プロローグ
夜に揺らめく灯を少年は眺めていた。
ガラス一枚向こう側を、明度の低い光が道行く人々を橙色に照らす。
道路に面している店の多数は飲食店らしく、大人たちの頬を朱色に染めていた。同僚らしき男と肩を組みながら、呂律の回らない口で流行りの歌を歌う中年男性は、小さな子どもの頃に戻ったように無邪気な笑顔をして別の飲食店へと向かっていく。
家族連れも見えた。父親と母親の間で両親の手をしっかりと握り、子どもは幸せそうに何度も両親の顔を見返していた。
老若男女、たくさんの人々の笑い声がこちらにも響いてくる。
少年はわかりやすく舌打ちをした。
しかしそれでも、ガラスケース向こうのゲーム機を眺めるように、外の世界へ目を細めた。
信号が青へと変わった。
時間に追われているのか、執事はいらだったように車の速度を早める。
今度は車は信号に捕まることもなく順調に進んでいき、壮年の執事の顔をほころばせた。
道なりに30分ほど走ると歓楽街を抜けたらしく、周りの景色は大きな屋敷と広い庭を持つ高級住宅街へと変わっていった。人々の笑い声は嘘のように消え、低くひびく車の走行音だけが、車内の静寂を埋めていた。
「坊っちゃま」
「なんだ?」
「そろそろお屋敷へ到着致します。
下車の準備をなさいませ」
「ああ」
少年はふてぶてしく返す。
1分ほど経つと車のサーチライドが屋敷を取り囲む花壇を照らし始めた。
花壇に咲く花々は父が街の花屋でオーダーメイドしたものであり、このあたりの花を嗜む屋敷の当主たちの間でも評判がよかった。
軍人である父らしくない趣味だと、幼心には思ったものだ。
車はいつのまにか花壇を周り終えて、天使の装飾がかたどってある巨大な正門の前へと止まる。車から降りた執事は慣れた動作で扉に付いている9桁の暗証番号を打ち込むと、
鉄製の扉は地響きにも似た不快な不協和音をたてながら、2人の帰宅を出迎えた。
正面から見ると屋敷はさらにその荘厳さをました。
縦30メートル横50メートルはゆうに越える巨大な外観は、著名な建築士によって施工されることによって、逆に繊細な気品ささえ感じさせる。
今、自分が歩いている石造りの一本道の横には噴水が左右に設置されて、こんこんと湧き上がる水が心地よい響きを含みながら耳に入りこむ。
少年は屋敷に近づくにつれ、歩みを遅めた。
やがて、光沢のある欅作りのドアへとたどり着いた、ここが終点。もう着いてしまった。
気が乗らないまま木製の取っ手を握り、開ける。
エントランスに敷き詰められた大理石は中に入ると天井の巨大なシャングリラに当てられて床に宝が埋め込まれているような錯覚を起こす。
四方からの光の反射は初めて、明確に少年の体をかたどった。
気品を含んだ柔らかな髪は光に照らされて白銀に輝きいている。その下の目はパッチリとした子犬のようでまだあどけなさを感じさせるが、鼻は高く伸び唇はスッキリとした放物線を描いていた。色白の端正な顔立ち。上背は高くその体は上質な服着るとさらに美しく映えた
「爺!遅いわ!どれだけ待ったと思っているの!」
広いエントランスに到着を待ちわびていた母親の声が響きわたる。
彼女は怒気をさらに強めながら豪華な装飾が施された階段をいらだったように駆け下りた。
相当の美人だったが、目は猫のように切れ長で、常に機嫌が悪いためか、顔の周りには実年齢と比べて 少し皺の多めにある母親だった。
彼女は少年の前に立ち、目を忙しなく動かしながら顔と体を相互に見比べた。
「ルーク、帰ったのね」
「はい、お待たせしました。」
「・・今日は全国民青少年合同模試の返却日だったわね。」
彼女は急かすように右手を上下に動かす。
ルークは少し怯えたようにバッグから出した母に模試結果を手渡した。
「奥方様、坊っちゃまは優秀な成績を収められ、塾でも先生がお褒めになったとか」
壮年の執事が取り持ったが、母親は見るや否や猿にも似た声で喚きだした。
「何よこれ!なぜ一番では無いの!」
「申し訳ございません」
突然部屋に乾いた音が響く。
同時に、頬に鋭い痛み。
ルークは痛みに耐えながら真っ直ぐに母の顔を見つめた。
「私は理由を知りたいの!まさかサボっていたわけでは無いでしょうね!?やはり努力が足りないのだわ貴方には!」
もう一度鋭い痛みが走る。
ルークの右頬は赤く腫れ、口角からは血も滲み出した」
「まあ貴方は優秀な二人の兄がいるものね!
