話しかけてはいけない
自転車のペダルを踏み込むたび、太ももの裏側に重い疲労感がにじんだ。午後七時を過ぎた十月の夜気は思いのほか冷たく、汗ばんだ制服のブラウスを容赦なく冷やしていく。
「あー……脚、パンパンかも」
部活の居残りでバレーボールを追いかけ回した放課後。夕闇はとうに街を呑み込み、街灯の間隔が広がるにつれて、世界の色彩が失われていくようだった。
自宅までは自転車でちょうど一時間。国道から一本外れたこの旧道は、昼間でも人通りが少ない。車がたまに一本背負いのような猛スピードで走り去るくらいで、今は虫の声すら途切れがちな静寂が広れていた。
十五分。あと少し走れば、山を切り開いて作られた「はなだてトンネル」に着く。そこを抜ければ、我が家の灯りまではもう十分もかからない。
ハッと息を吐きながら、坂道を立ち漕ぎで登り切る。視界の先に、ぽっかりと黒い口を開けたコンクリートの構造物が見えてきた。
坂下トンネル。全長は五百メートルほど。古びたオレンジ色のナトリウム灯が等間隔で灯っているものの、湿気を含んだ空気のせいか、薄暗くくすんでいる。トンネルの入り口からは、ヒュウ、と気味の悪い風切り音が聞こえていた。
(早く帰って、あったかいお風呂に入ろう)
スマホで時間を確認する。七時四十五分。お母さん、もう夕飯の準備して待ってるかな。
気持ちを切り替え、ライトの白い光を路面に落としながらトンネルへ進入した。
キーッ、キーッ、と自分の自転車が鳴らす微かなチェーンの音が、カマボコ型のコンクリート壁に反響して不気味に増幅される。アスファルトにしみ出た地下水の匂いと、排気ガスの焦げ付いたような匂いが鼻腔を突いた。
トンネルの中ほど、ちょうど光が一番届きにくい屈曲部にさしかかったときだった。
(……え?)
ペダルを漕ぐ脚が、凍りついたように止まった。
数十メートル先、歩道の切れ目。黄色い点字ブロックのすぐそばに、何かが「立って」いる。
街灯のぼんやりとしたオレンジ色の影の中で、それはくっきりと浮き上がっていた。
小さな人影。膝丈ほどの赤っぽい色のワンピース。ランドセルは背負っていない。おかっぱ頭の、小学生くらいの女の子だった。
こんな時間に。こんな、歩行者すら滅多に通らない山間のトンネルの中に。一人で。
(嘘でしょ……)
背筋を、冷たい氷の刃で撫でられたような戦慄が走った。
女の子は、こちらに背を向けたまま、微動だにせずコンクリートの壁を見つめている。首の角度が、少しだけおかしい。人間の自然な姿勢にしては、あまりにも深く、直角近く右に傾いている。
心臓が嫌な鐘の音を鳴らし始めた。ドックン、ドックンと、鼓膜の裏側で血が跳ねる。
直感というより、本能が警鐘を鳴らしていた。
あれは、人間じゃない。近づいちゃいけない。声をかけちゃいけない。絶対に関わってはいけない「何か」だ。
自転車を止めて引き返すべきか?
