一ノ章 魔剣僧拳(前編)
黄林寺 退魔僧伝
一ノ章 魔剣僧拳(前編)
月下であった。
冴え冴えと冷たい月光が、青く夜の世界を満たしている。
石畳と石造りの家々、西洋的建築群の中に、しかし、漢字で表記された看板や、瓦屋根の東洋風建築も入り混じっている。
アンバランスであるが、どこか、味わいもある風情の町並みであった。
そんな夜の街の風に、生臭く生ぬるい風がそよぐ。
血風である。
流れ出た肉体のぬくみを、まだ帯びている血が、臭いを風にくゆらせている。
轟――と、血生臭い空気を、鋭く重い風が薙ぎ払う。
石畳を蹴り、巨躯が駆けた。
人型であり、だが、決してひとのそれと違う造形の輪郭が、月光の中で跳躍した。
宙で身を翻したそれは、身を捻り、石畳の上に着地する。
滅多なことで傷つかぬ強固な石畳が、音を立ててひび割れた。
重さもそうだが、足の先に生えた長く硬い鉤爪のせいであろう。
「グルぅうっ」
口の中で、牙と舌、どちらも長大なそれらが、血と肉を掻き混ぜて、鳴いた。
べっ、と外に吐き出す。
先程喰らった人肉と、そのものが口内から流す血とが混ざっている。
「もう逃げられぬ、観念せよ」
異形のものへ、闇の中より声が発せられた。
凛然とし、勇ましく強く、理知的でもある声であった。
その男は、すいと前に進み出る。
頭は剃り上げた、剃髪。
身に纏うのは、修行衣も兼ね備えた、武僧服、または、羅漢服とも呼ばれる僧衣であった。
ひと目で、僧侶、それも武門を学び鍛錬するものと見て取れた。
僧は手に携えていた、長柄の武器を、ゆるく先端を相手へ向け、構える。
まるで力んだ風に見えぬが、一瞬の動作でしなやかにうねり、強烈に相手を打つことを可能とする。
木造りの棍棒である。
その威力は、先程顔面を打たれたことで、相手も十分に知っていた。
「おのれ、生意気な……坊主、貴様なにものだっ。この水虎、岸蟲奇の顔に、一撃くれるとは」
忌々しげに、異形のものは、棍棒の一撃で血を吐いた己の顔を撫で、声を上げた。
水虎とは、そのものの、種の名称である。
さもありなん、それは、水なる虎の妖物であった。
全身に水濡れの鱗を持ち、鋭い鉤爪と牙を持ち、顔は虎。
岸蟲奇とは、この水虎の個人名であろう。
そのもの固有の名を持つというのは、それだけ妖物としての位が高いことを示す。
名とは、それだけである種の呪としての力も持つのである。
そのような化物を相手に、暗夜、一戦を交える、それも、単独で。
斯様なる僧とはなにものであるか。
僧は棍棒を構えたまま、答えた。
「黄林寺は黄林僧がひとり。中級僧、ゴウジンである」
「なに! 貴様、あの黄林寺の坊主であるか」
血走った目を見開き、水虎、岸蟲奇が驚嘆する。
黄林寺という名は、それほどに値する響きであった。
続けて、僧侶ゴウジンは言った。
「人里に来ず、二度とひとを喰らわぬというならば、見逃してもよい」
「たわけが。この俺が人間風情の言うことを聞くと思うか」
「ならばやることは一つ」
「なんだ」
「貴様を討ち倒すのみ」
「やってみせい!」
闇に風が躍る、総身を鋼の如く硬き鱗で覆われた巨躯、水虎、岸蟲奇。
右手の一閃が、鉤爪の切っ先も鋭く横薙ぎに振り払われた。
人間の肉体など、造作もなく引き裂く一撃である。
僧、ゴウジンは、先んじて既に動いていた。
長柄の棍棒が円を描く。
その長さに比して、ごく小さい円形である。
下から掬い上げるように、外より内へ、自分の顔面を削ぎ落とさんと迫る化物の右腕を、ゴウジンは絡めるように棍棒で叩いた。
「ぬう!」
牙の合間より、岸蟲奇が呻いた。
力づくで防ぐのではなく、振るった腕の力をそのまま受け流すが如く、いなされる。
体勢を崩した相手へ、ゴウジンはそのままさらに、素早く無駄なく、卓越した足捌きで身を捻り、棍棒より離した右手で掌底を、岸蟲奇の背後へ放つ。
瞬間、月光に満ちる世界に、重く硬い音が鳴り響く。
「~っ!」
化物の口から、言葉にならぬ雄叫びが上がった。
下手な刀剣を通さぬ水虎の鱗の総身に、めり込んだ衝撃は、それほどである。
石畳の地面が軋むほどの踏み込みと、邪悪な妖物を祓い清める法力を込めた、掌打の一撃なのだ。
さらなる血を口から吐きながら、それでもまだ崩折れぬ怪物は、振り返って憎悪に目を、爛々と輝かせた。
「おのれ、小癪な、くそ坊主めが、おのれえ!」
もはや狂乱の有様である。
技もくそもない。
そもそも、獣にしろ妖物にしろ、そのような些末なものに囚われる存在でない。
渦巻く風鳴りと共に、手で、脚で、怪物は次々に、妖力を込めた爪の攻撃を放つ。
怒り狂った怪物は、相打ち覚悟で突進しながら乱撃に次ぐ乱撃。
ゴウジン、これには退く。
真正面からいなすには、攻撃の間隔が矢継ぎ早に過ぎるか。
「どうした! 受けてみろ! 黄林僧!」
背後へ、背後へと下がって逃げるゴウジンに、形勢逆転した岸蟲奇が叫ぶ。
とうとう逃げ続けたゴウジンが、立ち並ぶ家々の石壁にまで迫る。
もう逃げ場はない。
勝った。
口内に、殺し喰らう相手の肉の味を想像し、岸蟲奇が異形の顔に笑みを浮かべる。
その刹那であった。
ゴウジンは、背後の壁へ迫り、そのまま、なお、下がった。
「おお!」
怪物が驚きに叫ぶ。
なんと、ゴウジンは後ろを振り向きもせぬまま、背後の壁に滑るように足を運び、壁を蹴って上へと跳んだのである。
手にした棍棒を地面へと突き、その勢いも乗せての、凄まじい速度と流れるような身のこなしであった。
おそらく、先んじて視線を運ばせた周囲の地形、歩いて到達する距離を、頭の中に刻んでいたのであろう。
