➂
「え、資料が無くなった?」
次の日の放課後、俺達は勤勉に委員会活動を行っていた。
うだるような暑さには辟易とし、涼しい図書館へ逃げ出したい誘惑に何とか打ち勝って、真面目に仕事に取り掛かろうとした、のだが。
「ああ。昨日の帰り際、遠藤さんが教室まで片づけてくれたんだけど」
「きょうたくの中にいれたわ」
「そういえば、遠藤さんが教卓に紙を入れていたのは昨日見たなぁ。それが今見ると消えてるってことか?」
「ああ」
昨日まであった資料が影も形もなくなっていた。
前日の帰り際、遠藤は資料を俺のホームルームの教卓内にしまった。梶谷が証言していることからも事実だ。
それが、今日の授業七つと昼休みとショートホームルームを乗り越える間に、どこかへと失せた。
門田高校は、他のクラスの人間が別のクラスへ立ち入ることを禁止しているので、もし盗むとしたら俺のクラスメイトとなる。計算用紙にでも使用されたのかと思ったが、あの資料は裏表印刷だ。
紙飛行機の折り紙の代用として持ち去られたのか。
何はどうあれ、どこからどう見ても朝一で取らなかった俺に責任があった。
「どうしたんだ?」
教室の隅で不穏な気配を立ち昇らせ会話をしていた俺達に注意をひかれた二宮が、親切に尋ねてきた。
たゆとう白い巨体から覗く獣のような目が、ぎょろりぎょろりと動いてから、俺達に固定する。酔いしれるように、不自然に小さな口の端があがる。
「教卓に入っていた資料が無くなったんだとさ」
梶谷が代表して答えた。二宮のちんけな目玉が、半眼になった。口がへの字に曲がる。面倒くさがっていることは一目瞭然。
しかし音として聞こえたのは、俺が視るものとは正反対の優しげな声だった。
「それは大変だな。盗まれたとかか?」
「…いや、それも含めて分からないんだ。遠藤さんが昨日教卓内に入れてくれたことは確かだけれど」
「俺も見たから絶対だ」
「うーん…」
思案し気にかけてくれている声音からは想像もつかないが、今俺の前でこの白くて巨大な怪物は、顔をひどく歪めている。
面倒だ、余計なことを、とでも聞こえてきそうだ。
しかし俺が元凶なので、ただ醜いものだと傍観するわけにもいかない。
「もう一度、放送室と先輩のところから貰ってくるよ。コピーがあるはずだし、きっとそっちのほうが早く済むだろうから」
「え、でもいいのか?」
気遣う二宮だが、不恰好な口許にくっきり憫笑を浮かべているのが視える。
「ああ。他の仕事に手を回せなくてごめんな」
「そんなこと、気にすんな。瑛太はもともと働いてくれてたんだからさ」
何とも上辺だけの滑稽な会話だった。ふと気になって、人を見抜く眼がある遠藤を見やると、見事な能面顔だった。というか昨日からこの顔しか見ていない。
「悪い瑛太。俺、今日は手伝えない」
「いや、そもそも俺の仕事なのに、付き合わせてごめん」
「なんだよ、よそよそしい。俺とお前の仲だろ」
そんな親密な仲になった覚えはなかったので、曖昧に笑って誤魔化した。
気の重い二年のクラスは後回しとする。放送室へ出向こうと教室を出掛けたところで、後ろから引き止められた。
「わたしも行く」
察するまでもなく遠藤だ。
遠藤と放送室までの廊下を歩く。しばらくお互い無言だったが、階段に差し掛かったところで、遠藤がおもむろに沈黙を破った。
「わたしの、入れ方がわるかったのかもしれない」
「え?」
思いがけない台詞に戸惑った。遠藤の表情を伺うと、変わりない無表情だ。
聞き間違いでなければ、教卓に入れた自分にも非があったと言ったように聞こえた。
「遠藤さんはただ入れただけだから。それは梶谷も見ていた」
資料に足がいきなり生えて逃げ出すわけもないし、
「遠藤さんに非はないよ」
といってゆるく笑いかける。
遠藤は俺の顔を一瞥したあと、
「それなら、いい。なくした代わりにやさいをよこせと言われたら、どうしようかとおもった」
万が一に物々交換をするとして、野菜は求めないので安心していい。
「あと、」
遠藤は再び俺の顔を瞥見した。
「その、へんな顔は、やめたほうがいい」
どうやら俺の耳は、毎日働いていたせいでおかしくなったようだった。
初対面も等しい人間に、俺の顔面について評価された気がしなくもないが、きっとそら耳だろう。
「ごめん、よく聞こえなかった」
微笑とともに、もう一度言うようさりげなく促す。
遠藤は、率直にきっぱり述べた。
「その、わらいは、やめたほうがいい」
なんて面白いジョークだ。まさにダンディ坂野。
と一笑に付すわけにもいかず、内心複雑な思いで仕方なく尋ねる。
「どういうことか聞いても?」
「にんじんだと思って食べたら、すいかだったときみたいなきもちになる」
そんな経験は多分誰もない。
だから、俺には理解できない。
ああ、違うか。
理解する気がないのだ。
放送室までの道のりがいつもより長く感じたが、ようやく教室プレートが現れた。
俺は遠藤が嫌だという笑顔を、遠藤に向ける。
「遠藤さんはここで待っていてもらえる?」
無言で頷いた遠藤を視界の端でとらえながら、俺は放送室のドアを開けた。
