二ノ章 蛟姫
黄林寺 退魔僧伝
二ノ章 蛟姫
退魔の聖殿、黄林寺。
この寺の中でも、とりわけ堅固なる護りを固めている場所といえば、封印蔵であろう。
寺の中央に位置し、外から中を覗く窓はひとつとてない。
形状は、五重塔である、五段界の傘の屋根を持つ、一般的には寺のシンボルとして、特に中にはなにもない。
本来は仏舎利を祀るためのものであった。
西洋の十字教会の十字架が、在る種のシンボルとして機能するように、五重塔も同様の力を誇る。
それはふたつの意味を持つ。
外側からの侵入を防ぎ、また、内部からも逃すまいと。
鉄壁の護りがそこにある。
黄林寺の中でも有数の法術士、ゲンナ大老が、千古の昔より紡がれてきた結界を維持、強化し、蔵を幾重にも保護している。
目に見えぬ霊的結界は邪悪な妖魔などの侵入を感知、同時にそれを阻むよう、攻撃機能も持ち。
あちこちに貼られた術符が、内部に封入された精霊や霊獣の監視の目を光らせ。
なにより最も信頼できる、黄林寺の黄林僧たちが、常に休みなくこの蔵内を警護し、一定間隔で見回りしている。
黄林寺の中でも最高位に属する上級僧が、最低でも常時三人以上は蔵の内外にいるのだ。
上級僧は、武芸はもちろん、法術や学識、経験、様々な点を考慮に考慮を重ねて選ばれる最精鋭である。
黄林寺でも、上級僧の現在の人数はたった一八人ということから、彼らの能力、そして、この蔵の特別さが分かるだろう
完璧な護り、誰もがそう思っていた。
そこに落とし穴があったのだ。
内部の人間の犯行というのは、いつも最大の敵である。
封印蔵の中を、僧が歩く。
彼は、周囲の光景を、いつもながら、おっかなびっくり、見上げていた。
カチャ――
カチャ――
と。
微かな、硬質な金属音が、ひとの手が触れずとも、鳴る。
剣たちである。
槍たちである。
その他、様々な忌まわしき魔具。
想像を絶する驚天動地の魔術にて生み出された、宝具たち。
封印の術符を貼られ、鎖で縛られ、立てかけられて。
西洋のもの、東洋のもの、数え切れぬ武器があった。
響く音色は鞘鳴りであり、鈨が刃と触れる音色である。
剣たちが、声なき声で囁いているのだ。
我を使え。
我を抜け。
と。
ちょうど、先日和尚が持ち帰ったばかりの魔剣、カラド・ボルグなど、鮮血の味を忘れられぬのか、特に激しく、鳴いている。
ただそこに立って、歩くだけでも、精神的に消耗する。
ゆえに、この蔵で警護にあたる中級僧たちは、ある程度の霊感の強さを求められている。
彼も、そうだった。
サンガという名だった。
僧歴八年、八歳で寺に入り、現在一六歳である。
若く、妖怪退治の実戦経験は少ないのだが、霊感に強く、呪霊などの霊的圧力に耐性があり、この蔵の警護に当たることが多かった。
サンガは、しかし、少しいつもと様子が違う。
いつもなら、ただ形式通りのルートを遅くも早くもない、普通の速度で歩き、ただ異常がないかを見て、ただ、警護する。
決して手抜きというわけではないが、不気味だな、と思う以上のことは気にせず、平静に行う。
それが今日は、足早に歩く。
サンガは、ひとつの武器の前で、止まった。
普通、蔵の中での警護の僧が、立ち止まることはあまりない。
練り歩き、定期的に全ての武器に目を通すようにしている。
それが、立ち止まり、彼はひとつの武器を見た。
剣である。
柄から剣先までひと繋がりの素材で出来ているのか、繋ぎ目や目釘の類は見られない、鍔の部分はあまり広くなく、刃より少し広いくらいである。
おそらくは諸刃であろう刃は、剣と同じ金属の鞘に封じられていた。
当然、表面には封印の術符があちこちに巻かれ、貼られている。