それにしても、生きるか死ぬかの死線の最中にできる芸当ではない。
岸蟲奇の振るった爪が、獲物を捉えそこね、壁にぶち当たる。
砕けた煉瓦の破片が飛び散る。
自分の頭上を跳ぶゴウジンへ、しかし、まだ勝利を諦めず、上半身を、腰を、限界まで捻って、岸蟲奇は蹴りを放った。
足の先にも生えている鋭い爪ならば、頭上の相手へも十分に届く。
ゴウジンは跳躍のために、棍棒を手放している。
空中ならば、踏み込みで力を乗せた打撃も出せぬはず。
勝機はあった、はずだった。
だが、空中にあるゴウジンは、手を突き出し、そこから禍々しい刃金の煌めきを放った。
「ぐはぁあ!」
その輝きは、過たず岸蟲奇の眉間を貫き、頭蓋も脳髄も通り抜け、後頭部までぶちぬいた。
齢にして一〇〇年余りを生き、多くの人間を徒に喰らい殺し続けた妖物は、この夜、果てた。
宙を舞った僧、ゴウジンは、慎ましい音と共に、着地。
斃した相手にも油断せず、拳を残心に構える。
やがて屍より、妖力の波動も感じぬと見て、ようやく構えを解いた。
ゴウジンはそっと両手を眼前で重ね合わせ、つぶやく。
「南無阿弥陀仏。安らかに眠るべし」
多くの人間を殺した怪物を相手へも、凛然とした僧は、一抹の情けと共に、仏の祈りを捧げた。
月明かりを受け、脳天を穿った勢いで壁に突き刺さっていた、暗器、峨嵋刺だけが、血塗れの輝きと共に、それらを沈黙と見つめていた。
「「「憤っ!」」」
幾重にも重なり合った、男たちの掛け声が、広い広い、青き空と輝く太陽の下で、木霊する。
「「「破っ!」」」
太い声は乱れず重なり。
それと同時に、大気を唸る、拳足の繰り出される音、纏った武僧服のひらめく音も、共に在る。
「「「憤っ!」」」
また同じ掛け声を上げながら、同じ動作を繰り返す。
大地を踏みしめ、拳を繰り出す。
汗が飛び散る。
またもうひとつの動作へと戻る。
「「「破っ!」」」
拳の次には、足である。
右拳に合わせ、出すのは左足。
上段への前蹴り。
「「「憤っ!」」」
右拳。
「「「破っ!」」」
左足。
そしてまた右拳、左足、右拳、左足。
男たちは、同じ掛け声と、同じ動作を、幾度も、幾度も繰り返す。
鍛錬であった。
ひたすらに同じ工程繰り返し、鍛え上げる、練り上げる。
男たちは皆等しく、僧形だった。
頭を剃り上げた剃髪。
身につけているのは、粗末で簡素な修行衣の羅漢服。
汗にまみれ土にまみれ、僧たちは修行する。
そこは、広い寺内の敷地の中であった。
広大な寺の門には、こう名を記している。
黄林寺、と。
洋の東西を結ぶ、ガンダーラの地である。
遥か西洋の文化と文明が、東洋の不可思議と混ざり合い、共にある。
この地に、黄林寺は、本拠を置いていた。
簡潔に言えば、仏門のただの一宗派でありながら、名は知れ渡っていた。
なぜなら黄林寺の掲げる思想と、その武威が、他の宗教と隔絶しているからである。
彼らの掲げる思想とは、以下の二語に尽きる。
ひとつ――悪鬼調伏。
ひとつ――衆生救済。
悪なる魔性を討ち倒し、ひとびとを救う。
それを成すために、彼らは長き長き歴史を重ね、武道の体系を作り上げた。
筋骨を鋼の如く鍛え、氣を練り聖なる法力を振るう。
種々の武具を考案し、これを用いる。
そうして鍛錬した僧侶は、東にひと喰らう妖怪ありと聞けば、剣槍を持ちてこれを斃し、西に悪魔ありと聞けば、これを数珠と法力で祓う。
ひとは彼らを呼ぶ。
妖怪妖魔を討ち倒す、気高き僧侶、黄林寺の黄林僧と。
「ひーっ、疲れたァ」
「へとへとだよお」
土汗にまみれ、広間での稽古を終えた僧が、ようやく訪れた休憩に息を上げた。
地べたに転がり、ぜえぜえと喘いでいる。
まだ年若い、十代の半ばか、それより下くらいだ。
寺に入り、修行を始めて間もない初級僧たちの少年である。
寺に入るということは、俗世と離れ、生きる道だ。
自分から門を叩くものもいれば、食うや食わずで貧窮の果てに子を預けるもの、拾われた浮浪児、皆、諸々に事情がある。
御家廃絶のために、生涯妻帯せぬ仏門へやられるなどという例もあった。
だが、どんな事情があれど、寺に入れば皆同じ、僧名を名乗り、互いに兄弟と育つ身内となる。
「どうした皆。へばっているのか」
「あっ! ゴウジン兄ぃ!」
「おかえり兄ぃ!」
「なあ、どうだった、西の方の街へ行ったんだろう? なあ!」
一汗かいた少年僧らに声をかけたのは、今しがた、寺へと戻ったひとりの僧侶であった。
旅に持ち歩くにはやや長い杖は、そのまま武具となる木造りの棍棒。
外見からは分からぬが、袖や懐には、別に暗器の類も秘めている。
僧服の上からも輪郭をうっすらと見せる筋肉と、それらの武具、積み重ねた功夫を合わせれば、まさに一騎当千。
そうして昨日も、巷で悪行を働く妖怪を、討ち倒してきたのである。
妖怪妖魔の跋扈あるとき、市井の民、あるいは国や地域の依頼によって、黄林僧は出向いてこれと戦う。
彼の名、僧名をゴウジン、年の頃は二十代半ば、二十代の始めあたりか、師範格の中級僧として、退魔の経験も積んだベテランであった。
若い初級僧らの面倒もよく見て、少年らからは兄貴分と慕われる青年だ。
「ああ、旅の話がてらに、少し型を見てやろう。基本は肝心だからな」
「は~い!」
共同の稽古を終えた後、少年僧らの成長ぶりを軽く見る、自分がどんなに疲れているときもだ。
ゴウジンは少し見ただけで、後輩の癖やよさを見抜き、助言する。
そうすると、彼らはまた一歩、技量に磨きがかかる。
そういうところが、年下から慕われ、愛される理由だろう。
だがそれを、止める声があった。
「ちょいと待て。ゴウジンよ」