3番目とはいえ少しは家の誇りというものを身につけてほしいわ!」
「申し訳ございません」
また、頭を下げる。
「いいこと!このフェードアルト家に生まれたからにはただ優秀であることは許しません!お前に何の才能がないのはわかってるから努力をしなさい!お前はもう16でしょ!
数ヶ月後士官学校に入って恥を晒すつもりなの!?」
もう一度頭を下げる。
母は疲れたのか、真っ赤な顔しながら模試結果を床へとぶちまけた。
そのあとお付きの侍女に連れられてルークの悪口をいいながら4階の自室に戻っていった。
「坊っちゃま・・」
心配そうに執事が駆け寄る。
「鍵」
「え・・・?」
「俺の自室の鍵!」
ルークは鍵を乱暴にひったくるとそのまま階段を駆け上った。
上へ、上へ、長い階段を一段飛ばしで駆け上る。
自室に逃げ込んだところで逃れられるわけではないのはわかっていた。それでも家族に顔を合わせる可能性がある屋敷内をうろつくよりも、ドア一枚、遮られたあの部屋を求めずにはいられなかった。
階段を登りきった後も廊下で雑用中の使用人達を押しのけて走った。飾ってある甲冑や石膏像を倒しそうになりながらも角部屋である自室へと向かうため、最後の角を曲がった。
・・・自分の部屋のドアが見えても、気は晴れなかった。心臓の動悸も静まらなかった。長兄はドアの前で壁に体重を預けながら、長い足を組んで到着を待っていた。
「よう、なんだその顔」
自分の顔に手をやる。顔は冷たい汗でひんやりと濡れ、口と目は引きつり明らかに相手に対する不快を示す表情をしていた。
兄は鼻で笑って一瞥すると、ゆったりとした歩調で近づき、自分の前で立ち止まった。
兄の上背は長身の自分よりもさらに高く、筋骨隆々で父に似て軍人らしい体つきをしていた。顔や髪の色は自分とよく似ていたが瞳は母に似て切れ長で、その光は廊下の灯に照らされて更に冷たく揺らめいている。
・・・また一つ、冷たい汗が廊下を濡らした。
「ヴェイン兄さん・・・」
「お前また一位じゃなかったんだってな、母さんが騒ぐんで嫌でも察したよ。」
鳩尾の辺りに兄の拳がめり込む。くぐもった呻きをあげながら廊下にうずくまる。
吐瀉物を吐き出さないように歯を食いしばり耐える。兄は冷たい声で言った。
「いっそ下界に堕ちて悪魔どもと戯れるか?お前にこの屋敷は高級すぎるよ」
なんとかこみ上げる吐瀉物を飲み込んで兄の顔を見上げる。兄は顔色一つ変えずに、ただ失望と軽蔑の混じった瞳でこちらを見下ろしていた。
「お前も来年士官学校、恐らく卒業後配属されるのは俺の下の部隊だ。精々、悪魔どもからの天奉金の徴収くらいは学んどいてくれよ。」
兄は舌打ちをして、廊下の向こうへと歩き始めた。自分は廊下でへたれこんだまま、それを虚ろな目で見送っていた。
「あと、それと」
兄は振り返り白い歯を見せながら邪悪に笑った。
「士官学校でも家の顔を潰すようなら・・てめえまじで殺すからな」
自室のシングルベッドに仰向けに倒れこむ。
布団はよく天日干しされているのか甘い匂いがした。
天井のシャングリラがからかうように揺れ、
ルークの顔を照らす。
部屋の壁には巨大な木製のクローゼット、中にあるのはパーティ用のスーツや軍服ばかりで、普段着はない。
その横にはさらに大きな本棚があった。
この本棚は広い部屋の壁の3分の2を占めていた。中にあるのは数学や物理、国語などの必修科目。そして、魔法学の教科書。これらの本がスシ詰めになっている。他の学問はまだしも、魔法学は才能があるものがさらに血の滲むようような努力の末に体得できるものである。
そして自分はまずその才能すら持っていなかった。
魔法学こそ古来より続く真の学問と自負するフェードアルト家の面々にルークが疎まれる理由の一つがこれであった。
壁に視線を移すとバイオリンとアーチェリー用の弓など、習い事に必要なものがいくつかかかっている。自分の私物はこれでおしまい。つまり、この部屋には周りの若者たちが謳歌しているゲーム、漫画などの娯楽品は一切ないのだ。
たまらなくなり、右手、左手、両の手を強く握りしめ、部屋に立ち込める退屈な空気を吸い込み、満身の力で叫んだ。
「クソッタレがああああああ!」
叫びは部屋中に響き渡り、思ったより大きく響いてしまった。
すぐに、他の者に聞かれてはいけないという心と、聞こえてしまえという心がぐちゃぐちゃに絡まり、灰色のヘドロとなってルークの心を汚した。
それは悲しい矛盾だった。
ため息を吐いて、うわごとのように呟く。