かなり古い時代のものであろう、人間的な道具の価値基準でいえば、使いやすい武器とは言えないのだが。
しかし、この蔵の中に封印されている武器たちは、そのような基準で測れない。
中には一国を滅ぼしかけぬほどの力を秘めたものもある。
サンガが見つめる剣は、どうであろうか。
見ただけは分からないが、朽ちた総身からは、なんともいえぬ厳かな風情があった。
邪悪な魔剣という、印象はない。
静かに泰然と、ただ在るだけで、気高い澄んだ力が放散されているように見える。
サンガは、その剣を見る。
いや、見るだけではない、いつの間にか、一歩踏み込み、近づいた。
さらには、手まで伸ばして、触れる。
蔵内での警護を行うべき符、そこに封入されている霊獣などが、作動しない。
サンガの手は、まず、剣を守護する霊獣の符を外した。
部外者では絶対分からない、符や術式を管理する僧だからこそできるのだ。
彼は、霊感や法術に優れており、蔵の最大責任者である、ゲンナ大老直々に術を教えられている身でもあった。
剣そのものを封じる符は、外せないにしても、周囲の警護をする霊獣や精霊の符ならば、外せないことはない。
やがて、サンガはその剣を直接手に取り、持ち上げた。
ずしりと、重い手応えである。
肌から伝わる冷たい感触は、どれほど久しく、ひとが触れるものであろう。
そのときであった。
「おい、何をしている」
側方から、声がした。
別の見回りの僧であった。
目を見開き、驚きと恐怖に凍るサンガ。
その彼の、すぐ近くまで、もうひとりの僧は小走りに駆け寄り、絶句した。
封印された宝具を守護するべき、同じ黄林寺の僧侶が、事もあろうにその絶対禁制の武器を、手に取っているのである。
「お前! い、いったい何を! おい! 早くもとに戻せ! 自分が何をしているのか……」
必死に、サンガを説得しようとする、もうひとりの黄林僧。
だがその言葉を言い切るよりも前に、その男の横顔を、硬いものがぶっ叩いた。
サンガが、警護僧の武具である、棍棒を振ったのだ。
音を立て、その僧が転がる。
手加減したのか、死ぬほどの傷ではないにしろ、すぐ起き上がることができない。
サンガは振り返り、走り出した。
棍棒を捨て、片手で蔵に封印されていた剣を抱え、もう一方の手を、前に振った。
前方には、壁がある。
壁に施された結界の符を見事に避け、彼の符が張り付き、爆裂した。
ぽっかりと空いた穴に、飛び込み、サンガは外へと飛び出した。
これが、前代未聞の、黄林寺が誇る封印蔵からの、宝具強奪事件であった。
誰もが考えたこともない、内部の犯行という盲点によって、それは成されたのである。
話は、これより一ヶ月ほど遡る。
「どうも、失礼しやすよ」
ひょっこりと、奇妙な影が、黄林寺大僧正、リュウガイ和尚の部屋を訪ねた。
それはひとでないものの姿をしていた。
「おう、待っておったよ。早速やろうかね」
「へい」
和尚が手招きをすると、そのものは、ひょこひょこと、部屋の奥、和尚の腰掛けていた机の前に腰を下ろす。
全身を艷やかな毛が覆っている。
丸まっちい手は、みずかきを持ち、小さな爪がある。
人の元に来るからか、それとも、いつも身につけているのか、粗末な着物を着用していた。
黒く丸いつぶらな目に、愛嬌がある。
それは、彼は、かわうそであった。
「さて、どちらから行くかな」
「この間はあっしからでしたからね、今日は和尚様からどうぞ」
「うむ、では」
そう言うと、和尚が机の上に用意していたものに、手を伸ばす。
それは碁盤に似た、格子状の盤面であり、全部で六種一六個の駒を、敵味方で分かれて使う、ボードゲームであった。
チェスと呼ばれる、西洋の遊戯である。
そのチェスを、リュウガイ和尚と、人語を話す大きなかわうそが、やっている。
