五ノ章 笑顔(中編)
黄林寺 退魔僧伝 五ノ章 笑顔(中編)
「もう! 一体、なんなんですの!」
美しき金狐の乙女の声は、理不尽への怒りと驚きに染まっていた。
腰から幾つも伸びた尾が左右に振られ、妖気にて練り上げた火炎球、妖狐の得意とする狐火が乱舞する。
ひとに当たれば怪我では済まない威力だ、榴弾にも匹敵する。
だが、相手はひとなどではない。
生物かどうかさえ、定かではない。
爆裂する火炎を浴びても、体表に亀裂ひとつない。
色彩は赤黒く、ざらついている。
おぞましい造形だった。
人間に似た下肢は二本脚。
胴の上に、一〇本の腕、いや、上脚とも言うべき器官が伸びている。
顔は、昆虫だ。
不気味な複眼が並んでいる。
人間にやや似せた、巨大な蜘蛛。
そう形容できた。
長く伸びた脚はそれだけで一〇尺(約三メートル)ほどもある。
先端の鋭い鉤爪が、振るわれる。
凄まじい威力であった。
森の木々をへし折り、吹き飛ばし、妖狐の少女――伽倻の火球も砕き散らす。
縦横無尽に暴れまわる一〇の豪腕は、さながら鋼鉄の爪の嵐。
――ギシィああああぁぁ!!!!
異形の蜘蛛は、金属を擦り合わせるような神経を逆撫でする絶叫を上げ、殺意と呪念に狂ってさらに強く、速く、鉤爪を振るう。
ただ一〇本の脚を振り回すだけに飽き足らず、頭部でジャギジャギと噛み合わせる口吻の奥から、おぞましい体液にまみれた棘を射出してくる。
鈍く銀色の輝きを帯び、当然のように鋼の硬さを誇る。
一撃まともに浴びれば、頭蓋を砕く威力だ。
掠めただけでも、体液の毒に侵される。
撓る斬光がこれを弾き返す。
鞭の如き柔らかに奔る刃は、しかし対敵を打つとき、名工の鍛えた業物にも迫る硬度を得る。
丹田にて練り、経絡にて巡らせた氣の力、内功武芸の賜物だ。
傍らの少女、伽倻にも勝るほどの美貌の剣士は、剃髪、羅漢服の僧形。
黄林寺の若く美しき退魔僧、ライレイである。
振るうは懐に隠し飲んでいた、細身の腰帯剣。
これに卓越した内勁の勁力を注ぎ、硬質の斬撃と化しているのである。
一発が銃弾並の威力を持つ毒の棘を、ライレイの振るう内功剣は残らず弾いて受け流す。
流石は中級僧の中でも、一二を争うほどの武芸と称されるだけはあった。
だが同時に、蜘蛛に似た異形の怪物は、長い一〇本の上脚で斬撃を見舞う。
上脚の威力は毒棘の非ではなかった。
ライレイの剣が受けるが、あまりの威力に受けきれず、さしもの彼も体勢を崩しかけた。
当たれば丸々とした木の幹を一撃で圧し切る攻撃を相手と思えば、それでも勁力の冴えは達人のそれであろう。
しかし、このまま叩き続けるのはあまりに形勢が悪い。
すでに月にも勝る美貌の剣士は、徒に戦闘を継続することを放棄していた。
「ちょ、なにボケっとしてますの!? 早くなんとかしてくださいまし!」
それを死線にあって呆けているとでも映ったのか、顔を覗き込んだ伽倻が叫ぶ。
そんな彼女の慌てふためく姿を見ても、美僧の表情には、一筋の変化もない。
焦りも怒りも、悲しみや恐怖、同情もない。
ただ無限の空漠が、冷たく冴えているばかり。
わけもわからぬ窮地の中で、伽倻はあまりに俗世と乖離したライレイの冷たい美貌に、一瞬呑まれそうになる。
その伽倻の腰を、ゆるりと柔らかく抱く腕がひとつ。
「失礼」
なんの感情もない声がそう告げる、ライレイであった。
「ひゃ!」
驚きの声をあげる妖狐の美少女をよそに、ライレイは豊かな体を抱き上げると共に、跳躍。
飛燕どころか、疾風の脚力である。
木の梢と同じ高さまで飛翔する美僧へ、当然、未知の怪物は視線と殺意を向けて見上げる。
だがその瞬間、凄まじい光と音、熱が場に満ちた。
跳ぶ前にライレイが周囲に放った、閃光威嚇効果を持つ、術符の炸裂であった。
―――ギぃいいいい!!!