太い、重く、だが、同時に朗らかで人懐っこさのある、声だった。
それまでだらけていた初級僧の小僧たちが、ひっ、と慌てて立ち上がる。
「こ、これは和尚様!」
中級僧のゴウジンも、ばっとそちらを向き、右手の拳に左掌を重ねた。
抱拳の礼であった。
そこに、ひとりの老人が、僧が立っていた。
年の頃は、六〇か、七〇か、しわを刻まれた顔からは、なかなか想像できない。
太い男である。
決して、贅肉を蓄えているのではない
鍛えに鍛えた筋肉が、袈裟の中で満ちている。
しかし、年を重ねて老いてもなお、在りし日には、男前であった風情も、匂う。
にっと微笑するその顔は、どこか悪童めいてもあり、どんな相手とも友人になってしまいそうな、陽の気が総身から溢れていた。
徳であるか、それとも、生来の気質か。
数珠を首にかけ、この寺では、一番絢爛な袈裟の僧衣を纏う……といっても、世の貴人から見れば、それでも粗末だろうが。
この老人こそ、退魔の聖殿、黄林寺の大僧正、名を――リュウガイ和尚という。
和尚というからには、もっと厳しく、高圧的かという印象もあろうが、本人はこの通り、どこか茶目っ気のある老人であった。
「戻ったか。妖怪の討伐、ご苦労だったな。今回はひとりで行かせちまったが、無傷で帰ってくるとは、やっぱり腕が上がっているな」
「いえ、わたくしなど、そんな」
「ふふん、わたくし、なんぞと、緊張するなゴウジンよ。ま、それはともかく、ほんとに見違えたよ。中級僧じゃ、もう一番上であろうよ」
「はっ。これも、日々の和尚様ら、高僧方々のご指導の賜物であります」
「おいおい、そう固くなるな、わしぁ褒めているんだ」
「はっ」
頭を下げる、ゴウジン。
和尚はにやりと笑いながら、顎を掻き、愛弟子に言った。
「精進、おおいに結構。だがあんまり根を詰めてもよくぁあるまい。昼の修行はもうこれまで、稽古は明日からにして、今日はこれから托鉢に付き合ってくれ。今日はわしも一緒に行く」
石畳の往来に、ひとびとが行き交う。
西洋的な石造り、煉瓦造りの家、その合間に、瓦屋根の家もある。
道行くひとも、金髪がいれば黒髪、赤毛、肌の色も様々だ。
人種と文化、あらゆるものが溶け合っている。
それがここ、ガンダーラの地であった。
はたしてその道を、幾つかの僧形が歩む。
黄林寺の黄林僧らだった。
老年、袈裟姿の、リュウガイ和尚。
羅漢服の青年、中級僧ゴウジン、そして、初級僧の少年らである。
托鉢とは、古来僧が家々を練り歩き、経文を唱えて米などを調達する修行を言う。
概ねの内容は大差ないのだが、黄林寺の僧侶の場合、言葉通りの鉢のみで行わぬ点が違う。
皆それぞれに、背中に大きな麻袋を持っており、その中に入れるのだ。
なにせ、貰う量が違う。
「あ、和尚様! こっちこっち、今日はこれどうぞ~」
「おお、これはこれは。ありがたい。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。どうか御仏のご加護があらんことを」
往来を行く和尚を、飲食店の女将さんが呼び止めたかと思うと、彼女は用意していた饅頭の包みを渡す。
それをリュウガイ和尚は清々しい笑顔を浮かべ、頭を下げてもらいうけ、数珠を手に祈り、袋に入れる。
寺で消費する食べ物のうち、少なくない数のものが、こうした毎日の托鉢での施しであった。
無論、これで全てまかなえわけではない。
様々な妖魔討伐の依頼料、お布施といった金品で、専門の業者より購入する米や味噌が主である。
托鉢は食料の布施を得るのと同時に、救うべき俗世の衆生との交流、他者の施しを受けて功徳を積む修行でもあるのだ。
初級僧の小僧らも、あっちへこっちへと練り歩き、往来を歩くひと、民家や飲食店、その他様々な店々で、南無阿弥陀仏と唱え、仏法の教えに反する、肉や魚を含まぬものをもらう。
黄林僧を知らぬものはいない。
彼らは幾星霜の昔より、ひとびとのために邪悪強力な妖怪と戦ってきた、英雄である。
施されるものにそこまで不自由はなく、背負う麻袋は、帰りにはいっぱいに膨れる。
それを背負って寺まで帰るのも、修行といえば修行だ。
少年僧らは一抱えあるほどでやっとだが、十数年以上の鍛錬を積み、肉体を磨き抜いたゴウジンは、二抱え以上も袋を背負って、歩みに乱れはない。
むしろ、中に詰めた食料が潰れてしまうかのほうが心配事だ。
そろそろ、帰る頃合いだろうか。
個々に別れて托鉢に回りながら、そう、ゴウジンは考えた。
「あの」
無骨な退魔僧に、彼に縁のないはずの、甘く涼やかな声音が、囁かれた。
ふっと、ゴウジンの顔に、鍛錬により磨いた厳しさが遠のく。
彼は、それが本来の面相というべき、朴訥な様相で、振り向いた。
「リンカか」
「はい。ゴウジン様。幾日かぶりですね」
十代の半ばか、二十代の始め頃だろうか、どちらにせよ、若い娘だった。
それに、美しい。
欧州の血筋を引いているのか、彫りが深い顔立ちであり、しかし、堪らない愛くるしさも持っている。
長い髪は明るい栗毛で、艷やかだ。
その髪に、白銀の、瀟洒な彫り細工をした髪留めが、輝いている。
料理屋の手伝いをしており、エプロンを纏っているのだが、胸元が窮屈そうに見えるほど豊かである。
恭しく、ゴウジンへ托鉢の食料の紙包を渡す、その所作も、丁寧で愛着が見られた。
受け取るゴウジンもだ。
「ご無事でしたか」
「ああ。大事ないよ」
「よかった」
なにげない、さりげないやりとりだ。
しかしリンカの見せた笑顔は、ゴウジンの無事な姿と答えに、心底嬉しそうだった。
「あ。兄ぃ、またリンカさんと話してらあ」
