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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

少女奇食

作者: 睦月スバル
掲載日:2026/05/27

 ーー皿の上には衣服が載っている。

 所々にフリルがあしらわれた可愛らしい黒い服。所謂ゴシックロリータと呼ばれるものが、場違いにも食卓に並んでいる。

 しかし食卓を囲む彼らは、それがごく当然のように受け入れ、銀器を前に黙したまま座しているのである。

 時代錯誤な蝋燭の光のみが照らす部屋で、女児の服を血走った眼で見ながら次なる皿を待つ彼らを異様以外の言葉で表せようか。

 しかし、私は臆病なもので、彼らに倣い女児服を見つめるが、居心地の悪さばかりが募る。

 私という男を端的に言い表すならば食慾の隷である。そんな私には服の良し悪しなどてんで分からぬ。しかし布の厚みやその施された意匠の巧みさを見るに恐らく上等であろう。しかし、目を血走らせるほどに興味を惹かれるもののようには思えない。

 何故。彼らはこんなにも情熱的な、狂気的な眼差しをただ布の塊に向けられるのだ。

 私は己の場違いを自覚して、中座したくなるところを抑えるのに必死だった。


♪ ♪ ♪


 事の起こりは酷く凡庸なものであった。

 ーーただ、美味しいものが食べたい。

 しかし、私の身空は一介の学徒。その日暮らしは出来こそ、美食に耽る金銭の持ち合わせなぞありはしない。

 新聞配達で得た僅かばかりの賃金をパンの耳と交換して漸く食い繋ぐばかりの面白みの欠片もない食こそ、我が人生と見たり。

 布団の中で肉塊に食らいつく様を、夢想してはそれを肴にこの無味乾燥を食らうのみが私に許された食であった。

 そんな折だった。長らく付き合いのあった探偵の友人から興味深い喫茶があるらしいと聞いたのは。

 曰く、一見お断りである。

 曰く、そこで出される肉料理は絶品である。

 私はそれを聞いて、酷く厭な気持ちになった。

 私は食事が好きだ。だが、酸っぱい葡萄は嫌いな、厄介者でもあった。

 幾ら美味しそうな葡萄の房がぶら下がっていたとして、それを食べる術がなければそれはないものと同じ。あの葡萄は酸っぱいのだと負け惜しみを吐かねば収まりがつかない。

 だのに、手に入らないのにも関わらず下手に情報だけを流すのは非道にも程があろう。食慾に悶々とする夜を増やす行為を平然と行う其奴の所業は鬼畜生そのものであった。

 内心で憤慨していると、其奴は怒気を察してか慌てた様子で私の手に数枚の紙を載せた。

 よくよく見てみればそれは何らかの券と紙幣だった。埋め合わせのつもりなのだろうかと、顔を見上げてみても探偵は意味深に微笑を浮かべるばかり。ヘラリとしたその態度に一層憤慨するのである。

 探偵は云う。これこそ、かの喫茶の入場券であると。しかし当の喫茶の場所は知らぬ分からぬと。

 随分とおかしな話であった。探偵の身空でありながら喫茶の一軒の場所も知らぬとは。

 呆れてものも云えぬ私に、探偵は君の鼻は頼りになるとだけ残してサッサと去って行ってしまった。己を豚と評するか、この男は。

 塩でも撒いてしまいたい気分だったが、塩は食事に使ってこそのもの。グッと堪えながら踵を返す。

 とは云え。

 手の中に残る数枚の紙を意識する。

 一見お断りの奇食喫茶。しかも絶品と来た。

 紙幣もある。興味を惹かれずにはいられない性に我ながら呆れる。

 気付けば私は件の喫茶への手掛かりを求めて自転車を動かしていた。食慾に突き動かされた私を、豚と評するのは間違えてはいないらしかった。


♪ ♪ ♪


 新聞配達しながら情報を集めることはや数件。漸く手掛かりを得た。

 私は遂に、奇食喫茶の場所を知り得たのだ。

 その場所は、路地裏の更に奥の奥。治安の悪い、ゴミゴミとした、不潔な場所にあるらしい。

 そう語るのは半ば痴呆の入った近所でも有名な気狂い老爺だった。

「あぁ、あすこは良かった……気管支の音符で奏でるハーモニクス。その絶妙さよ。儂はどこまでも皿に載せられた肉塊の妖艶に酔いしれた……えぇ、どうなんだね、坊主。羨ましかろう!! あれこそ、あれこそがな。贅の極みと云うもんだ!!」

