three
初仕事が終わり、俺はとぼとぼと更衣室前廊下を歩いていた。肉体的な疲労と、先程の遠藤の言葉が俺の体を重くしていた。
そのためふいにトントンと肩を叩かれても、のっそりと振り返ることしかできなかったのは、詮方ない。
「あれ、何か暗いね。どしたの?」
こんなぬっとした反応に、すぐさま案じるように声をかけてくれるのは、さすが水上ということか。
「あ、いや、ちょっと疲れてるだけだよ。ありがとう。水上さんは大丈夫なのか? 部活動対抗障害物競争がそろそろじゃなかったっけ」
「うん。陸上のユニフォームに着替えないとダメでさ。あと汗も拭いちゃいたいし」
とりたてて汗もかいていない俺に比べて、出番や応援の多い水上は汗みどろだった。それでも洗練された雰囲気は変わらない。
更衣室前の廊下には俺と水上以外誰もいなく、ひっそりとしていた。昼食休憩後の今、生徒たちは元気いっぱいにはしゃいでいるのだろう。
それを見越して、俺はここに来たのだが。
「すごい活躍だったよ。おつかれさま」
「バスケでは負けちゃったけど。悔しかったな」
水上の顔が心なしか固くなる。遠藤とのやりとりが頭をよぎり、触れるのは躊躇った。自然と俺と水上の間に沈黙が舞い降りる。
それを遮ったのは、俺でも水上でもなかった。
「来るなっていっただろ!」
更衣室傍の障害者用トイレから、押し殺したような怒声が響いた。
「だって…―――だから、――」
続いて大人の女性の声。どうやら広くて鍵がつくトイレの中で、親子喧嘩の火蓋が切って落とされたらしい。
誰もいない廊下の個室で、誰にも見られないように内輪もめを始めたところ、運悪く俺達が通りかかってしまったというところか。
俺と水上は、ここでそそくさと更衣室へ行くべきだったのだ。人様の喧嘩は、他人が勝手に聞き耳を立てたりしていいものではないのだから。
それができなくなったのは、水上がトイレの声の主について気づいてしまったのが原因に違いなかった。
「あれ。これ、二宮じゃない?」
「え?」
そこで申し合わせたように、再びトイレ内の人物が獅子吼した。
「お前なんかを、知り合いに見られたらどうしてくれるんだ」
本来ならもっと怒鳴りたいところを、何とか抑えているようだった。声はくぐもって低くなってはいるが、甘いテノールは確実に二宮のもの。
二宮が学校では絶対に出さないような暴言を吐かれた相手は、やや泣き声になりつつ叫んだ。
「達ちゃんが頑張ってるところ、母親であるあたしが見るのは当たり前じゃない!」
これでトイレ内の女性が二宮の母親であることは確定した。それにしても随分と若い声だ。まだ実物を見ていないせいもあるが、二十代と言われても疑わないだろう。
いや、今は二宮の母親の年齢を推測している場合ではない。二宮の家族問題など、どうでもいいことだ。
「水上さん、着替えたほうが、」
「その恥ずかしい呼び名をやめろ。この俺に、阿婆擦れ者の母親なんかいていいわけがない。誰にも見られない内に失せろ」
水上は、二宮の豹変に驚愕し、目を丸くして固まっている。トイレから聞こえてくる台詞から、意識をそらせなくなってしまったらしい。
それもそうだろう。普段の二宮は暴言どころか声を荒げることさえしない、完璧な紳士であり。
母親を悪女呼ばわりするような人間と、表向き非の打ちどころのない二宮を一致させるのは酷だ。
「ひどい…っ。あたしはこんなに達ちゃんのこと愛してるのに、」
「お前が好きなのは俺じゃなくて、俺の外見と成績だろ」
親子喧嘩ではなく痴話喧嘩としても通じそうな内容だ。俺が心中そう評価する最中にも、口論はヒートアップしていく。
「別にそんなんじゃ、」
「じゃあ孕ませた男から金をせびる道具か? しかも俺に話しかけてくるなんて、どういう了見だ? ふざけるなよ、帰れ」
「あたしはただ、達ちゃんを応援してあげようと思って、」
「俺のことを応援したいのなら、今すぐ消えてくれよ」
「ひどいわっ…」
直後女性のすすり泣く声。母の嗚咽に対しても、二宮は冷淡だった。
「泣き真似なら他所でやってくれ。完璧な俺に、ホステス上がりの母親なんて要らないんだ」
予想より重めの家庭事情に、こうして聞き耳を立てていることを後悔する。どれだけ俺が二宮や人間を嫌っているとはいえ、していいこととしてはいけないことの区別くらいは知っているのだ。
水上は二宮の内幕よりも、二宮の善人面の裏側に腰を抜かしているようだった。
二宮母は懇願の色をにじみ出しながら、二宮に話し続ける。
「だって達ちゃんのクラス、十二組に負けてるみたいだったし、心配で」
二宮の奥歯を噛みしめる音が、トイレの戸を挟んだここまで聞こえたような気がした。
