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八月一日日記  作者: よしえ
少年と少女
5/31

 その人物は俺と目が合うと、確固とした歩みで静かに近づいてくる。

 俺から出向く甲斐はないので、俺はただ突っ立ってそいつが傍に来るのを待っていた。


 先ほどの蕗の背が、俺の脳裏を掠る。

 同時に湧いて出てくるのは罪悪感ではなく安堵感だ。

 これで暫く蕗は俺に話しかけてこないだろう。

 下手に刺激して嫌がらせが一層酷くなることも案じたのだが、うまい方向に事は転がっていった。結果良ければ全て良し、だ。


 蕗は俺にとって一種のイレギュラーだった。

 俺は他人から好かれも嫌われもしない、知り合いではあるけれど親しくはない、意識の範囲内にいるけれど感情の範囲外にいる距離感で人間と接しているつもりだ。

 蕗は俺の接し方に関係なく、〝都会からの転入生〟という一面だけで俺に当たってきた。

 しかし今日、しっかりと俺と蕗の間に柵を置けたと思う。

 これまで通り蕗が生きていきたいならば、俺には今後関わってこない。

 俺の世界は、静かになる。


「どうして、彼をおいつめたの」


 俺の右隣に立った遠藤は、俺を見向きもせず空を見上げながら口を開いた。

 倣って空を仰ぐ。

 湿っぽい裏庭に反して、空はさっぱりした快晴だった。校舎で四角く切り取られた青空に向かって俺は返答する。


「俺は、小春日和の縁側が好きなんだ」


「私のおじいちゃんといっしょ」


 一緒にするんじゃない。

 別に俺は、うららかな日差しの下、縁側で煎餅を食べながら演歌番組を見るのが好きだと言ったわけではない。

 でもこのまま爺臭いと思われるのも癪なので、表現を変える。


「毎回正義が勝つドラマも好きだよ」


「私もじだいげきは好き」


 何故年配趣味の方面に話を持っていくんだ。


「…春の散歩も好きかな」


「膝がじょうぶになる」


「…風呂に浸かるのも好きだな」


「腰がいたいときに効くもの」

 俺が爺趣味ということが、遠藤内で確定していないか?

 俺の精神的な若々しさを無碍にされたのが非常に悲しかった。

 哀愁を漂わせて空を眺めていると、遠藤が再び口を切った。


「おだやかなことが、あなたは好き」


 その通り。

 今までの迷走は、まさか遠藤流の冗談?


