一ノ章 魔剣僧拳(後編)
黄林寺 退魔僧伝
一ノ章 魔剣僧拳(後編)
ガンダーラ都市部の外れで、そこは寂れ果て、今にも、崩れ落ちそうな館だった。
過日、優雅であったある貴族が購入した別荘だが、今は誰の手も入らず、朽ちるままになっている。
街道からも離れ、賑わう都の中心からも離れ、来るものなど皆無。
周囲の木々の梢の音色と、月明かりばかりが、満ちている。
腐りかけた戸を、何者かが蹴り開けた。
「どこにいる! 黄林僧、ゴウジン。言われた通り、ひとりで来たぞ!」
凛々しく逞しい声音は、その声通りの、精悍な肉体より放たれる。
ゴウジンは薄暗く、瘴気と埃の舞う邸内へ、進み出る。
館の入り口広間の奥にある、大きな階段に、目的の相手はいた。
外套を纏った男と、その男の傍らにいる、荒縄で縛り上げられた乙女。
凶漢、傭兵のダニエル・ジャストン。
町娘、リンカであった。
「リンカ!」
「ゴウジン様……」
あの夜以来の、再会である。
少女は歓喜に、澄んだ瞳に涙を浮かべた。
もう二度と会わぬはずの男が、自分を救うためだけにやって来たのである。
青年は、総身の血潮を滾らせていた。
上級僧への道も、師への恩義も足蹴にして、それでも救いたい相手であった。
「いいねえ、その顔。潰し甲斐あるぜ」
「貴様ぁっ! リンカに何をした!」
薄笑いを浮かべる凶漢へ、ゴウジンは猛々しく叫ぶ。
だが相手は、変わらぬ様相で、笑う。
「安心しな、まだ、なにもしてねえ」
「まだ、だと?」
「ああ。だってそうだろう。すぐヤッちまうよりもよお。お前の手足をバラしてから、その目の前でしたほうが、面白そうじゃあねえか」
「できるか、お前如きに」
「へへっ」
ダニエルが、纏っていた外套を捨てる。
その下に、軽装備の、あの日と同じ戦姿の五体。
ただ違うのは、腰に帯びた剣だ。
ぞっと、ゴウジンの体に、寒気が走った。
凄まじい、禍々しい魔性の鬼気が、空気中に満ちていく。
「凄えだろう。こいつ。これでひとをヤるとよお、もう、頭がぶっ飛びそうになるぜ。女を抱くよりも、すげえんだ、なにもかもがよお」
まるで強度の麻薬に酔うように、酩酊した風に、呟く。
手が伸び、柄を握り、抜く。
ズラァ、と。
鈍く高く、刃金の音を鳴らし。
崩れた窓の合間から注ぐ月光に、刃面は銀に輝いた。
諸刃の、細緻な意匠を施された、古い剣。
刃先を向けられた瞬間、ゴウジンは全身が震えた。
これほどの本能的恐怖は、いまだかつて、どんな妖魔を相手にも、味わったことがない。
しかし、その恐怖に足を竦ませる退魔僧ではない。
瞬間、彼は一切の恐怖を愛と戦いの闘気にてねじ伏せ、背負っていた得物、先の上級試験のために選んだそれを、抜いた。
「いいねえ。お前も剣使いか」
「音にも聞こえた黄林武芸、今度こそ味わわせてくれよう。全力でな!」
ヒュ、ヒュン、と。
二振りの刃が宙を奔り、薄闇の中で弧を描く。
双刃剣であった。
一本の鞘の中に、鏡合わせのように形を同じくした、諸刃の剣が二本入っている。
諸刃剣は、東洋武術の中でも扱いが難しい。
振り回し、斬撃を主にぶつける刀と違い、より精密な突きの動作を多く取り入れているためだ。
それを、左右二本同時に使うとなれば、なおのこと難易度は高まる。
ましてや、演舞や稽古だけでなく、実戦の場で扱うのだ。
つぅ、と、ゴウジンの向けるふたつの切っ先は、緩やかに上下する。
今にもしなやかな足捌きから、襲いかかりそうな気配が立ち上る。
「死ねぇ!」