なんとも奇妙奇天烈な光景であった。
「これでどうだ、ロンよ」
「おお、これはなかなか」
などと言いながら、ふたりはひょい、ひょいと、駒を進め、あるいは引き、攻防を行う。
ロンとは、かわうその名である。
なんと、和尚が名付けた。
しかし、飼っているのではない、名前がないと呼び辛いので、思いついて付けたのである。
川に住む妖なので、水を司る古来の霊獣にして神獣の、龍、つまり、龍である。
出会いは何年間前になる。
ある時、この近くの川辺で、漁師の網を破り、魚を大食して害を出した妖怪が出た。
ロンのことだ。
ロンからすれば、川の魚など誰が獲っても自由であろうという認識だったので、それが漁師を怒らせるとは思いもしなかったらしい。
そんなことを続けていると、当然怒った漁師たちが、特製の罠をしかけ、ロンを捉えた。
あわや殺されそうになったとき、待ったをかけたのがリュウガイ和尚である。
悪鬼調伏を掲げる黄林寺といえど、基本は仏門である、殺生とは決してみだりにするものではない。
ゆえに、誰もひとを殺していない、傷つけていないロンを無闇に殺生するのは、これはあまりに無慈悲として、漁師らを宥めた。
下流の漁師らの領域では魚を取らないことを約束させ、かくして、ロンは命を救われたのである。
それ以来、リュウガイ和尚のもとに、上流の川の近くで取れる、山菜などを持ってきて、話をしたり、こうして、遊興のチェスなどをする間柄となった。
チェスは、ガンダーラ都市部の憲兵隊の指揮官、西洋人の、ニナ・ブラスシルトから教えられ、頂いたものである。
「むう、やりおるな」
和尚は顎を指で掻きつつ、ロンの指した騎士の大胆な攻めに、眉根を歪めて懊悩する。
このかわうそ、下級妖怪と思えぬほどに、チェスのセンスがある。
ちっちゃな手がひょいと駒を持ち上げると、想像以上に素早く次の手を打ってくる。
その仕草といい、かわうそが着物を着ている様子といい、なんともコミカルであった。
ロンは茶菓子に出された饅頭を喰いながら、ふと、次手に悩む和尚に、話しだした。
「ところで和尚様、知ってますかね。ここいらの川で、どうも新顔が来たようなんですよ」
「ほう、新顔とな」
「ええ、妖怪のですよ、いや、もしかすると、妖怪じゃないのかもって、噂なんですがねえ」
噂をしているのも、川に住む妖怪たちなのだろうか。
もしかすると、このひょうきんでユーモアのあるかわうそは、和尚以外の人間ともよく話すのかもしれないが。
「というと」
駒を動かしながら、ふたりは話す。
「なんでも、もっともっと下流のほうから、見たこともないでかいやつが、来たってんです。話じゃあ、長い尾の体をしているってんで、もしかすると、ナマズやサンショウオかもしれませんね」
「ほほう」
「知り合いの河童がですね、挨拶もねえなんてふてえやろうだってんで、息巻いて行ったんですが。逆にぶちのめされちまったんでさあ」
「ほう、河童が。河童といえば、結構な力持ちじゃないか。そいつを殺してしまうとは」
「いえね、殺されはしてないんですよ」
「ふむ?」
「ただ打ちのめされただけで、生きて帰らされたんです。でも、それ以来みんな怖がっちまって。結局誰もその新顔の姿を見てない。河童のやつも、暗闇の中で、ばかでかい尾しか見なかったってんで」
「ほう、それで?」
「で、そのままでさあ」
「そのままか」
「へい。だぁれも見ねえ、知らねえで。今はどこでどうしてるんだか。あ、和尚様、王手ですよ」
「お! これは……うーむ。まいったな……また負けてしもうたわ。お前さん、なかなか手ごわいのう」
チェスを二局戯れ、なにげない会話をし、ロンはまた山へ帰って行った。
