two
「あ、瑛太おつかれー」
「凄かったじゃん!」
「かっけかったぞ」
それらの労いに当座しのぎの礼と微笑で答え、俺はペットボトルの水をがぶ飲みした。特にリレー後の感慨などはない。プレッシャーが消えて嬉しいくらいか。
結果、一位二年、二位一年、三位三年。
三年は受験勉強中でろくに運動もしていないため、妥当な記録だろう。
俺は抜かすことなく、かといって抜かされることもなくバトンパスを終えた。俺が一番に望んでいた展開だったので満足している。
次の種目は何か、確認するためにプログラムの紙へ伸ばした俺の腕を、むんずと誰かが掴んだ。
「瑛太! 女子バスケの応援しに行くぞ!」
畑中だった。手を引かれるがまま、俺は第一体育館へと連れられる。残暑の秋、いくら窓が開けられているとはいえ、中は生徒が生み出した熱気で蒸し暑かった。
第一体育館はバスケコートが二つ設置され、女子のバスケが繰り広げられていた。バスケは学年性別別クラス対抗、選抜メンバー五人が競い合う。
見るに入り口側のコートで高一女子が、奥のコートで高二女子が試合中だ。
「凛花ーっ! がんばれぇ!」
女子の黄色い声援と、男子の野太いエール。男子全員が乗り気で応援するなど珍しい、と思っていたら、どうも水上がバスケの選抜選手の一員らしい。
運動神経が猿並の水上を相手にするなど、敵チームも運が悪いと思いつつ得点版へ目を凝らす。意外なことに点数は僅差だった。
相手チームに一体どんな猛者がいるのかとコート上のボールの行方に焦点を当てる。
水上が出した鋭いパスを、高い跳躍で防ぐ人物がいた。その人間の正体に気付いて俺は唖然とする。
「すっげー…水上とやり合えてる…」
「アレ、十三ホームルームに入った転入生だよな?」
「どんだけジャンプしてんだよ…」
周りからも驚嘆の声が聞こえる。水上と互角にゲームを進めているのは、遠藤だった。
野性児的な中身だとは分かっていたが、まさか運動神経まで野性児級だったとは。
水上が猿並なら、遠藤は猫並というところか。
毒気を抜かれている間にも、ゲームは着々と進行している。水上の、男子でも出せないような速度の送球。それを奪って、流れるようなドリブルでレイアップシュートまで持ち込む遠藤。
バスケは個人種目じゃないですよ、と注意したくなるぐらい、二人は圧倒的だった。
「うわ、俺遠藤サンに惚れちゃいそう」
畑中が遠藤を凝視しつつ漏らす。俺はたまげた。遠藤を女子として、そもそも人間として認識していなかったからだ。
「やめておいたほうがいい」
咄嗟に本心を発言してしまい焦ったが、畑中は
「あははっ、ひっでーっ!」
と笑い飛ばした。俺も同調してははは、と笑う。内心で冷や汗を拭った。
「遠藤さん、クラスリレーで第一走者なんだとさ。ホント、部活もしてねぇのにどうやったらあんな動きできんだろうなぁ。気になるわー」
「山で動物と遊んでいたんじゃないかな」
「ぶふっ、ちょ、瑛太酷ぇって!」
いや俺としては半分以上事実だろうと思うのだが。どうも遠藤に関することとなると、本心のチャックが緩くなる。
試合は残り一分を切っていた。点数は僅かに十二ホームルームが優勢だ。
「ほんと、気になるよなぁ…」
隣から聞こえた独り言のトーンが、いつもより低い。気にかかって畑中へ視線を向ける。そして俺は小さく眉根を寄せた。
畑中と、目が合う。
畑中の顔についている両眼ではない。畑中の体中から出現した無数の目玉とだ。
ぎょろぎょろ。
きょろきょろ。
薄気味悪い。しかし、俺の平和に悪影響を与える様子は見受けられないから、嫌悪感は抱かない。
無表情に俺はコートへ視線を戻す。
コート上を、試合終了間際と思えない速度で駆け回っているのは二人の女子。
スリーポイントの位置から、シュートを決めようとボールを掲げ、放つ水上。それを高跳び選手もびっくりのジャンプで遮り、ボールを奪う遠藤。
