四ノ章 巣食う怪物(後編)
黄林寺 退魔僧伝
四ノ章 巣食う怪物(後編)
モンスターにさらわれたジゼルを見つけ出し、救出する。
パーティのリーダー、チャールズの出した結論に、ウルスラは小さな胸の内に安堵を覚えた。
古代文明の遺跡である、迷宮探索クエスト、人数はたった三人である。
迷宮内部で出会った、同じく探索者の、東洋魔術を使う老人を含めてはいるが、あまりに貧弱な戦力だ。
本来ならば、迅速に引き返し、メンバーから行方不明が出たことをギルドへ報告、後はギルドや都の憲兵隊に任せるべきだろう。
木乃伊取りが木乃伊になる、という故事になりかねない。
だが、時は一刻を争う。
自分たち全員の危険と、大切な仲間の命とを天秤に掛け、結果、リーダーは勇敢にも女騎士を救うべく、さらなる探索を選んだ。
ゆえに、三人は、後退でなく前進を行う。
奥へ、奥へ、より深く危険な、迷宮の先へと。
「ジゼルさん、大丈夫でしょうか……」
不安に染まる声音を、少女が呟く。
誰に向けたというわけでもない、ただ、自然に出てしまうのだ。
ウルスラからすれば、ジゼルは初めての冒険者としてのクエストでできた仲間、本当の姉のように気さくで優しいひとだった。
その言葉にどう答えることもできず、チャールズと老人はちらと横目で少女へ一瞥をくれてから、またすぐに、地面に残された痕跡に目を向けた。
巨大な足跡は、うっすらと続き、追跡の標となっている。
毛細血管のように広がる無数の洞窟の中、どこからか、地表と繋がる穴が通す、微かに吹く風。
その微風で緩く崩れかけているが、まだ、追跡は可能な範囲だ。
「この先だ。まだ続く、どこまで行ったんだ」
「いつさらわれたかわからんのでは、検討もつかんのう。じゃが、あまりそう急いては危ないんじゃないかのう」
「なんだよ爺さん、ビビったのか」
「それもあるが、相手はお前さんの罠を外してたんじゃろう? 知恵が回るようじゃ、なら待ち伏せくらいしかねんぞ」
「……っ」
意外なことを言われたためか。
それとも、自分の気づかないことを指摘されたためか。
明るいムードメーカーであったチャールズの顔に、露骨に不機嫌なものが掠め過ぎる。
「そうかもな、でも事態は一刻を争うんだ。悠長に進んでられないぜ。ジゼルが殺されるかもしれねえんだぞ」
「殺されるなんて……そんなっ」
ウルスラの顔が蒼白となり、まだ成熟の足りぬ乙女の体は、小刻みに震えた。
「い、急ぎましょう! 早く、しないと……」
「ああ、すぐ追いつくさ。爺さん、いいな」
「ううむ……まあ、ええじゃろう」
涙目の乙女にそう言われては、老人も頷くよりない。
元より危険は承知の追跡行である。
目的はあくまでジゼルの救出だ。
「さあ、行こうぜ。囚われのお姫様がお待ちだ」
率先して、警戒も少なくとにかく前進していくチャールズ。
その後に続き、老人とウルスラも進んだ。
奥へ、奥へと。
地の底へと。
怪物が巣食う、迷宮を――
薄ら寒い気配に、肌が粟立ち、意識は覚醒していく。
「ん……あれ、ここは……」
窮屈に胸を締めていた防具の感触がない。
腰に下がっていた、愛用の長剣の重さも感じない。
あるのは冷たさ。
ジゼル・シャレット、由緒正しい騎士の位の家柄に産まれた、女騎士。
凛々しきジゼルはしかし、目を覚ました瞬間、その状況に我を忘れた。
あるいはそれが、彼女の本質的部分だったのかもしれない。
「なにっ……なによこれえ! なんなのよ! 誰か! 誰か助けて! いやぁあああ!」
その空間は、薄い光に照らされていた、こんな場所でも輝苔は天井に育成し、迷宮に光を灯す。
見たくないものを、おぞましいものを、なにもかも。
フックと鎖でぶら下がるその肉塊の数々。
こびり付いた血臭と死臭。
腰を下ろし『そいつ』は食事をしていた、それが見えてしまった。
ぐちゃぐちゃとごりごりと、肉を契り骨を噛む。
目が合った。
血走った巨大な眼球は、ひとの握り拳よりも大きい。
地面に腰を下ろしているだけで、ひとの背丈よりも大きい。
のそりと立ち上がって、『そいつ』は近づいてきた。
「ひい! 来ないで! いや! いやぁあ! 父様! 母様ぁ!」
恥も外聞もなく、泣き叫び、身をよじる。
ジゼルは逃げることなどできない。
両手は鎖で縛られ、床に突き立てた木杭に繋がれている。
無駄な抵抗をして体を激しく揺さぶると、防具を剥がしたことで、服に張り付いた豊かな胸も弾んだ。
長く、むっちりと肉のついた脚もだ。
おぞましい人外の目が、好色な光を鈍く湛える。
どうやら、ひとの女にも性欲を覚える種らしい。
巨大な手が、ジゼルの脚を掴む。
鉤爪により、簡単にズボンが破かれた。