先に仕掛けたのは、ダニエルだった。
流石は実戦で鍛え抜いた戦士である、荒々しくも、素早く鋭い斬撃。
袈裟懸けに一閃。
それは、待ちかねた一撃であった。
「破っ!」
刺突に構えていた二本の剣尖はしかし、敢えてそう構えることで、相手の攻撃を誘うものだった。
既に踏み込みの段階で斬撃を読んでいたゴウジンは、一瞬速く、左足を引き、左の剣で、上から滾り落ちる刃を受ける。
これを受け流しつつ、右手の剣は瞬時に逆手持ちへ切り替え、敵手の胴を深々と薙ぎ斬るのだ。
攻防一体、柔軟自在、まさしく黄林武芸の鍛え抜いた功夫よ。
当然の如く、どちらの刃にも、丹田で練り上げた気功が満たされ、しなやかな細身の剣を強化してあった。
「むうっ!」
だが、カウンターに斬り込もうとしたとき、触れ合った防御の剣に、想像を超えた力で押し込まれた。
内勁の力で強化していたゴウジンが、受け流しきれず、体勢を崩してしまうほどである。
あわや、ゴウジンはダニエルの胴を斬るより前に、防御に構えた左剣ごと、断ち斬られそうになる。
その寸前に、右手を跳ね上げた。
両手で揃えて構えた二本の剣身が、全勁力で防御を行う。
「く! ぬう……だぁ!」
苦悶の呻きを上げ、ゴウジンは足捌きと腰の捻りを用い、上から斬りかかる相手の剣を斜め下へと流す。
刃金と刃金の摩擦に、夜闇に火花と刃光が煌めいた。
ともかく、もう少し距離を取り、再度構え直すべし。
軽功にて、文字通り軽々と、ゴウジンの長身、鍛え抜いた五体は羽衣の如く舞う。
新たな衝撃と驚きが、彼を襲った。
「逃さねえ!」
雄叫びを上げ、ダニエルが振り返り、踏み込む。
それは、かつて見たときの、和尚の不意打ちを躱すこともできなかった男の動きでない。
大気を焦がすかと思うほどの、凄絶極むる死の一閃。
さらに速く、鋭く、魔剣は躍る。
完全に回避するはずの身のこなしで、ゴウジンは肌に冷たい刃の感触を覚えた。
ぱっと、血煙が散る。
軽功の踏み込みでさえ足りず、厚い筋肉の胸板に、横一文字の傷が刻み込まれた。
凍てついたような刃の通過した後に、じくじくと熱を帯びた痛みが起こり、血がじっとりと流れていく。
幸運にも、死に至るほどの手傷ではないが。
それより、上級僧にさえ選出された自分が、回避できぬ相手の剣戟に、ゴウジンはじわじわと、驚きと恐怖を噛みしめる。
「貴様……その剣は、一体……」
「だから、凄えって言ったろう。どうだい、こいつの切れ味は。フヒッ、クへへ、ギヒッ、ヒッ! 鎧も、剣もよお、なんでもぶった斬っちまうんだ。こいつで斬るの、気持ちよくってえよお、もう、何人狩ったか分からねえや」
血走った目が、赤く、爛々と輝く。
大気を満たす魔力の禍々しさよ。
内臓の腐るような汚臭を漂わせる、血に飢え、肉を斬り、魂を喰らう魔剣――カラド・ボルグ。
その呪われし力は、生来邪悪凶暴の凶漢の肉体と精神を、確実に人外のものに変えつつあった。
見よ、ダニエル・ジャストンの目は、瞳孔を縦に割り、血色に染まる。
「市内で噂の斬殺魔とは、お前のことか」
「ああ、そうだ。だったらなんだ? ヒヒッ!」
「ならば、全力で斃すのみ! 黄林武術の真髄、気功の極意、受けてみよ!」
叫び、ゴウジンは双刃剣を、振り下ろす。
大地へと、だ。
剣先を床へと打ち込み、立てて、彼は両手を離す。
なにをするか。
左右それぞれ、人差し指と中指だけを立て、他の指は閉じる。
剣印を結んだのである。
そして唱えるは、破邪の聖句。