頭の中で猛スピードで計算が駆け巡る。引き返して遠回りをするとなれば、暗い山道を大きく迂回しなければならない。
一時間は余計にかかる。第一、ここから戻る途中の真っ暗な林道の方がよっぽど怖い。
ここさえ通り過ぎれば、あと十分で家に着くのだ。あたたかいリビング。テレビの音。家族の匂い。
(見えてない。私は何も見えてない)
自分に強く言い聞かせた。視線を固く前方、路面の数メートル先だけに固定する。
ぎこちなくペダルを踏み出す。ギ、ギ、とチェーンが嫌な音を立てた。その音がトンネル内にやたらと大きく響き渡る。
女の子の横を通り過ぎる。距離にして、わずか二メートル。
視界の端、周辺視野のギリギリに、その影が入る。
おかっぱの黒髪。白い首筋。そして——彼女の足元。
ナトリウム灯の光線が上から照らしているはずなのに、彼女の足元には影がなかった。
「……」
喉の奥で悲鳴が押し潰される。
気がつかないふり。私はただの女子高生。部活で疲れて、早く家に帰りたいだけの、何も見えない普通の人間。
視線を絶対に動かさない。右側を向かない。女の子の顔を見ない。
通り過ぎる瞬間の数秒間が、永遠の拷問のように長く感じられた。冷や汗がこめかみを伝い、制服の襟を濡らす。肌に粘りつくような、刺さるような冷気が肌を撫でた。
一歩、二歩。自転車のホイールが回転する。
通り抜けた。
背後に、女の子を残して。
(振り返っちゃダメだ。絶対、振り返っちゃダメ……!)
もし振り返って、あの女の子が満面の笑みで目の前にいたら? 首を傾げたまま追ってきていたら?
恐怖で狂いそうになりながら、立ち漕ぎで立ち向かうようにペダルを激しく踏み込んだ。
トンネルの出口が見える。オレンジ色の暗がりから、外の紺青色の夜空へ。
勢いよくトンネルを飛び出した瞬間、冷たい夜風が全身の汗を奪っていった。けれど、自転車を止めることはできなかった。一度も後ろを振り返ることなく、まるで死神から逃げ惑うように、暗い夜道を狂ったように漕ぎ続けた。
「ただいま!」
玄関のドアを乱暴に開け、鍵をガチャンと閉めた。チェーンもかける。
玄関の灯りの温かさに触れた瞬間、腰が抜けそうになり、ドアノブにしがみついた。
「おかえりー。遅かったじゃない、心配したのよ」
廊下の奥からお母さんが顔を覗かせる。リビングからはテレビのバラエティ番組の笑い声と、お父さんが新聞をめくる音が聞こえてきた。弟がゲーム機を操作するピコピコという効果音。
生きている人間の世界だ。圧倒的な安心感が身体を満たしていく。
「ごめん、部活長引いちゃって……あと、トンネルのところで、なんか変な小学生見ちゃってさ」
靴を脱ぎながら、できるだけ軽いトーンで言った。言葉にして吐き出し噂話に落とし込むことで、あの恐怖を無効化したかったのだ。
「え? こんな時間に小学生? 迷子かしら」
お母さんが眉をひそめる。
「ううん、なんか……見ちゃいけない感じのやつ。だからスルーして猛ダッシュで帰ってきた」
「もう、脅かさないでよ。ほら、お風呂沸いてるから先に入ってきなさい。ご飯冷めちゃうから」
「はーい」
お湯に浸かると、固まっていた全身の筋肉が解けていくのが分かった。
あのトンネルでの出来事は、きっと疲労が見せた幻覚か、ただの奇妙な通行人だったのだろう。そう自分に言い聞かせた。通り抜けることができたのだから、もう何もない。スルーできたのだから、関係ないのだ。
風呂から上がり、髪をタオルで乾かしながらリビングへ向かう。
時計は九時を回っていた。
ダイニングテーブルに腰掛け、温め直してもらった夕食をつまむ。テレビではお笑い芸人が大声でリアクションをとっていた。お父さんはビールを飲みながらそれを眺め、弟はソファでスマホをいじっている。平和で、いつもの我が家の風景だった。
そのときだった。
ガチャリ。
静かな部屋に、不意に金属的な音が響いた。
我が家の玄関のドアノブが、回された音だった。
(え……?)