 ヤニ臭い唾を飛ばしながら声高に喧伝する様は一周回って胸に迫るような妙なリアリティーを伴っている。

「坊主、良いか。あすこはな、肉の具合に合わせて、酒を変えるんだ。西洋の肉……支那の肉……だがな、坊主。良く覚えておけ。出される葡萄酒が若ければそれは幸いだ。渋かろうが、それはそれは大層旨い。なぜだか分かるかね? え? えぇ?」

 取り憑かれたかのように捲し立てる老人の様は狂気的であった。だが、耄碌した老爺の戯言と片付けてしまうには内容が明瞭過ぎた。

「これが分からないから、駄目だ。見てみろ坊主、お前のこの服を。お前にとっては錦の一張羅だろうが、儂に云わせれば、こんなのは襤褸と変わらん。喫茶はな、一握りの、儂のようなブルジョワジィだけが入館を許される、あすこはなぁ、サンクチュアリィってもんだ。分かるかね。あぁ、畜生。これだからボンクラは。帰れ!! ホラ、サッサと行っちまえ!! あの甘美なる暗闇の美を解せん不心得者め!!」

 嘲弄とも、怒りとも。どちらとも分からぬ語りに薄寒さを覚えながらも勝ち得た喫茶の在処。半信半疑ではあったが、そこには間違いなく半分ばかりの信があった。

 愚直にも私は路地裏の更に奥の奥。誰も近寄らない影の方へと向かうと。確かにそれはあった。

 看板には小さく『奇食喫茶』の四字のみが彫られている。なるほど、探偵も見逃すわけである。

 したり顔を浮かべながら私は件の喫茶へと遂に足を踏み入れるに至ったのだ。


♪ ♪ ♪


 外観に反して喫茶の中は随分と綺麗なものだった。いや、立地を鑑みれば病的なまでに清潔と云えよう。辺りを伺っていると、不審と取られたか、黒いスーツを着た男が一人歩み寄って来て、入場券の提示を求めてきた。私はおっかなびっくり手の中の券を手渡すと、黒服はアテが外れたとばかりに小さく舌打ちを残して私を階下へと誘った。

 連れられた部屋には数人の男女が既に着座していた。誰も彼もが上等な衣服を着こなすジェントル風であり、襤褸と呼ばれた私のような学生服の着こなしは一際異端である。それに何よりおかしな点が二つ。

 まず第一に、この部屋には一つのだだっ広い、西洋のお貴族が持つようなテーブルのみがある。

 そして第二に、照明が蝋燭しかないのである。

 それは明らかに異様であった。

 しかし食慾に突き動かされた私には後退なぞ出来る筈もない。黒服の指示に従い、或いは臆病心に従い、音を立てぬよう努めて静かに着座する。

 しばらくして、テーブルに現れたのは一着の衣服であった。

 私がいっとうおかしな光景に尻込みしていると、また先の黒服が現れて云うのである。

 衣服の着用者の名は、エミリー・エヴァンズ。齢は八つ。金髪碧眼。白人。栄養状態は良好ーー。

 服の持ち主の由来をツラツラと慣れた様子で連ねる男に、何かとても厭な胸騒ぎを覚えた。

 高級なレストランでは、料理の説明があると聞く。今なされているそれは、私の夢想するそれと余りにも似通っていた。

 では、ここで供される料理とは、一体何だろうか。その奇食の意とは如何に。それを考えると頭がクラクラと眩めいた気がした。私は堪らなくなり、腹痛を理由に中座する。

 咎めるような視線はなかった。誰も彼もが黒服の放つ呪言に酔いしれ、皿に乗せられた衣服に熱を上げている。さながらそれは儀式や呪術のようであった。

 私はソッと手洗いに行くふりをしながら上へと上がろうとした。しかし其処には別の黒服が行手を塞いでおり戻るに戻れない。

 いよいよ追い詰められたハツカネズミとなった私は、姿勢を低くしてどこか別の場所から出られないかと辺りを探った。

 暫く探しても何も見当たらず、テーブルに戻ると蝋燭の揺らめきに微かな風の姿を見た。

 焦って思い至らなかったが、料理が運ばれてくるならば厨があるのは必然である。風はそこから吹いているのだろう。再度中座して逃れようかと思ったが、厨から外に出られる望みは薄い。そも、ここは路地裏の奥の奥。ゴミゴミとした場所にヒッソリとある場所である。果たして出入り口など複数用意されているものか。