「オン・バザラ・ソワカ・ナウマク・オン・ソワカ!」
古来より僧たちが唱える、梵語の真言だ。
体内で練りに練った氣の力が、言霊により強化され、手の印に紡がれ――地面に突き立てた剣へと流れる。
青白く、鍛え上げられたふたつの剣が、法力に輝いた。
法力とは、丹田で巡らせた氣を、さらに清澄なる、邪悪魔性を討ち倒す力と転じる神秘の法術。
重ね合わせていた手の印を、ぐるりと捻る。
銀光が大気を引き裂き、矢よりも速く奔った。
「ぬお!」
魔剣による圧倒的な力を得たダニエルが、驚きに声を上げた。
大地に突き立てた剣が、突如として彼に飛びかかってきたのだ。
回避しても、それはなお襲い来る。
風車の如く回転し、恐るべき斬撃刃となったふたつの剣は、それぞれに宙を飛んで、意思を持つように追ってきた。
魔剣を振り、一本を弾く。
そうした刹那、またもう一本が死角から迫り、受ける。
またもう一本が来る。
当たれば人間の体など、容易く両断せしめる、死の投擲回転刃。
「これぞ黄林寺、気功法術秘伝。飛刀術! さあ、いつまで受けきれる!」
このゴウジン、その気になれば、一〇本以上の剣も同時に飛ばせる。
二本であっても、威力と脅威は減じない。
それだけ強い氣を、剣に込められるからだ。
より高密度の氣を込めた剣は、今、城塞砲にも匹敵する絶大な威力を持っている。
速度も凄まじい。
憲兵の番兵を、軽々と造作もなく両断した魔剣が、じわじわと押される。
ダニエルの顔に、さらなる凶相が浮かんだ。
「この……くそったれ……くそったれが! もっと……力を寄越せ! 寄越せぇえええ!」
頬を掠め、血の筋を顔に浮かべ、野獣の形相と声を上げる。
魔剣が、狂える血色の赤光を放つ。
刃面にうっすらと輝く、古代ケルトの神々の語、古ルーンの呪句。
魔剣は持ち主に、肉体と人間性というさらなる贄を求め、対価に絶大な力を授けた。
白銀の斬光、三筋、甲高い金属の絶叫を上げて、吠え、猛った。
左右同時に迫る、必殺の飛刀が、断ち斬るべき獲物を逃していた。
「な……」
ゴウジンが、驚嘆に顔面蒼白となった。
必殺を期した最大氣力を込めた絶技が、破られていた。
魔剣は飛来した剣の、片方を、切断していた。
折ったのではない、斬ったのだ。
氣で硬質化し、強化した剣を。
もう片方は、どうなったか。
「いいねえ。本当に、いい剣だ。俺を、もっと強くしてくれた」
白く煙るほど熱を帯びた息を零し、ダニエルは深く笑う。
その形相のおぞましさよ。
口の中で、歯は、しゃべりずらそうなほど、長く伸び、尖る。
右手が、赤黒く変色し、血管を浮かべ、爪も、長く伸びていた。
その手が、剣を握っている。
掴んで止めたのだ、鉄をも断つ剣を。
それも、刃面を掴み。
もはやダニエル・ジャストンという人間は、人間でなくなっていた。
異形の手が開き、剣を落とす、乾いた音色が、絶望と響く。
魔性の力に握られたことで、清澄なる法力を殺されたのか、剣はもう気功術による操作の外であった。
されど恐怖に固まる暇など、ゴウジンにはない。
この身には、自分の命だけでなく、愛する娘のそれも、背負われている。
彼は乾坤一擲、袖の内に仕込んだ暗器を、最後の勁力と共に、振るい、放つ。
「破ぁ!」
両手より飛び出す、袖に仕込んだ峨嵋刺の二振り。
両端を尖らせた、鉄杭の武器である。
しかし今のダニエルからすれば、あまりに遅く、他愛もない攻撃であった。
「へっ。くだらねえ。ほら、よ!」
「~っ!」