「なんだ、う、うるさいぞ」
集合の頃合いかと、合流しに戻ってきた少年僧が、からかいを口にする。
面倒見のよい男であるが、同時に厳しい無骨者のゴウジンが、珍しく羞恥に赤面した。
集まってきた他の少年ら小坊主の中には、ことの事情を知らぬと見え、首を傾げたりもする。
「なあなあ、この姉ちゃん誰だい」
「ああ、お前知らねえか? そこの料理屋のひとでさ、前にゴウジン兄ぃが妖怪から助けたんだ。それ以来の仲だよ、この店、美味いちまきいっぱいくれんだぜ」
何ヶ月も前、この一帯で発生した、悪霊より産まれた妖怪の事件へ対処したおり、ゴウジンはその手でこの娘、リンカを救った。
それ以来、托鉢に赴いたときや、修行を兼ねて荷物を受け取りに街へ行ったとき、顔を合わせている。
「いえ、あの……ただ、世間話をしていただけです」
白い頬を、ほんのりと赤く染め、もじもじと視線を逸らすリンカ。
ふたりの間にあるものを、悟るのは容易い。
精悍で、逞しく無骨だが、悪心などまったくなく、素朴で正直者の好漢である。
そんな頼もしい武僧、それも、自分を救ってくれた英雄を、年若い娘がどう想うか。
ゴウジンとて、初々しく美しいリンカに、惹かれているようだった。
だが……
「そこな御坊、よろしいかな」
彼らの和んでいた空間を、ふいに、硬い男の声音が中断させた。
冷たい響きを含んでいる。
刃を思わせる声は、それのみならず、放った男そのものを表現していた。
剣士、であろう。
人種は白人種。
軽装ながら、しっかりした金属製の胴を身に着け、腰には西洋風の諸刃剣らしい武器を下げている。
格式ある家柄の騎士では、決してない。
革製の長靴、手袋、背嚢、装備品はどれも薄汚れ、使い込んでいる。
なにより顔だ。
含み笑いを浮かべた面相には、凶相を帯びている。
相手を見下し、値踏みするような風情。
賞金稼ぎ、傭兵、あるいは場末の賭場の用心棒。
胡乱で暴力的な職業を連想するのは、自然であろう。
服装の上からも筋肉の膨らみが誇示されている。
「なにか」
弟弟子たちが、男の凶相に押されて怯えを見せるのを、庇うように、ゴウジンが前に進み出た。
なにより、傍らにいたリンカを案じている。
男はにやりと笑い、形ばかりに会釈する。
「自分、旅の傭兵をやっております。ダニエル・ジャストンというもので。もしやあなた方、かの高名な黄林寺の黄林僧ではありませんかな」
「はい。そのとおりです。ジャストン様。して、何用で」
「ハハッ! 様、なんて、そんな大したものじゃあありませんが。いえ、妖怪妖魔を討ち倒すあなた方黄林寺の退魔僧のお噂はかねがね」
「まだ未熟の身ですゆえ、そのようなお言葉は身に余るものです」
「謙遜なさる」
「いえ」
聞くだけなら、互いに遠慮を持ったやりとりだ。
しかし、ゴウジンも、ダニエルという男も、互いを見る目は凍れる刃であった。
「僭越ながらその名高い黄林寺の武芸、一度見せてはいただけませぬかな」
「……っ」
これか。
ゴウジンは、抑えきれず眉根にしわを見せた。
いるのだ、時折。
寺に来るもの、あるいは、ふいに声をかけてきて挑むもの。
音にも聞こえた武門の誉れ、黄林寺の黄林僧に武芸勝負を仕掛け、これを打ち破って名を上げようという武芸者が。
有名税ともいえるが、ひとに仇なす妖怪妖魔、悪鬼を斃すために技を磨く退魔僧にしてみれば、たまったものではない。
意地になって下手に勝負を受け、負ければ寺の名に傷がつく、よしんば勝ったとしても、人間相手に暴力を振るったということは問題だ。
長い黄林寺の歴史の中には、そのような他流試合で破門された名人も少なくない。
「いえ。わたくしども黄林寺では、他流試合は禁じられております。申し訳ありませんが」
「いえいえ、試合などそんな。ただ少し技を見せていただくだけでよいのです、お願いします」
見え透いた言葉だった。
技を見せるといい、もし撃ち合う、あるいは斬り合うような運びになり、機を見てこちらを倒すという魂胆が透けて見えた。
ゴウジンはこの近辺でも幾度か強い魔物を斃している。
しかも単独での撃破であった、先日の水虎のことで、また名が上がった。
つまりは美味しい獲物なのだ。
黄林寺の名のある退魔僧を稽古で負かした、他流試合で勝ったといえば、さぞ商売がし易かろう。
食い下がるダニエルに、辟易しながら丁寧に応じようとするゴウジン。
どうしてよいか分からず、おろおろとする少年僧ら。
言葉を重ねても、なかなか乗らぬと見え、ダニエルは顔に不遜さを顕にした。
「ふんっ。寺のため、掟のため、か。しかし見たところ、街で女を侍らせているような堕落僧が、よく言うわ」
「なに!」
「ハハ! なんだ、怒れるじゃあないか。なら、その女の前で、もう少し格好をつけたらどうだ、え?」
形ばかりの慇懃な会話など無用とばかりに、歯を剥いて粗暴に食って掛かるダニエル。
ゴウジンもことがリンカに及ぶと、冷静になれなかった。
「ほう、田舎の花にしちゃ、いい女だ」
「貴様っ」
リンカに近づくダニエルを遮るように、ゴウジンが立つ。
一触即発であった。
「おや、どうしたかな。皆集まって」
「お、和尚様!」
太い声で和やかに、のっそりと、大柄な体躯が剣呑な場に、まるで気にする風もなく、入り込む。
小坊主の少年らは涙を浮かべて声を上げた。
黄林寺の大僧正、リュウガイ和尚、自分たちの大師匠は、盤石の信頼と安堵を与えてくれる。
対するダニエルは、またとない獲物の到来に、ギラついた目を細め、凶暴な笑みを浮かべた。
「ほほう、あんたが黄林寺のボスかい」
「まあ、そうなりますかな。どうしましたかな、うちの若いものが、なにか粗相でも」