「前遊んだのいつだっけかな・・習い事は魔法学、バイオリン、ピアノと・・あと、空手とジークンドーか、いやまだあるか・・学校に加えてこれだもんな」
枕に顔を埋めて叫びながら手足を死にかけの虫のように不規則にばたつかせる。
いっそのこと、ここから出るかと心の中で呟いたが、すぐにその言葉はかき消した。どうせ、そんな勇気は自分には無いのだ。何も主張せず、何の夢も見ず、ただ親の言う通りに、周りに流されるままに生きることしかできないと自分は気づいていた。それに間違いなく長兄に息の根を止められる自信もある。今更、一時の思いつきに身を投げ出すことは断じてするまいと誓っていた。
・・・何を期待したのかもう一度部屋を見渡す。
もちろん何も変わらない、空虚な退屈がそこにたちこめていた。
しかしそれでも自分は、夢見ているのかもしれない。バイオリンの弦を裂き床に叩きつけ、山積みの参考書に火をつけ家族全員の横っ面を張ったあとに下品な高笑いを浮かべながら自由を闊歩する。きっと空は青く澄み渡り、小鳥は歌っているだろう。自分は朝から昼まで野っ原で思う存分かけまわる。
そして夜になると勿論あの歓楽街に出てやる。ゲームをして、自分の同年代の少年たちとつまらない猥談に夢中になって・・。
「(・・・まあ、しないけどな。出来るわけねえしよ)。」
そんな妄想を自ら乾いた笑いで打ちはらい、ベッドから跳ね起きる。気だるそうな仕草で大きなクローゼットを開け、ぴっちり畳まれた寝間着を引っ張り出す。
・・なにかムズムズすると思ったらあれを忘れていた。息を深く吸い込み、精神を集中させて肩の辺りに力を込める。
突然、少年の寝間着が煮だつように膨らみ、何かが肩甲骨の辺りから生えた。
それは服の間をすり抜け少年の腰までをふわりと覆うように垂れた。それと同時に白い綿のようなものが少年の周りを取り囲むように落ちていった。
落ちたのは羽毛だった。
少年の方から生えた翼は、柔らかな羽毛を含み、白鳥のような優雅さでその存在を示していた。
「寝るときまで隠しとくのはキツイんだよなあ、たまには伸ばしたいし」
ルークはまたベットに倒れこむ。
やっと寝れるのだ。
自分にとっては睡眠こそが唯一の安らぎ。うるさい現世から開放され、何も考えずに甘い眠りに耽溺できる。
「寝りゃあ忘れるさ・・こんな叶わない妄想なんざ。」
ルークはまた明日も現実を生きることを決め、深い眠りに落ちていった。
ー–ー
「起きろ、おい起きろよ」
・・・もう朝が来たのだろうか、しかし執事が起こしに来たのだったらやけに口調が乱暴的なような・・・。
「起きろつってんだろ!」
何か硬いものが額にあたり、ガシッといい音を立てた。
「いっ・・!」
ルークは驚く暇もなく痛みにうずくまり、その後、プルプルと震えだした。この現実に引き戻された恨みと、額の痛みと、寝起きの苛立ちが体の中でうずまき、次の瞬間口から暴言となって流れ出した。
「痛ってえなゴラああ!ぶっ殺すぞ!」
布団から跳ね起き目を見開いて叫ぶ。
そこに映っていたのは・・。
白い小さな球体であった。
あまりにも拍子抜けして、まだ夢を見ているのかと思い乱暴に目をこすった。
しかしまだコイツはいる。
球体は小さい羽を忙しなく動かしてスズメバチの羽音のような音をたてながら、自分の顔から30センチほど離れた空中へ浮かんでいた。
「よう、起きたか。もう行かねばならん。1秒だって惜しい。」
球体は目のように見える白い出っ張りをぎょろぎょろさせながら、つっけとんどんに答えた。
・・行く・・・行く? 行くってどこに?
「な、なんだお前!?俺に何の用だ!」
「うるせえ!時間ねえつってんだろ!」
質問は打ち切られた。ルークの体はなぜか上下に細かく揺れながら、空中へと浮き始める。
体は高度を上げるたび、さらに強く揺れ始めた。
急すぎて事態の一割たりとも理解できない。
しかし刹那、自分は初めて、この世界にいたいと思った。何が起こるかわからない未知の世界に挑むことの恐怖を初めて知った。しかし遅かった。体はさらに高く浮き、強く揺れ、もう天上に着きそうなほどだった。
「もう行くぞ!」
球体はいつのまにか目の前に来ていた。
・・無機質なはずの白い球体が、いかにも楽しそうに笑ったように見えた。
「下界へ!」
シュパンと言った響きとともに、球体と自分は消えた。
部屋は先ほどの騒ぎが嘘のように静まりかえる。
空気はだんだんと落ち着きを取り戻し始めた。
東から昇りはじめた太陽が、レースのカーテンを通して幾何学的な模様を誰もいない部屋に描いた。