さも軽々と、眉間に向かってきた一本を躱し、もう一本を、右手で掴んで投げ返す。
その動作があまりに素早く、ゴウジンをして、反応できぬものだった。
どう、と、鈍い音がした時には、ゴウジンの膝に、自分の投げた峨嵋刺が突き刺さっている。
「がっ……ぐ、はっ」
崩折れて、痛みと失血に、呻くゴウジン。
愛する男の死地に、乙女は涙を流し、悲痛に泣いた。
「ゴウジン様! 逃げて! お願いです……私のことはいいから!」
「黙れ……お前を置いて逃げるなど」
「ハハっ、いいねえ、そういうの。踏み躙り甲斐があってよお。さて、さっき言った通り、手足落として達磨にしてから、あっちの女で遊ぶとしようか」
「貴様……ぐうっ」
傷を押さえ、震える足腰にふんばりを入れようとするゴウジン。
だが、失血だけでなく、勁力の消耗も激しく、もはや微塵の氣も練れない。
積みであった、もう逆転の好機はない。
彼ひとりだけならば、だ。
蹴り開けた戸をくぐり、一個の人影が、ゆるりと、館の中に踏み込んだ。
「おう、間に合ったか」
まるで、危機も、疲れも感じさせぬ声であった。
いつもと、まるで変わらない。
ここまで、少年僧ふたりを小脇に抱え、軽功の歩法で駆けてきたばかりとは、とても思えなかった。
男は、剃り上げた剃髪であった。
袈裟姿であった。
ゴウジンは振り返る。
見慣れた男の、頼もしく、明るく、優しい笑顔が、にやりと、自分を見下ろしていた。
「和尚様……」
「よおっ。無事だったかい、ゴウジン」
黄林寺大僧正、リュウガイ和尚であった。
和尚は、小脇に抱えていたふたり、サンケンとコウゼンを下ろす。
「兄ぃ!」
「血出てる、大丈夫かよ!」
ふたりは、膝を貫かれ、横たわったゴウジンに駆け寄る。
そのふたりに、懐から出したものを、和尚は渡した。
いつも持ち歩いている傷薬の膏薬である。
「帯とさらしで止血してやんな。なに、調息と練氣を使えば、死ぬほどの傷じゃねえ。すぐ医者の元へ連れてってやる」
「和尚様、お待ち下さい、なにを……」
「選手交代だ」
ぽんと、ゴウジンの肩を叩き、太い笑みを浮かべた和尚が、前に出た。
肉体を異形化させ、全身から禍々しい魔力を滲ませる、魔剣を持った凶漢の前に。
和尚はまるで、我が家の戸を潜るほどの気安さで、歩み出る。
「よう、また会ったねえ。傭兵の兄さん」
「あんたか。嬉しいぜ、そこのやつを殺す前に、この間の借りも返せる」
「お前さん、あれだろう。最近あちこちで、ひと斬って回ってるだろう? その剣の邪気、事件の現場で感じたのと、同じだぜ」
和尚は、魔剣を指さして言う。
説明されずとも、肌で感じる魔力の波動、その邪悪さが、現場で覚えたものと一致すると、理解した。
異形化しているダニエルの肉体には、驚いた風もない。
「ああ、そうさ。いいだろう、この剣。前に見せた小技、もう通じないぜ」
「ふむ、まあたしかにな」
顎をぼりぼりと掻きつつ、和尚は呑気に言いながら、ひょいと足を動かした。
そこには、床に落ち、転がっていた、短い剣があった。
和尚の手が、宙に浮いた剣を握る。
ダニエルの振るう魔剣が、刃を断ち斬ったものだ。
それを逆手に握り、左足を前に軽く踏み込み、左手はゆるりと掌を向け、構える。
しなやかな柳の如き構えであった。
「ではこちらも、少し気張って応じよう」
老いたる僧の見せる、泰然なる構え。
魔剣の凶漢は、血色の瞳に殺意を滾らせ、踏み込む。
「死ね」
無造作の一閃。