遠藤はバスケ部に今すぐにでも勧誘されそうな高速のドリブルで人気のないところまでダッシュし、リング近くの味方へとスローパスを試みる。
コート正反対の位置にいた水上は間に合わない。他の選手も疲弊していたのかカットできずに、ボールは十三ホームルームのリングへ収まった。
途端湧き上がる、敵方の歓声。
これで同点になったようだ。タイマーは、試合時間が後三十秒弱であることを示していた。
水上の顔には焦りが浮かんでいた。焦るような場面もない水上にしては珍しい表情だった。バネの足が地を蹴る。遠藤へのパスを遮ろうと、手が伸ばされる。
その水上の腕を見て、俺は虚をつかれた。
筋肉質の日に焼けた腕が、変質していた。
あるのは腕と同じ長さ、同じ太さの真黒な針。
微かに伺える水上の横顔は険しく、平静さを失っているようだった。普通、たかだか体育祭の一種目にそこまで執着するものか。
俺は体育祭に身を入れていない。それでも、他の生徒の平均的な体育祭へのモチベーションぐらいは分かるつもりだ。
負ければ悔しいが、一番は楽しむこと。
皆、その程度の士気で体育祭に取り組んでいる。
きっと水上の勝利への拘泥は、異常。
漆黒の刃と化した水上の腕が、バスケットボールをキャッチした遠藤の胸元へ向かった。その光景を、水上が遠藤を突き刺そうとしているように錯覚してしまう。
遠藤が傷つけられるかのように錯誤してしまう。
頭では、俺だけが視る幻覚だと理解していながらに。
「――――」
知らずの内に俺の口が小さく開いていた。
何を言おうとしたのかは、自分でも分からない。
俺が自分の行動に戸惑っている間に、試合は急展開を見せていた。
遠藤がボールを取ろうとする水上を前に、〝何か〟を言った。その〝何か〟を耳にした水上の動作が束の間、停止する。
同時に水上の厳しく硬い顔が、気抜けしたようなものへ。真黒なニードルは、本来の若干濃い肌色のスラリとした腕へと戻った。
無論遠藤はこの隙を逃しはしなかった。華麗なドリブル捌きで水上を避けて、ゴール傍の仲間へバウンドパス。
水上が我に返って遠藤を追いかける時には、既に十三ホームルームの選手がシュートの体勢に入っていた。
水上以外の十二ホームルーム女子による必死の妨害も空しく、ボールは簡単に赤い輪を潜る。地面へ落下するボールの衝撃音を掻き消す、十三ホームルーム生徒の歓声。
対照的な十二ホームルーム生徒の、落胆の声。
おそらく全員が、水上のいるバスケチームの勝利を疑っていなかった。
「水上が負けるトコなんて初めてみたわ…。マジかよー…」
俺の同級生全員が、この畑中の気落ちした台詞と同じ心境なのだろう。無責任なことに。
しかし俺は水上やクラスの敗北よりも、よっぽど気になることがある。
遠藤よ。
お前は、水上に何を言ったんだ。
気になったので、俺は遠藤に直接疑問をぶつけてみることにした。
女子バスケの次の男子バスケでは、見事十二ホームルームが勝利を収めた。二宮のいる十三ホームルームと当たらなかったことも、勝利の理由の一つだろう。
午後は体育祭にて俺の初仕事となる、高三バスケの得点係と、運動場にて行われる全校男子騎馬戦のアナウンスがある。因みに我がクラスの男子人数は奇数であり、俺は委員会の仕事を理由に、慎んで騎馬戦出場を辞退させていただいた。
今から遂行する高三バスケの得点係は、遠藤と二人で取り組むよう分担されている。まだ委員会どころか学校にも慣れていない遠藤の保護者的任務を、俺は与えられたらしい。
俺が体育館へ行くと、既に高三は円陣を組みカツを入れていた。学校生活最後の体育祭となるかもしれない今日、一番やる気があるのは高三なのだろう。
得点板の前には求めていた人影があった。
隣に立つと、例の無表情で遠藤は俺に顔を向けた。俺は会釈する。遠藤の瞳は変わらずに蒼かった。
審判がホイッスルへ鋭く息を吹いた。それを合図に高三の女子バスケチームが、中央の白線を挟み向かい合う。
審判が高くあげたボールは落下し、それをどちらかのチームの選手がタッチしたとき試合は動き始めた。
