忘れ物の始まり
―寒い。
コロンは一人つぶやいた。
予想よりも早くに雪雲はやってきてしまった。もう少しでこの山を越えられるというのに…。
―お、コロンちゃんに親父さん、おはようさん!今日出発だったな!
そうやって声をかけてきたのは村のはずれの農夫のおじさんだった。
―おじさんおはよう!あんまり長居しちゃうと、なんだか天気が怪しくて。
コロンは幌馬車の荷台からそう答える。前には私の父が馬の手綱を引いている。
―おじさん、ありがとうございました。
低い声で父も挨拶をかわす。
―こっちこそ感謝してるよ!丁度薪割りの斧がダメになってしまってね。売ってもらえて助かったよ。そういや夢にコロンちゃんが出てきたよ!いやぁ、美女に夢の中で会えるなんてな。
そういって大きな口で笑う。
―おじさんたら、奥さんに怒られちゃうわよ?それじゃあ、お元気で。
私たちは手を振って、その村を後にした。
コロンが父と行商の旅に出てから、2年が経とうとしていた。
たくさんの村や町、大きな都までいろんなところへ渡り歩いてきた。
行く先々には、とても長生きのおじいさんや、博識な学者、父よりもずっと経験豊富な商人達がいた。
彼らは本当にいろんなことを知っていた。星の見方や草木の利用、石の種類や安くておいしいスープまで。
何でも、といってもいいくらいのことを知っていた。
だけど、そんな彼らに聞いても知らないことが一つだけあった。
ルーの病気を治す方法だけは、誰に聞いても申し訳なさそうに首を振るだけだった。
様々な病気の症状や、植物等の毒について調べても、ルーの症状と合うものは一つもなかった。
―午後になると雲が湧くかもしれないな。急いであの山だけは越えておこうか。
父はそう言っていた。
―寒い。
もう一度コロンはつぶやいて、雪の降る中を目を凝らす。
向こうに、何か明りが見える…気がする。とにかく進まなくては。
父とは、はぐれてしまった。
予想していたよりもずっと早くに雪が降り始め、すぐに激しさを増していった。。
視界の悪い中、とにかく少しでも落ち着ける場所をと進むうちに、幌馬車の片輪が道を踏み外した。倒れた幌馬車の勢いで、私は雪に埋まった森の中を滑り落ちてしまったのだった。
道よりも大分下まで落ちてしまったようで、とても登れる坂ではなさそうだ。とにかく雪をかわせる場所に行かなくては…。
ようやく辿り着いたその明りは、小さな小屋のものだった。
かろうじて扉にしがみつき、できる限りの力で叩く。
―どちらさま…?
小さな声とともに、おそるおそる扉が開かれる。
中に立っていたのは、一人の女性だった。
―落ち着きましたか?
そう言って彼女は熱く沸かしたお茶を差し出した。
私は震える手でそれを受け取る。唇が真っ青になっているのが自分でもわかるようだ。
―とりあえず、雪が止むまではここにいるしかないわね。
彼女は暖炉に薪を追加した。
落ち着いてきた私はようやく、彼女をきちんと見た。もしかして…。
―どうしたの?…あぁ、このお腹?もうすぐ生まれるのよ。旦那は今狩りで出てしまっているけれどね。
―そうなんですか。そんなときに、すみません…。本当にありがとうございます。
私はお茶をこぼさないようにゆっくりと頭を下げる。
―いいのよ、どうせこの雪じゃ旦那は狩り小屋に避難してるし、一人じゃさみしいから丁度良かったわ。さすがにびっくりしたけれど。
彼女はお腹をさすりながら、微笑んだ。
段々と雪の降る空が暗くなっていく。
―今夜はここに泊まっていくといいわ。多分、冬も終わりに近いから雪も長くは続かないわ。
彼女は、私のカップにまたお茶を注いだ。