闇夜に突如照らす、陽にも勝らん光の渦に、怪物は視野を一瞬奪われて狂乱する。
ライレイの霊力の気配を探ろうとするが、それも惑わされた。
炸裂の符と同時に、ライレイは周辺へ無作為に、自身の氣を込めた、いわば霊感を幻惑するための符も拡散したのである。
ある符は梢に張り付き、またある符は地に落ちて。
怪物は視覚を閉ざされたまま、周囲に撒き散らされた気配に次々と襲いかかる。
少なくとも、その符が全て消え散るか、怪物の視野が回復するまでの間は、脱出の時間が稼げた寸法となった。
「下ろします」
相変わらず、なんの感情も籠もらぬ声だった。
冷たく、刃の鋭さを秘めて、しかし美しい声だ。
夜の山の中を、とにかく駆けに駆けて怪物から遠ざかり、月光を照り返す泉のほとりまでふたりは来た。
そこで、ライレイは抱き上げていた伽倻の体を下ろしたのである。
無意味に水場の近くに来たわけではない、清浄な水の含む氣は、邪悪の妖魔の類が好まないので、多少なりとも逃走の時間を稼げるという算段があるのだろう。
「……」
伽倻は、まったくわけのわからぬ状況に、なんと言えばいいかわからない。
その窮地の中、微塵の驚きも怯えも見せず、ただただ冷たく澄み切った無感情なライレイの横顔に、また、思わず見惚れてしまう。
だがすぐに、ハっと我に返り、腕を組んでライレイを睨めつける。
並の男なら、伽倻の妖しい微笑と、腕を組んでぐっと強調する豊かな胸の膨らみだけで、存分に誘惑し籠絡すること容易いが。
やはり、ライレイの冷たく凍った表情、さなら深い思慮に沈む、哲人の如き顔は、塵ほどの崩れもなかった。
「アレがなにか、貴方ご存知ですの? あんな強力な妖怪がこの付近にいるなんて、それも、突然出てきましたわ。普通、あれほどの怪異なら一里(約四キロ)離れていてもわかりますわよ」
伽倻はこの近辺に住む妖狐である。
誇り高く、妖気も妖術も世に知らしめる、白狐の一族の端くれ。
ひとを化かし、幻惑の術と美貌、手練手管で狂わせ騙し、その財を奪ったり、仰天させることを好む。
都の金持ちばかりを狙って、金目の物をふんだくり、術で惑わして素っ裸で往来に放り出したのも、一族の術の手管を見せつけるのと、良家の子息に恥をかかせるのが愉快だったからだ。
この付近一帯のことは、多少なりと承知している。
あんな化け物の気配など、一切感じたこともなければ、一族の誰からも聞いたこともない。
どう考えても、今宵自分を待ち伏せした、この僧侶と関係あるだろう。
ライレイはちらと伽倻に視線を向け、片手を上げた。
一瞬、またあの剣を向けられるのかと想い、腰を浮かしそうになる。
先の勝負、ライレイは首筋に刃を突きつけて止まったが、やろうと思えばいくらでも首を刎ねる余裕のある技倆は明白だった。
だが美僧は、僧衣の懐のうちに仕舞った腰帯剣には触れず、ただ、手首を示しただけである。
「腕に巻いていた、あの数珠を切られたためです」
「どういうことです?」
「あの数珠は、私にかけられた呪いを封じるためのもの。それを貴女が切り落としてしまったので。あれが出たのでしょう。あれは私を殺すために、常に私の傍で発動を待機している、呪殺の術式の顕現した姿ですので」
「……」
伽倻、またも絶句して、目を見開くばかりである。
たしかに、さきほどの一戦で、起死回生を期して深い胸の谷間にしまい込んでいた、暗器の鏢を投じ、それがライレイの手首の数珠を掠めて切り落とした。
だが、まさかあんな小さな数珠で、アレほどの大妖を駆って呪殺せんとする術を封ずるとは。
ましてや、それがこの青年を狙っているとは如何に?
