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新キャラはいません。
どうぞ、暇つぶし程度にお読みください。
門田町の中でも一際山に近く、人気のないところに、ぽつんと家が建っていた。表札に「八月一日」と記された、古い家だ。
その家の卓袱台と箪笥の置かれた居間。そこに一機だけある電話がけたたましい高音をあげ、明滅を始める。
「あらあら…」
家主である年配の女性が、いそいそと縁側から立ち上がった。ちなみにその女性は色づいた庭を眺めつつ日向ぼっこをしている真っ最中だった。
週末の昼前のことだ。
数ヶ月ほど前に越してきた家主の孫は、部屋にこもって勉強をしているさなかである。
「はい、もしもし」
穏やかに電話に出た女性は、相手の声に小さくため息をついた。
「ずいぶんと、久しぶりの連絡だこと」
日ごろ滅多に荒れることのない女性の声は、このとき少しだけ相手をとがめる色が入った。だが電話の相手は、大してダメージを受けた様子もない。
しばらく女性は黙って向こうの言い分を聞き入れていた。相手の主張が終わると、女性は再びため息をついた。今度は先ほどより大きく。
「自分からあの子に伝えるならいいでしょう」
電話から文句のような高い声が漏れ聞こえる。
「駄目。今は勉強しているみたいだから、後で改めて言っておきなさい」
それから少々の会話の後、女性はゆったりと受話器を戻した。
時計を見上げれば、短針と長針が重なる直前だ。
「そろそろお昼ねぇ…」
女性は前掛けをつけながら、お昼のメニューを考える。
数秒経ち、その日の昼は味噌おにぎりに決まった。
窓から入ってきた土の匂いが鼻をついた。もう稲刈りの時期のようで、刈られた稲の下から久しぶりに現れた土が香り立っている。
すん、と嗅いでから肌寒くなって窓を半分ほど閉める。続いた残暑もすっかり鳴りを潜め、秋は真っ盛りだ。
天高く馬肥ゆる秋。数センチの窓の隙間から見上げる冷たさのある青空は、いつもより色濃く遠くにあった。
五日間の学業を果たし、ようやく訪れた休日二日目。おそらく万人が休むことのできる日曜日。更にこんな好天候であるというのに俺は家に閉じこもっていた。もっとも、平日だろうと悪天候だろうと今じゃなかろうと、俺は滅多に自分から外に行こうとは思わないが。
それでも今日は一際引きこもり状態だ。
というのも、二週間後に期末試験を控えている身なのだ。馬鹿にするつもりはないが、門田高校の学力偏差値は低い。
だからといって怠けていいわけではない、などと優等生ぶるつもりはないが、侮りがたいのは事実だ。帰宅部の俺が低い点数をとると、教師から呼び出しを食らってしまう。
故に人並みに俺は励んでいた。
俺の部屋は七畳の和室だ。祖母の家はそこそこに年輪を刻んでおり、洋室は一切ない。若干カビ臭いこの部屋には、勉強机一つ、椅子一つ、ベッド一つ、洋服箪笥一つ。転勤族時代の癖がまだ消えず、生活必需品以外を買う気は起きない。置物や装飾品も皆無だ。
秋風がやけに沁みるこの部屋だが、俺はとても気に入っている。というよりはこの家が。
流石に数時間も勉強を続けるのには無理があり、俺はぐーんと背伸びをした。ボキ、と体が嫌な音を立てる。
気を抜いたから嗅覚がより働くようになったのだろう。土の香りに混ざって香ばしい味噌の匂いが届く。窓からではなく部屋の戸の外から漂うそれは、俺の昼飯とみて間違いない。
見計らったように、祖母の声が廊下を通った。
「瑛太。お昼よー」
「今行くよ」
それから俺は再度伸びをして、勢いをつけて立ち上がった。部屋の窓は一応閉める。
襖を開け、俺は居間へ向かった。
小さな卓袱台に既に祖母は腰かけていた。机の上には味噌おにぎりが大皿いっぱいに乗っている。
「作りすぎたかしら」
ふふ、と祖母は口に手を当てはじらった。
祖母は俺が数年ぶりに出会う無欲な人間だ。頭、腕、胴、足。全て俺の知るヒトの形を成し、大衆の見る景色を俺に視せる。