「な、なにを……まさか、嘘でしょ……」
掠れた声でこれから起こることを想像し、凛々しい女騎士は失禁した。
それが嘘であってくれと願ったが、物事はなにひとつ思い通りになどならない。
やがて『そいつ』は腰蓑の奥から出した、凄まじい大きさのそれを、彼女に突きつけ、押し込んだ。
「いやぁああああああッッッ~~!」
絹を裂くような悲鳴。
ジゼル・シャレットの上げる声は、何度も、巨大な質量が前後するたび、跳ね上がった。
さらにそこへ、なにか肉を千切るような衝撃と音色が混ざったとき、悲鳴は形容し難いものにまで変化した。
「なあに、きっと無事さ。俺たちは間に合うよ」
気休めのような声と微笑を、パーティのリーダー、チャールズ・ボウルガードは、ウルスラに向ける。
「はい……」
若き魔術師の娘は、彼の心遣いに、儚げな微笑を浮かべて頷く。
モンスターがどれだけ早いかはしれないが、小一時間追跡を続けている、そろそろ、ねぐらに近づいてもいい頃合いだ。
黄金作りの瀟洒な魔導杖を握りしめ、ウルスラは戦意を高める。
「お、なんだアレ?」
そのとき、おもむろに、チャールズが声を上げた。
彼の視線の先には、黒い物体が地面の上に落ちている。
今、一行が追跡を続ける道は、土と岩が形成する自然洞窟である。
壁には時折、古代文明の記したとされる文字や図形が刻まれている。
だが、それ以外に人工物らしきものなどない。
チャールズが発見したものは、明らかに人工物に見えた。
袋、だろうか。
一抱えありそうな麻袋が落ちている、果たして、誰が落としたか。
「見てみよう」
彼は足早に近づいた。
そのときだった。
「ぎゃぁあ!」
叫びが上がる、チャールズがうずくまる。
足を虎挟みに捉えられていた。
なんという初歩的なトラップに引っかかってしまったのか。
見え透いた餌に食いついたのは、それが、追っている怪物のものと思い込んでか。
「だ、大丈夫ですか!」
「早く、外してくれ!」
足早にウルスラが駆け寄り、小さな手で頑強は鉄の塊に触れる。
だがそれは特定の開け方があるのか、冒険者の経験も薄い少女にはとうてい解除不可能なものだった。
ただひとり、老人だけは背後から迫る質量、その気配に気づいた。
「むっ」
小柄な体をさらに小さく、前かがみになって、杖を構える。
左手はゆるりと袖の内から術符を抜いていた。
ズンッ――
ズンッ――
と、巨大なそれが、やってくる。
薄闇の中、爛々と輝く、濁った黄色い虹彩、血走った白目も黄ばんでいる。
肌は黄土色で、渇き、ひび割れている。
纏っているのは、腰蓑一枚。
だがなにより凄まじかったのは、その体長。
二本足で歩く姿は、人間のようだ。
だが、この世のどこに、体長四メートルの人間がいる?
胴体も、腕も、足も、人間様のシルエットが、歪と感じるほどに太かった。
なみの人間が腕で抱えられないほど、巨大である。
手の先には、やはり、異常な武器があった。
黒く妖しい輝きは、黒曜石。
刃渡り一五〇センチは超えているだろう、長大で、分厚く、幅が広い。
かつて古代戦士が、戦いや超常動物の解体に用いた、オブシアン・ソードという。
古ルーン文字の、強化と呪いの文様が、刃に刻まれている。
「ぐるう、ああ……っ、オオ!」
怪物が吠える。
広いはずの洞窟を、狭く感じさせるほど巨大な化け物は、太い声で吠える。
黄色い汚らしい目が『一つ』ウルスラたちを見下ろす。
目は一個だけ。
頭部の半分以上を占めている。
「さ、単眼鬼……っ」
ウルスラは、チャールズに寄り添いながら、震える声で呟いた。
単眼鬼。
それは、遥かな古より存在するモンスターの一種。
巨大な肉体に、凄まじいパワーを持ち、武器を扱う程度には知性が在り、なにより、血に飢えて凶暴。
たった一体でも精鋭の戦士たちを容易く蹴散らす、強力な怪物だ。
「下がっておれ」
その怪物を前に、老人は慌てることも臆することもなく、端然と告げて、前に出た。
「お、お爺さん! だめです! 危ない!」
ウルスラは叫ぶ。
その声を裏切り、老人は左掌を振り払った。
手の先から放たれた術符が、洞窟を震撼させるほどの爆裂を散華させた。
「ぐるぅう!」
見事。
狙いは正確を極め、単眼鬼の顔に命中。
目蓋を閉じたため、視野を奪うことは叶わなかったが、一瞬でも隙をこじ開ける。
そこに、老人は疾風の如く踏み込んだ。
小さな体が旋転し、自然木の捻じくれた杖の先を、単眼鬼の膝に叩き込む。
ウルスラには想像もできなかったろうが、老人は杖の攻撃に、体内経絡で練り上げた『氣』そして、法力を通している。
東洋大陸で幾星霜の時を重ね、紡ぎあげてきた武芸、内家拳法家の用いる、気功拳だ。
