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五ノ章 笑顔(後編)

黄林寺 退魔僧伝 五ノ章 笑顔(後編)


「ねえ、母上、父上は……どうしたの? ねえ……母上」

 聡明な王子は分かっていた。

 若くして、父や教師の教えのもと、様々な学問をおさめていた身である。

 だが、どれだけさとくとも、まだ一〇になるかならぬかという少年である。

 ある日突然に訪れた父の死が、受け入れられない。

 死化粧をしても毒気を帯びているのか、黒くなった父の死相に、事実を受け入れられない。

 縋り付く子を抱きしめながら、母に返す言葉はなにもなかった。

 ただただ悲嘆の涙に暮れるよりない。

 偉大なる王の葬列を率いるのは、弟である猛将、霜江そうこうの他にいない。

 霜江はまず何よりも先に、兄の葬儀の準備を整え、取り仕切り、己を先代の代わりの王、代王だいおうと名乗って国の秩序を保った。

 当然ながら、先代の王の血筋たる実弟じっていであり、民草も臣下も尊敬する将である、霜江が王を名乗ったところで、異を唱えるものなど誰もいなかった。

 葬儀の中、しかし、配下の多くは思ったろう「果たして、次なる王位を継ぐのは、将軍なのか王子なのか」と。


 王の死因は不明。

 体を毒気が侵していることから、何かしらの病と思われたが、検死に当たった医師も原因不明の失踪や錯乱に見舞われた。

 とりあえず、霜江の配下の軍医が、さしあたって腎の病であるとの発表をして、解決とされたばかりである。

 多少不可解であろうと、何年にも渡り国防の務めを果たしてきた将軍の威光に背くものなどいるはずもない。

 最初は突然の代替わりにごたついた王家だが、半年と経たぬうちに、霜江は王としての威厳を盤石のものとした。

 次の問題は、たった一つ残った『障害』である、世継ぎの存在だけであった。


 王の崩御から一年経った頃である。

 それは突然に現れた。

 王子と女王の寝所に、おぞましい鬼気を伴って押し入ったのは、殺意と怨念を凝集ぎょうしゅうしたかのような、異形にして異類の怪物。

 一見して人間のような二足歩行だが、全身はこれ鋼の如き甲殻に覆われ、上半身には十本の鋭い節足の上脚が、先端の鉤爪を翻して、圏内に踏み入った人間をことごとく引き裂く。

 さらには毒液まみれの針まで飛ばすとあっては、たまったものではない。

 王宮に詰めていた精鋭の衛士数十人が死傷し、命と引き換えに、ようやく息の根を止めることができた。

 彼らの犠牲も無駄ではなく、なんとか母子には傷一つなくことは済んだ。

 死骸の検分から、この怪物は妖怪変化の類とされ、事件は『偶然』にも王宮の妖怪が紛れ込んだということで決着を見た。

 その一ヶ月後、再びまったく同じ、蜘蛛の異形異類の襲撃を受けるまでは。

  

 先代国王の代から王宮の警護に当たっていた精鋭が、二度目の異形との戦いで散る。

 今回も、彼らの命を引き換えに、女王と王子、母子には被害はない。

 だが、二度に渡る異形の襲撃、もはやこれが偶然などと思えるはずもない。

 必ずや来る、三度目が。

 そのことを、女王、霜楊紗そうようしゃは、義弟たる代王、霜江そうこうに訴えたが、彼の返事はにべもなく「義姉上よ、あやかしの退治は専門家に任されよ」と、王宮付きの魔術師、退魔師へ一任するようにと言うばかり。