その時交わした話しの内容が、しばらく後の一件に関わることなど、そのときは想像もできぬことであった。
「で、状況はどうかな」
「現在、蔵の修復と追跡を行っております」
「山へ逃げたか」
「はい。サンガのやつ、随分前から準備していたらしく、塀も内側から前もって破壊して開ける場所を定め、また、使役霊獣の追尾を眩ませる術符も用意していたようで……面目ありません」
「内部犯ってえのは、想像以上に厄介だな、こっちの手を知っておる」
中級僧、サンガによる封印蔵での強奪事件から、二時間ほど経っていた。
あの青年は蔵から宝具を強奪するだけでなく、さらには寺を囲む塀を破り、逃走してのけた。
街道筋にもひとを配し、目を光らせているが、未だに発見の報はない。
逃げた方向から、やはり、山中に向かったと見るのが必然であった。
現在捜索隊が山野に分け入っているが、こちらもまだその痕跡を見つけられずにいた。
「さて、ではまず。どうするかな。ともかく、話を聞くとしよう」
「誰にです?」
「サンガの同房のものよ」
「すぐ呼びましょう」
さてはて、と、思案する、リュウガイ和尚の言葉に、ことの対策班長に当たっている上級僧、テンイはすぐさま頷いた。
中級僧や初級僧の多くは、何人かで部屋を共同で使って生活している。
集められたのは、サンガと同室の青年らであった。
「あいつに、変わったことですか」
「うむ。なんでもよい、教えてくれ」
「はぁ……」
「……」
和尚の言葉に、若者たちは、ちら、ちらと、互いの顔を見合わせる。
「おい、和尚様が聞いているのだぞ、早う言え! ことは一刻を争うのだ」
「は、はい!」
上級僧、テンイの言葉に、若者たちはぎょっとして、頷く。
まずひとりが、おずおずと応えた。
「あの、実は……サンガのやつ……最近、その……街で、お、女と仲良くしてた、ようで」
「なにい? 女、とな」
「はい……」
黄林寺の黄林僧は、俗世と断絶されるべき僧侶でありながらも、多少の生活の自由があった。
妖怪妖魔悪鬼魔性との戦いにおいて、遠い街や地域への遠出があり、浮世慣れしていないとなにかと些細なことで足元を掬われることがある。
それに、命懸けでの戦いを日常的に行うこともあり、また、訓練も過酷、息抜きも必要なのだ。
たまの休みに街へ出て羽根を伸ばすのも、少しは許されている。
中には、そのように俗世の女姓と逢瀬をするものも、出ることとて、不思議ではなかった。
つい先日も、上級僧に推挙されるほどの技倆を誇った中級僧、ゴウジンという男が破門を喰らっている。
サンガのようにまだ十代で若い男ならば、なおのことであろう。
「どのような方であったかな」
「はあ、それが、自分も遠目に見た程度なんですが。長い黒髪の、ほっそりした美人で」
「いや、待て」
和尚の問いに、ひとりが答える、すると、そこへ同室の別のものが待ったをかけた。
その青年は言う。
「俺が見たのは短めの髪の、輝くような白髪の女だったぞ」
「なに?」
「おい待てよ。俺も見たことあるが、どちらも違うぞ、明るい赤毛で、気の強そうな女だった」
「お前らなに言ってるんだ、俺が見たのは暗めの栗毛だった」
と。
なんということか、同室であったもの、四人それぞれが、別の女を見たという。
長い黒髪、ほっそりした美女。
輝く白髪。
明るい赤毛、気の強そうな女。
暗めの栗毛。
「サンガのやつ、真面目で物静かな男であったが、随分と女好きであったようだな」
「その女たちに、惑わされたのでしょうか」
「まあ、可能性のひとつであるな」
「妖の女かもしれませんぞ。なにかの術にかけられて――」
「それはどうであろうな」
「ゲンナ大老」