「ごぉおお!」
単眼鬼は苦痛に叫び、膝を突く。
怪物のおぞましい頭部は、四メートルの高みから、三メートルにまで下降した。
老人が跳ね飛び、杖の一閃を届かせるには、十分な高さである。
「破ぁっ!」
裂帛の気合を込めた掛け声を放ち、老人は跳躍して、怪物の頭を突きかかる。
だが相手も、相当に場数を踏んでいるようだった。
その刹那、巨体からは想像もできぬ素早さで振るった黒曜の刃が、氣で硬めた杖を弾き返す。
火花を散らし、老人は杖ごと斜め後方に飛んだ。
空中で一度回転、着地して杖を地面に突き、衝撃と速度を殺す。
上から滾り落ちる、人外が放つ、黒曜の斬撃。
黄林寺拳法の滑るような足捌きが、紙一重で躱す。
同時に放つ、返礼の拘束術符。
だが貼り付くよりも前に、単眼鬼の左手が、指の先に生えた鉤爪で引き裂いた。
老人はさらに一歩跳び、距離を取る。
図らずも、ウルスラたちの傍で着地した。
「お、お爺さん……っ」
老人の、考えもしなかった戦闘力に驚いたか、敵の壮絶な強さに戦慄したか、ウルスラは、震える声を出すしかない。
老人は相変わらず眼前の敵に集中したまま、少女らに呼びかけた。
「なかなかやりおる。だが、案ずるな」
「大丈夫かよ爺さん」
「なあに、大したことはない、こんなもん……っ」
チャールズの声に答えようとしたとき、老人は、予想だにしなかった痛みと衝撃に、振り返った。
「お前っ」
そう、言った。
脇腹を突く冷たい刃が、じわじわと、痛みで熱を生んでいく。
なぜそこから攻撃が来たのか、なぜそいつがやったのか。
抗議するような目だった。
相手は笑った。
チームのリーダー、チャールズ・ボウルガードは。
「手間取らせやがって、面倒な手使わせんじゃねえよ」
そう言って、チャールズは、老人へ背後から突き刺した短剣を抜く。
鮮血が飛び散る。
老人は崩れ落ちた。
「え……えっ?」
なにが、起きているのか。
ただひとりウルスラは、理解できなかった。
なぜ、チャールズは立ち上がっているのか。
足にかかった虎挟みはどうしたのか。
なぜ、単眼鬼は、目の前まできて、チャールズへ攻撃しないのか。
なにもかもが、理解できない、わからない。
「おお、そんな顔すんな。ちょっと寝てな」
後頭部に走る衝撃に、ウルスラはそのまま謎を抱え、昏倒した。
「この馬鹿野郎! 俺が戻る前に『壊し』やがって! これじゃ使いもんにならねえだろうが!」
「うがあ! うがあ!」
激しく叱責する罵声。
魔獣の吠える声。
なにかを打つ音。
血の臭い。
屍の臭い。
ウルスラの意識を、それらが揺さぶる。
うっすらと、目を開く。
少女は見た、全てを。
「ひ、ひぃ!」
恐怖と嫌悪、心身全てを凍りつかせる悪夢の只中に、彼女はいた。
少女の上げた悲鳴に、怪物が二匹、振り返る。
一方は、見上げるほどの巨躯、先程彼女らと戦った、単眼鬼の威容。
もう一方は、ブロンドの二枚目の姿をし、普段は明るい朗らかな笑顔を見せていた男、チャールズ・ボウルガードだった。
「おうおう、ようやくお目覚めかよ」
「チャールズさん……これは、どうして……ジゼルさん。なんで、そんな……ああっ」
腰の後ろで腕を縛られ、地べたの上に転がされていたウルスラは、涙を流し、すぐ目の前に在る骸へ嘆いた。
かつて優しく気丈に微笑んだ女騎士の末路は、無残に過ぎた。
服を引き毟られ、露わになった豊満な体は、肩や胸の肉を食い千切られ、赤い断面と生乾きの鮮血を見せて。
開かれた脚の間に残る血痕から連想される行為は、考えるだけでおぞましい。
出血多量のためだろうか、とうに息絶え、苦痛と恐怖に凍った表情のまま、彼女は魂なき屍としてそこに在った。
乙女の嘆きと悲しみを前に、単眼鬼の隣に立つ男、チャールズは、嬉しげに笑う。
よほど、少女の反応が面白いと見える。
「本当はお前と並べて楽しみたかったんだがよ、この馬鹿がその前にこんなんしちまって。残念だったなあ、え? 魔術師のお嬢様」
いいながら、チャールズは単眼鬼の足に蹴りをいれる。
単眼鬼は、があ、と呻くが、彼に敵意や攻撃を見せることはない。
あまりに理解を超えていた。
ウルスラは、ただただ、悲しむとともに、不可思議に駆られるばかりである。
「な、なにを、いって……なんで、なんなんですか……どうして」
「わからねえかなあ、まあ、わからるわけもねえか」
得意満面で、チャールズは単眼鬼の体を、ぽんぽんと手で叩いた。
「元からこういう予定、こういうやり口だったのさ。俺がこいつを使って、お前らみたいなのをヤっちまう」
「私、たち?」