 それら一流の使い手を目されるもののほとんどが、二度に渡る異形の襲撃で命絶えたと知ってか知らずか。

 もはや女王の絶望は極まった、すでに彼女の中で、義弟への疑念は……ほとんど疑いないものへと変わっていた。

 彼が自分と息子へ向ける、眼差しと感情、そしてこの状況に対して、偶然では説明しきれぬ有様である。

 悲嘆の女王は諸方へ密使を遣わした、これには義弟の息のかかっていない、宮中の女官だけを選んだのは言うまでもない。

 そして運良く、交易のある隣国に訪れていた、さる僧侶たちを呼ぶことに成功した。

 彼らのおさの二つ名は、天下に広く轟いている。


 曰く『聖拳無敗』。

 曰く『神僧無敵』。


 退魔の聖殿、黄林寺の現大僧正――


「どうも、お初にお目にかかりまする。拙僧はリュウガイ。黄林寺の和尚おしょうでございます女王陛下」

「よくぞ、よくぞお越しくださいました和尚様……どうか、わたくしどもをお救いください! どうか……」

 初めて出会ったとき、女王は、王族という身分を忘れ、膝を突いてリュウガイ和尚へ縋り付いた。

 精鋭の護衛たちを幾人と失い、もし次にあの異形の襲撃を受ければ、自分も息子も命があるとは思えない。

 まさに藁にもすがる思いである。

 己はともかくとして、せめて亡き夫の忘れ形見である、息子だけでも……

 母の一念は、もはや必死であった。

「すでに道中にて使者の方よりお話は伺っております。まずは、場を移しましょう」

「城を出るのですか?」

 不安が掠める。

 城を出るとなると、護衛の近習きんじゅうも全員連れていくことは叶わない。

 リュウガイはまったく表情を変えず、言った。

「間者に聞かれます」

「ッ!」

 広間に通された瞬間より、リュウガイの慧眼は女王や側近がまったく気づくことのできなかった間者の存在を見抜いていた。

 老僧は女王にそっと耳打ちし、極限られた側近や女官だけを伴い、城を出た。

 後日、女王と王子が生活していた王宮内の天井などから、二人を日常的に監視していた間者の痕跡が発見されたことは、リュウガイの二つ名、神僧が伊達でないと知らしめた。

 

 女王、霜楊紗そうようしゃ、その子、王子霜雷は、リュウガイの勧めるままに、楊紗ようしゃの持つ館へ居を移した。

 彼女は外国の貴族から嫁いできた身だが、先々代の王、つまり義父より、このそうの国内に彼女個人の所有権を認められた土地や城が幾つもある。

 最低限の手入れしかされておらず、住心地がいいとは言えないが、そこには彼女らを監視するような間者もいない。

 リュウガイ和尚は入るなり、自分の指示する通りにするようにと言い、そそくさと準備を始めた。

 まず取り出したのは、絶えず懐に忍ばせていた梵語サンスクリット真言マントラを刻んだ巻物であった。

 和尚自ら書いたもので、込められている真言マントラの持つ霊妙力れいみょうりょくは凄まじく、低級な霊など触れただけで滅する。

 和尚はこれを館の中央の、最も広い間で円形に広げ、その中央に親子に座すよう指示。

 さらに魔除けの香をかせながら、ぶつぶつと何かを呟く。

 それもまた梵語サンスクリット真言マントラであった。

 どれほどの時間が経ったか。

 短くも長くも感じる。

「?」

 まず気づいたのは、幼いながらも聡明で万事に敏感な王子だ。

 次いで女王も気づく。

 ふたりの周囲に、半透明で青みがかった、煙の如きものが近づく。

 それは巻物の作る圏内に入ると、ふわりと散じた。

「やはりか」

 和尚は、独り言を呟く。

 神僧と称される退魔の徒は、どうやら事態を理解しつつあると見える。

 はやる気持ちを抑えきれず、女王は口走った。

「おわかりになったのですか!? お教えください、わたくしたちは、如何なるものに祟られているのです!?」

「……」

 和尚は押し黙ったまま、右手を掲げ上げる。

 数珠を持った手に、何かが舞い降りる。

 天井から伝い落ちた、蜥蜴とかげいや……壁に張り付く足を持つ、家守やもりである。

 皮膚に豆粒ほどの経文が書いてある。

 和尚はそれをそっと女王の前に、見せるように差し出す。

「これは拙僧が使役しております、霊獣のひとつ。西洋魔術では使い魔とも称するものです。もともとは低級な妖怪だったものを、真言マントラと術で変形へんぎょうさせ申した。気配もほとんどなく、霊力も然り。これを用いて、呪いが何処いずこから産まれているか探るには好都合。まず『相手』には気づかれますまい」

 相手、和尚はそう言った。

 女王は美しい顔に、苦渋とやりきれない感情を見せる。

 傍らに座る愛しい我が子を見た。

 この世の邪悪をなにも知らぬ無垢な子だ。

 和尚も察しており、その先を言うか迷う。

 だが、その真実を避けて生きる術などありはしなかった。

「お教えください、和尚様」

「……はっ」

 普段は快活で気さくなこの老僧も、この事態には流石に心を痛めたのか、口調が重い。

 しかして女王の促しに、口を開く。

「先程お二人の周囲に散じたきりの如きもの、あれはくだんの怪物を構成する呪力です。巻物の結界のために阻まれ、可視化しました」

「呪力、では……あの怪物は」

「自然に産まれた妖怪変化ようかいへんげあらず。殺意あるもののこしらえた呪術の結晶。斃されてもまた出現するのは当たり前でしょう、実体よりもその本質は術者と別の媒体にあるもの。そして……」

「なんです?」

「この呪いは、女王陛下ではなく、王子お一人にかけられており申す」

「……ッ」

 絶句した。

 やはり、という想いもあった。

 そうだろうとも、王位継承権を持つのは、この子だけである。

 他家より嫁いできた彼女には、王位を継ぐ権利はない。

 ならば……

 無垢な少年は、わけもわからず、和尚と母それぞれに視線を送り、戸惑う。

「どういう、こと? ねえ母上……ぼくは」

「良いから、黙ってお聞きなさい。和尚様。お教えください……この呪いは……解けるのですか」

「解けるといえば解けます。解けぬといえば解けませぬ」

「とは?」

「……」

 和尚も言葉に迷う、だが、これは言わねばなるまい。

「実は、家守やもりの霊獣は一匹だけでなく、何匹もこの国の都を中心に放ってあるのです。魔物を構築する呪式の波動を、陛下からお話を聞いたときから休まず呪いの臭いを探らせました……すぐにこの呪いを作っていると思わしき場所は知れ申した」