なにもかもわけがわからぬことばかりである。
あまりに理解を超えた展開に、さしもの妖狐の娘も言葉が出ない。
数拍の間を置き、伽倻はようやく問を投げた。
「い、いったい、なんでそんなことになってますの? わけがわかりませんわ……ライレイさん、でしたわね。貴方、よっぽどひとの恨みでも買っているのかしら。その綺麗な顔で、どこぞの子女でも惑わしでもしたのかしら?」
皮肉を効かせて言ってやったが、そんなものが通じる相手ではなかった。
漣ひとつない美貌は、冷徹に冴えたまま、沈黙を守る。
「故あってです」
そっけない返事だ。
伽倻へ一瞥もくれず、視線は森の闇の奥、その先で今も狂気と殺意に滾っているであろう、あの怪物を探っているのか。
まるで深淵な瞑想に耽るような、感情も俗欲も無縁の凍てついた横顔だった。
「……」
伽倻は想う。
気になる。
知りたい。
好奇心が掻き立てられた。
素晴らしい美貌と、非人間的なほどの無感情ぶり、冴え渡る武芸の技。
こんな男を、どんな故の呪詛が祟っているのか?
元来、伽倻は好奇心旺盛かつ、我欲を抑えるということを知らない、必要もない。
妖狐は地域によっては神としても奉られ、恵みも暴虐も共に行う、自由な存在である。
だからこそ彼女は、人間の男どもをからかって遊んでいたのだ。
今、目の前にいるこの美僧の不可思議に、彼女の我心我欲は、堪らなく興味を惹かれた。
「如何なる故の呪詛ですの? 教えていただけないかしら」
単純に聞いて、言うだろうか?
期待していたわけではないが、聞かずにはおけない。
果たして、美僧ライレイは、視線を闇の奥へ彷徨わせたまま、やはり、なんの感情もない声で答えた。
「私の叔父が、私にかけた呪いです」
「叔父って……肉親にあんな呪詛かけられるって、それ真実ですの」
いよいよ話は、伽倻のワクワクを掻き立てる。
良家の子息を嘲笑って酒が美味くなるような性格の伽倻からしてみれば、これほどの絶世の美男子が肉親から祟られているなど、実に興味深い。
「嘘を言う理由もありません」
「ふうん、貴方、よっぽど恨まれてますのね? 一体なにをしたんですの?」
言い繕うか、怒るか。
どう反応するか、俄然面白くなってきた。
だがライレイは、やはり、鉄面皮に寸毫の変化もない。
「おそらく、家督の継承でしょう。私がいては、一族の家督を継げなかったでしょうから」
「ふうん、貴方やっぱり、けっこういいお家の出なんですのね。でも、叔父上様にそんな目に合わされて、貴方のお父様はなにもしてくださらなかったのかしら? それとも、見捨てられてしまったのかしら?」
あからさまに、挑発だ。
踏み入った家族や肉親をネタにしてやった。
これで、この美男子が怒りや不快感で顔を歪めるか。
期待が湧く。
だが、ライレイは、やはり、凍てついたままだった。
「父はいません。私より先に、叔父が殺しましたので」
「っ……」
これには、伽倻も押し黙った。
叔父に父を殺され、自分も命を狙われ、あんな呪詛の怪物で祟られている?