「なに、そう大したことじゃあねえさ。あんたら黄林寺の技を、ちょいと見せてほしいだけよ」
「ほう、ほう、なるほどなるほど」
リュウガイ和尚は無遠慮に食って掛かる剣士に、言葉を反芻し、頷く。
「ならば簡単だ。何ならわしらの寺の技を全てお教えしてもよいでしょう」
「なに!」
「和尚様、何を!」
この返答には、ダニエルも、それどころかゴウジンも目を剥いた。
だが、ふてぶてしくにやりと笑った和尚は、こう、言ってのけた。
「どうぞ仏門に帰依し、生涯を御仏に捧げてあなたも黄林僧におなりなさい。さすれば一からわしが黄林武術をお教えいたそう」
「なにい! 冗談も大概にしろ、このクソ坊主!」
「なにか問題でも? まっとうな黄林武術を身に収める方法をお教えしたまでですがなぁ」
自らの顎を太い指でさすりながら、茶化すようにあしらうように、リュウガイ和尚は言う。
相手を負かして名を上げたい無頼漢からすれば、不犯の身となる僧侶など願い下げであろう。
「もう七面倒臭え。どいつでもいい、立ち合え! なんなら全員まとめてでもいいぜ」
ぐだぐだと話を語るに、この男の腐った性根は長く持たなかったらしい、のらりくらりといつまでも時間を稼いで、根負けさせようという和尚の魂胆を、見抜いたらしかった。
腰の剣に手をかけ、今にも抜かんと腰を落とす。
瞬間、ゴウジンも構える。
棍棒こそ持っていないが、もしもの時のために、袖の内には暗器、峨嵋刺を潜ませていた。
峨嵋刺とはゴウジンが得意とする暗器で、両端を尖らせた鉄の棒の中央に、指を通して回転させる環をはめた武器である。
長柄の棍棒と組み合わせ、極接近した際に使えば効果は覿面。
今ならば、相手が剣を抜くより前に頭蓋を砕くも可能と見た。
だが先走る弟子を、すっと、袈裟姿の僧は止める。
「まあ落ち着けゴウジン」
「和尚様!」
黄林寺大僧正、リュウガイ和尚であった。
今、命の危機にあるという自覚があるのか、ないのか、陽気な笑顔のまま、弟子を手で制しつつ、老人は剣を抜かんとする凶漢に歩み寄る。
構えなど取ろうはずもない。
「こんな往来の真ん中で、物騒ですぞ。ほぉら、見なさい。軒を連ねた店々の方々が見ておいでだ。後でややこしいことになりますぞ」
と、言う。
つまり、戦いなど起こせば、その悶着で役人が出てくる厄介事になるぞ、と。
だが、相手は悪党である。
「知るか。官憲やム所が怖くて傭兵なんぞやってられねえよ、爺さん。それになあ、おめえらを斬ってその足で辺境に行っちまやあ、なんの問題もねえ」
未だ世には、愚かしく人間同士の火種は消えず、国境を渡り辺境の地へ行けば、たしかに、法の手を逃れる術はある。
武芸名高い黄林僧の和尚を倒したという噂だけは、轟くであろう。
それに、ひとを斬り殺そうと、その罪悪感を抱く人種にも見えない。
まさに凶漢である。
「ふむ。若い御仁はどうにも血気盛んであるなあ。いやいや、わしも見習いたいもんです」
「ああ?」
この老人、なみの神経の人間なら、震え上がり血も凍るようなダニエルの剣気を前に、まったく変わらない。
ガハハ、と陽気に笑い、白い歯を見せ、自らの禿頭を撫でる。
その、刹那であった。
あまりにバカ陽気に敵意を見せず、緊張もないそのゆるみっぷりに、傭兵悪漢、ダニエルは剣を執るタイミングも、斬りかかる間も外されていた。
一歩。
ただの一跨ぎを、流れるように、滑るように、誰も気にせぬそんなさりげない所作で、和尚は動いた。
「っ!」
声を上げる間もない。
とん、と。
二本の腕の先の、二本の指。
左右それぞれの人差し指が、触れた。
ダニエルの左右の手首であった。
「ほれ、力みなさるな。物騒なことぁ、やめましょう」
ニコニコと笑いながら、和尚は言う。
だらりと、ダニエルの腕が下がる。
「て、てめえ、てめ……このっ」
たたらを踏み、凶漢は退いた。
そうせざるを得なかった。
周囲の商人たちは、喧嘩が起きそうかと心配しているが、実際は、もうそんなことにもならぬ。
ダニエルの両手は、剣を持てなかった。
点穴である。
人体のツボを押し、一時的に麻痺させたのだ。
決して不可能でないが、甚だしく難事でもある。
相手は無抵抗なわけではない。
剣を持ち、戦おう、斬りかかろうと構える、手練の傭兵なのだ。
そんな相手に、周囲にまったく気づかれぬような間と速度で、ツボを押す。
それがどれだけ凄絶な業前であるか。
傍らにいた、ゴウジンだけは見極めた。
「このっ……くそったれ!」
忌々しげに呻き、ダニエルは足早に去った。
当たり前だ、戦いに敗れるというより、戦いにさえならなかったのである。
「和尚様……」
「おう。ゴウジン、とっとと帰ろうか。今日はもうこのへんで終いだ。ほら、お前たちも」
「は、はい」
「分かりました」
なにが起きたかわけもわからぬ小坊主の少年僧らを連れ、和尚はなにごともなかったかのように、踵を返す。
そんな師に着いていくゴウジンの背に、切なげな視線は注がれた。
「あの、ゴウジン様……」
「……」
リンカに、なにか言おうとし、しかし、なにも言わず。
ただ視線だけを向け、やがてゴウジンも去っていった。
後には、いつもと同じような賑わいを取り戻した、街の活気だけがあった。
「失礼いたします」
「ああ。入んな」
場所は、リュウガイ和尚の私室、そこへ訪れたのは、ゴウジンであった。
夕刻も過ぎ、じき、夜になろうという頃合いだ。
修行を終えた僧たちが、食事を取る前の小休止の時間。
托鉢の後、寺に帰ったおり、来るように和尚が言ったのである
「どういうご用件でしょうか」
