうに、お前さん、遊びにはいかんのか。点心でも食いに行ったらどうだ」

「俺は、修行しているほうが気が楽ですよ」

 いつ、魔性の眷属との戦いで、死ぬかもしれない黄林僧である。

 休息日になると、若い中級僧はもちろん、熟練の上級僧も、ガンダーラの繁華街に行き、思い思いに過ごすものも多かった。

 観劇をするもの、こっそりと美味い肉まんを食うもの、茶屋でのんびりと一杯喫いっぱいきっするもの、中には女に声をかけるような不埒者もいる。

 和尚とて自分の時間に憩いを設ける。

 たとえば、知己ちきのものとチェスや碁などに興じたり、水墨画に筆を振るうこともある。

 だが生真面目なゲンコウは、肉体の修練に励むばかりで、あまりそういう吸息と縁がない。

 和尚はふむと、考える。

 たしかに、立場上、彼のような熱心な僧は褒めるべきだろうが、同時に、個人としての感情は、かたくなに過ぎる愛弟子を、案じていた。

「ゲンコウ。たまには力を抜け、ゆっくりと羽根を伸ばし、休んでみろ。心を柔軟に運ぶのも、技に冴えを生むぞ」

「はっ……し、しかし」

「よし、じゃあ、命令だ。街へ行ってこい。別に遊ばなくてもいい、賑わいを眺めるだけでもいいからよ」

 にっと、悪ガキのように、実のオヤジのように、笑って、和尚は彼の肩をぽんと叩いて、去っていった。

 それ以上はなにも言わなかった。

 もしゲンコウがなお、頑なに修行や自己鍛錬したとしても、止めなかったろう。

 そういう男だった。

 師の背中をしばし見つめたゲンコウは、しばらく考え、やがて、仲間と共同で使っている、自室へと向かった。

 そこで着替えた彼は、久方ぶりに、ガンダーラの繁華街へと、歩いていった。


「むう……」

 腕を組み、立つ。

 往来であった。

 行き交う、ひと、ひと、ひと、また、ひと。

 数多、数え切れぬほどのひとが、あちらへこちらへ行き交う。

 ガンダーラ、ここは西洋と東西の交わる地、西の果てのその境。

 東西から流れ来る商人、旅行者、運送、そして人種も職種も様々な人々。

 街は活気に溢れていた。

 その往来の脇で、屈強を極める肉体を、修行衣の羅漢服に包んだ青年、ゲンコウは、腕を組み、立っていた。

 和尚の言葉に従い、たまにはと訪れたのだが、彼は持て余すように、戸惑いの視線を泳がせるばかりである。

 こうもひとが多く、店が並んでいると、なにをしていいか分からない。

 この若人、少し生真面目が過ぎるのか、修行以外に打ち込む趣味などもない。

 金が手付かずで、若干懐にあった。

 食事代として、休日に寺から各僧侶に支給されるもので、大した額ではないが、一日飯を食らって一時の安寧を遊ぶのに足るほどはある。

「とりあえず、たまには外で飯でも食ってみるか」

 ゲンコウはそう考えた、兄弟弟子であった、ゴウジンが婿入りした店も近い。

 中級僧の中でも最高の腕を持ちながら、戒律破りを理由に破門されたものである。

 年齢は二十代前のゲンコウより幾らか上だが、修行期間も近しく、共に技を磨いた友である。

 久しぶりに顔を見たいし、拳法修行の話を語らうのもいいだろう。

 退魔僧としての腕は、ゴウジンのほうが上であった。

 和尚にもさきほどたしなめられたことであるが、ゲンコウはもっと、内功の技を磨きたい。

 ゴウジンならば、よい鍛錬を教えてくれるだろう。

 そんなふうに考えながら、ゲンコウが巨大な体で、人混みを掻き分け進む。

 そのときであった。

「む?」

 立ち止まる。

 眼の前に、大勢の人間が人垣を形成し、進むに進めない状態だった。

 如何に人通りの多いガンダーラの都心部でも、これはやや、おかしい。

 彼の長身は、人垣の先を、見下ろす。

 なにやら騒ぎが起こっている様子で、怒声、罵声が木霊する。

 ――やめろ!