「新米冒険者。いいカモだぜえ。親の後を継げない次男坊とかよ。装備はいいもん持ってるが、経験がなくて不用心。寝首掻くなり、なんなりし放題。あとは装備を転売して死骸はこいつの餌だ。ああいうふうにな」
「~っ」
チャールズが、自分の背後を指差す。
改めてそれを見上げ、ウルスラは顔も声も引きつらせた。
壁には、鎖で幾つもの『もの』がぶら下がっていた。
かつて人間だった、肉だ。
骨を見せ、肉を千切られ、あるものはひとの形を保ち、またあるものは、それさえ保てない有様で。
食われている。
単眼鬼が、腹をすかせたときの保存食であった。
ここへ連れ込まれたジゼルが見て、半狂乱となったのも、この光景のためであった。
誰だってそうだろう。
縛られ、抵抗も脱出も叶わぬ状態で、腐った死体の吊るされた地下奥深く、巨大で凶悪な単眼鬼の餌食になる。
想像を絶する恐怖であった。
「あの爺さんがいなけりゃあ、もっと簡単にいったんだがな。ほんと、邪魔くせえ爺さんだったぜ」
「お爺さん……あ! あ、あのひとは……どうしたんですか!」
「死んだよ。当たり前だろう。ぐっさり後ろから刺したんだ。もっと前にやるつもりだったのに、あいつ、薬仕込んだ飯食わせても完全に眠らなかった。おかげで一芝居打って、不意打ちしかけなきゃあいけなかったんだ」
「薬……」
「あのときの飯だよ。ジゼルのやつもお前も、あそこで眠らせてやるつもりだったんだ。だが、ジゼルのやつ事前に毒消しかなんか飲んでたか、それとも、体質的に合わなかったのかな。だからこいつに外へ誘わせてから、後ろから殴って気絶させた。今日は本当にめんどくさい狩りだ。こんなのは久しぶりだぜ」
やれやれといった風に、チャールズは肩をすくめる。
「でも、これでようやく邪魔がなくなった。後はお前をじっくり料理するだけだ」
「きゃあ! や、やめて……やめて! いやあ!」
ウルスラの、まだ成熟しきっていない肉体の上に、舌なめずりするチャールズが、下衆な笑顔で乗りかかる。
腕を後ろで縛られ、足をばたつかせるしかできないウルスラは、逃げることなどできない。
魔導杖も当然ない。
少女の細い脚を、左右に割り開かせ、チャールズはズボンを下げようとする。
そのときであった。
「そのへんにしときな」
しわがれた老人の声が、響いた。
迷宮奥部の、この広い石室に、誰がそんな声を響かせるか。
誰が、戸を開け、踏み込んだか。
金色の光が一閃した。
「ぎゃああ!」
外道が叫ぶ。
その肩に、ざっくりとなにかが刺さっていた。
仏法具のひとつ、金剛杵である。
梵語ではヴァジラともいう、帝釈天の用いたという武器を元にデザインされており、本来は祈りを捧げたり、儀式のおりに持つものである。
悪しき魔を祓う聖なる武具として、退魔僧が好んで暗器として持ち歩く。
「て、てめえ! 生きてやがったのか!」
チャールズは、すぐさま身を起こし、背後へ、単眼鬼の背後へと跳んだ。
肩を押さえ、流れる血と、身を苛む痛みに、顔は憎悪に歪んでいる。
男の視線の前で、ゆらり、ゆらりと、小柄な影が歩む。
襤褸切れの外套を纏った、捻じくれた自然木の杖を持った、白髯の老人。
先程、背後から刺殺したはずの、老人だった。
「まあね。気功で瞬間的に、身を硬くした。硬気功ってえやつだ。止血もできるんだよ、便利だろう。氣ってやつは。飯に混ぜてあった眠り毒もこれで処せたが……油断が過ぎたな。お前さんがそうだともっと早く気づいてれば、騎士のお嬢さんも助けられたろうに、不憫なことをしちまった」
「爺、てめえ……なにもんだ」
言葉を交わしながら、老人は油断なく視線で単眼鬼とチャールズを制しつつ、立ち位置を探る。
ゆるり、ゆるりと、擦るように歩んだ老人は、やがて、床に転がされたウルスラにまで近づき、抱き上げた。
「お爺さん……」
「安心しな。すぐ終わる。それまで眠っておいで。これから先は、お嬢さんみたいな子が見ていいもんじゃない」
初めてしっかりと見た、頭巾の下から見上げる老人の笑顔、それは、この地獄絵図に不釣合いなほど、優しく慈悲に満ちていた。
ふっと、ウルスラが目を閉じ、意識を失う。
ぶつぶつと小さく呟かれた老人の、梵語の真言の力だ。
老人の袖の中から、なにかが出た。
一枚の術符だ。
それは人型を切り取ったもので、袖の中から飛び出るや、不格好な人型のまま、本当に人間大になる。
厚みを持たぬ紙の人型に、老人は、抱えていた少女を渡す。
紙の人型は恭しく受け取り、背後へ下がった。
もしものときは、そのまま脱出して、少女を安全な場所まで逃がす算段だろう。
かくして、老人と、チャールズ、単眼鬼。
両陣営は、広い石室の中央で、にらみ合う形となった。