続いて、俺と遠藤は二年の体育行事委員会が開かれているホームルーム前に立っていた。
自然と沈鬱になる面持ちを、差し当たりない穏やかな笑顔へ何とか変える。
ノックしてドアを開けると、部屋中の視線がこちらに集まった。先先日と違って、今日は教室内が静かだったらしい。ドアを開ける音がやけに大きく響く。
「八月一日、何の用だ?」
静かな教室で最初に応じてくれたのは、俺がもとから話しかける予定だった蕗颯人だった。緑のぐちゃぐちゃした塊に描かれた落書きのような目が、俺と遠藤を捕える。
「お話中すいません。蕗先輩に用があるのですが、よろしいですか」
「ああ、いいぜ」
珍しく蕗が二つ返事で了承した。
「そのまま話を続けてくれ」
蕗が教室を出る際、中に向かってそう声をかける。それを切欠に、教室内の生徒たちは静かに体育祭についての会議を再開した。
「何だ」
廊下へわざわざ出た蕗は、教室の扉をしめてから尊大に訊いた。蕗が寄りかかっている廊下の壁に、緑色のゲルが粘りつく。
しかし気持ち悪がっていたところでどうにもならない。
「先日先輩に頂いた資料を、教室でなくしてしまいました。コピーを頂きたいのですが」
「コピー?」
蕗の唇の端が上がる。にやり、と口元が笑みの形を作った。
その冷笑に、何故か嫌な予感が脳裏を掠めた。
「コピーなんて、俺は持ってねぇなあ」
そんな訳が、なかった。
高一のものとはいえ、ルール詳細なんて重要なものが書かれた用紙がただ一つなはずがない。
俺の沈黙に、蕗は口角をさらに上げた。
「悪ぃな」
声は言葉とは裏腹に楽しげだった。
「けど、無くしちまった奴がイチバン悪いだろ?」
いたずら書きのような目が、厭らしく光った。
愉しそうに、嗤う。
吐き気がしそうなそのどろどろの体を、俺にすっと近づける。避けようと後ろへ下がりかけたところ、手首を掴まれた。
そして、耳元で彼は囁く。
「教卓なんて誰にも取れるところに置いてちゃ、間違って盗られちゃうかもしんねぇだろ?」
その一言で、資料が消えた訳を、それを奪った人間を理解した。
ねっとりした体躯を、蕗は教室の中まで引きずっていく。入る直前、こちらへ視線を寄越した。嘲笑いがその口を象ったのが、目に入った。
ドアが、ガタン、と強めに閉められる。
俺の手首に、緑色の粘着物質がついていた。無言で近くの水道へ行き、荒々しく洗い落す。
擦って、擦って、それでもまだ着いているような気がして、残暑の中、水道水で手がかじかむまで濯いだ。
手が赤くなり始めたとき、水道水の水が止まった。
隣から伸びた手が、水道の蛇口を閉じていた。
「もう、おちたわ。よごれてない」
遠藤が、俺の手首へ視線を落としつつ、ぽつりと呟いた。
視えていないにもかかわらず。
「…ああ、ごめん。ごみがついていたものだから、」
「あのひとが、盗った?」
「…そうみたいだね」
「どうして?」
無垢な瞳が俺を覗き込んでいた。
分からないのか、こいつには。
そんなの、人間だからに決まっている。
しかし俺の口が、答えを吐き出すことはない。
「あの人は、俺のことが嫌いなんだ。俺に嫌がらせをしたんだと思う」
「なんのために?」
「俺を困らせるためだよ。嫌いな人が困っているのを見るのは、胸がすくだろうから」
遠藤は首を傾げた。理解できないのだろうか。嫌いな人がいないのだろうか。この田舎娘に限っては、あり得ることだった。
「このあと、どうするつもり?」
「資料を探そうと思う」
蕗颯人は、資料を盗んだ痕跡は絶対に残していないだろう。あの醜くも、狂っているわけではない眼からもそれはうかがえる。
だが、蕗颯人は盗んだ資料を捨ててはいないはずだ。
なぜなら、俺があの資料を使って作ったまとめを先生に提出しなければ、蕗颯人も困るからだ。
後輩の不手際は、体育行事委員会と協力し、リーダー的役割を果たしている生徒会役員にも責任が生じる。
このまま俺が体育祭の高一の情報のまとめを作れなければ、蕗颯人は俺と共に先生方に追及される。
ねっとりした図体からも分かる、あの欲が異常に強い先輩は、汚名を着ることは避けるはず。
なら、俺が探せる場所に資料はある。
もし俺が見つけられなくても、俺が紛失したと言えば蕗颯人の責任は軽くなるからだ。
俺が置きそうで、尚且つ捜し出せそうな場所。
「学校の中で、俺が行ったりするところに、多分資料はあるはずだから」
「あなたが、いくところ?」
「教室、体育館、特別教室…今日中に探してみる。遠藤さんは、二宮に聞いて他の仕事を、」
「わたしもてつだうわ。わたしのせいもある」
淡泊に遠藤は言葉をこぼした。思いのほか、資料を教卓に入れた行為を重く考えているらしい。
だが今回の件は、どこから見ても遠藤に落ち度はない。
「とりあえず、教室へ戻ろう。資料のコピーが無いことと、俺が探すことを二宮に伝えるから」
遠藤は黙って首を縦にふった。
蕗が盗んだことを二宮に伝えるつもりはなかった。証拠がないのでは、ただの法螺話になってしまう。 さらに、二宮にとって蕗は生徒会の仲間でもあった。信じてもらえるとは思わない。
表情の乏しい遠藤を連れて、俺は教室へ引き返した。