飛来する矢を宙空にて斬り、また、勁力を込めたゴウジンの剣を斬った、魔剣の刃。
轟っ――と。
和尚の手が、剣を振るいて、嵐と唸る。
大気、爆ぜるが如き、爆裂の音色が続いた。
衝撃により舞い上がる土煙が濛々と舞って、一瞬、両者の上半身を隠す。
煙の向こうから、太い声が、響いた。
「ゴウジン、手数を増やすのもいいが、その分一点に込める勁力が散る。こういう時ぁな、相手と交えた部分にだけ、よく氣を集中するんだ。おう、サンケンとコウゼンも、聞いとけよ」
まるで、教え子に穏やかに教える師のそれだ。
いや、まるでもなにも、彼は師である。
が、今はそのような状況でもなく、そのようなときでもない。
だがそれを言う。
晴れた煙の向こうが現れた。
万古の昔、鍛え上げられた魔力の剣を、折れた鉄剣が受け止めている。
ギリ、ギリリと、硬く刃金を軋ませながら、法力が剣身を青白く燐光で輝かせている。
矢も鎧も切断せしめるカラド・ボルグの斬れ味と、それを成し得る、魔力強化されたダニエルの肉体が放つ斬撃を、和尚は、正面から防いでいた。
「この! てめえ……爺っ! ふざけるんじゃねえぞ!」
「おっと」
血走った目に、悔しさ、怒り、憎しみ、あらゆる負の感情を煮え滾らせて、凶漢ダニエルがさらなる力を欲し、魔力の剣は応え、主の肉体をより強靭とする。
血管を浮かべた太い腕が、常軌を逸した膂力で押し込むと、さしもの和尚も、足元が床にめりこみかけた。
しかし、勁力のみに頼り、力を増すばかりが、黄林武芸ではない。
「あぶねえ、ならこうだ。ほうれ」
「っ!」
瞬間、凄まじい力で魔剣に対抗していた、巌の如き和尚の腕が、今度は微風にも靡く、柳枝の如き手応えとなったのだ。
柔軟自在。
受けた力をそのまま逆らわず、自分のほうへと誘い、流し、両足を踊るように踏み込んで、対手の体勢を崩す。
蟷螂拳のそれにも似た足捌きが、見事にダニエルの足を掬い、倒す。
自分が押し込んだ力のまま、魔剣使いの凶漢は突っ伏して転んだ。
背後を取る和尚が、折れた剣を再度構え、ごく短い無駄のない流れで攻める。
斬撃が、ダニエルの首を刎ねんと迫る。
それを、魔剣と使い手は、純粋な反射速度だけで振り返り、応じた。
「オラぁ!」
野獣の雄叫び。
大ぶりな白刃の軌跡が、跳ね上がり、和尚の剣と打ち合う。
甲高い、刃の上げる悲鳴が響いた。
「あちゃー。剣のほうがお陀仏になっちまったわ。本当にすげえ得物だな、お前さんの剣」
この期に及んで、和尚はまだそんな口調でいう。
冗談ではない。
自身が氣を込めて繰り出した内勁剣がさらに斬り折られ、完全に剣身が失せたことを、きちんと理解しているのか。
もはや武器と呼べるものを持たぬ相手に、勝利を確信したか、ダニエルは血に餓えた血色の目に、狂喜を浮かべる。
「自分の念仏は、自分で唱えな爺さん。今、その首落としてやるぜ」
「ふむ」
今度こそ逃さぬと、最大最速の剣戟を放つため、獲物に襲いかかる獣のように、腰を落とし、剣を担ぎ、上段からの斬撃へ構えるダニエル。
和尚は、ぽいと剣の柄を捨て去り、だらりと、手を下げた。
「じゃあ『俺』も完全に本気でやらくちゃあいけねえな。お前よお。まあ、そうなっちゃあ人間とは呼べねえ。魔性、鬼、悪鬼だからな。調伏するのは。俺ら黄林僧の、仕事だわな」
俺、そう、自身を呼ぶ。
和尚の口調が、変わった。
それは彼が自分を大僧正として、和尚として成り立たせていることを、放棄するとき。
ただの一介の拳士、一介の退魔僧と、なるとき。