「てめえ、いったいなんだ。その技といい、気功といい……並の使い手じゃねえだろ」
「お前みたいな下衆に名乗るほどのものじゃないがね。まあ、最後に教えてやってもいいか」
いいながら、老人は、纏っていた襤褸の外套を脱ぎ捨て、その下に秘していた、袈裟と法衣を見せつけ、名乗った。
「黄林寺、退魔僧。ゲンナ。ひとからは、大老などとも呼ばれておるよ」
退魔の聖殿、黄林寺。
その寺にあって、大僧正たるリュウガイ和尚の右腕とも呼ばれる、寺のナンバーツー。
白髯を伸ばす法力と法術の使い手、ゲンナ大老が今、そこに居た。
杖を突いた小柄な老人の矮躯を前に、憎らしげに、チャールズは眉根を歪める。
「黄林寺? たしか、化物退治専門の坊主どもだろう。なんでそんなやつらが、俺の領域にいやがる」
「ガンダーラの都の憲兵隊の方からね、相談されたのさ。ここのところ、若い冒険者で行方知れずになるやつが多い。冒険者が探索で不慮の事態にあうのは珍しくないが、ここ何年か、新米の冒険者ばかり連続で失踪しすぎてるってね」
「なるほど。やっぱ狩場は早々に変えてたほうがよかったな。このへんは、いい塩梅に拠点を作った、未発見の迷宮が多かったから、ついつい使いすぎちまった」
やれやれと、これまで自分がしてきた鬼畜の所業を鑑み、チャールズは頭を掻いて苦笑する。
悪びれるどころか、気にさえしていない風である。
ゲンナ大老は、それを前に、しわ深い顔の奥で、目を細めた。
「お前さん。こんなことをずっとしてたのかい」
「まあね。新米狩りはいい稼ぎになる。事件性を疑うやつもあまりいないし、未発見の迷宮は多い。先に狩場を定めておけば、いくらでもやりようがある」
「その化物は、どうしたんだい」
ちらと、杖の先で単眼鬼を指した。
チャールズは、得意げに笑う。
「へへ、いいだろう。こんな古代魔獣を、これほど従順に調教できるやつはそういねえ。実はな、死んだ親父の遺産みたいなもんなのさ」
「ほう?」
「俺の親父は変わり者でなぁ、こういう未発見の古代の迷宮を探り、遺物を蒐集し、魔術を研究してた。その成果だ。赤ん坊の単眼鬼を、見つけて持ち帰り、脳を弄って改造、調教した。親父と俺の命令には絶対服従する犬としてな。親父が死んで以来、俺が人間狩りに使うようになったんだ」
「罠の解除や、さっきみたいな一芝居もかね」
「おう。こいつだけに狩らせたっていいし。俺が毒や薬を盛って寝首を掻くでもいいしな。おかげで今までたんまり稼がせてもらった」
言葉を交わしながら、じりじりと、チャールズは背後へ下がり、代わりに、単眼鬼が前に進み出て、ゲンナ大老と距離を詰める。
巨大なる質量は、すでに武器を構えていた。
黒曜剣、オブシアン・ソード、ルーン魔術で強化した大剣である。
古代文明のひとは、これにより竜の肉体さえ解体した。
かつて戦った戦士から奪った武装だろう。
血と死臭がこびりついた、歪なる武器。
これを人外の中でも、屈強な肉体と腕力で扱えば、圧倒的なことはいうまでもない。
「俺のことを感づいてるのは、まだお前だけだろう?」
「まあね」
「なら、今ここでてめえをぶち殺し、あのガキもバラせば問題ねえわけだ。へへ、あのガキはヤル前にお楽しみだ。貧相な体でも、楽しみ方はいろいろあるぜ、爺さんよ」
これほど、人間は下劣で汚らしい顔で笑えるのか。
以前見せた、作り物の気さくな表情から一転し、チャールズは外道の、悪鬼の顔を見せていた。
老僧、ゲンナは、怒るでも悲しむでもなく、静かに、目を細める。
むしろ大仰に騒がぬだけ、そこには不気味な威圧感が満ちていた。
「そうやって、さんざん嬲って殺してきたのかい。お前さん」
「だったらなんだい」
「……」
こつん。
こつん。
と。
老僧は、杖で地面を突きながら、歩む。
頭上から、凄まじい破壊力を秘めた大質量――鋭い黒曜の刃が滾り落ちる。
当たれば人間など、俎上の肉のように容易く切断せしめるだろう。
勝った。
チャールズは、自分の確実な勝利を、そして、簒奪と陵辱の甘美な至福を連想し、ほくそ笑む。
それを引き裂いたのは、迷宮全体を震撼させるが如き、硬質な物体の激突する、大音声。
腹の底まで響く、衝撃。
「っ!」
目を見開き、喉の奥から声にならぬ声を上げ、チャールズは震え上がった。
腕だ。
ゲンナ大老がなにげなく上げた右腕、法衣をめくりあげた、細い、枯れ木のような腕。
痩せた老人の腕から『もう一本の腕』が生えている。
そのように、見えた。
光り輝くものも見える。
円形だ。
梵語の真言を綴った、円形、魔法陣? 魔術陣? のようなもの。
それが、大老の右前腕の半ばで輝き、そこから、もう一本の腕が生えている。