 冷えた水を飲むが、胃の腑の奥はどこまでも重く、硬い。

 次いで姿を現したのは、葡萄酒であった。話を聞くに、ボルドーの上等品。しかし、どうやら飲むには若すぎるようである。八年ものの葡萄酒を前にしたジェントル共の目ときたら。神の血を前にした熱心な徒でもああはなるまい。

 いや、彼らにとっては眼前に居座るあれこそ、正しく神の血であったのだろう。ツラツラと読み上げられた先の少女来歴を思い起こす。確か齢八つと云ったか。ああ、何ということだ。彼らは葡萄酒に少女の血を見ている。

 私は吐き気を堪えながら、震える指で硝子杯を掴んだ。

 中の赤は蝋燭に照らされ、どろりとした臓腑の色をしていた。

 不意に、誰かが笑った。

 くつくつ、と。

 喉奥で煮えた泥を鳴らすような嗤い声であった。それは嘲笑であり嘲弄であった。

「初めてかね」

 向かいに座る老人が、私を見て云う。

 髭に葡萄酒を垂らしながら、その眼だけは異様に澄んでいる。

「顔色が悪い。安心したまえ。誰もが最初はそうだ」

「……何が、出るんです」

「何が、とは?」

 老人は愉快そうに肩を揺らした。

「貴君は肉を食いに来たのではないのかね」

 その瞬間。

 奥の暗幕の向こうから、鈴の音が鳴った。

 ちりん。

 重苦しく湿った空気に反して、明朗に響く音。

 盃を手に談笑していた紳士淑女たちが、一斉に押し黙った。

 祈祷の開始を待つ信徒のように背筋を正す。

 黒服が二人。

 銀蓋のついた大皿を運んで来た。それに棺を運ぶ葬儀屋の姿を重ねる。

 私は息を止めた。

 皿は静かに卓上へ置かれる。

 銀蓋の表面には、蝋燭の火が幾つも揺れていた。

 黒服の男が告げる。

「本日の主菜をご紹介致します」

 その声音には感情がない。

 ただ、妙に滑らかだった。

「エミリー・エヴァンズ。八歳。英国出身。体重二十六キログラム。病歴なし。虫歯なし。服薬歴なし」

 誰かが恍惚の吐息を漏らす。

「両親は音楽家。幼少よりピアノを学び、ストレスが少なく、筋繊維の硬化も見られません」

 老人が陶然と目を閉じた。

「ああ……音楽家の子は良い」

「……何が」

「肉質が柔らかい」

 私は椅子を引いた。

 ぎ、と。

 木が鳴る。

 全員の視線がこちらへ向いた。無数の、光る伽藍の瞳がこちらを射抜いている。

 しまった、と思った時には遅かった。

 黒服の男が、無表情のままこちらを見る。

「お客様」

「……」

「お静かに」

 私は立ち上がれなかった。

 足が、動かない。

 恐怖ではない。

 もっと別の、ぬるりとした何かが脊椎に絡みついている。

 ――知りたい。

 それが何なのか。

 この連中が何を食っているのか。

 どれほど旨いのか。

 嫌悪と恐怖入り混じる脳に反して、胃の奥には醜悪な好奇心が満ち満ちて、蠢く。

 銀蓋が持ち上がる。

 その瞬間。

 部屋中の蝋燭が揺れた。

 皿の上にあったのは。

 ――肉だった。

 ただの肉。

 赤黒く艶めく、小さな肉塊。

 香草と果実のソースがかけられ、白い湯気を立てている。

 それだけ。

 それだけなのに。

 私は理解してしまった。

 理解した瞬間、猛烈な空腹が胃袋を殴った。

 香りが、余りにも良かった。

 炭火。

 乳脂。

 葡萄酒。

 血。

 微かな甘味。

 脳が痺れる。

 鼻孔の奥を焼く匂いは、これまで嗅いだどんな肉よりも濃密で、官能的だった。

 老人が笑う。

「どうかね、坊主。えぇ? 人は、未知を恐れる。だが本当に恐ろしいのはな」

 ナイフが肉へ沈む。沈み込む。柔肉は刃物を抵抗なく受け入れ、切り取られる。果たしてそれは、哀れな少女の今際の再演か。