「どこです」

「現国王、霜江代王そうこうだいおうのおわす王城の奥御殿おくごてん

 女王は、怒りと悲しみに震えながら、唇を噛み締めた。

 王城の御殿で、かくも凄絶な呪式を成す算段をできるものが、王以外誰がある。

 そして今、この国に王の権勢を持つものは、たった一人しかいなかった。

 幼い王子は、ただただ目を見開き、この世の終わりのような言葉の残響に打ちのめされた。

「呪いを解くには代王様の奥御殿を暴く必要がありましょう、ですが、拙僧はあくまで他国のもの。それに、おそらくはかの方も相応に策を巡らせておりましょう。ただいたずらに訪ねても、術者が見つかるかどうか。王の権威と相対するのは並大抵のことではありますまい」

「では、呪いは解けぬと……」

「はい」

 霜雷王子を殺害するために編まれた術式は、並大抵のものではない。

 和尚ほどの退魔と法術の使い手をして、根本の術者と術の媒介を直接手に触れない限り、どうしようもないという。

 あと何週間かすれば、また術式によってあの異形の魔獣が構築され、王子を葬りに襲ってくる。

 例えまた斃したとしても、いずれ一ヶ月ほどの時間が経てば、再構成して襲ってくる。

 それが延々と、いつまでも続くのだ。

「母上……う、嘘だ……嘘でしょ? そんな……叔父上が、そんなことするもんか! 僕を、それに、じゃあ……父上は……父上はっ」

「……」

 純真無垢な子に、これほど酷烈こくれつな仕打ちがあろうか。

 もはや問うまでもない、聡明である故に理解できてしまう。

 自分を葬るべく編み上げられた呪式、それは同じく、原因定かならぬ父の死因と関係していることは火を見るより明らかだった。

 霜雷王子は、嘘だ、嘘だ、と、何度も呟きながら、しゃっくりを上げて泣き続ける。

 誰もその言葉を肯定してくれるものはいなかった。

 真実ほど残酷なものはない。

 泣き続ける我が子を抱く母も、目尻に涙を溜め、必死に心を鎮めようとする。

 あまりに無残であった。

 見かねた和尚は、そこで一つの提案をする。

「女王陛下。ひとつご相談が」

「なんでしょう」

「もしよろしければ、ご子息を我が寺に預けられては如何か」

「和尚様の寺……ガンダーラの黄林寺ですか?」

「左用。寺の本堂には拙僧よりも法術の腕の勝る、ゲンナ大老という僧がおります。呪式を完全に消せぬまでも、術の構築を遅滞させるような封魔の加護を設けることは叶いましょう」