和尚とテンイが言葉を交わす間に、蔵の防護術や修復を見ていた、寺の古参僧、ゲンナ大老が口を挟んだ。
非常に小柄で、背が丸まり、自然木の捻じくれた杖を突いた、顎に長い白髯を蓄えている、老翁であった。
老は、片手で顎髭をなぞりつつ、こう、言った。
「もし妖に幻惑されていたのであれば、その妖の邪氣、妖気を結界が感じるであろうよ。しかしサンガは蔵の中に入れた、つまり、あくまであれはあやつの意思ということになる」
「なるほど……」
「さて、どうするかな。どのような事情にしろ、ともかくやつを見つけ、連れ帰らねば」
「街道や市街地からの報告は未だにありません。山に入ったにしろ、どこへ向かっていくか」
「ふむ……」
そのとき、ふと、和尚の脳裏に、先日の話が掠め過ぎる。
かわうそ妖怪のロンの言っていた、川を遡行してきたという、妖怪の話だ。
それがこの一件と関わりがあるという確証などなかった、が、どこか、勘に触れるものがあった。
それに、サンガの逃げた方向を真っ直ぐに予想するなら、その先には、大きな川がある。
そこで船を待たせているという可能性も、十分考慮できた。
「先回りできるかもしれん。わしも直接、探しに行こう」
「和尚様、直々にですか?」
「うむ。後は任せてよいかな」
「構わんよ」
ゲンナ大老に後を任せ、和尚は考えるや否やすぐ行動する。
寺にはもしもの時のために、厩もあった。
一頭、脚の強いのを選ぶと、彼は長身も巨躯も、年齢も感じさせず、ひらりと軽やかに乗るや、駆け出した。
追随する他の僧が、あわや見失わんとするほどの手綱捌きで、老僧は山をぐるりと巡り、川沿いへ素早く走らせた。
深い山であった。
むっと、濃く、樹木の葉と、その樹皮、土に籠もる水分が、煙るほどに匂う。
高低差の在る急な山肌の坂道は、当然、ひとの通る場所でなく、整備などされていない。
そこを、青年は、息を切らしながら歩く。
片手に杖代わりの棍棒、片手に、あの蔵から盗み出した剣。
一六歳の若き僧侶、サンガであった。
青年というより、まだ、少年の面影もある。
「はぁ……はあ、ひい」
何度も背後を振り返りながら、彼は、歩く。
道中、あちこちに、自分の氣を含ませた符を貼り、また、霊獣の嗅覚や、霊的察知力を惑わす符も撒いている。
たとえ相手がゲンナ大老でも、一昼夜は凌げると算段はあった。
むしろ恐ろしいのは、単純な人間の目による捜索である。
とてもではないが、自分に武力でそれを対応する能力はないという、自覚はあった。
「まだか……約束の場所まで、あと少しのはず」
独り言を呟くサンガは、そのとき、ふと、前方を見上げた。
暗く影を落とす梢の間を、白いものが霞ませていく。
霧であった。
冷たい空気と共に、川の匂いをさせた霧が、突如として渦巻いた。
彼を包むように、迎えるように。
そこに、甘やかな、愛するものの香りを嗅いだのは、恋する男の本能か。
「ミヅチか!」
「はい。サンガ様。ここに」
彼が呼ぶと、本当に、彼女は来た。
霧の中で溶けるように、ゆらり、ふわりと、優美なる影が訪れる。
白い着物に身を包んだ、女であった。
「おお」
見慣れた顔であったが、何度見ても、飽きることもなく、サンガは感嘆した。
また今日も、違う顔であった。
緩く癖を持った、薄い灰色の髪を、肩口で切り揃えている。
垂れ目で、温厚そうな顔つきの美人。
それが、彼が愛する、ミヅチという女であった。
「お待ちしておりましたわ。サンガ様。まあ、まあ……それは。本当に持ってきてくださったのですね」
「当たり前だ。君が、どうしてもと頼んだのだ。持ってくるさ」
「嬉しいですわ。危険を侵してまで、してくださるなんて。大丈夫ですか? お怪我は?」
「ないよ」
女はサンガに近づき、そっと彼の体に触れる。