 ――このバカ!

 ――ブッコロスぞ!

 血の気の多そうな男の声が、幾重にも響く。

「喧嘩か」

 呟いた。

 すると、それを聞いたのか、前のほうにいた男がひとり、振り向いた。

「お、おいあんた、その格好、もしかして黄林寺の坊さんかい?」

「ええ、そうですが」

「そいつあよかった。向こう行って止めてくれよ。喧嘩だよ喧嘩、とんでもねえぜありゃあ」

「いえ、ですがその、黄林僧は他流との試合を禁じられております。それに、退魔僧ですよ、魔物でない人間相手なんて」

「んなこと言ってる場合じゃあねえよ。死人がでちまうぜ」

 と、言う。

 これにはゲンコウも眉根をしかめて悩んだ。

 たしかに、黄林武芸は、他流試合を禁止しているし、人間相手に研鑽した技を振るうのをよしとしない。

 だが、往来の激しい喧嘩で死人が出るのを座視するのも、衆生救済の教えに反するのではないか。

 彼が悩んでいると、前方から、大きな声があがる。

「おい! すげえぞ、あの女の子がっ」

 ゲンコウが動いた。

 女の子、と、聞いたからだ。

 喧嘩に婦女子が巻き込まれたとあっては、うかうかしていられなかった。

「待て! 待てい!」

 人混みを掻き分け、彼は遂にその場に相対した。

 そして、仰天する。

「せいりゃぁああ!」

 裂帛れっぱくの気合に満ちた掛け声であった。

 びゅう、と風を薙ぐ。

 しなやかな脚が、信じ難い速度で振り上げられ、弾けるような音色をつむぐ。

 顔面、特に、下顎へ強烈にクリーンヒットしたのである。

 脳震盪を起こした相手は、たちどころに意識をぶち切られて倒れた。

 見事なほどの上段回し蹴りである。

 蹴りを出したその使い手は、既に倒したふたりの他の、もうふたりの敵へ向かって、構える。

 てのひらを向けた左手を前、固めた握り拳を奥、脚をやや開く。

 正拳と蹴り、どちらも出せそうな構えだ。

「さあ、次はどっちだ。なんならまとめて来ていいぜ」

 にやりと笑った。

 白い歯が、仄かに小麦色に艶めく肌の顔で、輝く。

 その顔が幼気なだけに、たまらないほど愛らしく、また、好戦的で肉食獣めいた微笑でもあった。

 そう、とても、可愛らしい、少女だった。

 乙女といっていい。

 あまりに、可憐だった。

 ゲンコウが驚きに固まるのも仕方ない。

 倒れているふたりに、まだ立って、喧嘩に挑んでいる、男ふたり。

 総勢四人の男を相手に大立ち回りしているのは、小柄な少女だった。

 身長は、四尺九寸、あるいは五尺(約一五〇センチ)ほどだろうか。

 いや……見れば、足元は木造りの履物、下駄をつけている、歯の分だけ背も伸びているので、やはり五尺以下と見積もっていいだろう。

 そして、長い黒髪を、後頭部で結っている。

 肌は日に焼けたような、仄かな小麦色である、それが地なのだろうか。