「お願いしてよろしいのですか。ご迷惑では」

「なに。お安い御用というもの。かの王も、異国に刺客は放てますまい。呪いを封じられれば、いずれ好機も訪れましょう」

「ありがとうございます和尚様。では、この子は出家しゅっけさせ、黄林寺で修行僧として帰依きえさせてよろしいですか」

「……よろしいので?」

 一国の王子、それも、正統な王位継承者を、仏門帰依させるとは。

 それはすなわち、廃嫡はいちゃくに等しい。

 父の仇である叔父に、みすみす国を譲るということだ。

 だが、母の愛と決意は固かった。

 仇を討つよりも、なによりも、我が子の身こそ大事だった。

「よいのです。このままではいずれ、呪いでなくともなんらかの手で狙われるでしょう……それならいっそ、和尚様の元で僧侶として生きてほしいのです」

 母はまだ泣き続ける我が子の顔を上げ、その目を見てきっと言いつける。

「雷、あなたは今日より王子の地位を捨て、リュウガイ大僧正の元へ行くのです。いいですね」

「そんな……嫌だよ! 母上はどうするの!?」

「わたくしはこの国へ残ります。あの男の様子を見るものが必要なのです。なにかあれば和尚様のもとへ使いを送ります。よろしいですね、和尚様」

「拙僧はかまいませぬが……」

 未だ、父親の死も受け入れられぬ子を前に、母の態度は厳然げんぜんに過ぎた。

 もしかすると、母とも永遠の別れとなるかもしれぬのだ。

 若くてさといが故に、王子にはそれが理解できてしまう。

 彼は突如として、王子としての地位も、国も、全てを失うことになるのだ。

 だがそれ以上に、優しい少年からすれば、国に残される母をこそ、最も案ずる。

「母上ひとり残していけるもんか! 一緒に行こうよ!」

「駄目です。母の言うことをお聞きなさい。さあ、和尚様、そうと決まれば、今日中におちください。あまり長居すれば、どんな妨害があるかしれません」

「わかり申した」

 母子の別れを前に、普段は陽気で気さくなリュウガイも、なんともやりきれぬという顔をする。

 尊敬していた叔父に命を狙われ、父をも殺され、母からも引き離され、幼い王子はその日から、リュウガイの手に預けられることとなった。

 女王は有言実行、即座に王子の王位放棄と、仏門帰依の手続きを行い、夜には国を出るよう駿馬しゅんめと馬車を用意した。

 付き添いのものもいない、館を出る時見送る姿が、王子の見た最後の母の姿だった。

 泣きじゃくる王子を伴い、和尚は一路、霜国国境まで瞬く間に馬へ鞭をくれて走らせる。

 夜闇の中、ちょうど国境間際の大通りに、一隊の兵がいた。

 見事な名馬に跨り、逞しき体に鎧を固め、剛槍を携えた兵列は、見紛うはずもない、王の近衛隊。

 彼らの中央には、やはり、この国を預かる王が居た。

 霜江そうこうである、今や将軍とは呼ばれぬ男であった。

「これはこれは、その勇壮なる御姿。貴方様が霜江王閣下そうこうおうかっかですかな。お初にお目にかかり申す、拙僧は黄林寺大僧正、リュウガイと申します」

 リュウガイは一度馬を止め、霜江そうこうへ向けて、右手拳を左手掌で包む抱拳礼を取る。

 顔はニコニコと、普段の陽気さを出したかに見えるが、心中は定かならず。

 この老齢となるまで様々な修羅場をくぐりぬけただけのことはあり、状況に応じて弁を巡らせるにも長けているようだ。

「こちらこそ。無双黄林寺の武名は聞いておりますぞ。かの高名な神僧リュウガイ殿にろくなおもてなしもできず、申し訳ない。よければ我が城にて歓待いたしたいが」

「いえいえ、お手を煩わせるまでもござりませぬ」

 終始、和尚はニコニコと笑っている。

 だがその目の奥には、さながら魔獣の牙の如く底冷えする鬼気が潜んでいる。

 明るく人好きのする好々こうこうやが、皮一枚下に、鬼をも喰らう仁王を秘めていた。

 霜江が引き止めるのは、王子が手の出せぬ外国へ脱出するのと防ぎたいからなのは言うまでもない。

 少数の護衛のみを伴って自ら来たのは、それだけ彼もこの突然の出国を予見できなかったからだ。

 無論、和尚は相手の魂胆など見抜いている、見抜いているうえで、平然と振る舞っているのだ。 

「義姉上は突然、我が甥の王位継承権を捨てさせ、国外の寺へ出家させるとは。いやはや、驚いたのなんの。雷王子は承服しょうふくしてのことかな」

 超絶の呪式を逃れるため、国外へ逃げるのは女王の意向であろう、しかし、肝心の王子の意思や如何に。

 それこそ王権を奪取するこの男にとって、最大の懸念だ。

 もし国外に逃げた雷王子が、やがて自分の王位継承を求めて帰国すれば、国は二つに分かれかねない。

「雷王子殿は若くして文武両道、学識も武芸も実に優れた天稟てんぴんの持ち主でございますな。たまたま女王陛下にお招きいただいた拙僧が我が寺の武芸と法術の一端を伝えましたところ、大変に興味を持たれまして、ならば是非にと」

「ほう……」

 でっちあげ、今考えた作り話である。

 そんなことを堂々と口にする和尚の胆力や図り知れぬ。

 王子は父の霜玲王から学識、叔父の霜江からは武芸の薫陶くんとうを受けていることを、ちらと耳にして作り上げたのだ。

 事実を含んでいる分、多少は説得力もある。

 霜江は考えた。

(話の真偽は知れぬが、筋は通っている。これ以上口先で引き止めるのは無理か。この坊主、事情をどこまで知っているだろう。なんなら、この場で雷もろとも斬って捨てるか)