「うむ、まあ、ちょいとな」
正座するゴウジンの前で、リュウガイ和尚は胡座をかく。
俺がゆるく構えているのだから、お前も気を抜いてリラックスしろ、そう、言外に言っているようでもある。
だが、ゴウジンは生真面目であった、師の前では端然と崩れない。
そんな弟子に苦笑しつつ、ぼりぼりと剃髪した頭を掻きながら、和尚は、さて、と、切り出した。
「今更になるが、先日の水虎討伐、本当にご苦労だった」
「はっ」
「実はなあ、今回お前ひとりに任せたのは、上級の高僧らと相談してのことだ。本来なら、師匠らも同行しようと考えておったんだが」
「理由があったと」
「ああ。今回の討伐依頼の是非で、お前を上級僧に上げようかとな」
「ほ、本当ですか!」
「おう」
黄林寺、上級僧。
その肩書の持つ意味を、立場の意味を、ゴウジンはわきまえている。
それは、武という、無辺に広き世界の中でも、限りなく上位に立つものたちの世界。
あるものは王国騎士団の精鋭に、徒手格闘の教練を行い。
またあるものは、分派の寺を預けられ。
当然、この黄林寺本堂でも、初級僧、中級僧の指導も行う。
よほどの研鑽を積んだ、技量冴え渡るものが、吟味に吟味を重ねて選ばれるのだ。
まだ二十代のゴウジンが選ばれるなど、かなり異例であろう。
「上級の幾人か、そろそろ年でな、まあ、そいつぁわしもなんだが。中級の中でも腕の立つものから、候補を上げようと思っていたのよ。ちょうどそこで、あの依頼があった。ゲンコウ、ライレイあたりも名は挙がったが、わしもゲンナ大老も、他の上級僧らもな、やはり、今の中級僧の中では、お前が最も秀でた業前と考えるものが多い」
「俺が……じょ、上級僧に」
「ああ、不服か?」
「いえ! そんな! 俺は、この寺に入ってからずっと……もっと強くなり、和尚様にご恩を返したいと、願っておりました」
「そうか」
ふいに、朗らかで茶目っ気のある和尚の顔が、追想に優しさを増す。
視線を横へ流し、窓の外の夕焼けを見ながら、リュウガイは言った。
「あれからもう一四年か」
「覚えておいででしたか」
「ああ。あの頃のお前は、痩せっぽちで、凶暴な目をしていたなあ」
「はい」
「北東部の街だったな、あちこちで一揆や小さい戦があって、荒れていた」
「親を傭兵あがりの野盗に殺され、浮浪児になった俺は、残飯漁りと盗みでしか生きていけませんでした」
「八百屋の芋を盗んでおったな」
「覚えておいで……でしたか」
「ああ。店の親父は気を荒くして、お前に護身用の鉄鞭を打ち下ろそうとしてな」
「和尚様が止められなかったら、俺はあそこで死んでおりました」
「かもな」
「寺へ引き取られた日、和尚様が作ってくださった草粥の味、忘れておりません」
「わしは草粥を作ったか。お前、そんなこと覚えておったか」
「はい」
それだけ言葉を交わしてから、しばし、沈黙が流れる。
和尚はなにを想うか。
小さく、こう告げた。
「いいか。ゴウジンよ。高僧になっちまえば、それだけ背負うものも重くなる。いよいよ、黄林寺退魔僧として、一生涯を悪鬼羅刹との戦いに、費やすことになるんだ。覚悟のいる決断だぞ?」
和尚の言葉に、ゴウジンは、昼間のことを思い出した。
栗毛の、美しい乙女の横顔を。
まるでそう考えるよう、悩むよう、仕向けるような言葉でもあった。
静かに、青年はこう、答えた。
「覚悟は、とうにできております。では、失礼いたします」
端然と一礼し、ゴウジンは部屋を出た。
その後姿を、和尚はなんともいえぬ顔で、見ていた。
昼に修行に次ぐ修行を行った黄林寺の僧たちも、日が暮れ、夜ともなれば、当然休む。
上級僧らの説法や、念仏、法力といった精神、氣力の鍛錬や授業を行うこともあるが、体が資本の退魔僧なればこそ、休息の重要性を知る。
翌日早朝よりの鍛錬に備え、夜番のものを除けば、皆早々に寝床へ入る。
「サンケン。またかよ、おめえ、いい加減ひとりで行けよな」
「わりい、コウゼン。でも、今日の先生の話、妖怪や悪霊の話だったから、こわくってよお」
同室の他の初級僧らが寝る中、そっと、ふたりの少年が部屋を出る。
不機嫌ながらもついていく子と、すまなそうにしつつ、足早に歩く子。
向かった先は、厠であった。
なるほど、上級僧らの退魔の講義、呪い、妖魔、悪霊といった話に、まだ怖がる年頃だろう。
そそくさと廊下を歩き、少年は中へ入る。
「待っててくれよ~?」
「待ってるよ、早くしろよ」
「いるよな、戻んなよ?」
「いるよ早くしろ」
「ほんとか~?」
「いるっつうの」
悪態をつきつつ、ちゃんと待っていてくれるあたり、なかなかに友人想いである。
ようやく相方が戻ってくると、やれやれと肩をすくめた。
「とっとと戻ろうぜ。明日も稽古で早えし」
「うん、あんがと。あっ、なあ、あれ」
「なんだ?」
小便にひとりで行けぬ臆病な小僧、サンケンが、ある方向を指した。
場は、庭に面した廊下であった。
月明かりも眩い夜天の下、高い塀の方。
悪態混じりに付き合いのよい小僧、コウゼンが、目を凝らす。
そこに、夜闇の中に溶け込むように、一個の人影が、いた。
一瞬、侵入者か、と考えてしまう。
この黄林寺、退魔の戦いをする過程で、妖怪妖魔の類から恨みも買う。
さらには、寺が戦いの中で収蔵した、宝具魔具、古に魔術師や仙道がこしらえた、驚天動地の武器類も蔵に封印していた。
これを狙う盗人もいるのは、さしておかしくない話だろう。
結界を張り、見回りの警護僧も巡回しているのはそのためだ。
しかしてふたりはすっと身をかがめ、闇の向こうにいる相手を、よく見る。
そして声もなく驚いた。
(兄ぃ?)