凄まじい腕だ。
丸太の如く太い。
赤い肌をしている。
金色の腕輪を嵌めている。
鋭い爪を持っている。
長柄の武器を持っている。
あまりにも太く長い、人間が扱うことを考えていない、金色をした、方天画戟である。
その金色の方天画戟が、単眼鬼の振り下ろした黒曜剣を、軽々と受け止めていたのだ。
「お前さんよ。怪物を使役できるのは。自分だけだとでも思っていたのかい」
老人の低い声が、しわがれた声が、響く。
吹き荒ぶ雪嵐の如き、殺気、威圧感、想像を超えた法力と魔力の、圧倒的密度。
ガタガタとなにかが鳴る。
歯の鳴る音だ。
古代魔獣の中でも屈強として知られる単眼鬼の口の中から聞こえる音だ。
「わしは五匹飼っている。この身に巣食わせているのさ。こうして、術として編み上げてね」
いいながら、大老は、袖をめくった右腕を見せた。
右前腕の半ばに、複雑細緻の文様が、入れ墨のように刻まれている。
「右腕に一。右肩に一。左腕に一。左肩に一。そして、背中に一。こいつは、右腕のだ」
右腕を振る。
巨大な法力の円形陣、魔術の陣がより広く拡大され、凄まじき威圧感の源が、体を引きずり出される。
単眼鬼が、一歩後ずさる。
出現した『それ』は単眼鬼よりもさらに大きかった。
赤い肌。
体中につけた金色の装飾具。
黄金の角が、ぬっと生えている頭。
鋭い牙に、爪、眼光。
鬼だった。
「やってしまいな。金角」
鬼神は、命じられるままに、己を使役する主の言葉に従った。
一閃であった。
黒血を奔騰させ、単眼鬼の岩のように頑強な肉体が、頭から股の下まで斬割される。
悲鳴を上げる暇さえなかった。
ずんと崩折れた体が、後から臓物をごぼりとこぼす。
「ひ、ひいい!」
たったの一撃、方天画戟の黄金の刃で、頼みの綱の単眼鬼を屠られ、チャールズ・ボウルガードは半狂乱で尻もちをついた。
これが、黄林寺の高僧、法力と法術を極めたとされるゲンナの持つ力。
古代魔獣なにするものぞ。
外道の誇った力など、それを前にすれば塵芥に等しい。
「さて……」
老僧は、ゆるりと、近づく。
細められた目は、刃のような光を湛えている。
普段は決して外へ出すことのない、老人が腹の底に隠していた、怒れる地獄の業火であった。
「ま、待て! 許して……許してくれ! な? 後生だ! なんなら、金……そうだ、金をやる! 今までたんまり稼いでるんだ! あんたに全部やるよ!」
こつん。
こつんと。
老人が、杖を鳴らし、近づく。
外道の命乞いを聞きながら、まったく歩みは乱れない。
「なあ。どうして、わしは黄林寺の和尚に選ばれなかったと思うね」
「は?」
意味のわからぬ言葉を問われ、チャールズは引きつった声を上げる。
元より、相手の反応、返事を期待してのものではない。
それは、独り言のようなものだった。
「わしとあいつは年も実力も、それなりに近かった、だが、先代の大和尚様が次代の和尚に選んだのはあいつだ。あの方はわかっておったのだろう、わしの性根というやつをな」
言いながら、老人は、ふっと手の杖を振る。
普段使うのとは違う、別種の魔術の陣が、空中に魔力光を伴って描かれた。
なにを、使ったのか。
なにを、するつもりか。
「リュウガイならばこんなことはするまいよ。だがな、わしはするんだ。お前のようなやつが我慢ならねえ」
「お、おい……あんた、なにを」
「命乞いをするなら、そいつらにするがええ。お前を裁く権利は、そのものらにある」
「なっ!」
外道は見た。
周囲を。
おお、おお――と。
低い、血の底の地獄から響くような、喉の奥から絞り出す呻き声。
ずるずるとなにかが這う。
腐臭と死臭を放つ、腐った肉塊。
吊るされていたものが、ぐちゃぐちゃと落ちる。
そして、ゆっくり近づいてくる。
チャールズへと。
彼に殺され、辱められ、奪われ、死んだ、憐れなものたちが。
呪術による仮初めの命を得て、動く。
生きる屍となって。
「ああ、うあ……ああ! くるな! 畜生、来るなあ!」
泣き叫ぶ。
肩に食い込んだ金剛杵のために、剣をまともに抜くこともできない。
地べたを転がり、男は声を上げて叫ぶ。
振り回していた左腕が、なにかに捉えられた。
白い歯が食い込み、肉を千切り取る。
「ぎゃあああ!」
腹の底から絞り出す絶叫。
ぐちゃぐちゃと肉を噛んで、喰う。
「ジゼル……まて、やめろ、許してくれ!」
それは、あの赤毛の、美しかった女騎士だった。
いっとき、死霊となった霊魂を宿された屍は、今ここに、報仇の魔物として蘇る。
リビングデッドは、濁った目で、彼を見た。
おお――おお――
意味のない、言葉にならぬ呻き。