 霜江は武芸百般、かつて数多の戦場を駆け抜けて勝利を手にし、自ら先陣を切った猛将である。

 互いに馬上であったが、腰の剣を抜けば刃は存分にリュウガイを捉える間合いであった。

 ゆるりと、霜江の右手が手綱を離れる。

 配下の護衛の精鋭がそれに気づき、固唾を飲んで見守る。

 幾つもの視線が交錯する中、和尚の袖が揺蕩たゆたうのに気づいたものはいなかった。

「おや? 霜江王閣下、柄が緩んでおりますぞ」

「なにっ」

 霜江は視線を向けた。

 見れば、掴もうとしていた剣柄けんぺいが、ぐらりと傾き、地面へと落ちたではないか。

 柄となかごを固定するための木製の目釘めくぎが粉砕され、ぱらりと散らばる。

 慌てて顔を上げ、和尚の手元を見た。

 和尚の法衣のそでの中に、ぎらりと輝くものあり。

 暗器として潜ませている独鈷杵とっこしょと、鉄針の影。

 もしや……

 おそるおそる、首を傾け、斜め後方を見た。

 背後にあった家屋の壁に、なにかが埋まっている。

 おそらく、和尚が袖の中に隠していた暗器のどれかだ。

 想像を絶する武芸の極み。

 霜江も配下の護衛兵たちも、皆自分の武術は卓越したと自負していたが、その目でも見逃すほどの速度でリュウガイは暗器を放ち、霜江の佩刀はいとうなかごを砕いたのである。

 当然だがこれは手心である。

 やろうと思えば反撃のいとまなど与えず全員の脳天を粉砕することが可能だ。

 言外に、これ以上手を出すならばどうなるかを示していた。

「では霜江王閣下。お見送り感謝いたす。拙僧はこれより、雷王子、いや、新しい弟子と共にガンダーラへ帰ります故」

「あ、ああ。達者でな」

 必死に恐怖を噛み殺し、霜江は不承不承ふしょうぶしょう、去りゆく和尚を見送る。

 和尚の笑顔に、彼は終生堪らぬ怯えを抱くであろう。

 馬車の中でそのやりとりを見守っていた王子は、刃の如く鋭い張り詰めた緊張に、自分が九死に一生を得たことを察する。

「お、叔父上……叔父上っ」

 堪らず、馬車の中から身を乗り出して叫んだ。

 まだ信じられない。

 父と等しく尊敬し、愛した叔父が、本当に父を殺し、また、自分を殺そうとしているのか。

 そして彼は真実を突きつけられる。

 唇を噛み締め、あらん限りの怨憎えんぞうを以て、兄と共に育てた甥へ、殺意の視線を投げつける霜江の形相にて。

「……っ」

 馬車の上で、少年はただただ、その眼差しに打ちのめされた。

 自分の心が砕け、それまでの形を失うのを、感じ取りながら。


 ……

 ………

 …………


 心中でかつての過去を振り返りながら、ライレイはただただ無心で剣を振る。

 幾年にも渡って研鑽した武芸の真髄は、何を考えずとも勝手に動く。

 左右/前方/斜め上方――滾り落ちる異形魔獣の鋭い鉤爪。

 腰帯剣は神速にて縦横へ白銀の斬光を流し、内勁を込められ、鉄槌の如き重さを備えた剣撃にて応ずる。

 火花散る。

 衝撃砕ける。

 神速にして爆砕の重さを兼ね備えた攻防。

 尋常の人間ならば、一撃で五体が砕ける。

 いっそ、砕けてしまったほうが楽になれるだろう。

 体は焼けるように熱いが、心は凍りつけ、喜怒哀楽の一切はない。

 心などない。

 ただ生きているだけだ。

 何故生きるのか。

 わからなかった。

 何を思えばいいのか。

 父を殺され、叔父に狙われ、母と別れ、黄林寺へ来たこの数年。

 ライレイという僧名と共に、武芸と法術を学び、悪しき魔性を滅する日々。

 いつしかライレイは、中級僧の中でも飛び抜けた才を発揮し、上級僧への推挙さえ囁かれるようになった。

 だが彼は、それでも、心動くことはなく、虚しさに侵され続けた。

 決して、退魔僧としての務めを軽んじているのではない、無辜むこの民草のために妖怪変化と戦う務めが崇高であることは理解している。

(死んだほうがいい。私は、死んだほうがいいのかもしれませんね)

 首へ迫る異形の斬撃。

 剣で跳ね上げて回避。

 脚を狙って奔る突き。

 跳躍して回避。

 追い縋る毒針の一閃。

 さらに剣を翻して弾く。

 着地。

 振るわれる斬撃。

 交錯。

 衝撃。

 火花。

 追想。

 愛する父の元で、色々な学問を教えてもらったこと。

 母が寝物語に教えてくれた昔話。

 叔父が手解きをしてくれた、弓矢や剣、槍や乗馬。

 父と叔父が言い争っていたこと。

 二人は兄弟だったが、考え方もなにもかも正反対だった。

 理解できる。

 何故、叔父が父を殺し、自分を殺そうとしたか。

(私は死んだほうがいい)

 今、母国である霜国は、かつてない繁栄を成しているという。

 ならばいっそ、自分はいなくなったほうがいい。

 葬られた父の無念を想いながら、かといって、その恨みで叔父へ報復をしたいわけではなかった。

 もし自分が王位の継承を望み、父の報仇を唱えて叔父とことを構えれば、霜の国はかつてない内乱に見舞われるだろう。

 そうなれば、数限りない民草が死に、また、母も殺されるかもしれない。

(死んだほうがいいのだ、私は)