愛おしさの中に、微かに、淫靡さも匂う触れ方であった。
ミヅチはサンガの胸板を、白い指先でなぞる。
纏う羅漢服の間へ入り、肌に指が、蛇のように這った。
「ミヅチ……っ」
「本当に、愛おしいお方……ふふ、赤くなって、可愛らしい」
「ああ、ミヅチ……俺も、お前のことが」
女の細い腰を抱き、感極まった様子でサンガはさらに息を荒げる。
ぐいと彼女の顎を上げさせると、熱烈な接吻で、唇を奪った。
「んっ! もう……だめ、いけません……早く逃げないと」
「いいじゃないか……我慢できないんだ。好きだ、ミヅチ!」
「ああ、もう……いけない方」
草土の上で、白い着物の女体が横たわり。
感情も肉体も持て余す、若い僧の体が覆いかぶさる。
その性急さに、嫌気が差すどころか、むしろ、ミヅチと呼ばれた女は、どこか憐憫にさえ似た感情を滲ませた。
「いいですわ。今日が、最後ですものね」
「なにか、言ったか」
「いえ、なんでも。さあ、すぐ済ませてしまいましょう……いらっしゃいませっ」
自ら着物の胸元を肌蹴る、ミヅチ。
彼女の呟いた、ごく小さな言葉など気にすることもなく、肉体も心も、全てを持て余す若者は、顔を埋め、彼女に溺れた。
「なあ、本当にこっちでいいのか。この先は」
「大丈夫ですわ。さあ、わたくしに着いてきてくださいませ」
ミヅチに手を引かれ、サンガは歩く。
あれから、二時間以上経っていた。
霧はさらに深まり、視界は悪くなるばかりである。
サンガは、不安を募らせながら、ミヅチに導かれるままに歩いた。
剣は彼女が持っている。
しかし逃げるなら、別のルートでなければ危ういのを知っている。
深く木々の茂るこの山を、まっすぐこのまま行けば、そこにあるのは。
握ったミヅチの、冷たい手だけが、今は頼りであった。
煙る白い霧の中、彼女の白い髪は、溶け込むようであった。
そのときである。
「おう。待ちかねたぜ。サンガ、それに、連れ合いのお嬢さんよ」
闇と白い霧の狭間から、太く逞しい、聞き慣れた、最も聞きたくない男の小声が、した。
サンガは、ぎょっと顔を上げる。
「和尚様!」
「おうよ。女連れで山歩きたあ、ちと風流に過ぎるぜえ、サンガ」
悠々と、腕を組んだ老僧の、年を感じさせぬ厚みと、まっすぐ背の伸びた長身とが、歩み寄る。
馬を走らせ川沿いに幾人もの僧たちとで目を光らせたリュウガイ和尚は、盲点と思われた場所に自ら陣取り、待ち構えていたのである。
ミヅチが案内し、向かった先は、まさしく盲点と呼べるものであった。
和尚の出現に、サンガやへたりこみそうなほど怯え、対するミヅチは、ずいと進み出る。
意外にも、白髪の乙女が見せた顔は、心底すまなそうな曇り顔であった。
「お初にお目にかかりまする。わたくし、ミヅチと申します」
「これはご丁寧に。こちらこそ、初めまして。黄林寺大僧正、リュウガイ和尚と申す。お嬢さん、貴女が、サンガにその剣を盗ませたのかな」
「はい。わたくしがどうしてもとお願いしました。和尚様には、随分とご迷惑をおかけいたします」
「迷惑とご承知なれば、返却してくれぬかな。今ならばまだ、わしの裁量でふたりにあまり責を負わせんで済む」
「それはなりません。これはどうしてもわたくしに必要なもの。それに、わたくしにはこれを手にする正当な理由があります」
「ほう?」
和尚は、娘の言葉に、顎を掻きつつ眉を上げた。
封印蔵に秘められし宝具、魔具を奪う、正当な理由とは如何に。
だが和尚がそれを糺すよりも先に、周囲の警戒に当たっていた、僧たちが集まってきた。
「いたぞ!」
「捕まえろ!」
どっと、霧を掻き分け、中級僧の小僧たちが棍棒を振って、サンガとミヅチを捉えようとする。