ジゼルが、手を伸ばし、チャールズの体にのしかかる。
さらに、一度噛み付いた左腕の傷跡を、上からさらに噛んだ。
悲鳴。
絶叫。
命乞い。
そこへ、とうとう包囲して、ぐるりと囲んだ他のゾンビも加わる。
ぞぶり。
ぞぶり。
ぐぢゃり。
ぐぢゃり。
肉を噛む。
肉を千切る。
喰らう。
喰らう。
簡単に殺しはしなかった。
たっぷりと、時間をかけて。
外道に殺されたものたちは、その怒りと憎しみを、丹念に果たしていった。
全ての光景を、老僧はただ冷たく凍れる目で見つめ続けた。
やがて、チャールズ・ボウルガードという男だった肉が、骨が、臓物が、この世から完全に消えたとき、ゲンナは、意識を失った少女とともに、迷宮という地獄を去っていった。
冒険者狩りの惨殺魔、凶漢チャールズ・ボウルガード。
推定年齢二五才前後、本名不詳。
ゲンナ大老と、ウルスラ・リュッケルトの証言により、彼の根城にしていた迷宮内部の部屋からは、ジゼル・シャレットを含む計一五人の遺体が発見された。
様々な証拠と、大老の証言から、チャールズは何年もの期間に渡りこのような強盗と強姦を繰り返してきたらしい。
証拠品のメモ類から、幾つかの未発見の迷宮と、拠点が見つかった。
餌として、獲物に選ばれた冒険者を油断させる財宝もあり、換金しきれなかった遺留品と、単眼鬼の食料になっていた被害者の肉片が多数。
それでもまだ全貌は知れない、被害者の数もだ。
チャールズは現在、一〇〇万ギルダの賞金がかけられ、賞金首となっている。
ゲンナの証言では、戦いに敗れた彼は、迷宮の奥深くに『逃走』したらしい。
発見されることは、永久にないだろう。
全ては老僧の胸の奥に、冷たく仕舞い込まれている。
「では、これで失礼するよ」
「はい。どうもありがとうございました」
事務所の受付嬢が頭を下げ、訪れた老僧に礼をする。
腰の曲がった、白髯の老僧は――ゲンナ大老であった。
憲兵隊への事件の報告と、事後調査の証言を終えてから、失踪した冒険者たちの人相や情報などを、この冒険者ギルドへ聞きに訪れていたのだ。
だが、さして進展といえるものはない。
それでもゲンナがここへ来たのは、怨念として死霊として動かし、チャールズを葬るよう仕向けた被害者への罪悪感。
事件の主犯たる外道を、秘密裏に処刑した己を恥じ、生前の被害者の姿を、せめて我が目に刻んでおきたかったためだ。
(あいつなら、こんなことをせず、あの外道も生かしたまま捕まえたんだろうがな……)
もし、リュウガイ和尚であったなら、こんな風に私刑で裁くことなどしなかったろう。
和尚も、以前、魔剣カラド・ボルグの力に溺れ、魔物化した殺人鬼を屠ったことがある。
しかしあれは、魔剣の持つ強大な力によって人外化し、もはやひとに戻ることの叶わぬ化生と成り果てたがゆえだ。
魔物と成り果てぬのであれば、殺生以外の道を選んだであろう。
殺めるのは、ひとならざる怪物。
そう定めるがゆえに、自分が殺戮に手を染めることを許す。
最低限の仁義だと、認識している。
(しかしわしは……)
ゲンナ大老は、それを思うと、己の浅ましさに昏い心地となった。
いや、自分だけではない。
あのチャールズ・ボウルガードという外道といい、多くのものは――
老人は、ふと足を止め、ちらと視線を横へ流した。
冒険者ギルドの壁には、大量の依頼書が貼り付けられている。
【ゴブリン狩り一匹につき一万ギルダ 隊員急募】
【野盗退治に部隊編成 一人週一〇万!】
【下記賞金首を狩るメンバー募集中 対人戦に慣れた冒険者優遇!】
【迷宮でのモンスターハント! 報奨金一五万 その他諸経費支払い可】
妖怪妖魔のみならず、人間の犯罪者もまた等しく獲物として狩る、諸々の募集の山。
金になると知ればどんなことでもするし、どんなものでも殺す、扱う、奪う。
法の許す限りに。
また、中には、チャールズのように外法を働く、ひとの姿をした鬼も潜んでいるだろう。
暴力を生業にするものに、それは必然としてありえることだ。
慣れるのだ。
他社を殺害することに、奪うことに。
冒険者が密かに強盗と化して犯罪を行うことは、今日に始まったことではない。
日常なのだ。
『本当に、お前らは浅ましいな』
ゲンナ大老の右腕の中で、声なき声が呟いた。
単眼鬼を屠った鬼神である。
左の鬼神も呟いた。
『魔性の眷属も狩る、ひとも狩る。遺跡を荒らす。よくもまあここまで』
『我ら魔神のほうが、まだおとなしいわ』
『うぬらひとの所業に比べればな』
『まったく……ほとほと呆れる』
腕、肩、背。
それぞれに封印し、使役し、支配する超絶の魔神たちが。
人間の有様をせせら笑う。