和尚は、構えた。
足を左右にやや開き、腰を落とし、掌を相手に向けた左手を前に、そして――脇を締めつつ、右手を拳と握り、胸元に。
拳の構えである。
ただの一撃、右正拳を繰り出すだけの、構え。
一瞬、時間が止まったように、場に静寂のときが来た。
和尚が、背後の弟子へと、呟いた。
「ゴウジン。見てな。これが、お前が目指した、黄林拳の究極、その頂点に立つ男の功夫だ。これが最後だ、目に焼き付けておけ」
次なる刹那、両者が踏み込む。
まったく同時だったのは、ダニエルが攻めかかるその瞬間を、和尚が極微細な視線の流れと呼吸から察したのであると、誰が知ろう。
空気中の分子を焼け焦がすような、超速の一閃が、魔剣の斬撃として、鮮やかな銀光を流す。
そこへ、青白く法力に満ちた拳が、跳ね上がって、ぶちこまれた。
通過した後、あまりの速度に弾けるような衝撃を発する。
鈍く、太く、激しい音が鳴り、踏み込んだ床が粉砕され、天井から埃が落ちた。
「な……なん……こんな……嘘だっ」
あまりのことに、凶漢ダニエル・ジャストン、魔性の魔剣に魅入られた殺戮魔が、呆然として震え上がる。
鉄をも豆腐のように斬り裂く魔剣は、その肉も骨も断つこと叶わなかった。
拳。
握りしめた僧の一拳が、正面から、魔剣の斬撃を止めていた。
首を刎ねるため、袈裟懸けに斜め上から振り下ろされた刃を、上に向けて放った正拳が、捉えたのだ。
五指を握り締めた拳面は、表皮をへこませてさえいない。
ぼぅ、と、薄闇の中、拳が込められた氣により、青白く仄光る。
拳の前面のみに、氣の力、清澄し凝集された破邪の法力が、集中していた。
それは凄絶を極める拳打法であった。
踏み込み、加速、足腰から手の先まで捻りを加えた勁力と、内功に用いる氣を、打撃の瞬間、その限りなく薄い一刹那のときに、全身の経絡より、魔剣と撃ち合う拳の前面へと流したのである。
ただ氣の練り、内功、勁力の扱いが巧みであればいいわけではない。
相手の攻撃の動きを把握し尽くした刹那の見切りと、超速の拳撃を超速の剣戟へぶちこめる外功をも、極限の果てにまで磨き上げたがゆえに辿り着いた、拳の境地であった。
「この! 糞がぁ!」
まだ、まだ終わらぬと、魔剣の凶漢、ダニエルは叫び、剣の魔力を高め、異形化した筋肉が悲鳴を上げるほど収縮させ、刃を押し込む。
それがどれだけ愚かなことか、理解もできまい。
怒りと恐怖に我を忘れ、対手に力みが生じるのを、和尚は待っていた。
「憤っ!」
接触した拳と剣は微動だにせず、しかし、それを支える、和尚の肉体、鍛錬に鍛錬を重ね、さらにそこへ技巧と精神を濃く鋭く磨き抜いた絶技が、炸裂する。
そう、それは、炸裂であった。
弾けるほどの力の爆裂であった。
和尚が行ったのは、なにも難しいことではない。
相手が押し込むのに合わせ、丹田から体内経絡を通し、拳を硬める氣とは別に、ほんの僅かな氣を巡らせ、そして――腰を/肩を捻る。
踏ん張る足元から打ち込む手元まで、螺旋の力を通す、これを世に、纏絲勁という。
それが、武の蘊奥まで至りし、リュウガイ和尚の放つものなれば、如何に。
「ぎゃあああっ!」
絶叫が迸った。
ダニエル・ジャストンは、手首から、肘から、肩から、血飛沫をあげ、魔剣を持ち、振るっていた関節という関節を破壊される。
数多のひとの命を奪い、血を啜った狂える魔剣は、虚しく落ちて、床に剣先を食い込ませる。
魔剣は和尚の勁力に耐えたが、それを扱うダニエルの肉体は耐えきれなかった。