サンガは逃げ腰で怯えたままであったが、娘は違った。
「下がりおれ! 下郎共が!」
物静かであった娘が、声を上げた。
瞬間、彼女を中心に、肌を肉の奥まで斬り込むような冷気と共に、白い霧がどっと広がった。
視界のほとんどを冷たい霧風が包み、その霧が想像を超えるような妖気を含ませながら、なにかをうねらせる。
「ぎゃあ!」
「ぐあ!」
僧たちが、次々と悲鳴を上げてふっとばされた。
霧の中で、なにかが跳ね、なにかが躍る。
太く長い、ひとの胴よりも太いなにかが、凄まじい速さで動いては、近づく僧を薙ぎ払ったのだ。
手加減していたのであろう。
そうでなければ、彼らの肉体は八つ裂きになっていた。
びゅっ、と、それがまた、唸る。
いつの間に踏み込んでいたのか、さらなる打擲で弟子をひっぱたこうとしたそれに、和尚が手を伸ばした。
掌底であった。
踏み込む足先から、腰、肩、腕先まで、たっぷりと螺旋の力を伝達させた纏絲勁。
丹田より練った気功の勁力も込めた力で、長いものが弾き返される。
それは、長い長い、白い尾であった。
「ああぁ!」
女の、甘やかなほどの悲鳴が出た。
和尚は苦笑する。
「すまんすまん、そっちに殺す気がないのはわかったが。しかし弟子をあんまり虐められてはな。許してくれ」
「いえ、こちらこそ……いきなりのことで」
霧が、微かに晴れた。
赤毛の女がそこにいた。
ミヅチである。
立ち込める霧のため、よく見えない。
足元には、震えるサンガが蹲っていた。
「教えてくれぬかね、事情とやらを」
「はい」
娘は、語った。
口で。
またもうひとつの口で。
「これは、わたくしの父の形見なのでございます」
「ほう。お父上の」
「はい」
「わたくしの父は、昔、それはもう昔、大昔に、さる事情によって退治されたのですが」
「これは、そのときに奪われたのでございます」
白髪の女がいう。
赤毛の女がいう。
栗毛の女がいう。
女たちがいう。
「ひとの手に渡り、幾つもの国と時代に流れ、どこへ行ったか分からず、探しておりました。そしてようやく見つけたのですが」
「それが、貴方方、黄林寺の蔵だったのでございます」
「わたくしでも、あの蔵へ押し入るのは至難」
「悩み、考えあぐね、近くの街で漫然と過ごしていたおり、サンガ様に出会ったのです」
「この方にそれとなくご相談したところ……わたくしへの恋慕のあまり、盗んでくれると」
「そうして、こうやって手に入れたのでございます」
女たちは、わたくしたち、とはいわない。
わたくしと、己を呼称する。
霧の中で、女の首だけが、浮かんでいた。
いくつも、いくつも。
それは八つあった。
周囲で痛みに悶えていた弟子たちは、ぞっと、顔を青くする。
なんとも不気味で、恐ろしく、だが、美しく妖しい。
闇と霧の中、浮かぶ八つの美女の首。
見えるか見えぬかという霧の中には、長い尾がうねくっている。
和尚だけが、いつもと変わらず、飄然と腕を組んで立っていた。
「ひとつ、伺いたい」
「なんでしょう」
「その剣で、なにか悪事をしたり、ひとに災いを成す気はないのかね」
ぎらりと、抜き身の刀剣のように、和尚の目が光った。
その返答如何では、その後の結果も、また違ったものになったろう。
「もちろんでございます」
「わたくしは、父とは違います」
「貴方方、ひとびとへはなにも」
「喰らうことも、徒に殺生することもいたしません」
「我が身の内より、永劫、世には出しませぬ」
首のひとつが、口を開けた。
長い舌が、燃える炎のように伸び、しゅるりと剣を絡め。
飲み込んだ。
ごくりと。
「左様か」
「はい」
「うーむ」
「どういたしますか」