「…俺が、田舎者なんかに負けるわけがない。どれだけ他の連中が能無しだろうと、どんな手を使ってでも俺は勝つ」
「あたし、達ちゃんのためなら何でもするわ」
「十二ホームルームを支えてる奴は一人だけだ。田舎者の癖に前々からウザい女子。他はただの雑魚だし、俺一人で十分だ。第一何があったとしてもあんたには頼らない。さっさと帰ってくれ」
すげない返事と、トイレの戸まで近寄ってくる足音。
慌てて俺は男子更衣室のドアを開け、肝をつぶしたままの水上を半ば強引に押し入れる。中に入った俺がドアを閉めるのと、二宮がひろびろトイレのドアを開けるのはほぼ同時だった。
スリル感を味わいつつ、ドアへ耳を押し当てる。
二宮が、乱暴な足音を立てながら去っていくのが分かった。母親はまだトイレの中のようだ。まあ、間違っても男子更衣室には入ってこないだろう。
そこまで考えて、俺は今の状況について認識新たにした。
これはちょっと、やばいかもしれない。
女子を否応なしに男子更衣室に入れるとは、変態以外の何がある。
恐る恐る水上を振り向くと、水上はようやく茫然自失の状態から我に返ったところだった。
「ちょっと…理解が追いつかない…」
いつもはきはきと喋る彼女の台詞は、今はたどたどしい。
それほどまでに、生徒の二宮に対する信頼や尊敬の念は厚いということか。
「…俺も、驚いたよ。意外と毒舌なんだね、二宮は」
「毒舌どころか、二重人格。あんな…あんなに完璧な人はいないと思ってたのに」
いかにも、というように俺は頷いて見せた。
「…誰に言っても絶対信じない。八月一日くん、二宮の本性は最悪っていうあたしの認識、間違ってる?」
そんな重大な判断を俺に任せないでほしい。
しかしここで否定をしても水上は納得しない。水上は今望んでいるのは、
「いや、俺も今はそう認識しているよ」
「なら確実だわ」
水上が少し遠い目になった。
「中学のとき、二宮が東京から転校してきてすぐ、二宮は人の中心にいる存在になった。でも親友にはならなかった。あたしらが二宮を見上げているからだと思ってたけど、二宮があたし達を見下げてたってことね」
どうだろう。
二宮は確かに同級生や教師、先輩を田舎者として蔑んでいる。しかし二宮の本性は見下すために肥大化しているというよりも、自分の完璧さへの自信が過剰に膨れ上がっているだけに視えるのだ。
彼にとって人とは、自分に酔う手段の一つにすぎないのでは。
だが俺は人の本性が視えても、それを理解しようとはしない。だから遠藤のように的確に人の真実を見抜くことは無理だろう。
考えにふけっていたところ、いきなり水上の顔が目の前にひょっこり現れた。
わずかに身を後ろへ引きつつ、愛想笑いを浮かべて尋ねる。
「どうしたの?」
「八月一日くん。頼みがあるの。自分でやらなきゃいけないことだけど、物理的に不可能だし」
そう言う水上の目には、二宮への狼狽の色は既にない。あるのは改まった真摯さだ。
誠心だからこそ、俺は面倒事に巻き込まれそうな予感に、この場から逃げ出したくなる。水上の真っ直ぐ覗き込んでくる視線から、目を逸らしたくなる。
無論、停滞主義の俺に進んで人間関係を悪化させるような真似ができるはずもなく、水上が話し出すのを待つ他なかった。
「〝十二ホームルームを支えている奴は一人だけだ。前々からウザイ女子〟。これ、さっき二宮が言ってた台詞なんだけどさ」
水上の記憶力に拍手すべきか、舌打ちすべきか迷う。言うまでもなくどちらも実際はやらないのだが。
「あたしは、〝女子〟の中で〝十二ホームルームを支えている奴〟という自覚がある。自慢じゃないんだけど、不愉快になったらごめん」
「いや、事実だと思うよ」
「ありがと。で、二宮はその女子、つまりあたしを〝どんな手を使ってでも〟〝動けないように〟しようとしてる」
なんとなく水上の頼みごとが読めた。ひとまず俺は、厄介事に巻き込まれないために精一杯足掻くことにする。
「売り言葉に買い言葉だったんじゃないかな。二宮が、嫌っているお母さんに〝達ちゃんのクラスは負けそう〟って言われて、反抗しただけ、とか」
我ながら筋の通った理論だ。しかしそれは水上による感情論で潰される。
「あたしも人伝だったらそう解釈したかもしんないけど。二宮の野望っていうか、欲塗れの声を聞いたら、二宮は絶対あたしに何か仕掛けてくるな、って思わずにいらんない」
いとも簡単に逃げ道を失った俺は、ひとまず水上の頼みごとを聞くことにした。大したことではない、という望みを捨てず。
「あたしは、二宮があたしに嫌がらせしてくるって考えてる。あたしが競技に出られなくなるような」