「遠藤さん」
点数係としての使命を全うしようとしている俺は、コートから目を離さずに話しかけた。遠藤がこちらを見たのが気配で分かる。
遠藤相手に変化球で質問するのも、馬鹿くさい。直球で聞くことにする。
どうにも俺は遠藤を一段高いところにいる存在として見ているらしかった。
「今日、十二ホームルームとバスケで試合していたときなんだけど。水上さんに、何を言ったの?」
「みずがみ?」
ああ、知らないか。
「遠藤さんと互角にバスケをしていた女子だよ」
ちらりと遠藤を見ると、彼女は首を傾げていた。
まさか覚えていないのか。
「勝利しようと一生懸命だった人のことだけれど」
手が変形するくらいに、本性が醜くなるくらいに。
たった一言で水上の本性を戻したというのに、遠藤本人にとっては取るに足らないことだった、と。
思い出してもらえるか不安になり始めたころ、ようやく遠藤は反応を示した。
「あの、きびしい人のこと? 山にいる、さるみたいな」
やはり猿と会ったことがあったか。いや、そうではなく、
「ああ、きっとその人だ」
しかし水上が厳しいとは、感じたこともなかった。俺が知る水上はいつもあっさりとして、誰からも慕われる完璧な人間だ。
まあこれが遠藤の抱いた感想ならば、そうなのだろうと受け入れられる。遠藤の慧眼に、自分の曇った目が勝るなど思いもしない。
「試合中、水上さんに何か言ってたと思うんだけど。何を言っていたのか、教えてくれないかな」
試合から目を逸らし、穏やかに笑いかける。人と関わる中で、頼るときにする癖だった。
「…あっちのチームが、いま、点をいれた」
いけないいけない。俺は即座に点数を得点板へ刻んだ。
それから話題を遠ざけられないよう、再び遠藤を見る。
遠藤は黙っていた。辛抱強く、俺はその口が開くのを待つ。
「いわない」
心待ちした発言は、俺が望んでいたものではなかった。
「な、なんで」
「あなたに言っても、わからない」
「…」
連続で点が入ったので、得点板の数字を進める。ゼロ対四。
「分かるかもしれない」
「あなたの目は、かわってない」
その台詞に、初めて遠藤と顔合わせをしたときの会話が思い返される。
俺の目はまだ、
「醤油とつゆだくってこと?」
「そう。熊よりも、くろい」
「黒いと、なにか駄目なの」
「人を嫌いつづけることは、とっても苦しいこと。あなたは、そのうち死んでしまう」
「俺は今生きているし、とても平気だよ」
「ちがうわ」
コートから歓声があがった。スリーポイントシュートが決まったようだ。三対四。
「あなたは、ずっと耐えているだけ。いつまで溺れている?」
いつまで?
分からない。俺は溺れているのかさえ、分からない。溺れているとして、俺はどこで溺れているのだろう。深い海底か。浅い池の水面下か。どこへ泳げば地上へ出るのだろう。どこを動かせば、泳ぐことができるのだろう。
遠藤は俺の目を黒いという。きっとそれは、俺が暗いところをずっと彷徨っているからだ。もう俺には右も上も左も下も見分けられない。
そんな俺の心を見透かすかのように、遠藤はぽつりと呟いた。
「あなたは、あなたを助けようと思うところから、はじめないといけない」
再び点が入った。三対六。
「あなたは、息をする方法を、もうしっている。あなたが溺れていることをしったとき、あなたが助かるのはとてもかんたん」
ああ、得点板を変えなければいけない。
「もしあなたが、自分が溺れていることを、どこかでわかっているのなら、あなたは動くべき」
茫然と佇む俺を瞥見し、遠藤は電光得点板の数を変えようとボタンを押した。
「いまの人間ぎらいなあなたには、わたしがあの人に何をいったかは、まだ、わからないこと。それから、」
遠藤は澄み切った碧眼を俺に向ける。
「これは、どうすればいい?」
そういって遠藤は電光得点板を指さした。
赤い光で書かれた数字が0対0へ戻っていた。