 じゅわり、と肉汁が溢れた。

「知ってしまった後だ」

 その言葉と共に。

 私の腹が、ぐう、と鳴った。

 部屋中の紳士淑女たちが、一斉に笑った。

嗤いは波のように広がった。

 くつくつ。

 くぐもった声。

 品の良い微笑。

 白手袋の指先。

 銀器の擦れる音。

 それら全てが混ざり合い、私には巨大な胃袋の蠕動音に聞こえた。

 私は席を立てなかった。

 いや。

 正確には、立ちたくなかった。

 鼻腔を満たす香りが、思考を蕩かしていたのである。

 理解していた。

 これは人肉だ。

 エミリー・エヴァンズ。

 八歳。

 金髪碧眼。

 音楽家の娘。

 その情報は、もう私の中で料理名に変わっていた。

 胃液が込み上げる。

 空腹。

 飢餓。

 食慾。

 私は今更になって理解した。

 この場に集う者たちは、狂人ではない。

 少なくとも、最初から狂っていたわけではない。

 彼らは皆、同じ食慾の隷だったのだ。

 より旨いものを。

 より甘美なものを。

 より希少なものを。

 その果てに辿り着いた末席が、ここだった。

 黒服が私の前に皿を置く。

 肉は小さい。

 二口。

 いや、一口でも終わる。

 それほどの量しかない。

「初回ですので、肩肉をご用意致しました」

 黒服は淡々と語る。

「幼体特有の繊維の細さと、適度な運動による締まりが特徴となっております。今回は果実酒を用いた低温調理にて」

 誰かが恍惚と呻く。

「肩か……良い」

「羨ましい」

「初回で肩を出すとは」

 私は震える指でナイフを取った。

 帰れ。

 逃げろ。

 吐いてしまえ。

 頭のどこかで誰かが叫んでいる。

 だが。

 香りが。

 余りにも。

 旨そうだった。

 私は肉を切る。

 やはり驚くほど柔らかい。

 繊維が抵抗しない。

 刃が滑り込む感覚は、むしろ熟れた果実に近かった。

 断面から肉汁が滲む。

 淡い桃色。

 私は唾を飲み込んだ。

 老人が囁く。

「若い葡萄酒を合わせた理由が分かるかね」

「……」

「鉄臭さを殺すためだよ」

 その瞬間。

 私は耐え切れず、肉を口へ運んだ。

 舌に触れた瞬間。

 世界が止まった。

 熱。

 甘味。

 脂。

 蕩ける。

 牛でもない。

 豚でもない。

 鳥でもない。

 もっと柔らかく。

 もっと繊細で。

 もっと濃厚だった。

 噛む度に、舌へ甘い肉汁が染み出してくる。

 果実酒の酸味が血の匂いを溶かし、香草が後味を引き締める。

 それでいて、中心には確かに獣の旨味が鎮座していた。

 私は咀嚼を止められなかった。

 脳が痺れる。

 腹の奥が歓喜している。

 細胞が。

 本能が。

 歓声を上げていた。

 ――旨い。

 その事実だけが、どうしようもなく存在していた。

 気付けば、皿は空だった。

 私は呼吸を荒げながら、空の皿を見つめていた。

 もっと。

 もっと食べたい。

 胃袋が軋む。

 その時だった。

 卓上へ、新たな皿が運ばれてくる。

 今度は衣服ではない。

 白いリボンだった。

 血に濡れた、細いリボン。

 黒服が告げる。

「続きまして、本日の第二皿」

 蝋燭が揺れる。

「エミリー・エヴァンズの“声帯”となります」

 私は息を呑んだ。

 老人が、恍惚と笑う。

「来たか」

「……ほほぉ、声帯」

「音楽家の娘だからねぇ」

 老人は舌舐めずりした。

「歌う子は、美味いぞ」

その単語が、ぬめりを伴って耳へ入り込んだ。

 銀皿の上には、小さな肉片が載っている。