 ライレイの目には、己の生命への執着も、恐怖も、怯えも、希望さえなかった。

 嗚呼、なんという哀れなことか。

 尊き王家の血筋に産まれ、文武の才、類まれなる美貌にも恵まれながら、この青年は、道端みちばたの物乞いほど者にさえ劣る。

 どんな卑しい身分のものであろうと、なにかしら人生には喜びがある。

 たった一杯の酒を飲むこと。

 ねぐらで寝そべり、夢を見て眠ること。

 それほどの値打ちのものさえ、ライレイは持っていなかった。

 自分で自分の生命と人生を諦め、価値を見いだせないのだ。

 自害できればまだ楽だったろう。

 彼はそれさえ選べない。

 もし自害すれば、母はどれだけ悲嘆に暮れるか。

 それに、今日まで寺に匿い、呪いを封じる数珠を与え、武芸の手解きをしてくれた師のリュウガイにも申し訳が立たない。

 自分で自分の人生を生きることもできず。

 自分で死ぬこともできず。

 それがこの青年だった。

 ――神速一閃。

 超速の鉤爪の一撃が、いよいよ腰帯剣を弾き、ライレイの体を掠め、鮮血が散る。

 激痛である。

 しかし痛みなどないように、凍りついた美貌は、まったく頓着しない。

 ただ剣を振る。

 ただ剣を打つ。

 生きたいと思わずとも、今日まで鍛え続けた体と技は、勝手に応じて戦い続ける。

 どれだけ戦ったろうか。

 やがて、ふと、ライレイ動きを止めた。

(もう、いいでしょう)

 疲労している。

 かなり氣力を消耗した。

 血が流れ、痛みがある。

 だがそのどれも感じない。

 体は感じている。

 心が感じないのだ。

 頃合いだ。

 これだけ戦えば、もう十分だろう。

 ゆるりと剣を下へ下げる。

 蜘蛛に似た異形の怪物、呪式によって構築されたおぞましき生命が、目を爛々と殺意に輝かせ、迫る。

 十本の鉤爪が、襲い来る。

 まばたき一つせず、ライレイはようやく訪れた死に、むしろ心穏やかであった。

 この世に残す母と、師リュウガイには、幾分か申し訳がない。

 それでも感情が大きく動くことなどなかった。

 死という静寂こそ、救いだった。


「ほんと、なんなのあの男……」

 こそりこそりと、草の陰から、金のふんわりとした毛並みの尻尾しっぽが幾つも揺れる。

 ぴょこんと耳も出て、視線を向こうへ向けていた。

 少女はとうとう、顔を出してそちらをじっと見た。

 金狐きんこの妖狐族の少女、伽倻かやである。

 ここ数ヶ月の間、金持ちの男子ばかりを狙い、美貌と幻術で誘惑し、薬を盛った酒で眠らせ、身ぐるみ剥いで遊んでいた、悪辣な悪戯娘だ。

 しかし今日、ついに黄林寺の退魔僧たるライレイに敗れ、これ以上の狼藉をせぬよう誓わされた。

 誇り高い妖狐である、これがしゃくさわらないわけがない。

 伽倻はこっそりと後をつけ、ライレイを観察した。

 かの美僧は、孤剣にてあの怪物と戦う腹積もりらしい。

 あれはかなり強力な魔獣である、相当な呪力によって構成されているらしい。

 如何にライレイが天才的な剣技の持ち主でも、勝利は確実ならず。

 伽倻は想った、ならばあの男がどう死ぬか、笑って見てやろうと。

 あのすまし顔が、苦痛と恐怖に歪み、絶望の涙を流す様を見れば、さぞ笑いものであろう。

 そうして木陰から戦いの趨勢すうせいを見守ったのだが。

 どれだけ苦戦し、傷つき、疲弊しても、ライレイはまったく顔色を変えない。

「なんなのよ……」

 何故か面白くない。

 自分を負かし、恥をかかせた男が殺されるのである。

 本来なら笑って楽しめるはずだ。

 しかし……

 迫る魔獣の鉤爪を前に、ライレイは微塵の恐怖もない。

 いや、恐怖だけでなく、喜びも怒りも、なにもない。

 無。

 ただ無。

 凍りついた美貌は、見ていると無性に悲しくなってくる。

 とうとうライレイは剣を下げ、反撃どころか防御さえ捨てる構えを取った。

 魔獣が接近する。

 鉤爪を振りかぶる。

 あと数瞬で彼は死ぬだろう。

 そう想ったとき、もう堪らず、自分でもわからず、伽倻は動いていた。


「ああもう! なにをしているのよ! このバカ!」

 黄金の尾が揺れ、長い髪を揺らし、少女が跳ぶ。

 手を振るえば、炸裂する狐火の火炎が魔物の鉤爪や胴体に幾つも命中した。

 横合いから突然の攻撃に、かの呪いの魔物も反応が遅れたと見える。


 ――ギィいいいい!


 と叫び、硬い甲殻の表面を焦がされる。

 まったく予想していなかった救援に、さしものライレイも目を見開いた。

 この男が驚きを見せるなど、まず滅多にない。

(やった!)