 やや釣り眼の、くりくりとした瞳といい、まるで、生意気な子猫のようだった。

 ゲンコウの、見たことのない服を纏っていた。

 ゆったりとした、上着の着物の下に、こちらもゆったりしたすその、道着のようなものを着ている。

 それはこの大陸より海を隔てた、島国にあるものだった。

 半纏はんてんと、空手着からてぎである。

「てめえ、この」

「舐めやがってガキ!」

 空手着の乙女を相手にした、男ふたりが口走る。

 口先ばかりは威勢がいいは、もう腰が引けていた。

 無理もない、仲間ふたりを、のされたのだ。

 そのふたりも、既に殴られ、蹴られたのか、顔にあざが浮かんでいた。

 対する少女は、まったくの無傷。

 それだけで、趨勢すうせいは決していたといえるだろう。

「へへっ」

 犬歯を見せるように、乙女が笑いながら、じり、じりと、距離を詰める。

 悪戯子猫が、ねずみに爪を立てるようだった。

 発せられる圧力に、男たちが、下がる。

 いつでも飛びかかって、拳でも蹴りでも突きこみそうだ。

「おい。その辺にしてやったらどうだ」

 そこへ、ゲンコウが歩み出た。

「あ?」

 乙女が柳眉りゅうびを逆立て、愛らしい顔に似つかわしくない、威嚇の声で振り返る。

 その一瞬の隙に、男ふたりが飛び込んできた。

 少女がもう一度向き直るのと、手足が閃くのは同時。

 どっ――

 ごっ――

 しなやかな肢体が躍り、男たちの腹や顔面を、強烈に打ち据える。

 地面にぶっ倒れたのに、さらに少女はダメ押しのとどめを振るいにかかる。

「おりゃあ!」

「おい! もうやめろ!」

 それを、ゲンコウが止めに入る。

 掴もうと手が伸び、肩にかかる。

 想像以上に細く、柔らかい。

「離せこの!」

「っと」

 ぶんと、裏拳を振る、ゲンコウがかわす。

 自然に、ゲンコウも手を前に出し、脚を開き、構えを取った。

 人垣が作るの中央で、今度は、ゲンコウが少女と対峙する格好に、なってしまった。

 その背後で、ふらふらと立ち上がった男たちが「ひい」と叫びながら、逃げる気配がある。

 最初に倒されたふたりも、逃げたらしい。

 場には、少女とゲンコウだけが在った。

「ちっ。逃しちまった。お前もあいつらの仲間かよ」

「おい、よせ。俺は……むっ」

「なんだ。あいつらのこと、助けようとしたじゃねえか!」

 きっと、少女がにらみつける。

 まるで、フーッ、と気を荒くした、黒猫のようだった。

 焦げ茶の半纏と、黒い空手着、小麦色の肌。

 小柄な体躯の奥に、活力と闘争心が燃えるように熱気を伝える。

 だが、それ以上に、ゲンコウは少女の顔を、じっと見て、堪らず思った。

(な、なんだこの娘……これは、これは……)

 そう、堪らなく、思った。

(――めちゃめちゃ可愛いではないか!)