(ゴウジンの兄ぃだぜ)
視線を交わし、視線で語る。
なんと、こそこそ夜に寺内で動く影は、誰あろう、普段から慕い、今日は昼に一緒に托鉢とその渦中の騒動も共にした、あのゴウジンであった。
ゴウジンは左右を見て、見回りの僧がいないのを確認すると、高い塀の石壁へと近づく。
瞬間、彼のしなやかな体躯はぱっと塀を飛び越える。
魔性のものを感知する結界も、悪意なき僧の出入りはできぬと見え、見張りのいないときならば、抜け出すのは可能であった。
しかし、驚くほどの身のこなし、瞬発力だった、塀の高さは一三尺(約四メートル)に及ぶ。
脚力のみでない、呼吸法により丹田で練った氣力、内勁を用いる軽功術だ。
ひとが筋力という単なる生物的な力の他に、特殊な修練によって得られる力、西洋では魔術魔導、東洋では気功術、仙術などがそれである。
人外魔性と戦うために、黄林寺の退魔僧にとっては、必須の技能だった。
「うわ、すげえ軽功だなあ。さっすが兄ぃ」
「バカサンケン! 関心してる場合かよ、おっかけようぜ」
「え、でも、コウゼン。なんで?」
「なんでっておめえ、気になるじゃんか」
「まあ、そうだけど」
壁の向こうへとゴウジンが消えたことで、ようやく声を出して会話するふたり。
今度は強気なコウゼンが先に立ち、臆病なサンケンが渋々ついていく。
ふたりは廊下から庭へ飛び出て、壁に近づく、ちらりと左右を見て、コウゼンが壁に背を預けた。
「行くぞ」
「うん」
壁に背をつけたサンケンが、両手を腹のあたりで重ねる、掌を上に向けて。
そこを足場にして、コウゼンが跳躍。
タイミングを合わせ、足場にした手で、サンケンが持ち上げ、相棒のジャンプ力に自分の腕力をプラスした。
まだ初級僧なので氣や気功術も未熟なふたりだが、こうした連携を上手く使えば、先輩の技に多少届くこともできた。
なんとか塀の屋根に手をかけたコウゼンは、ひょいと小柄な体で登る。
腰帯をほどき、下へ垂らす。
サンケンが跳んでそれを掴み、コウゼンが持ち上げる。
これらの連携を一呼吸でやり、ふたりは塀の上から、外を見た。
寺は霊脈上、昼間托鉢を行った街からは少し離れ、自然豊かな山の中にあった。
塀の向こうは茂みと木々。
ひとが通れば、折れた草で多少は跡を追える。
行って間もないゴウジンの行き先は、それで知れた。
「行こうぜ」
「ああ」
満点の星と月明かりの夜といえど、生い茂る木々が光を遮り、木立の合間は闇が満ちている。
その闇の中で、ひとつ、仄かに白く輪郭を描くものがあった。
人間だ。
それも、女である。
潤いのある白い肌、明るい栗毛の髪、服を押し上げる豊かな胸と尻の膨らみ。
彼女の立つそこだけが、闇が輝いているようだった。
「リンカ」
どこからか、その女を、いや、少女を呼ぶ声があった。
「ゴウジン様」
少女――リンカが、木の陰から歩み寄る男を呼んだ。
卓越した技量を持つ、黄林寺の退魔僧と、料理屋の町娘。
偶然にこんな場所で出会うわけがない、昼間、托鉢で顔を合わせたときに、こんなこともあろうかとリンカが持ち歩いていた文を渡したのである。
時刻と場所を記した、逢瀬を乞うものだ。
こうしてここで会うのも、初めてでなかった。
「ああ……お会いしたかった」
万感の想いを込めて、ひしと、リンカの柔らかく美しい体が、逞しいゴウジンの体に抱きつく。
一瞬驚きこそすれ、ゴウジンは拒みはしなかった。
そっと壊れ物を扱うように、細い腰と薄い背中を抱き寄せた。
「すまん。一番に、会いに行きたかったのだが」
「いえ、いいんです。お寺のことは承知していますから」
言葉を交わし、触れ合う。
その様子から、ふたりの関係を察することはあまりに容易かった。
年頃の見目好い娘と、彼女を邪悪から救った強く清廉な偉丈夫。
時折街で顔を会わせ、なにげない会話を重ねるうちに、想い合うようになるのに、不思議はあるまい。
「お怪我はありませんか?」
「ないよ」
「本当によかった……お一人で妖怪退治に行かれたと聞いたとき、私、とても心配して、気が気ではない心地で」
「俺とて、リンカが心配だったよ。その……お、お前は、とても綺麗で愛らしい、からな」
「まあ」
ゴウジンが、武の業前において超人的強さを誇るこの退魔僧が、月下の薄闇にもわかるほど、赤面して、世辞を言う。
それだけでも、この男の素朴な心を示していて、彼のそんな想いと姿を見れることに、リンカは嬉しげに微笑んだ。
しかし、そんな乙女心を、ゴウジンは敢えて、引き裂かねば、ならなかった。
「だが、それももう、無用の心配だ。いや、むしろ、そうしてほしい」
「え? あの、それは、どういう」
「俺より、もっとよい男を、選ぶべきだ」
「な! なにを言うんです! あなた以外のひとなんて……」
「そうしてくれねば、困るんだ」
「……っ」
乙女が絶句する。
ゴウジンは、己自身も、肉を千切るような苦しみと共に、彼女に告げた。
「もう。会うのはこれきりだ。俺のことは、悪い思い出だと思って忘れてくれ」
「私が、お嫌いになったんですか……ゴウジン様」
「……」
なにも言わず、彼はそっと離れた。
なにも言わぬのが、答えのようであった。
「すまん」
それだけを言って、ゴウジンは、もと来た道へと踵を返し、去る。
「そんな……どうして……どうして」
ひとり、残されたリンカは、突然の別れの言葉を受け止めきれず、膝をついて涙する。
男なら、絶対に見たくない、愛する少女の泣き姿を、しかし、彼はせざるをえなかった。
月と、星と、三人の人影だけが、闇の中でそれを見ていた。
「ひ、ひぇ~。ゴウジン兄ぃ、あんな……なあ、あれ、だよな。別れ話? ってか、兄ぃ付き合ってたのかあ、いいなあ」
「いいなあ、じゃねえよ。てか、ああ……どうすんだよ、これ。明日から兄ぃとまともに顔合わせらんねえよ」
闇の中、草むらに潜んで全てを見ていたのは、弟弟子でもある、初級僧の少年ふたり。
サンケンとコウゼンである。
呑気なコウゼンの言葉に、サンケンは明日のことを連想し、ため息をつく。
宗派によって色々あるが、黄林寺は妻帯や女性との姦淫を戒律で禁じている。
当然、恋仲の少女と付き合い続けることはできない。