「ふき、という人はあなたに嫌なことをして、ざわざわさせたから、あなたは彼が嫌い」


「単に、平和主義ってだけだよ。蕗先輩はちょっと不穏な人だったから。俺はあまり傍に来てほしくなか

ったんだ」


 そう、俺は平和主義者なのだ。



 小さい頃から、人が化け物に見えました。

 本性が汚いほど、人が人ではなくなりました。



 そうして、俺はある時、人間はどうしようもなく醜いのだと。

 不変の化け物であり、得体のしれない、救いようのない怪物なのだと。

 否応なく理解し、その時に俺はひとを諦めた。

 だから俺は楽しい時間も、友人関係も、希望ある未来も、幸せな恋愛も、全てを捨てた。

 俺は俺自身も投げ出した。


 幾ら人の醜さを知ったところで、俺も七十一億の中の塵。

 何を語ろうと、俺もただ一人の人間でしかない。

 それは俺にとって、俺自身が怪物であるということ。

 俺には俺が視えないけれど、他人が怪物に視えるからこそ、俺も醜いと分かってしまう。

 現状で望んでいるのは、停滞だ。

 幸せも不幸も、人をあさましくするだけ。

 どちらも無い世界に、俺は永遠に住んでいたい。


「ずっとへいわに生きていくことは、ひとにはできない」


「そうかな。独りなら、穏やかに生きていける」


 つい数日前に会ったばかりの人間に、何を言っているのだろう俺は。

 遠藤は、今まで会った人間の中でとびきりの亜種だからか。蒼い双眸が綺麗だからか。

 どこかで俺は遠藤を特別扱いしているのかもしれない。

 横目に遠藤を見る。

 頭上の空がその瞳にも広がっているかのように、遠藤の眼はどこまでも蒼かった。


「やっぱりあなたは、人がきらい」


「そうかもね」


「人がきらいだから、あなたはあなたも海の中にしずめている」


 この少女は、俺なんかよりもよっぽど人の〝本当〟を理解できている。

 人も自分もじっくり確かめながら、しっかり地上を歩いている。

 俺を含む多くの人は、きっとずっと海の底で溺れているのだ。呼吸の仕方も忘れて、日の光を浴びようともがいているのだ。

 遠藤は、それを地上から見ている。そして恐らく時々、手を差し伸べる。


「人はひとを、すてたらいけない」


 ぽつんと一つ零して、遠藤は視線を下げた。

 タイミングよく、昼休み終了の予鈴が鳴る。

 いつかと同じように、俺は返事をせずに、空から目を離して出口へ歩き始めた。

 クラスが隣同士なので行く先は似たようなものだ。俺の斜め後ろを、遠藤が歩く。


 お互い無言だった。遠藤は自分から積極的に喋るわけではない。俺もお喋りなキャラじゃないし、さらに今の俺には話す気もない。自然と沈黙が舞い降りた。


「おーい、瑛太ー。あ、あと遠藤さん」


 そんな俺と遠藤の間の空気を微塵も読まずに、平然と声がかけられた。

 一学年のクラスが並ぶ二階でのことだ。音の方へと顔を動かすと、鏡張りの直方体である顔を持つ梶谷がいた。

 ずんずん近づく梶谷に、俺も歩み寄る。斜め後ろで遠藤も同じ動作をしているのが、気配で分かった。


「資料、見つかったか?」


 ああ、しまった。話すのを忘れていた。俺は申し訳なさそうに笑った。


「悪い、今朝見つかったんだ。教卓の裏に貼ってあって。多分、誰かが冗談半分にやっただけだったんだ

と思う。心配かけた」


「おお、良かった。先輩の嫌がらせなんて、気分悪いしな。まとめ、先生に提出できそうか?」


「ああ。朝に終わらせて、昼休みの始めに提出してきたよ」


「早いなぁ。さすが瑛太」


 そこで梶谷がちらりと教室内の時計を見た。俺もそれにしたがうと、予鈴が鳴ってから三分経っていた。授業が始まるまであと残り二分を切っている。


「あ、次国語だ。丸眼鏡センセー怖いんだよなぁ」


「俺は次、自習だったかな。そのあだ名は始めて聞いた」


「俺も始めて言ったからな。――授業の準備してくるわ」


 梶谷が十三ホームルームへ身を翻す、寸前に、

「しりょうを、」

 ずっと黙っていた遠藤が梶谷に呼びかけた。


 何をするつもりだと遠藤へ視線を巡らす。遠藤は梶谷だけを真っ直ぐ見ていた。


「しりょうを、さがしてくれてありがとう」


「え、あ、うん。そりゃ瑛太は友達だから」


「あなたは、下ごころがなかった。てつだうためだけに、探した。そんな人は、あまりいない」


 梶谷の表情は俺には分からない。だから、ただ黙って直立している梶谷の感情が読めなかった。

 遠藤は梶谷を一直線に見つめて、はっきりと言う。


「だから、ありがとう」


 遠藤は、俺には見えない梶谷の両目を、確実に見据えていた。

 梶谷の顔は伺えないけれど、梶谷もまた遠藤を見返しているということは察せられた。

 それから――――

 それから、小さなふっ、という笑い声と。

 ガラスの割れるような、澄んだ音が同時に俺の耳に届く。


「―――」

 梶谷へ目を向けた俺は、その時確かに見た。

 見間違いでも、幻想でもない。


 梶谷の口部分にあった鏡が、破片となって床へ落ちている。

 そこから覗くのは、まぎれもない人間の口元。

 到底見ることのできなかった、本当の、梶谷の顔の一部。

 梶谷の口が、静かに動く。

 俺は、梶谷が優しく、そして嬉しそうに笑ったのを凝視していた。



「おい! 授業始めるぞー」


 国語の教師が廊下の向う側から、廊下に出ている生徒に声を張り上げる。見れば、今廊下にいるのは俺達三人だけだった。


「やべっ」


 慌てた梶谷の顔は、次の瞬間にはいつも通りの全面鏡張りへ戻っていた。

 教室へ大急ぎで駆け込む梶谷に追随しようとした遠藤は、教室へ入る寸前に振り返って一言、俺に投げかける。


「おぼれている人が、息をするのは、たすける手があればかんたんなこと」


 遠藤の姿が教室に消えてからも、俺はその場に突っ立っていた。

 もう五時間目は始まっている。

 それでも俺は動くことができなかった。

 妙に視界が青く見える。まるで海の中にいるみたいだ。


 淡い午後の光の下、俺の頭は遠藤の台詞を反芻していた。

 意味を飲み込もうとすればするほど、喉で何かがつかえて分からなくなる。

 水に流されているような思考の隅で、ふと、俺が普段なら考えもしないことが浮かんだ。

 人に希望を見てもいいんじゃないかと思ったのだ。

 しかし、すぐにそれは緩やかな水流に消える。

 俺はようやく足を前へ動かして、自習時間中の少し五月蠅い教室へと入っていった。





次は4月中旬に、同じ分量を更新します。

暇つぶし程度に、また読んでくだされば幸いです。

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