森の主の夢
あれから二日、吹き荒れていた吹雪は少し収まってきていた。だけれど、コロンにはそれを気にしている余裕はなかった。
―コロン、ごめんなさいね……。
弱弱しく彼女が呟く。
二日前に彼女―私を助けてくれた女性、アザレア―の陣痛が始まっていた。
アザレアの旦那は今、山の中の狩り小屋にいて吹雪に足止めされている可能性が高いらしい。今、彼女のそばにいるのは、運悪く私一人…。
コロンはぎゅっと目をつむり、目頭を押さえる。落ち着け、私。
アザレアは波を一つ越えたのか、小さくこちらに微笑んだ。自分が一番大変な時だというのに、私の不安さを気遣ってくれている。
―大丈夫だよ。私がいてあげるから。あら?なんだか風も弱まってきたみたい。きっと、旦那さんも来てくれるわ。
アザレアのおでこを、温めたタオルで拭きながらコロンは答える。
大丈夫、きっと大丈夫……でも、もしもこのまま始まってしまったら…。
もう一度ぎゅうと目頭を押さえる。何とかするんだ。彼女が頑張っているのに、私が怖気づいてどうする。
風が弱まってきたとはいえ、とてもコロンに麓のにあるらしい村まで行けそうにはなかった。なにより、行けたとしてもその間アザレアが一人になってしまう。それは、多分避けるべきだと思う。
何が正しい判断なのか、私にはとても分からない。アザレアの手を握ると、彼女も強く握り返してきた。苦しそうに眉間に皺が寄っている。
段々とまた息が荒くなっていく。私の手の中の彼女の指はこんなにも細いのに、信じられないほどにきつく握りしめてくる。
―大丈夫、大丈夫だからね、アザレア。
そんな言葉しか出てこない。
外から何かの音がする。これは、遠吠え…?普通なら、狼なんて家の近くまでは来ないはずなのに。
また少し落ち着いたアザレアの汗をぬぐうと、すっと手をほどく。
窓に近づいて少しカーテンを持ち上げる……なんてこと、もう目で確認できるところまで狼たちが来ている。
どうして…そんなことを考えているうちに、一際大きい遠吠えが響く。コロンははっとした。
なんだかその遠吠えに呼ばれている気がする。
がちゃり、とノブを回して外へ出る。右手には、ルーから貰ったナイフを握りしめて。
これは、お守りなんだ。きっと、私を、この家を守ってくれる。
―私を呼んだのは誰?
風にかき消されまいと、声を張って狼たちに伝える。しかし狼たちは少し離れた木々の向こうから私を見ているだけだった。
そもそも聞こえてきたのはただの遠吠えだ…何を、私を呼んでいる、だなんて。不安から、気でも触れたのだろうか。だけど、狼たちから目が離せない。
その時、狼たちの向かう側で大きい影がゆらめいた。あっ、と思った次の瞬間、その影は私の前に飛び出てきた。
それは大きかった。他のどれよりも大きく、威厳ある狼だった。
声が出ない。3、4歩も歩けば届きそうなところに、私の背丈などゆうに越える狼がいる。
風はもう止んでいる。頬を撫でていくその風は、その巨大な口と鼻から漏れているもの。生暖かいその風に硬直した体が目を覚ます。
―来ないで。
ゆっくりと右腕を突き出す。いや、これが精一杯の動き。焦点が定まらなくて、どうしても狼の瞳を見据えることができない。
しかし、狼は、一息ぶるんとその巨体を震わすと、現れた時とは反対に、静かに余裕をもってこちらへ背を向ける。
鼓膜が破れるのではと思うほどの声。その吠え声とともに狼たちは走り去っていく。
―助かった…?
ほんの数分のできごとのはずなのに、何時間も見つめあったような疲労、恐怖、そして安心感。
コロンはその場へ崩れ落ちた。
ここは、岩山…?
コロンは周りを見渡す。岩陰には雪が残っているが、そこまでさむくはない。これは、夢?
―何者だ。
低い声が響き渡る。
―何者だ、私の夢に立ち入るのは。
背筋に悪寒を感じて、身を小さくしながら振り返る。そこには、あの狼が。
―貴様か、さっきの小娘よ。
狼は全身の毛を逆立てて、声を震わす。その声は、雷のように頭に響く。
―私は…私はなんでここに?だってさっきまで…
―黙るがよい。小娘。
コロンが次の言葉をつづけるより先に、狼が遮る。
―早く立ち去れ。私から出ていけ!
狼は牙をむいてコロンを威嚇する。だがそこにはどこか、恐怖の感情が含まれていた。
―あなたは一体…?ここはなんなの?
―出て行けと言っているのだ!もう言葉はいらない!それ以上の干渉を、その毒を、私に、仲間に、そしてこの森へしてくれるな!!
狼は大きく吠える。
その声に押し負けて、コロンは腕で顔を覆い隠した。そして、意識が遠のいていく。
遠くで赤ん坊の泣き声が聞こえる。この声は…。薄くコロンは目を開けた。
今私は、暖炉の前の椅子に座っているようだった。泣き声のする方へ顔を向ける。そこには、優しく笑うアザレアと、多分その旦那、産婆らしき女性と…小さな赤ん坊。
―あぁ、生まれたのね。
その声で、アザレアがこちらに気づく。
―コロン、目を覚ましたのね!良かったわ、あなた玄関の前に倒れていたみたいで。狼にナイフ一本で挑もうなんて、無茶よ。
あの後、風を避けて帰ってきた旦那に私は救われて、事なきを得たようだった。アザレアを助けるつもりが、自分が助けられてどうするのだろう。申し訳なさそうに頭を垂れる。
そういえば、お守りのナイフがどこにもない…
―ううん、コロンがいてくれたから、頑張れたんだよ。ありがとうね。
アザレアはそう言ってくれた。
少しして、天気の落ち着いたころ、私は麓に連れて行ってもらい、別れを告げた。
ナイフは散々探したけれど、結局見つからなかった。それでも、あのお守りのおかげできっと狼を退けることが出来たのだろと、そう思うことにした。
大切なお守りでも、春までここに残るわけにもいかない。
―春になって、雪が解ければきっとナイフも見つかるから。必ずあなたへ渡すから。
家を出るときに、アザレアはそう約束してくれた。私は早くルーに会わなくては。
不安が胸をよぎる。
あの狼の言っていたことは…私は一体。