どうやら、相当にこじれた家柄の出らしい。
(ヤバいですわ……この方、面白っ! なにかもっと根掘り葉掘り探れないかしら)
生物というものは、単純な欲、睡眠、食事、生殖の三大欲は、低能な獣でも満たせる。
だが好奇心、知的探求の段は、それら原始欲求を十全に満たせる余裕のあるものしかできない。
妖狐や天狐などの高次の霊的存在ならば、ひとしおだ。
伽倻はこのライレイという男に、泉の如く湧き出る好奇心を感じる。
できれば、この男がみっともなく感情を吐露する様を見て見下してやりたいものだが。
そんな妖狐の少女へ、おもむろに、ライレイはちらと横目で視線を送った。
手にした刃よりもなお冷たい眼差しだ。
感情という色が、完全に欠落している。
伽倻はぞくりとした。
そうだ、忘れてはいけない、自分とこの男は、まず命のやり取りがあってここに居るのである。
自分は人間たちを嘲笑して戯れただけに過ぎないが、相手は魔性のものを狩る退魔僧、いつ首を刎ねてもおかしくはない。
恐る恐る、視線をライレイの手の腰帯剣へ向ける。
次にこの男が一手、剣閃を送ってきたとき、防げるか? 躱せるか?
周囲の森のどこかには、あの怪物も潜んでいる。
「貴女に一つお聞きしたいことがあります」
「な、なんですの」
「貴方は、これまで人間を手にかけたことはお有りですか」
「あ、ありませんわよ。別に殺したくてしてることじゃありませんわ。わたくしはただ、ふんぞり返ってた良家のご子息とやらを虚仮にして笑いものにしてやりたかっただけですもの。まあ、貴方は術にかからなかったから、丁々発止となってしまいましたけれど」
「そうですか」
やはり、感情の色など微塵もありはしない声と顔だった。
ライレイはまた視線を闇夜の森へと向けながら、言った。
「ひとつ約定をお願いします」
「なんです?」
「これから先、二度とこれまでのような悪戯はお止めなさい。貴女は遊び半分でも、都の貴族は許しはしません」
「ふん。そんなこと、おとなしく聞くとお思いですの?」
「なら斬るまでです」
「ッ!」
瞬間/一閃。
伽倻の前髪を、一本、稲光のような斬光が刎ねた。
ライレイの腕が、残像さえ生むほどの剣速で流れたのである。
動きが終わって、髪を切られ、ようやく理解できるほどの速度であった。
鍛え抜いた外功、極限まで練り上げた内功、それらを纏めて武と成す凡人からは懸絶した才覚を以て初めてできる剣。
若くして、この男はその剣境に在った。
その気になればいつでも伽倻の首を刎ねられよう。
先程までの好奇心を忘れ、伽倻は冷や汗を流した。
拒絶すれば殺される。
だが応諾してしまえば、誇り高い金狐の一族としての矜持に傷がつく。
「お答えください。是か非か」
「わ、わかりましたわ! も、もうしません! ですから、そんなもの向けないで!」
とはいえ、命あっての物種である。
とても慈悲など縋れなさそうなライレイの無感情な視線と、冷たい刃を前に、伽倻は頷くよりなかった。
高位の妖狐族、一度口に出した文言を違えれば、家名を貶められる。
これで伽倻の、名家の男子を手玉に取った遊びは封じられたわけだ。
伽倻からすれば、面白くない。
ぐぬ、と、ライレイを睨むが、この凍りついた様相の男が、気にするはずもない。
「では」
と、それだけ言うと、月夜も凍れるような男は、森の奥へと向かう。
「え? ちょっと、貴方、どうなさいますの?」
「あの呪詛の魔物の狙いは私です。貴女はこれでもう無関係だ、どこへなりとお消えなさい」
もうそれ以上、伽倻にはなんの縁もないとばかりに、ライレイは言葉の余韻も消えぬうちに、森の中へと消えた。
伽倻はぽかんと、その場に残され、長身の影が闇に消えるのを、ただ黙って見つめた。
深い森と深い闇。
僧形は征く。
片手に柔軟な剣身の腰帯剣。
顔は冷たい夜気が、さらに凍れるほど美しく、感情の色彩を一切喪失した無表情。
喜。
怒。
哀。
楽。
この男には、なにもない。
ライレイ、黄林寺の中級僧の中でも、一二を争うほどの卓越した武芸の技倆を誇る天才剣士。
果たしてそのライレイの前に、異形異類は参じた。
怒っ!