「うん。そういう可能性もあるかもしれない」
「あたしが八月一日くんに頼みたいことは一つだけ」
断頭台に立たされた面持ちで、俺はその言葉を拝聴する。
「体育祭が終わるまで、あたしを守ってほしい」
どうやら、断頭台の刃は落とされたようだ。
水上を守る、など。
もしかしたら他の男子同級生にとっては理想的な状況なのかもしれないが、水上を色目で見ていない人間つまり俺にとっては勘弁してほしいことだ。
俺の沈黙をマイナス方向に受け取った水上は、俺に畳みかける。
「二宮の嫌がらせは、直接的なものだけじゃないと思うんだ。勿論、靴や体育着を隠そうとされているなら、常に肌身離さずもっているようにする。貴重品とかは更衣室のロッカーに入れておく。できる限りの防衛は自分自身でもやるつもり。こういうのを人に頼むのは無責任なことだから、もし何か嫌がらせを受けても、絶対に八月一日くんを責めたりはしない。
でも二宮の頭の良さは、どれだけ注意しても振り切れる気がしない。あの性根を二年近くあたし達に隠し通してきたってことじゃん? あたし運動方面は自信あるけど、洞察力とかそういうのからっきしだから」
「具体的に、俺にどうしろと?」
「二宮があたしに危害を加えないよう、見張っていてほしい」
「俺この後、体育委員会の仕事あるから。ずっと見張ってはいられないよ」
「何の仕事?」
それを聞かれ、俺は内心苦りきった。そう物事うまくはいかないということか。
「…いや、全校男子騎馬戦のアナウンスだから、よく考えれば無いに等しいかな」
なんという悪運。
俺が引いた仕事が、結果的に二宮が出る競技を見張る役割を果たしてしまうとは。他に、他に温和な打開策はあるだろうか。
大した活路も見いだせずに万策尽き、
「お願い。責めたりしないから」
俺はタイムリミットを甘受した。
「…ああ」
責めたりしない、とはいっても無責任に変わりはない。現在の二宮の本性の状態をまだ俺は見ていないが、きっと屈辱に一層醜くなっていることだろう。
そんな二宮が水上に何か悪さをしない確率は、無に等しいと俺は考えている。換言すれば、俺は必ず何かしらの嫌がらせを防がなければならない。
そしてそれを見過ごした場合に、水上はどんな方法であれ傷つく。
防げなかった俺が責められないとはいえ、それで俺も加害者の仲間入りだ。
ミザントロープの俺は、水上がどんな被害を受けようと、きっと何も感じない。何のショックも受けない。
だがきっとそれは道徳に反する悪行。人間嫌いだろうと、人倫を踏みにじる悪党に成り下がることは敬遠する。
俺が望むものは停滞であって、堕落ではないのだ。
あとひょっとしたら、遠藤の言葉が効いた、というのもあるかもしれない。
さて、水上の頼みを引き受けた時点で、俺は絶対的に二宮の悪事を防がなければならなくなった。ならば、この程度の取引は許されるはず。
「俺が二宮の企みを防いだ場合、一つ俺の頼みをきいてほしい」
水上は一瞬きょとんとしてから、大きく頷いた。
「全然オッケ。どんな頼み?」
「…事が終わったら言うよ。水上さんが不利になるようなものじゃない、と思う」
「何でもいいよ」
その台詞に嘘がないことを願う。
「じゃあ、水上さんがこれから出る競技を教えてくれる?」
「これから始まる部活動対抗障害物競争と、全校女子対抗大縄跳び、あとラストのクラス対抗リレーの三つ。全部運動場で」
「それぞれの時間と、役割は?」
「部対抗障害物競争はもうすぐ始まる。二宮が何か仕掛ける暇はないと思うけど、一応あたしはハードル。
大縄跳びは男子騎馬戦の後かな。あたしは縄回す係。
クラスリレーは、八月一日くんも出るから知ってるとは思うけど、アンカー」
全て荷が重い役割ばかりだった。水上にとっては容易にこなせることなのかもしれない。
水上なら心配ないだろうが、一応注意を喚起する。
「競技の合間は信頼できる人の傍で、自分の荷物をずっと持っていてほしい」
「分かった。ごめん八月一日くん、本当にありがとう」
水上は深々と頭を下げた。慌てて俺は頭を上げさせる。こんな場面を人に見られてはたまったものではない。それ以前に男子更衣室に二人でいる現状のほうが危ない。早く出なくては。
「礼は何事もなかったらでいい。じゃあ、とりあえず外に出ようか」
「あ、うん。あたしもユニフォームに着替えないと」
外に人の気配が無いのを確認してから、そろりと俺と水上は廊下へ出た。
それから水上は女子更衣室へ。俺は女子更衣室の傍で水上を待つことにする。
俺が二宮を探しに行っている間に、水上にこの人気のない廊下を一人で歩かせるのは、万が一のために危険だった。