「が……あ、ああ」
破壊された右腕を押さえ、震え、恐怖し、膝を突くダニエル。
その目は、見上げた。
絶対無敵と信じた魔剣と自分を凌駕する、ただの人間の、ただの五体を。
身長六尺九寸の和尚の体は、まるで、大山の如く巨大に見え。
老僧の、普段は茶目っ気があり、優しく朗らかな顔は、悪鬼さえ喰らう、仁王のそれであった。
「や、やめ……助けっ」
「お前はひとを殺しすぎた。その罪を償え。往生しろ」
轟っ――
慈悲なき断罪の鉄槌は、一片の迷いとてなく振り下ろされ、凶漢の胸板を貫いた。
和尚の太く大きな拳が、筋肉も骨格も豆腐のように抉り、心臓諸共、背中まで突き抜ける。
ぐぼっ、と抜いた時、肉体組織の潰れたダニエルの胸には、大穴が空きながら、血の一滴さえ出なかったのは、高出力に過ぎる法力に、魔性と化した体組織が焦げ、収縮したためであろう。
心臓停止からすぐさま訪れた死は、されど、殺戮魔の最期にしては、まだ情けを持ったものであったかもしれない。
「せめて、来世では善人に産まれな」
両手を合わせ、合掌とし、これほどの罪人であっても、己の屠った相手に、リュウガイ和尚は弔いの意を、最後に手向ける。
強く、恐ろしく、だが、優しい男だった。
それが彼の、生き方なのだろう。
「ゴウジン様! 大丈夫ですか!」
「ああ……大した傷ではない」
縄を解かれたリンカは、すぐさま愛する男に駆け寄り、深々と峨嵋刺の突き刺さった膝を、痛ましく見つめる。
和尚の血止め薬が効いたのか、帯紐で上から縛り、塞いだ傷からは、もう新しい血は流れていない。
氣力も回復したのか、顔の血色も幾らか戻り、今は、横たえていた上半身を起こし、床の上に座るようにしていた。
若き男女の傍らに、今しがた、想像を絶する功夫の絶技を見せた、老僧が、どっこいしょと、まるで死闘の名残も感じさせず、腰をおろし、胡座をかく。
「いやあ、疲れた疲れた。やっぱ久しぶりに本気で気功使うと骨が折れるぜぇ。俺も年だねえ」
いつにも増して伝法な口調、己のことも、俺という。
あの戦いといい、普段の様相との違いといい、驚きを通り越し、見守っていた少年僧、サンケンとコウゼンなど、もはや放心状態で、ぽかんと口を開けていた。
ふたりの子らに、ふいと和尚は視線を向けた。
「おう。サンケン、コウゼン。いいかい」
「は、はい」
「なんでしょう」
「とりあえず、医者だ。サンケン、この近くの外科医を呼んでくれ、こんな時間で悪いがよ。この和尚の名前を出せば、まあ来てくれるだろう。ゲンナイ先生ってえのが、近くにいる」
「わ、わかりました!」
「コウゼン、お前は憲兵隊の方々を連れてこい。本部には、まだブラスシルト隊長がおられるかもしれん、いなきゃ誰でもいい。件の辻斬りを、斃したってえよ」
「はい!」
ふたりの少年僧は、肯き、駆け出した。
和尚に言われた通りに、目的の場所へ、目的の人物へと。
夜の街を走りながら、彼らは、さっき見た、自分たちが目指すべき最強の男の技を、幾度も思い返し、その身のうちに、言葉にできぬ熱い滾りを反芻したろう。
そして、朽ち果てた洋館の広間には、三つの人影が、残された。
絶命したダニエルを除いた、ゴウジンと、リンカと、リュウガイ和尚である。
「さて、ふうむ」
和尚は、またいつものように、どこかのんびりと、ボリボリと、顎を指で掻く。
なにごとを考えていたか。
彼は、おもむろに切り出した。
「ゴウジンよお。お前、いろいろアレだな。おい、今回は一件は、拙かったなあ」