 なぜか、伽倻は堪らなく嬉しい気持ちを覚える。

 自分が救いに来たことに、少なからずライレイの感情が動いたことがだ。

「危ない!」

 ライレイが声を大きく上げ、瞬速にて踏み込む。

 剣閃奔る。

 銀光の斬撃が、蜘蛛脚の攻撃を跳ね上げ、火花散らす。

 伽倻目掛けて放たれた攻撃を、ライレイが慌てて防いだのだ。

 この男も慌てることがあるのか。

 伽倻はまた、どういうわけか面白く、嬉しい気持ちになる。

 そう感じながら、手は左右へ流れ、黄金の尾を翻し、さらなる術を編み上げる。

 豪炎と呼ぶべき巨大な熱が、輝きながら爆ぜる。

「不細工な化け物、これでも喰らいなさいな!」

 体に残る妖力全てを傾けた、特大の狐火だ。

 その威力たるや凄まじく、これまでライレイの斬撃を受けても平気だった怪物の脚が、幾つも吹っ飛んだ。

 おぞましい色彩の体液を流し、泣き叫ぶ魔物。

 隙を逃すライレイではない。

 自分ひとりの命ではなく、もうひとり分の命が天秤にかかった時、彼の中にあった虚無は消えていた。

 一瞬にして体は駆け抜け、手にした剣は、これでもかと込めた内勁に硬度を増し――必殺の斬撃となる。

 怪物の首と胴は分かたれ、さらなる絶叫を上げてよろめき、崩折くずおれる。

 呪力にて構築されていた魔物の肉体は、ボロボロと崩れ、灰になって散った。

 一度構築された肉体を失うと、再構成までは一ヶ月以上かかる。

 これで当面、ライレイのそばには出てこないだろう。

 美僧は静かに、剣を下げ、傍らにいた妖狐の少女、意外な救援に視線を向けた。

 だがそこには、すでに、彼女の姿はなかった。

 狐火の残り火だけが、ちらちらと土の上で燃え、やがてそれも、そよ微風そよかぜに消えて散った。

 