 と。

 改めて、思った。

「喰らえ、オラあぁ!」

「っ!」

 少女が攻める。

 蹴り。

 身長差を埋めるように、手でなくまず脚で。

 狙いは膝。

 しなる鞭のような回し蹴り。

 ゲンコウ、これをすかさず、膝を上げ、下腿で受け流す。

 少女の体勢が一瞬崩れる。

 ゲンコウ、手を伸ばす。

 打撃でなく、開いたてのひらである。

 女を殴るわけにいかないという意識だろう。

 ついでにいうと、好みのタイプでもあった

「この!」

 乙女が、腕を振る。

 自分に伸びてきたゲンコウの腕を、下から掬い上げるような肘鉄だ。

 逆に、その腕の袖を、ゲンコウの手が絡め取った。

 長身であり肉厚な筋肉の要塞が、風のように動く。

 凄まじい速度の、水面を滑る如き足捌き。

 流石は、上級僧への昇格も考慮されるだけのことはある。

 蟷螂拳とうろうけん

 名の如く、蟷螂かまきりの動きを模したという拳法の一種で、指を立てた構えが知られるが、実用には対手の膝関節へこちらの脚を絡める、足技が効果的だ。

「うわっ」

 見事にバランスを崩され、少女が声を上げる。

 小柄な体躯が、片方だけに体重が乗り、ひっくり返る。

 上半身では袖を引き、下半身では片方の膝を裏から掬う、これをかけられると武芸に心得があっても、容易く地に倒されるのだ。

 だがその瞬間、少女は目を見開き、『牙』を剥いた。

「しゃあ!」

 唸る声と共に、黒いものがひゅるりと宙を舞う。

 なんと、ゲンコウの足払いのベクトルに乗り、少女の体が空中でさらに加速し、くるりと巡る。

「む!」

 なにかが空中を引き裂くように飛び込み、ゲンコウは腕を上げてそれを防いだ。

 ゴッ――

 硬い音と衝撃。

 蹴りであった。

 空中で回転しながら、攻めてきた相手の顔へ向けて蹴りを出せるものなど、そういない。

 それを年若い娘がやってのけたのである。

 下駄の硬さとしなやかな速度、並の人間なら腕がへし折れている。

 受けたゲンコウの腕、鍛えに鍛えた鋼鉄の筋肉は、常人のそれを超越していた。

 蹴った少女が、その反動を利用して、跳ぶ。

 こちらも凄まじい身のこなしである、一気に六尺半(約二メートル)ほどは離れた。

 一度離れ、ゲンコウは少女の変化に、気付いた。

「お前、亜人なのか」

「あ!」

 少女は、はっとして、自分の頭と、腰のあたりに手をやった。

 そこに、ふわりとした黒いものがある。

 頭には耳。

 腰からは尾。

 猫、だろうか。

 ひとと少し差異を持ち、動物の因子を持ったものたち、亜人という。

 少女はその一種なのか、髪と同じ黒い毛の、猫のような耳と尻尾を生じていた。

 だが、おかしい、亜人の容姿となる前、たしかに人間のそれであったはずだ。

 人間態の耳があった部分から、ふわりと髪が伸びて、身体的に変化しているように見える。

 特殊な魔法術か。

 そんなものを使った形跡はないと想うのだが。

「う、うるせえ! この……人前で出したくなかったのに、てめえ」

「いや、待て。俺だって喧嘩は」

「黙れ! もうムカついた、てめえぜってえぶっ倒すかんな」

 ふしゃー! と、理不尽に怒る、実に理不尽だ。

 戸惑うゲンコウを前に、少女は半纏の裾の中、腰の後ろから、武器を取り出した。

 びゅん――と唸る、硬い木と鉄の器械であった。

(なんだアレは。多節鞭たせつべんいや、棍と呼ぶべきか)