「あ、えと……はい」
たしかにそうだ。
ゴウジンは、結局誰にもはっきりと、リンカとの恋仲の一件を打ち明けず、昇級の試験も足蹴にしてしまった。
「そのお嬢さんとの仲、俺が知らねえと思っていたかい」
「知っていたのですか!」
「おう。実はな、サンケンとコウゼンもだ、一緒にお前さんらがイチャついてるの見ちまってよ」
「な!」
「っ……」
ゴウジンも、美しく可憐なリンカも、頬を赤く染めた。
ここが和尚の憎たらしいところだ。
敢えて、いつどういう風に覗き見たのかいわないので、ゴウジンは自分たちの、どんな姿を見られたか、想像するよりない。
そんな弟子を見ながら、和尚は、にやりと笑った。
悪鬼を滅する仁王の顔ではない、悪ガキがそのまま爺さんになってしまった、茶目っ気のある顔であった。
「ゴウジン。僧でありながら女色に溺れ、あまつさえ寺の大事を蔑ろにした罪。いやぁ、重い! 実に重いなあ! ええ? こいつぁ歴史ある黄林寺大僧正として、見過ごせん。本日この場、このときより、その身は破門とする!」
腕を組み、胡座をかいた和尚は、天地に響くが如き大音声で、我が弟子へと叩きつけた。
数瞬、ゴウジンは、その意図を汲めなかった。
理解、できなかった。
だが、すぐにできた。
師が自分になにを想い、なにを考えたかを。
「和尚様……俺は……まだ、なにも……なにも和尚様にお返しできていません!」
泣いた、泣いていた。
齢二〇も過ぎ、鍛えに鍛え抜いた肉体と技を持つ退魔僧が。
その心の奥には、まだ、一四年前にこの老僧に救われた童心があった。
「ゴウジンよ。お前、気にしすぎなんだよ。馬鹿ろうが。お前、俺より寺より、大事なもん見つけちまったんだろうが。なら、迷うんじゃねえ、俗世に戻るのを恥じるな。その娘さん、いい子じゃあねえか。幸せにしてやんな」
伝法であった、太く逞しく、強い、男の言葉と笑顔であった。
師とは、厳しく優しい、もうひとりの父であった。
ならば彼は、掟より戒律より、子の幸福をこそ想う。
ゴウジンは泣いた。
恥も外聞もなく泣いた。
その肩を、背を、そっと、白く柔らかい、細い手が支えた。
青年の一生涯を寄り添うことを誓った、乙女である。
「和尚様……」
「ああ。リンカさんよ。頼むぜ、この通り、まだ洟垂れの若造だ。どうか、面倒見てやってくれ」
「はいっ」
嗚咽を漏らす青年、彼を支える乙女。
傍らに座る老僧は、嬉しいのか、寂しいのか、どちらともつかぬ、笑顔であった。
涙に霞む目で見上げたゴウジンは、遂に追いつくことのできなかった師へ、弟子として最後の言葉を、投げかけた。
「今まで、お世話になりました……師父様」
と。
師にして父は、肯き、応えた。
「おう。達者でな」
ひとりの僧が、退魔の聖殿、黄林寺を去った。
それからしばらくして、ガンダーラの繁華街の料理屋の娘が、ひとりの青年と祝言をあげた。
周囲の皆も、口を揃えて、お似合いのふたりと羨む夫婦であった。
多くのひとで賑わう街を練り歩く、黄林寺の托鉢の僧が、店の近くを通ると、決まって夫婦が出てきて、僧に食物を提供する。
寺に持ち帰り、その日の夕餉には、当然その店からもらった料理も並ぶ。
以前、僧たちが、美味いと喜んでいた、ちまきだった。
それをひょいと口に運んだ、黄林寺大僧正、リュウガイ和尚は、ぽつりと呟く。
「料理の腕は、まだまだだなあ」
と。
だがいずれ、それも卓越するだろうという親心が、彼の胸の内にはあった。