ゲンナ大老を、そして、他の人間も――
彼らは知っている、この世で妖怪よりもおぞましきものを。
海と地、この地球という惑星のありとあらゆる場所で繁殖し、陣地を広げ、知恵と暴虐のままに破壊と蹂躙を繰り返す獣。
どんな悪鬼も妖魔も敵わぬほど強欲で、一切の遠慮というものを知らぬ獣。
他の種族どころか、同じ種族をも殺戮し、奪い尽くす獣。
おお、そのなんとおぞましき有様か。
世界中のあらゆる場所に巣食うその怪物の名は、人間という。
最も醜悪で邪悪な怪物である。
「……」
己の内で響く、魔神たちの嘲笑を聞きながら、ゲンナ大老は、静かにギルドの事務所を去った。
果たしてこの世に、救済するに足る人間など、いるのか。
そう、声なき問いを抱きながら。
「あの、お爺さん……」
澄んだ声音が老僧を呼んだのは、そのときであった。
ゲンナが振り返る。
そこには、少女が立っていた。
ショートボブに切りそろえた銀髪に、穢れなき白き装束。
手には、黄金の魔導杖。
「お前さんは……あのときの」
外道の手から救い、命を助けた乙女。
ウルスラ・リュッケルトであった。
「あのときは、本当にありがとうございました」
「いや、いいんじゃよ。結局、お前さんしか救えんかった。騎士の嬢ちゃんは間に合わんかったしな。わしの力不足じゃ」
「……そんなことっ」
思い出せば、少女の瞳は潤む。
ひとの姿をした怪物、いや、ひとという名の怪物が喰らった、獲物のひとり。
優しく強かった女騎士。
ふと、ゲンナは今更のように気づく。
ウルスラが魔術師としての装いをして、このギルドの事務所の前にいるという事実に。
「お嬢さん。その格好……お前さん、まさか、まだ冒険者をしとるのかね」
「はい」
信じ難い。
初めてのクエストで、ひとを殺し、奪い、犯す、さらには喰らう、そんな怪物と外道に遭遇したのだ。
並の精神ならば、もはや冒険者など続けず、貴族の淑女らしく生きようとするはずだ。
それでも彼女は、未だに冒険者として在るという。
「怖くはないのかね。あんなことがあって」
聞くべきことではない。
わかっている、だが、聞かずにいられなかった。
彼女が見たのは、人間の最も醜悪で汚らしい面だ。
ゲンナはむしろ、彼女にはこれ以上、こんな危険な仕事はして欲しくないとさえ思っているのだろう。
あのときの恐怖を思い返してか、ウルスラは震えた。
一度うつむき、小さな声で返す。
「怖いです……とても。まだ、夢に見ます」
「ならなぜ」
「……」
その問いに、少女はしばし沈黙した。
言葉が出ないのは、いうべき言葉を選んでいるからだ。
すでに答えは堅く、彼女の中に在った。
やがてゆっくりと、少女はいった。
「まだ私は魔術が使えます。まだ私は立っています、生きています。この手は動きます。なら、するべきことは世界から目を逸して閉じこもることではないと思うんです」
それは輝きだった。
恐れながら、しかし、少女は立ち止まるのでなく、前に進む道を選んでいた。
戦う道だ。
その手にあるか細い力が、この世の誰かのためになると信じている。
「あなたが私を助けてくれたように、私も、誰かを助けたいんです。まだ弱くて、未熟ですけど……それが、あのとき生き残った私の成すべきこと。死んでしまったジゼルさんへの手向けだと想います」
儚く、脆く、頼りない。
されど乙女が抱く祈りは気高く、この世のどんな悪にも負けぬ、清廉さを持っていた。
ゲンナは、そのあまりの輝きに、目が眩むような感慨さえ覚えた。
「不甲斐ないのう、わしは」
ひとは邪悪?
ひとは外道?
ひとは鬼畜?
ふん、なにを馬鹿な。
ひとりの下衆を見た程度で、この世の全ても下衆と決めるなど、それこそ見下げ果てた化生の歪んだ思考ではないか。
ひとは怪物である。
ひとは聖人である。
どちらも等しく正しく、間違ってなどいないのだ。
「不甲斐ないなんて、そんな。お爺さんは……凄い方です」
「ありがとうな、お嬢さん。そう言ってくれると、嬉しいわい」
「では、私はこれで失礼します。またこれから、新しいパーティでクエストを受けにいくので」
ちらと、視線を肩越しに向ける。
見れば、彼女の背後には、彼女を待っていると思わしき、数人の冒険者がいた。
ゲンナ大老は、笑顔で見送った。
「達者でな。どうか、くれぐれも気をつけてくれ」
「はい。お爺さんも」
ぱたぱたと、小走りで駆けていく。
まだ未熟で、弱く、だが誰よりも気高き勇者を、老僧は見つめた。
その姿が往来の彼方へ消えていくまで、佇み。
やがて、寺への帰途につく。
しわだらけの老僧の顔には、優しげで嬉しげな、今までにないほど晴れやかな微笑が、浮かんでいた。