自然の猛威、鬼熊
林は日当たりを遮るほどは茂っていないため、空が見えている。俺とカーライルは息を殺して鬼熊へ近づく。手負いの方は気が立っているせいか、荒い息で体を丸めている。
もう一方はちょうど食事中のようで、角が異様に肥大化した鹿の亡骸を貪っている。特に弱っている部分は無いな。
手負いの方は顔が焼け爛れていて、肺と右目が特に弱っている。おそらく目の方は左以外ろくに見えてないだろうな。
俺はハンドサインでカーライルに伝えて、手負いの視界に映る側に回り込む。鞭での一撃は致命傷を与えるのが不可能だし、ナイフを急所に深く刺すには非力すぎる。したがって気を引くような一撃を加えてその反対側からカーライルが頭を狙う。
獣の嗅覚を誤魔化すため服に染み込ませた野草の匂いが鼻に付く。多少の緊張で手に握った汗を意識しつつも、カーライルへ目配せして飛び出す。
全身の捻りと手首のスナップを最大限に効かせた鞭は、確かな手応えと共に左目を潰す。空気を破る音と肉を打つ音が響き渡り、一拍おいて悲鳴のような咆哮。
巨体に似合わぬ俊敏さで直立した鬼熊は、激痛に上半身をくねらせながらもこちらに駆けだそうとする。
立ち上がるとは思っていなかったのだろう、カーライルは頭への攻撃タイミングを逃して一瞬だけ動きを止める。しかし、最初からトドメはグレンに任せようとしていたので問題ないと思い至ったのか腹に短剣を滑らせる。
さすがに内臓までは達していないだろうが、鮮血が溢れだし動きが鈍る。それでも闇雲にこちらへ走り出したのは、食物連鎖の上位者であるという意識があるためか。それとも命が長く持たないと察しての行動だろうか。
「グレン、来るぞっ!」
俺は叫びながらカーライルと共に後退する。視界の端では警戒態勢に入った無傷の鬼熊と俺たちの間に立つ二人。ソラとディランなら大丈夫だとは信じたいが、少しでも急いで終わらせるべきだと気を引き締める。
俺は全力で走っているのだが、手負いである鬼熊の方が足が速くて距離が少しずつ縮む。あと数秒で追いつかれるというところで、グレンの姿が視認できる。
こういう場所で木の根に足を取られたりしないよう訓練していて良かったと心底思う。転んだり、気を付け過ぎて走る速度を緩めていれば追い付かれていただろう。
「砕けろっ!」
グレンが集中して待機させていた魔術が鬼熊の眼前で爆ぜる。爆炎と共に吐き出される大量の石弾が頭蓋を打ち砕き、中身を飛散させる。周囲の地面にも石弾が突き刺さり深々と穿つ様は巻き込まれた場合を考えるとゾっとするな。
剣の魔女と戦っていて複合魔術を会得したと聞かされていたが、実際に見ると恐ろしい威力だった。それだけに消耗もかなりのものだろう、たった一度の魔術行使で魔力がごっそり減ったように見える。
「さすがだなグレン! あとで何かご褒美をやるよ。とにかく今は急いで援護に行くぞっ」
「ご、ご褒美……」
また厭らしい顔をしているが、そういう事じゃないし状況を考えろ。突っ込むのも疲れるので何も言わないがな。
一分もかけずにソラたちの元へ合流すれば、とりあえず二人の無事は確認できた。
しかし予想通りの強さだ。ディランが回避に専念しつつ手斧を投げるも、機敏に爪で弾かれてしまい一度も命中しない。腕を振り回した瞬間にソラが脇の死角から剣を突き込んでも、恐ろしい速度で腕が舞い戻ってくるせいで回避せざるを得ない。
怪我をしていなければこれだけの怪物という事だ。