 それは、二本の木の端を、鎖で繋いだ武器だった。

 西洋武器のモーニングスターとも似通った性質であろうか、振るうことで、一方の柄先で相手を殴打する使用法と推察できる。

 ご丁寧にも末端部分には、鉄蓋と鉄鋲てつびょうを打ち込んであり、強度と重量を増している。

 双節棍、ヌンチャクという武器であった。

 大陸より離れたある島国の武術で用いられる。

「ま、待て、俺は」

「問答無用!」

 少女が攻める。

 くるりと回したヌンチャクが、頭部めがけて、横からすっ飛んでくる。

 腕で受けるか払うかと考えたが、威力を想定しきれない場合、危険だ。

 ゲンコウは一歩、素早く下がって回避。

 その刹那、少女が舞う。

 まさに舞うような、華麗で、その愛らしい美貌を引き立てるような、立ち回りだった。

 ヌンチャクを振るった動きをそのままに、一回転、右足を軸にし、左足がかかとを、ゲンコウ肩へとめがけて蹴り込む。

 後ろ回し蹴りである。

 初手で決めるのは困難な大技だが、決まれば威力は絶大。

 本来なら、身長差がなければ頭に送り込むのだろうが、少女とゲンコウとの身長差では肩で限界だったか。

 肩といっても油断ならない、下駄と少女の身体能力を加味すれば、骨まで砕いて有り余る。

 だが相手は、名にし負う黄林寺の黄林僧であった。

「ふんっ」

「ぬぁ!」

 バチぃ――と。

 弾く音色。

 ゲンコウの右掌みぎてのひらが、自分の左肩に送り込まれた、少女の脚を叩いた。

 打撃の最大威力を発揮する、踵部分ではなく、それより手前、下腿部分をだ。

 拳にしろ蹴りにしろ、末端の打突部位より内側、速度や重さの乗らない部分を払われるのには弱い。

 少女の褐色の体が、またかしぐ。

 ゲンコウが踏み込み、また足払いとそでへの絡み技をかける。

「そう何度も、受けるかよ!」

 しゃなりと尾が揺れ、黒猫の乙女が、凄い速さで動いた。

 ゲンコウの足が触れた瞬間、地を蹴って、跳ぶ。

 猫以上の素早さと身軽さだった。

 亜人どころか、獣人のそれに等しい。

 空中からの飛び蹴り一閃、自分より背丈の高い相手の頭部に、稲妻のような打撃を送る。

 ゲンコウ、両腕を上げて防ぐ。

 呼吸と共に、瞬間的に丹田で氣を練り、内勁を込めた硬気功。

 でなければ、打撲傷で手痛い思いをしただろう。

 一歩下がり、体勢を崩す。

 そこへ、着地した少女が、風を唸らせ、ヌンチャクを振るいかかる。

「オラ! オラぁ! どうだあ!」

「ぬお、っとお!」

 乱舞と形容できる打撃の嵐であった。

 無駄な動作は微塵もなく、縦、横、斜めと、様々な軌跡でヌンチャクが襲いかかる。

 隙あらば下段蹴りで膝も狙ってくる。

 相手が少女であり、小柄であり、戦う理由もなく、ゲンコウも反撃にきゅうする。

 とにかく攻撃を止めさせたい一心で、彼は大きくヌンチャクが薙ぎ払われたとき、下がると見せかけ、逆に前に踏み込んで、掴み技にかかった。

「や、やめろと! 言っているだろう!」

 黄林寺の退魔僧が武芸で想定する敵手は、あくまで妖怪妖魔である、ゆえに法力を込めた打撃技、武器術などが多様される。

 かといって、対人用の技がないわけではない、一〇〇〇年以上の月日を研鑽を重ねた武芸である。

 そですそを掴んでの、掴み、投げ、極めの技術も当然ある。

 ゲンコウは、少女のえりを掴み、体重の理を用いて、地面に倒そうとしたのだ。

 そう、しようと、したのだ。

 だが、少女の動きがあまりに素早いことと、ゲンコウの焦りのせいか、彼の手は、目測を誤った。


 むにゅり――

 ぷにょん――


 未知の感触であった。

「ひゃあ!」

 少女が、それまでの鉄火肌と思えぬような、甘く跳ね上がった声を零した。

 ゲンコウの硬い手が、それを掴んだ。

 鷲掴みだ。

 半纏と道着からは想像できなかった膨らみであった。

 柔い。

 そのくせ、張りがあって、生意気につんとしている。

 

 むにゅ――

 むりゅ、ぷにょん――


 と。

 彼の手が、震える拍子にまた、素晴らしい感触を覚える。

「あ、あ……て、てめ、この……っ」

 涙目で、少女がにらみつける。

 顔が真っ赤であった。

「お、おお、おっ。おっ!」

 ゲンコウも真っ赤であった。

 今までの人生の多くを、修行、修行、また修行で鍛え続けた、生真面目男には、過ぎたものであった。

 脳裏を駆け巡る、快感、感動、興奮、感銘、驚嘆――

 桃色の光が心を満たすようであった。

「お、おっぱぁああああ!」

 叫んだ、彼は叫んだ。

 産まれて初めて、触れる、女子おなごの乳房であった。

「ばっかやろおおお!」

「ボゲェえ!」

 涙目の少女が、自分の乳をいつまでも鷲掴みにして、むにむにしていたゲンコウの顔面に、ヌンチャクをぶちかます。

 ゲンコウはそのまま地べたにぶっ倒れ、意識を遠のかせた。

 だが、痛みと、意識喪失の中でも、彼の手には、柔らかい、柔らかい、乙女の乳の感触が、こびりついていた。


「ひどい目にあった……」

 ぶっ叩かれた頭をさすりつつ、ゲンコウは、歩く。

 帰り道である。

 とんでもない休日であった。

 繁華街へ行き、喧嘩の場に遭遇し、止めようとし、なぜか巻き込まれ、ヌンチャクでぶっ叩かれ。

 そして――

(おっぱい……)