私とお母さんの視線が交差する。
お父さんも顔を大人した方へ向けた。
ガチャ、チェーンが擦れ合うかすかな音。そして、ゆっくりと重いドアが開くような、建付けの悪い蝶番の軋み音。
鍵は、私が帰ってきたときに確実に閉めたはずだった。チェーンも掛けたはずだった。
家族全員が息を呑み、テレビの音だけが空しく響く中で静まり返る。
直後。
廊下の暗がりから、はっきりと、声が聞こえた。
「こん、ばん、は……」
若い女性のような、だが高低差のない、かろうじて言葉の形を保っているような掠れた声。
鳥肌が全身に泡立った。血の気がサーッと引いていく。
お父さんが制するように手を少し上げ、私たちに目配せをした。『喋るな』という合図だとみんなが一斉に理解した。
誰も動けない。誰も声を出せない。
リビングのドアは、すりガラスがはめ込まれた木製のドアだ。廊下の明かりは消してあるため、廊下側は真っ暗なはずだった。
だが。
すりガラスの向こう側。廊下側から、じわっと「白い光」が浮かび上がってきた。
それは電球の光ではなかった。青白く、ぬらぬらとした、まるで発光する霧のような、不自然な光。
その光は、ゆっくりと、すりガラスの表面を撫でるように動いている。
スカートがゆらめいているように見えなくもない。
(なになになになに……!)
心臓が破裂しそうなほど打ち鳴らされる。
隣でお母さんが口元を両手で覆い、恐怖に目を限界まで見開いていた。弟はお父さんの背中にしがみつき、ガタガタと震えている。
あれは、トンネルにいたやつだ。
スルーできたんじゃない。無視できたと思い込んでいたのは私だけで、あいつは私の後ろをついてきていたのだ。
鍵なんて意味がない。物理的な壁なんて意味がない。
すりガラスに浮かぶ白い光が、すーっと位置を下げていく。ちょうど、背の低い子供がドアに顔を押し付けているかのような高さで、光が留まった。
やばいやばいやばいやばい。
入ってくる。ドアが開く。
全員が完全に硬直していた。ヒソヒソ声すら出せない。ただ、消えてくれと、去ってくれと、心の底から神に祈るしかなかった。
数秒とも、数時間とも思える恐怖の静寂。
すりガラスの向こうの白い光の中から、再び、あの声が漏れ聞こえた。
「……こ、んばん、は」
すぐそこにいる。ドア一枚を隔てた、目と鼻の先に。
お父さんの額から大きな汗の粒がこぼれ落ち、畳の上に落ちた。
全員が息を止め、目をつむり、死んだフリをするようにじっと耐えた。
どれほどの時間が過ぎただろうか。
すりガラスに揺らめいていた青白い光が、まるでインクが水に溶けるように、ゆっくりと薄くなり始めた。
スーッ……と光が引いていく。
同時に、廊下を満たしていた嫌な冷気と、トンネルの中で感じた湿った排気ガスの匂いが、引き潮のように消えていった。
……。
無音。
テレビの音だけが、遠い世界のことのようにリビングに響いている。
誰も動かなかった。お父さんも、お母さんも、弟も、私も。
十分以上、そうして硬直していたかもしれない。
やがてお父さんが意を決したように立ち上がり、壁に立てかけてあった野球のバットを手に取った。ゆっくりと、慎重にリビングのドアへ近づき、意を決してドアを叩き開ける。
「……誰も、いない」
廊下は真っ暗で、いつもの我が家の廊下だった。玄関のドアも、鍵はしっかりと閉まったままだった。
その夜、誰も自分の部屋で寝ることはできなかった。リビングの電気をすべて点け、家族四人で身を寄せ合って朝を待った。
その後、何か害があったわけではない。金縛りにあうことも、体調を崩すこともなかった。あの「声」と「光」以降、我が家で怪奇現象が起きることは二度となかった。
けれど、私はこう思っている。
あの日、暗いトンネルで私が「気がつかないフリ」をしたように。
あいつの方もまた、我が家のリビングの前で、私たちが「そこにいる」ことに気がつかないフリをして、諦めて帰ってくれただけなのだと。
もしあの時、恐怖に耐えかねて誰かが悲鳴を上げていたら。
「誰ですか」と声を答えてしまっていたら。
今頃、自分はどうなっていたのか。
それだけは、考えないようにしている。