今日、その決断をついにした理由は、もうひとりの観察者のみが、知っていた。
「どうもなにもあるめえ。何も言うな。いつもどおり、何食わぬ顔でおくんだよ」
「え!」
「あ、お、和尚様!」
「バカ、声がでけえよ。静かにしな」
いったいいつから、どこへ潜んでいたのか。
なにもかもをお見通しという様子のリュウガイ和尚は、深い草の茂みの中で、少年らをよそに、視線をもう一度、乙女へ向けた。
「さてはて、どうしたもんかねえ。この浮世……御仏に仕える道ってえなあ、難儀なもんだ」
「くそ面白くもねえ、あの坊主ども!」
飲み干した空き瓶を、男が投げる。
甲高い音と共に、鋭い破片を散乱させ、床が僅かに残っていた酒で濡れる。
酒場であった。
店の人間も、周囲の客も、遠巻きに見るばかりで、文句を言えない。
腰に剣を帯びた、札付きの悪、凶漢の傭兵である。
なにか気に入らぬことを言えば、五体を失うようなこともざらだった。
ダニエル・ジャストン。
あちこちの国、地域を転戦する傭兵であり、また、暴力を金にできるなら、ヤクザものの用心棒から盗みまでなんでもする。
噂はこの周囲でも、幾らか流れている、ゆえに、酒場で荒れる程度では、見てみぬふりをするばかり。
荒れている理由はひとつ。
昼間、喧嘩をふっかけた黄林寺の僧侶に、軽くあしらわれたことだ。
忌々しく、憎らしく、だが、驚くほどの素早さと動きで、点穴を押され、剣を封じられた。
周囲にいた一般人に、気づかれなかったのが幸いである。
今や力も元に戻った手で、ダニエルは酒を煽り、憤懣にいきり立っていた。
「ジャストンさんじゃあねえか。荒れてるねえ」
そんなダニエルに、ふと、声がかかる。
こんな男に、誰が声をかけるか。
胡乱で怪しいものに決まっていた。
「フーゴか」
「へへ、しばらくぶりで。お元気でしたか」
フーゴと呼ばれた男は、汚らしい薄笑いと共に、ダニエルの前の席に腰掛けた。
異様に、猫背の男である。
そのために身長がずいぶんと縮んでいる。
頭頂部は禿げており、口元は出っ歯、顔の造形も実に醜く、服装も汚い。
路地裏で生ゴミを詰めたゴミ箱を漁っているのを見ても、誰も気に留めないようななりであった。
だがこの男、その容姿に反して、裏社会では、それなりに知られている。
武力を持つわけでもない。
男は、ある商いに長けていた。
「どうです、景気は。東欧の戦じゃあ活躍されたそうじゃありませんか」
「地獄耳だな、まだ戻ったばかりだぜ」
「へへ、あっしみたいな商売じゃあ、耳がよくなきゃあ務まりませんや」
「ふん。まあ、そうだな、少しは稼げた。だが、俺の腕ならもっと銭になるはずだ」
「それで、黄林寺の坊さんにちょっかいかけたんですかい」
「あ?」
「へへ、怖え顔しねえでくだせえや、おっかねえ」
実に、ぞんざいに、ひとの言われたくないことも言う小男である。
そのくせ媚びへつらった薄笑いの顔が、不快感を逆撫でする。
商売のほうの腕が不得手なら、何度斬り捨てていたか。
しかし、この男がいなければ、困ることも多い。
それに、ものをはっきり言うのは、余計な説明や会話も省けた。
「嘘を言っても始まらねえ。そのとおり、あの坊主どもの腕の立つのをぶちのめすか、ぶった斬って売名のネタにしたかった。だが、和尚とかいうのが出てきてな、油断してあしらわれちまった」
「おう、あの和尚様ですか、そりゃあいけねえ。あのひとは年だが、若い頃はそりゃあ強くて。悪魔より強えてえ噂ですぜ」
「……」
不愉快に、不機嫌に、ダニエルは押し黙る。
正直に言って、舐めていた。
念仏を唱えて悪霊を祓う程度の、エクソシストの類と思っていた。
それが蓋を開けてみれば、傭兵として、剣士として、それなりに修羅場をくぐったダニエルでも反応できぬ技を使う。
あれを、どう斬ればいいか、荒れながら、凶漢はそればかり考えていた。
そんなダニエルの内心を見透かすように、出っ歯の口に不快な笑みを浮かべたフーゴが、ぐいをテーブルの上で顔を近づけてきた。
「旦那ぁ、実はですねえ、そんな旦那にお売りしてえもんがあるんですよ」
「なんだ。鉄砲や弩ならいらんぞ。爆薬もだ。剣で斃さねえと名を売るネタにならんからな」
「へへ、ちげえますってば。もっともっと、強くて、すげえやつですよ。まずそう流れてこねえもんです」
言いながらフーゴはそれまで床に置いていたものを取り上げる。
分厚く、布にくるまれた、長い棒状のもの。
布の上から、幾重にも札が張ってある。
破魔の力を込めた、ヘブライ語の呪句であった。
皿やコップを押しのけ、フーゴはそれをテーブルに起き、くるんでいた布を剥がしていく。
札が剥がれるにつれ、酒場の中に、冷たくおぞましい、鬼気が溶けた。
現れたのは、一振りの、剣であった。
古びた鞘、古びた柄、鍔。
だが意匠は細緻で美しい。
古剣は、血臭が漂った。
何度も何度も、数え切れぬほどひとの生き血を啜り続けた刃金の体臭である。
「これは……」
「ついこの間、ね。借金苦で自害したさる貴族の遺品で、抵当に取られて流れてきたもんでさァ。そいつをあっしが、由来と質を確かめて、買い取ったってえわけで」
「ただの剣じゃ、ねえな」
ダニエルの言葉に、ぐひ、ぐふひ、と、フーゴが笑った。
こと、この商売とその腕、目利きや調達、整備、交渉に関して、醜さや性根の汚さなどの他の全てで劣ろうと、それだけは、絶対の自信があったからだ。
「もちろんです。これはたしかな魔剣だ。正真正銘の魔具、宝具でして。呪いと死の力を持ち、それこそ、悪魔にだって勝てるような力を得られるえれえ代物ですぜ。どうです。旦那。戦で稼いだ金の使い道、こんな酒場の安酒よりは、いい買い物と思いやすがね」
売り口上に、ダニエルは眉根にしわを寄せて思案する。
だがもう、手は懐から、金貨をたっぷりと蓄えた革の財布袋を、掴んでいた。
「いいだろう。情報に武器、お前の売るもんは昔から偽りがない」
「キヘへ! お買い上げ、どうも」
「で、この剣、名は?」
包みから出された新たな得物を掴み上げながら、問う。
金貨の枚数を数えつつ、フーゴは答えた。
「カラド・ボルグ、ってんです」