第1話
魔領八割を治める皇帝“カルカス・セネス”、人呼んで魔王。
曰く人喰い、曰くキレ者、曰く偏屈、曰く傲慢、曰く高潔、曰く真なる王。
史実上類を見ないほどの天才と讃えられ、且つその評価を過言であると言わせないほどの功績を残し、魔領にかつて無い栄光の光をもたらした偉大なる英雄。
その声は如何なる時も兵を鼓舞し、民を癒し、司祭を敬服させるという。その姿を見た者は無意識の内に平伏し、ただ感謝の念のみが心を満たしてゆくのだという。
また王は元々は武人であった。魔領を人間の侵攻から守る誇り高き騎士団の団長だったのだ。前代魔王の逝去後、次期魔王争いに迅速に対応し、その後の公正な投票の結果で選ばれたのだという。皆がカルカス様に投票した理由など語るまでも無い。優秀な騎士団の団長に抜擢されるだけの力、無能どもを退けすぐさま国民の意思を反映させられるだけの能力の高さ、オマケに性格も容姿も良いときたものだ。選ばれないわけがないだろう。.....武人としての闘争心だけはネックであったが。カルカス様は王だ、魔国領を治める王なのだ。なのに!事あるごとに強い奴がなんだ騎士達の訓練がなんだと直ぐに戦おうとする!確かに!魔王陛下はお強い。国が危機に陥った時には誰よりも頼りになる人ではあるだろうし、事実この国には魔王陛下より強いものなど一人もいない。しかしだ!だからと言って王が気軽に剣を向けられてもいい理由にはならないだろう!何故だ、何故自重して下さらない。その他に於いては何事にも真摯に向き合う魔王陛下が何故こんなにも......。再三注意しても「お前にはわからんだろう」としか仰られないし。
そこの所、異世界人のお前はどう思う?やはり私がおかしいのだろうか?
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俺の数少ない特技の中でも最も有用なものと言えば、やはり寝起きが驚くほど良いということだろう。普段の生活ではあまり役に立たないこの技だが、地震などの災害時にはアラームもビックリなほど頭が瞬時に冴え渡るのだ。
妙な汗を流しながらゆっくりと頭を回転させる。狼狽ともいえる焦燥感を抱きながらキョロキョロと辺りを見回すも、ハッキリしている筈の頭は一向に現状を理解してくれない。
ジメジメしていて空気の淀みが目で見えるのではないかと思う程の閉鎖空間。足から伝わるのはザラついた石の感触であり、手には鎖のついた手枷まで嵌められている。まるで囚人かなにかのような扱いが施されていた。思わずむせ返りそうになるのを堪えながら目線だけで周囲をキョロキョロと見渡す。
夢の中...なのだろうか。いや、違う。夢がこんなに鮮明なわけがないし、何より...
目の前の、一人訳の分からない事を喋り続けるこの男。見慣れぬ風貌、だが素人目でも上質な衣服とわかるものを身に纏った体格のいい男、年齢は三十歳くらいだろうか。愚痴のようなものを零しながらもその様子はいささかの喜色も含んでおり、しかし此方へと常に注意を向けているのが伝わってきた。それが俺の困惑と鼓動をさらに大きなものにしていた。
昨日、学校から帰ってきて、課題を終わらせて風呂入って飯食って、そっからベッドに入って寝た。それまでの間に何か特別なことはやってない、誘拐された覚えもない。
...わからない。一体なにが...いいや、この際経緯なんてどうでもいい。
何の目的で誘拐された?どうしてここまで厳重に拘束されている?
「そこの所、異世界人のお前はどう思う?やはり私がおかしいのだろうか」
不意に振られた話題に生唾を飲む。
まずい......話を聞いていなかった。
相手は誘拐監禁拘束を難なくやってのけ、その上被害者の前で何の負い目もなくしゃべくることのできるやばい眼をした狂人だ。いい加減な答えをしたら何をされるかわかったもんじゃない。
取り敢えず、相手の踏み込んでもらいたくない領域に触れない様に返答するには
「異世界人...?」
おうむ返しが一番。
「っ?お前、知識は一通りあるんじゃ...。いや、だが.........あ、はぁぁぁあ」
どうやら目論見は成功したらしい。男の事情など知りはしないが、ため息をつきながら頭を抱える様子はとても演技には見えない。
「少し用事ができた。お前への対応は後日改めて伝えに来よう。なに、こちらが勝手に呼んだのだ、悪いようにはしない。ではな」
それだけ言うと男は俺から視線を外し、コツコツと耳障りなを立てながら扉の向こうへと消えていった。
汗が流れ落ちる、滝のように。目の焦点が合わず、顎に力が入らない。心臓の鼓動が徐々に緩慢になってゆき、遂には活動を停止したのではないかと疑うほどにゆっくりになった。
否、その表現は正確には間違いだ。先程までの鼓動が早すぎたのだ。
ハッと気づいた次の瞬間には、詰まっていた肺に堰を切ったように空気が流れ出し、一気に胸が張り裂けるような痛みに襲われていた。
苦しみに耐え切れなくなり、何度も胸を殴りつけ呼吸を再開させようとするが、今度は肺が潰れてしまうのではないかと思うほど空気が逃げていく。
学校の長距離走でもここまでキツくはなかったかなぁ、などと余計な事を考えながら何とか痛みを誤魔化す。その間に荒い息を整え、どうにか体に力を取り戻すことに成功した。負担がかからないよう気をつけながら上体を起こす。全身をペタペタと触りながら状態を確認するが、特に異常はない。命が繋がったことに改めて安堵を得ると共に思わず乾いた笑い声まで上げてしまった。
人生で初めて出会った命を脅かすほど脅威に過剰反応を起こした。ただそれだけのことだ。自分でも驚くほどにすんなりと入ってきたその事実は、突然の過呼吸の原因であると同時に、あの男が圧倒的な存在であることの肯定を意味していた。
まるでクマにでも遭遇したかのようだった。しかも本人が自然体で......風格、とでも言い表せばいいのだろうか?とにかくそれに近い「圧」を放っているものだから自分自身で怯えていることすら理解できなかった。それこそ防衛本能かはわからないが、これほど頭が良く回ったのは今回が初めてだろう。
人間死ぬ気になればなんでもできるなんて信じていなかったが、案外そうなのかもしれない。
アイツは一体何者か。
いくらでも予測も想像もできるがもうそんなもの意味をなさないだろう。今まであった中で最上位の生物。最早人をかたどった別の生き物と言った方が正しい気がしてくる馬鹿げた存在。何をされても従う以外の道はない。
「後日に対応って言ってたか......」
する事もなし、そもそもやる気すらさっきのプレッシャーで削がれた。このまま二度寝を決め込んでしまおうか。あるいは本当に夢であればいいのに。
そんな事を考えながら、ジャラジャラと鳴る鎖を引きずって仰向けに倒れる。目を閉じて、これまでの人生とこれからの人生に思い馳せながら心の中で現状について悪態をつきまくる。当然、その中にあの男のことはなく、少なくとも、諦めの悪い俺の価値観を百八十度ぐるりと変えてしまうほどには精神的に苦痛を受けていた。