この家の中で俺はただの人として、寛ぎを得られる。
人嫌いな俺だが、この家の全てだけは嫌いにはなれない。そこに理性や長年の習性は無関係だ。
「余れば夕飯に食べるよ」
「傷んだらどうしましょう」
「…食べるよ」
いただきます、と俺は手を合わせる。これはこの家に来てから順応した動作だ。大半は一人だったが、たまに母とご飯を食べる時にも食前の挨拶はなかった。俺の無作法も大概だが、母もまた挨拶をしなかったこと、そして注意を一度もされたことがないというのも一因にある。
ところがその母を育てた当人である祖母は、こういう一つ一つを大事にした。農家だから食べ物の重みを一番に弁えているのだろう。
その精神が何故娘にまで伝わらなかったかは、謎だ。
「ああ、瑛太。今日、おばあちゃん町にお出かけするから。しっかり戸締りお願いね。知らない人が来ても開けないこと。あと、夕方になったらしっかり雨戸も閉めてね。夕飯は作っていくから、お腹が減ったら温めてから食べるように。あと、そうね…」
言葉を並べ立てる祖母に俺は苦笑した。
「大丈夫だよ。留守番くらいはできるから」
「高校生だと分かってはいるんだけどねぇ。どうも心配になっちゃうわ」
祖母は困ったように笑った。その過保護や優しさに、どうにも肌がむず痒くなる。慣れないことはするものでもされるものでもないのだ。
「真央は大学まで親の脛を齧っていたのにねぇ。あるときからぱったりと自立して、一端の社会人になったけれど」
何気なく祖母の零した名前から母を連想するまで時間がかかった。ああそういえば八月一日真央が母のフルネームだったか。
母について思うことは何もない。何もなくなった、が正しいかもしれない。
反応に困った俺の沈黙に、祖母が介入してくることはなかった。
「お勉強、頑張ってね。でも無理しては駄目よ」
優しい微笑を浮かべる祖母に俺は頷いてみせた。自分が常人であり、単におばあちゃん子の孫であるような錯覚をして、俺は話を転換させた。
人の隠し物を覗き込むような俺が、変質的であることなど百も承知している。
「ばあちゃん、どこに行くの?」
「ちょっと病院に」
病院? 日曜日にやっているということは、町の大きな病院に行くということか。
「具合でも悪いの」
「最近体が怠くって。夏バテみたいなものでしょうけど」
まさか。今は秋だ。
思いがけない孫の世話を半年以上して、知らずに疲れを溜めさせてしまったかな、と憶測する。
いずれにしてもすぐに治した方がいいことは確かだ。
「のんびり行っていいから」
そう声をかけてから、不味ったかな、と内心渋面になった。停滞がモットーの俺としてあるまじき行為だったかもしれない。
どうしてもその人の姿かたちで反応を変えてしまうのだ。祖母は血縁者だから例外であると割り切れた。
しかし蒼い瞳の少女は。赤の他人までも、例外としてしまっていいのだろうか。
そもそも例外を作ることに、俺の――――
そこまで考えて思考をストップさせた。いい、深く考える必要はない。考え方が変わろうと視えるものは変わらないから。
「ありがとう。瑛太は自慢の孫ねぇ」
祖母の笑顔に理由もない罪悪感が募った。それらを無視して俺はゆるやかに微笑み返した。
「どう? 学校は」
「うん、特に変化はないよ」
遠藤さえ除けば、人と一定の距離感を保てる平和な学校生活といえるだろう。飛び抜けた化け物も少ない。
ごたごたに巻き込まれることはあろうと、介入されない壁を築いている。
「家にお友達を招いてもいいのよ。何もないけどねぇ」
にこにこ祖母は笑った。家に友達か。万が一にもないな。
「瑛太のお友達見てみたいのよねぇ」
祖母は幸せそうに相好を崩した。それを見れば、はっきりと否定もできなくなる。
「うん、まぁ、機会があったら」
結局俺は曖昧に言葉を濁し、逃げ場を求めるように味噌おにぎりに手を伸ばした。
口に含んだそれはやけに甘い。
そろそろラストスパートです。