 西洋人がいる。

 東洋人がいる。

 中には亜人もいるし、貴人が馬車から顔を出し、傭兵から商人、娼婦から乞食、旅芸人、おおよそこの世のあらゆる地位と職のものがいる。

 ガンダーラである。

 洋の東西の狭間はざまに在り、富と混沌を以て栄える街である。

 その賑わう往来を、一つの人影が征く。

 多くの女が振り返り、ほぉ、と息を飲んだ。

 憂いを帯びた横顔。

 世にこれほどの美男子があるかと思われるほどの顔立ちには、感情の色の見えず、凍てついたようだ。

 それがまた、男の美貌を引き立てていた。

 髪を剃った剃髪の僧形、身に纏うのが羅漢服でなければ、さらに女心を惑わしたろう。

 黄林寺の中級僧、ライレイであった。

 あの一件から、もうすでに幾日も経っている。

 当代一の法術士、ゲンナ大老から授けられた呪式封じの数珠は、今度は両手首にそれぞれつけ、芯の紐も鉄糸を織り交ぜており、そう容易く切れぬように工夫してあった。

 ライレイはそのゲンナ大老の使いで、都に来ていた。

 法術の使い手となると、諸々の薬草や術の道具、素材が必要となることも多く、弟子が街へ買い出しに行く。

 たまたまライレイがその役を買って出たのである。

 ライレイは人通りの多い大通りを離れると、路地裏にある秘薬を扱う専門店を訪ね、言われた通りの薬草を買い付けていく。

 そうして使いを済ませていくと、程なく、また狭い道へ入る。

 そこで、なにかが道に倒れていた。

 人。

 それも女である。

 ライレイは無感情な顔でじっと見つめ、やがて目を細め、声をかけた。

「どうかいたしましたか」

「よよ……む、胸が苦しくて……嗚呼、苦しい。どうか見てくださいましっ。嗚呼っ……」

 女は過剰な声を上げ、悩ましく身をくねらせる。

 世の男が見れば、思わず涎を垂らすような美女であった。

 着物の上からも、むっちりと熟れた乳が主張し。

 腰はくびれ。

 尻は大きい。

 結んだ髪から覗くうなじは妖艶を極める。

 当然のように、ライレイの凍りついた美貌に変化はない、まったくの無表情で、興味のなさそうな声で語りかけた。

「どこが苦しいのです」

「ここ、ここです……ほら、自慢のむっちりと実った乳房が、よよよ……」

「ここですか」

「ぎぇえええええ! な、なにしやがりますのっ!」

 突如、女が仰け反り、まったく艶を欠いた声をあげて悶絶した。

 ライレイは鎖骨のあたりのツボをぐっと押し、強烈な痛みを与えたのである。

 ちなみに害を与えるものでなく、胃腸回復のツボだ。

 経穴の刺激にのたうちまわった女は、とうとう、文字通り化けの皮が剥がれる。

 ぼんっ! と音を立てて煙が舞い、その中から出てきたのは、絶世の美少女。

 黄金の毛の耳と尾を持つ、妖狐の伽倻であった。

「朝から私をつけていましたね。どういう要件です」

「ゲゲッ! 気づいてましたの!?」

「あからさまに気配を感じましたので」

「ぐぬぬ……」

 流石は名にし負う黄林寺において、すでに実力は上級僧にも近いとされるライレイである。

 道中、自分の背に注がれる視線と気配に感づいていた。

 実を言えば、相手が伽倻だと最初から知っていたのである。

 彼女ほどの上級の妖怪となると、気配や妖気の質というのが、卓越した使い手には肌でわかるものだ。

「で。どうしたのですか。もしや約定を破って、またぞろ悪戯でも」

「まさか、悪戯だなんてそんなことしませんわ。もちろん約束は破りません、一族の誇りにかけて」

 伽倻は先程、ぎええ、などと叫んだとは思えぬ艶やかさと麗人然とした振る舞いで立ち上がると、ふふんと笑った。

 すると、手を翻し、何か輝くものを飛ばす。

 針であった。

 ライレイの肩へ針が迫る。

 しかし彼はこれを呆気なく指で捉えてしまった。

「ちっ!」

 伽倻は舌打ちする。

 針はなにかに濡れている。

 ライレイは顔に近づけて見る。

 毒ではない、なにかの薬だ。

 武術のみならず諸処の知識に明るい彼は、それがなんの薬であるかすぐ分かった。

「これは色欲をそそる媚薬。なぜ私にこんなものを」

「なぜ? わからないのかしら!」

「わかりません」

「悪戯などするなと言いましたわね。ですからわたくし、あなたを本気で落とすつもりなのよ! わたくしの誇りを傷つけたあなたをわたくしの虜にして、その鉄面皮をめちゃくちゃに歪ませてやりますわ!」

「……」

 これにはライレイも呆れて、開いた口が塞がらない。

 こんなめちゃくちゃな話があるか。

 媚薬の針を打ち込んで、ライレイを籠絡し、自分の虜にして奴隷にでもしてやろうと言うのである。

 毒だろうが薬だろうが、内勁を極めた武侠なれば経絡の巡りで薬効を散じることもできると知らぬのか。

 以前、眠り薬を含ませた際に、効果がなかったことへの復讐戦も兼ねているのだろうか。

「私が憎いなら、あの時黙って見捨てればよかったでしょうに」

 呆れながら、ライレイは言う。

 そうだとも、あの時、呪いの魔獣に襲われたライレイを捨て置けばよかったのだ。

 そうすれば彼はとうに死んでいただろう。

 だが、伽倻はふんと首を振る。

「そんなことでは気が済みませんわ。わたくし、貴方が許せないんです」

「許せない?」

「ええ。肉親に呪われたかなんだか知らないけれど。なんですの? 貴方ってば。この世になにも面白いことはない、みたいな顔をして。ま~ったく、つまらない! ムカつきますわ!」

「……」

 烈火の勢いである。

 ライレイは無表情であるが、内心やや驚いていた。

 自分の身の上に関して、こんなことを言われたのは初めてだ。

「いいですこと!?」

 びしり、と指を指し、伽倻は言う。

「人生っていうものは、楽しみ、悲しみ、怒り、泣くものですわ。わたくしだってそう、楽しいからひとを化かすし、嘲笑って悦ぶ。だからお酒も美味しいしご飯も美味しい。なのに貴方ったら、死ぬ間際にも悲鳴ひとつあげない。そんな相手をどうこうして、なにが面白いっていうのかしら!? よろしくって? 貴方を私の虜にして、身も心も捧げさせたうえ、ボロ雑巾のように捨ててやりますわ! お~っほっほっほ! いつまでわたくしの魅力に抗えるかしら! うふふ♥ 見ていらっしゃい、いずれわたくしの魅惑のボデーと媚薬と幻術とあとほら、あれ、とにかくわたくしの素晴らしさにひれ伏させてやりますわよ!?」

 ゲヒャヒャと笑う伽倻。

 ああ、なんという、これは、本気で、バカか。

 素晴らしい美貌だが、独占欲が強く、ワガママで意地っ張り、子供じみた性根である。

 ライレイはしばし沈黙し、呆れてしまった。

 産まれてこのかた、こんな奔放な相手に出会ったのは初めてである。

「本当に貴女は、変な方だ」

 そう言って、ライレイの凍りついた表情が、微かに溶けた。

 さながら冬の凍結した土に日が差し、一粒の種から若葉芽生える如く。

 困ったように。

 春の風のように。

 それはそんな微笑だった。

「~~~ッ!!」

 伽倻は打ちのめされ、硬直した。

 母国を離れてより初めて見せる、青年の微笑は、それだけの威力があった。

 そんな妖狐の少女の衝撃などつゆ知らず、ライレイは横を通り過ぎて行く。

市井しせい庶人しょじんに迷惑がかからぬのなら、どうぞ気の済むようになさってください。では、これで」

 とだけ言い残し、彼は去っていった。

 伽倻は、ギギギ、と音を立てそうなほどぎこちない動きで、振り返り、ライレイの後ろ姿を、見送った。

「が、ぐぬ……やべえ、先にわたくしが籠絡とされてしまいそうですわ……うっ、イケメンの笑顔やべ……心とろけりゅ……」

 ぽーっと赤面しつつ、しかし、自分が相手に魅せられてしまうなどという失態に、ぐぬぬとしながら、伽倻は身をよじるのであった。

 それから、この破天荒な妖狐の少女が、時折黄林寺の美僧を相手に、バカな誘惑を仕掛けるようになったのは、言うまでもない。


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