號っ!
腹の底から怨と憎の気を吐き、木々を震撼せしめる咆哮を上げ。
体から伸びる鋭い刃の上脚、十本を振り回す。
周囲の太い木々を、超絶の力と鋭い爪がぶつ切りにし、吹っ飛ばす。
全身を鋼のような甲殻で覆った、呪詛の怪物。
人型に似た蜘蛛の様相は、おぞましいとしか形容のない怪物だった。
――ギぃいいい
――ギぁああああああ
口吻の間から垂れる、猛毒の体液と混ざった鳴き声。
まともな神経の人間なら、一度相対しただけで腰を抜かし、悲鳴を上げるだろう。
だがライレイには、なんの感情もない。
怯えも。
惑いも。
なにも。
「――」
ただ静寂のまま、ゆるりと、剣を構える。
そしてふと想う。
この怪物と相対するのは、幾度目であったか。
瞬間――斬光/衝撃/炸裂。
呪詛異形の腕を、手の剣で弾き、跳ね上げ、間合いを詰めながらこちらからも斬閃を送る。
乱舞する攻撃と反撃の合間、青年の追想は、遥か過去へと向かった。
光。
風。
声。
草原を疾駆する馬影が在った。
燦燦と輝く陽の光の下、見渡すばかりの草原で、白馬が走る。
跨っているのは、まだ年端も行かぬ少年だった。
少女と見紛うばかりの美形だが、溌剌とした活気に溢れ、輝くような笑顔を浮かべ、手にした弓を構える。
少年は馬の手綱から一瞬手を離したかと思えば、眼を見張るような速さで弓矢を射た。
一条の矢は、見事、遥か先に鎮座していた板の的を貫く。
片手に握った手綱で馬を制しながら、少年はその結果に、満面の笑み。
見守っていた家僕たちが、歓声を上げる。
「見事です王子!」
「若様、見事!」
従僕らの歓声を受け取るが、少年はふんとつまらなそうにする。
たしかに的に命中したことは嬉しいが、見え透いたお世辞ばかりではつまらない。
なかなか生意気な小僧だ。
そんな彼に、豪快な笑い声が響いた。
「ハハハ! 家来の世辞くらい、笑って受け取らねばいかんぞ雷坊よ」
「あ! 叔父上! 戻られたんですか!」
「今戻った。ふふん、弓の腕は上がったな。他の拳法や剣術はどうだ? 俺の教えを守っておるか」
「もちろんです! あ、そうだ! 後でお手合わせをお願いします! 今日こそ叔父上をギャフンを言わせてやるんだ!」
「ガハハ! 言いおったな、この小僧め」
少年を、雷坊などと呼ぶのは、馬に乗った見事な偉丈夫。
凄まじい筋骨隆々の男で、顔には厳しさと共に、精悍でひとを惹き付けるものがある。
全身を甲冑に固め、馬には長い槍も吊るしていた。
その背後には、無数の馬影。
彼の率いてきた軍勢が、意気揚々と凱旋のさなかである。
少年に仕えていた家僕たちは、ひざまずいて、少年と、その叔父を見上げ。
口々に呟く。
「霜江将軍が戻られた。やはり此度の戦も我が霜国の勝利であった!」
「さすがは霜江将軍閣下……百戦百勝の猛将よ……」
「そんな猛将も、霜雷王子には、やはり甘いな」
己等の奉じる主、国の軍備を率いる猛将、霜江の勇ましさ。
同時に、甥である、霜雷王子と実の親子のように親しく振る舞う姿に、家臣らは皆心を和ませた。
中原に大きく版図を広げる霜国は、山も海も有し、また、遠く西域との交易も深く、土地、人、富、そして軍、全てにおいて不足を知らぬ国であった。
国を束ねるは、名の示す通り、霜家の一族である。
国防を司るのは、勇猛で知られる王の弟、霜江将軍。
国政を司るのは、知性と慈愛に厚い、霜玲王であった。
「よくぞ戻った。諸方での戦はどうであった、江小弟よ」