俺は鬼熊の背後から鞭で打つが、毛皮に少し傷が付く程度で鳴き声すら上げない。丸太のような腕が振り回されてソラとディランを襲う。
ディランが全力で飛び退いて回避し、ソラは飛び込み前転で回避と同時に斬りつける。しかし無理な姿勢からの一撃は浅く、後ろ足を薄く傷付けただけだ。
おまけに地面を抉った爪が石や土を飛ばして、それを背中に受けたソラが息をつまらせる。危険を承知でカーライルがフォローに入り、ソラの手を引っ張る。
再度振るわれた爪が二人を薙ぎ払いそうになった瞬間、グレンの魔術が発動する。
「僕、グレンの名において願う。雷よ彼の者を縛る枷となれ」
腕に絡みつく雷の輪。それは鬼熊の腕を胴体に括り付け、一秒で砕けて霧散する。
「馬鹿な。捕縛魔術を力任せに千切るなんて出来たのかっ」
グレンが呻く。幸いにしてその一秒がソラとカーライルを攻撃範囲外に逃がしてくれたが、一手間違えれば致命的になるという事は嫌でも理解できた。
ともかく致命打を与えるための隙が必要だ。俺は無意識の抑制をはずして筋繊維を痛める全力の状態に移行する。
全力で疾走し、跳び上がる。手近な木を蹴ってさらに上へ。前上方の枝に鞭を絡めて五メートル程度の高さを、円を描くようにぶら下がりながら移動。
急に頭に近い高さを高速移動し始めた俺に、鬼熊の意識が向いているのが分かる。それでも前衛三人の攻撃が剛腕で押さえ込まれる。
グレンの魔術もどうやら他の魔獣との戦闘で慣れているのか、優先的に回避されてもどかしい。
あまりやりたくなかったが後一押し必要だと割り切って、勢いよく木を蹴り鬼熊の顔面に突進する。地上からでは届かない顔への攻撃だ。
鞭から手を離し慣性に任せて体ごとぶつかる。さすがに反応が間に合わなかったらしく、腰だめに構えたナイフが鼻を引っ掻き眼窩にめり込む。
つんざく咆哮に鼓膜が痛む。ソラとディランがそれぞれの得物で胴体を斬りつけるが、それにも構わず鬼熊は顔に張り付いていた俺を全力で殴って吹き飛ばす。
脇腹を殴りつけられて背骨が折れるという稀有な手傷を負いながら、飛びついた時以上の速度で近くの木へ叩きつけられる。内臓が潰れている感触が分かったし、叩きつけられた衝撃で手足の骨が数か所粉砕していた。
「ツバキっ!」
幸いなのは激痛が一瞬だけで今は寒さしか感じない事だろうか。急いで治癒に神力を回すが意識が朦朧として上手くできているか分からない。
カーライルが必死な顔で鬼熊の片腕を切り落とすが、短剣が折れてしまう。怒り狂った鬼熊の反対の手がカーライルを襲い、回避は間に合いそうにない。
俺は悲鳴を上げようとして声も出なかった。あの位置はまずい。頭に当たる。
死者を蘇らせることは出来ない。頭を潰されたら人間は助からない。
目の前が真っ暗になりそうなその瞬間、ソラが間に割り込んで聖剣を掲げる。
「死なせない! 必ず守って見せるっ!」
ソラの神力が聖剣を通して半球状に広がる。それは絶望という闇を吹き払う光のようで、俺は状況を忘れて見入っていた。
全身から出血しながらも繰り出された鬼熊の爪を、神力の盾がしっかりと受け止め弾く。大木ですら打ち砕く剛腕の一撃を受け止められて、唸り声を上げながらよろける。
その瞬間にソラの剣とディランの戦斧が挟み込むように胴体を斬りつけ、ついに鬼熊が巨体を地面に倒す。
木が倒れたような地響きのあと、林に静寂が満ちる。
「……死んだ、のか?」
体の機能が回復し始めて戻ってきた熱と痛みに声を震わせながら、俺は呆然と呟いていた。




