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名を雪ぐ

作者: てこ/ひかり

 「結婚してください」


 付き合って三年目の彼にそう言われて、私は言葉を失った。嫌だったわけじゃない、むしろとても嬉しかった。先ほどまで静かだった夜の海岸に、波の音と私の心臓の鼓動が混ざり合って、耳の奥で大きく響いた。この三年間、隣にいる時間をたくさん彼と作ってきたし、今ここでそういう流れになるのは自然のことだった。私をじっと見つめる彼の目を、私はまっすぐ見つめ返した。


 「少し…考えさせてください」


 それから数日後、私はとある繁華街の路地裏をこっそり訪れていた。




 

 「いらっしゃい」


 重たい扉を開くと、取り付けてあった鈴が鈍い音でなった。街灯の無い路地裏と同じくらい薄暗い店内に、私は何だかうすら寒さを感じた。案の定、と言っては失礼だが、店内にお客は少ない。目的の人物が、この店にいるはずだ。私は教えて貰った通りカウンターに座り、バーボンのロックと酢豚を頼んだ。


 「お客さん…メニュー読んだか?うちの店に酢豚はないよ」

 「…いいんです。お願いします」

 

 カウンターの中にいたバーテンがジロリと私を睨みつけた。その冷徹な目に私の声は思わず震えてしまっていた。

 

 「…いいんだな」


 バーテンはもう一度私を舐めるように睨みつけ、さっさと奥へと引っ込んでしまった。それから数分後、私の前に冷めた酢豚が運ばれてきた。黙って箸を運ぶ。その間、客もバーテンも、誰も何も喋らなかった。何とも重々しい沈黙が、耳の奥で何度もこだました。できれば早く、この場から立ち去ってしまいたかった。


 …これでよかったんだろうか?教えられた通りに注文したはずだが…もう食べ終わろうかとしたその瞬間、突然男が私の隣に座ってきた。私が驚いてそちらに首を向けると、男は私の方も見ず淡々と喋り始めた。


 「あんたかい?名前を売りたいってのは」

 「!」


 私は目を見開いた。この男だ。裏の世界で実しやかに噂されていた、名前の売人。紺のスーツに身を包んだ彼は、メガネの奥から私を値踏みするようにちらりと眺めてきた。私が想像していたよりちゃんとした身なりで、若かった。私は思わずゴクリと唾を飲み込んだ。




 最愛の彼に結婚を申し込まれた時、私を悩ませていたのは自分の「本名」だった。指名手配されてからもう8年が経ったとはいえ、まだあの結婚詐欺事件のことを覚えている人は多かったし、私も危険な橋は渡りたくなかった。いくら顔を変え、本名を伏せ姿をくらましても、戸籍を調べれば瞬く間に私の経歴がバレてしまう。


 彼を愛していることは嘘じゃないし、できれば本当に、このまま二人でいつまでも一緒にいたいと思っている。だが、罪は罪だ。


 だから私は、危険を冒して自分の本名を売買する男の噂を頼った。


 「いくらで売ってくれますか?」


 私はできるだけ緊張を悟られぬよう、売人の男に尋ねた。男は黙って指を三本立てた。


 「三十万…ですか?」

 「馬鹿言っちゃいけないよ。三百だ」

 「三百…!」


 私は絶句した。貯金全部足しても、ギリギリ足りるかどうかだった。


 「やめとくかい?まあこっちもそれなりに危険な仕事だからね。無理にとは言わないよ」

 「ま、待ってください!」


 それじゃあ、と笑いながら立ち上がった男を、私は慌てて呼び止めた。


 「払います!払いますから!」


 男は扉の前で立ち止まり、ゆっくりと私を振り返った。


 「いいのかい?名前を売ってしまったら、もう二度と元には戻せないよ」

 「…平気、です」


 直立不動のまま、私は大きく頷いた。もうとっくの昔に、決心はついている。「まいどあり」男はぞっとするような笑顔で私に右手を差し出した。私は男としばらく話し合い、それから逃げるように店を後にした。


 



 次の日、私は彼とデートの約束をして、この前の海岸に来てもらった。もちろん、婚約を受けるためだ。売人から新しく手にいれた「本名」は、前のとは縁もない全くの別名だった。私の名前が違うことを知ったら、彼は何て言うだろうか?それでも、幸せにしてくれるだろうか?近い将来のことに想いを馳せていると、向こうから仕事を終えた彼が急いで駆け寄ってきた。彼の姿を見ただけで私の胸は自然と高まり、笑顔が溢れてきた。


 「ごめんなさい、急に呼び出して…あの、この間の件なんだけど」

 「君、ニュース見てないのか?」


 私がきょとんとしていると、彼が息を切らしたまま、急いでスマホの画面を私に見せてきた。


 そこに写っていたのは、ネットのニュース画面だった。


 「元結婚詐欺師の消息判明!」


 見出しに書かれた大きな文字の下に、私の今と昔の顔写真と、本名が載っていた。




 私の名前は、確かに大きく売れた。


 

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