 まだ思い出してしまう。

 小柄な乙女にしては、思った以上に実っていた。

 褐色の少女の乳房の弾力。

「い、いかんいかん! 御仏に仕える身がなにを! いかん! いかんぞ!」

 ぶんぶんと首を振る。

 とにかく、今日はもう、帰ろう。

 寺でゆっくりと瞑想でもして、雑念を祓いたかった。

 ゲンコウは寺の門をくぐり、寺内じないへと入る。

 自室ではなく、仏像の鎮座する、奥の寺院へ向かう。

 その時であった。

「ちょ、ちょっと、あの、困ります。和尚様は、今出かけておりまして」

「っせえなあ、だから、帰るまで待つっつってんだろ!」

「ですが、その、できれば日を改めて」

 誰かが、言い争っているようだった。

 寺の中の、廊下である。

 男、同じ中級僧の、ケンザンであった。

 そのケンザンが、どうやら来客の相手で苦労しているらしい。

 相手が、なにか食って掛かっている。

 見覚えのある、後ろ姿であった。

 聞き覚えのある、声でもあった。

 黒髪。

 後頭部で結った、ポニーテール。

 着古した、焦げ茶の半纏に、黒い道着。

 屋内であるからか、下駄は履いておらず、余計、小柄に見える体躯だ。

「あ! お、お前は!」

「ん? ああ! てめえ! さっきの痴漢坊主!」

「ち、痴漢ではない!」

 あの、褐色の乙女であった。

 今は、猫のようだった、耳と尻尾がない、完全な人間の容姿である。

 寺の結界の中に入っているということは、化けた妖怪では、ないのだろうか。

 やはり、亜人?

 ゲンコウはまじまじと、少女を見る。

 くりくりとした、少し釣り眼の瞳が、堪らないほど澄んだ黒瞳でこちらを見上げる。

(か、かわいいっ)