「困ったねえ……うちは、悪鬼調伏と謳っておるんだが、お嬢さんからは、ひとに仇なす邪気というのが感じられん。となると、俺も迂闊に葬るわけにいかん。なにせ、ほれ、基本的に、仏門は殺生禁止なもので」
「ふふ」
「なにかね?」
「和尚様は、どこか面白い方ですね。もっと早くお会いして、お話してみたかったですわ」
「そうかな」
「そうですとも」
いつのまにか、霧が、晴れていく。
女は――ミヅチは、歩んだ。
霧の向こう側へ。
そこは、切り立った崖であった。
だから、そこは捜索の盲点であったのだ。
下を流れる川までは、かなりの高さがある。
とても簡単に降りれる場所ではない。
逃走経路として、まずありえない。
「ま、待ってくれ、ミヅチ……ミヅチ!」
それまで震えて蹲っていたサンガが、立ち上がる。
女へ、追いすがる。
それを、ミヅチは妖艶な微笑で応えた。
「申し訳ありません、サンガ様。わたくしはこれにて、生国へと帰ります。どうか、わたくしとのことは、一時の悪い夢と想い、お忘れくださいませ。では、これにて」
ミヅチは、跳んだ。
崖の向こうへ、暗い、暗い、闇の間へ。
着物の中から、長い胴の、真っ白な肉体が、闇夜を引き裂くようだった。
それは、蛇であった。
恐ろしく長大な肉体を持つ、八つの首を持つ白蛇であった。
和尚も、この幻想的な怪異の光景に、一瞬息を呑んだ。
それゆえに、彼ほどのものも、反応できなかったのだろう。
「ミヅチ! ミヅチー!」
狂乱したサンガが、彼女の後を追って、闇の中へと飛び込んだのだ。
「おい! サンガ!」
慌てて、和尚も軽功で走り、手を伸ばす。
だが、崖の際で留まった和尚の手は、届かなかった。
闇の向こうで、白い蛇の太い胴に、青年がしがみついたように見えた。
程なくして、遥かな下の、川の水面から、水しぶきの立てる音が、虚しく響いた。
それから、僧侶たちも、そして、街の憲兵隊からも、ひとを集めて捜索がされた。
川の下流を中心に、船を何隻も出してだ。
しかし、探せど探せど、結局サンガの屍は見つからなかった。
三日が過ぎ、捜索は打ち切られ、若き僧侶は、死んだ、ということになった。
「へえ、そんなことが」
「うむ」
ぱちり、ぱちりと、駒を動かす。
かわうその妖怪、ロンである。
今日も、和尚は彼とチェスを指していた。
饅頭を食い、お茶を飲みながら。
件の川の新入りの話と、サンガを惑わし、盗みを働かせたものが同一だと知れたことも、話している。
「その蛇の女は、なるほど、異国の妖怪であったと」
「であろうな。妖怪か、神か。そのへんは迷うところだが」
「おかわいそうに、サンガさんとやらも。遺体も見つからねえとは。なんなら、あっしらでも探しましょうか」
「いや、いい。もしかすると、存外助かって、あの蛇のお嬢さんと一緒に、海の向こうへ行ったかもしれん」
あれだけ探して、遺品のひとつも見つからない。
ならば、可能性としては考えられた。
ただの、虚しい願望かもしれないが。
和尚は異国の川を、白い巨大な蛇に跨る、若き僧のことを想う。
ずず、と、器用にお茶を飲みながら、ロンが首を傾げた。
「ところで、なくなったその剣というのは、どういうものだったんですかね」
と。
和尚は顎を指で掻きながら、思い返し、応えた。
「あれの名は、たしか……」
草薙の剣。
天村雲命剣ともいう。
古来神話の時代、出雲国、斐伊川に荒れ狂った、八つの首を持つ八岐大蛇という妖怪、あるいは妖神が、須佐之男なる神に討たれた際、その尾から出現した。
古く皇の武威の化身として、崇拝されたという。
また、八岐大蛇は単なる妖怪でなく、川と水を司る崇高な神としても崇拝されたという。
蛟。
蛇の様相を呈した妖怪。
あるいは水に住み、水を司る神、水の霊である。
古く、その名は大蛇に通ずるという。