「蛮族どもの蜂起など何するものぞ。大したことではないぞ兄者。昨日一日で、我が槍で百人はぶち殺してくれたわ」
如何にも王の威厳と、兄の優しげで親しげな様相で問うのは、誰あろう、霜国国王、霜玲王であった。
弟である将軍、霜江は、親しき兄に、大きな酒盃を片手に、豪快な笑いと共に昨日の戦ぶりを語る。
敵の軍勢をどう砕き、退け、どれだけの手柄首を手に掛けたか。
血なまぐさい話ではあるが、それでこそ国の守りを預けるに足る将であろう。
そんな叔父の話に、目をキラキラと輝かせるのは、酒宴の場に同席していた、少年である。
「すごいや叔父上! やっぱり叔父上の武芸は天下無双の豪傑だ! 今度僕にも槍を教えてよ!」
「これこれ、雷よ。江も軍の指揮で忙しいのだぞ、あまり無茶を言うな」
「でも、父上……」
「おい兄者。まあいいではないか。雷坊は兄者の学より、俺の武のほうが好きなようだぞ」
「えへへ! どっちも好きだよ、でも叔父上の武芸のほうが楽しいんだ」
「まったく、この子ったら」
輝くような美形の少年は、王の子、霜雷王子。
少年は父の文に、叔父の武、どちらも等しく尊敬し、敬愛しているが、どちらかといえば、少年の活発さのためか、叔父の教える武術が好ましいらしい。
夫と義弟、そして、可愛いがわんぱくな息子の様子に苦笑するのは、母である霜楊紗女王。
王と将、王子と女王の囲む食卓に仕える女官たちは、一家の和やかな姿に、思わず微笑してしまう。
賢く優しさを持つ王、逞しく武勇に優れた将、いずれ、父と叔父の素養を受け継いだ王子は国を強く支えてくれよう。
「しかし江よ、此度の戦、避けようと思えば避けられらであろう」
「なに?」
酒が進み、同席した将校や大臣らが口々に談笑する中で、王と弟の声は、静かに交わされた。
兄の賢君の言葉は、口調こそ強くはないものの、どこかたしなめる風情がある。
「いくら我が国の利益とはいえど、近隣の鉱山や森の伐採が近年多い、周辺の蛮族が餓えに苦しみ蛮行に及ぶ故も知れよう」
「では兄者。民草のために斯様な畜生どもへ土地を譲れを申すか。それでは国を拓いた先祖に申し訳が立たぬではないか」
「そうは言わぬが、徒に戦乱を求めるべきではなかろう」
「……っ」
流石は賢君、霜玲王は、たとえ相手が山野に潜む蛮族であれ、不要なる殺戮や闘争を善しとしない。
武勇と蛮勇を以て国益と覇を得ることを是とする弟の霜江将軍は、当然面白くはない。
だが、霜江は弟、霜玲は兄、片や将、片や王、意見の相違があろうと、命じるものと命じられるものの上下は変わらない。
「あい分かった」
「うむ。ゆめ、忘れぬようにな。我ら霜王家のものは、無用の血を求める獣ではないのだ。雷も、それは覚えておくのだぞ」
弟と腹を割った話をし、王は傍らの息子へ視線を向ける。
時間がもう遅いということもあり、また、父たちの話が興味のないことへ向かっていたこともあって、少年は眠い目を擦って、漫然と頷くばかり。
母は苦笑し、息子を抱えて立った。
「あなた、まだこの子にそういう話は早いわ。もう寝かせてきますね」
「ああ、頼んだぞ」
鷹揚に頷く王、霜玲は、愛する妻と子に微笑する。
横に座る弟、霜江も、義姉と甥に、笑顔を向けた。
「よく眠れよ雷坊」
「うん……おやすみ」
寝ぼけ眼で、少年は父と叔父、等しく敬愛する二人の父に言って、眠りの世界に落ちていった。
背を撫でてくれる母の柔らかい感触に身を任せて。
父、偉大なる賢君、霜玲王が死んだのは、その翌日だった。
続く