 思わず唸りそうになった。

「んだよ、ジロジロ見やがって。やっぱ痴漢か? お前、あの野郎どもの仲間じゃねえのかよ」

「あの喧嘩していたやつらか。だから、違うと言っているだろう。誤解だ。というか、痴漢だったのかあいつら」

「ああ。あたしが探しもんして、話聞いて回ってたんだけどよ、うっかり話しかけたら、路地裏に連れ込んで体に触ってきやがって。だからぶちのめしてやったんだよ」

 へへ、と、少女は獰猛そうに笑う。

 顔は可愛らしいが、不敵に笑うと、まるで虎のような威圧を秘めている。

 とんでもない子猫がいたものだ。

 ふたりの様子に、それまで応対していたケンザンが、そっと割って入る。

「あ、あのお、いいすか」

「あ?」

「ちょうど、帰ってきたみたいなんで、向こうへ」

 ケンザンが、促す。

 ゲンコウと、その少女が、視線を向けた。

 どうやら、今寺へ戻ったらしい、袈裟を纏った、老僧が三人の前にやってきた。

 シワを刻んだ顔に、太い笑みを浮かべている、退魔黄林寺の、大僧正。

「今帰ったぞ、ケンザン。ゲンコウ。こちらのお嬢さんは、どなたかな? 魔物退治のご依頼にでも、参られたか」

「似てるが、ちょっと違うよ。あんたは?」

「わしはこの寺の大僧正、リュウガイと申す」

 合掌に手を合わせ、一礼。

 リュウガイ和尚に、褐色の空手着の乙女も、目礼する。

「はじめまして。あたしは真鶴まづる。退魔の聖殿、黄林寺の和尚様。あんたに、聞きたいことがあってきたんだ。お話する時間、くれるかい」

「ああ、いいですとも」

 どんな悪童も、たちどころに解きほぐしてしまいそうな、包容力のある笑みだった。


 リュウガイ和尚の、私室であった。

 壁には、様々な仏法の写本、同じく、武術に関する技術の書など、無数の本を収めた本棚。

 そして、寺の掲げるふたつの教え。

 ――悪鬼調伏あっきちょうぶく

 ――衆生救済しゅじょうきゅうさい

 と太く筆で書かれている。

 背面の窓の傍で、大きな机があり、そこに、和尚が腰を下ろしている。

 正面に、褐色、黒髪の乙女、真鶴。

 そして、同じくその隣に、巨漢の青年僧、ゲンコウもいた。

「へへ、ゲンコウ、お前も災難だったな。喧嘩とは」

「いえ、その……はあ……」

 今しがた、真鶴と出会ったときのいきさつを、話したのである。

 さて、そうして話を、本題へと移した。

 和尚は視線を、真鶴のほうへ向ける。

「真鶴さんと申されたな。して、いったい拙僧になんの御用かな」

「あたしは、捜し物をしてる。この寺は、いろんな魔物と戦ってきたって聞いてる。あんたなら、なにか知ってるんじゃないかと思ってね」

「ふむ。まあたしかに、魔物を狩った経験は、重ねておりますが。あなたは、どのようなものをお探しで?」

「……」

 一瞬、真鶴は沈黙し、目を細める。

 その瞳の奥に、燃える感情があった。

 黒い炎が、想像を超えるような怒りと火を、揺らめかしている。

 真鶴はしばらくして、口を開いた。

「虎だ。黒い虎」

「黒い、虎と」

「ああ。そいつには、名前がある」

「なんと申します」

島崎八郎兵衛しまざきはちろべえ。日の本は和国の出身。空手を使う。あたしと同じ流派さ」

「……っ」

 今度は、リュウガイ和尚が黙った。

 明らかに、その名になにか、感じるところがあったと見える。

 少女の目が、ぎらり、ぎらりと光った。

「やっぱり、噂通りだ。あんた知ってるね。和尚さん。黒い虎、八郎兵衛とやったことがあるんだろう」

 傍で見ていたゲンコウが、目を見張った。

 さきほど立ち回ったときに見せた気迫を凌駕する、凄まじい殺気が、真鶴の中で張り詰めている。

 リュウガイ和尚は、眉根にしわを寄せた。

 黒い虎、島崎八郎兵衛とは、果たして如何なるものなのか、ただひとり、なにも知らぬゲンコウは思う。

「何年か前、立ち合ったことがありますな。黒き虎の空手使い。真鶴さんは、かのものの、お知り合いですかな」

「同門さ。あいつはいわば、兄弟子みたいなもんだよ、あいつの師匠があたしの祖父。あたしはじいちゃんに空手を習った」

「なにゆえ、あの御仁を探しなさる」

「御仁なんてもんじゃねえよ、あいつは……けだものだ! どうしようもねえ、うすぎたねえ畜生だ!」

 真鶴が立ち上がる。

 ふう、ふうと、息を上げる。

 また、長い黒い尾が伸び、頭に耳が生えた。

 どうやら気性が荒ぶると、獣の精を帯びるらしい。

 金色に変化した瞳で、少女は和尚を見ながら、吐き捨てるように、言った。

「あいつは、仇だ。あたしの仇だ」

「仇」

「ああ……あいつは、あたしの……あたしの母さんを、殺したんだ!」

 叫ぶように、少女は言った。

 黒い猫になる乙女である。

 乙女は憎しみを持ち、宿敵を探していた、黒き虎である、兄弟子であるという。

 和尚は黙念と、その言葉を受け止めた。

 ゲンコウは、自分が新しい、数奇なるえにしに絡められたことも知らず、ただ呆然と、その光景を傍で見つめていた。

 

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