 細く。

 薄く。

 艶めかしく。

 まるで濡れた舌のようだった。

 私は己の喉を無意識に撫でる。

 嚥下する音が、やけに大きく響いた。

 黒服が葡萄酒を注ぐ。

 先程よりも香りの強いものだった。甘ったるく、花のようで、それでいて鉄錆を思わせる後味が鼻奥に残る。

「声帯は繊細ですので」

 黒服が語る。

「香りを潰さぬよう、甘めのものを合わせております」

 誰かが感嘆を漏らした。

「素晴らしい」

「流石だ」

「今日は当たりだな」

 当たり。

 その言葉に、私は吐き気を覚える。

 だが同時に、胃袋は熱を帯びていた。

 私は知ってしまった。

 旨いのだ。

 認めたくもない事実が、舌に焼き付いている。

 老人がニタリと笑う。

「坊主。食とはな、倫理の外側にある。そうだ。飢えた獣は善悪など考えん。考えるのは満腹になった後だけだ」

 私は返事をしなかった。

 返せなかった。

 何故なら。

 私の指は既に、ナイフを取っていたからだ。


♪ ♪ ♪


 結局。

 私は最後まで席を立たなかった。

 声帯。

 頬肉。

 指。

 供される度、連中は宗教家のように陶酔し、舌鼓を打った。

 そして私もまた。

 いつしか、その輪の中にいた。

 皿が空になる度に胸の奥が冷え、次の料理を待ち望む自分がいた。

 ああ。

 私は豚だった。

 人の形をしただけの、飢えた豚。

 最後の皿が終わる頃には、蝋燭も短くなっていた。

 黒服たちは静かに一礼し、客人たちは満ち足りた顔で席を立つ。

 私はふらつきながら外へ出た。

 湿り気を帯びた夜風が頬を打つ。

 吐くかと思った。

 だが胃袋は幸福に満ちていた。

 その事実が、何より恐ろしかった。


♪ ♪ ♪


 翌日。

 探偵は、私の顔を見るなり腹を抱えて笑った。

「いやぁ、酷い顔だ。三日は寝てない死体みたいじゃないか」

 あっけらかん。ケラケラと笑う男を前に、私は机を叩いた。

「何だあれは、と問われても、喫茶店だったろう?」

 私は内心で「惚けるな!!」と叫びながらも、私は声を潜めていた。

 あの場所を思い出すだけで、背筋が粟立つ。

 探偵は珈琲を啜りながら、愉快そうに肩を竦めた。

「で? 旨かったかい」

 答えられない。

 答えた瞬間、自分が壊れる気がした。

 探偵はそんな私を見て、小さく息を吐いた。

「安心しろ。あれはただの牛肉だ」

「……は?」

「正確には仔牛だ。かなり上等なものだが、人とは似ても似つかない紛いさ。暗示、演出、情報操作。連中はそれを“人肉だと思い込んで食う”ことで快楽を得ていた」

 私は呆然とした。

「……牛?」

「厨房も検分した。氷室ひむろも確認済みだ。解体痕も人骨もなし。実直な肉商から仕入れた台帳まで残っている。ワインの年数だの、来歴だの。全部後付けの脚本だよ」

 探偵は笑う。

「要するに、馬鹿な金持ちの秘密クラブさ。違法スレスレではあるが、人食いではないよ。安心したまえ」

 全身から力が抜けた。

 安堵。

 それが最初に来た。

 私は人肉を食ってなどいなかったのだ。

 胃の奥に巣食っていた鉛のような重みが、少しだけ軽くなる。

「君のお陰で助かったよ」

 探偵は云う。

「新参が紛れ込めば警戒が薄れると思ってね。まさか本当に潜り込めるとは」

「……最初から、利用するつもりだったのか」

「鼻が利くからな、君は」

 ヘラヘラと笑う探偵を殴ってやろうかと思ったが、もう怒鳴る気力もなかった。

 私はただ、酷く疲れていた。


♪ ♪ ♪


 数日後。

 私はいつものように新聞配達をしていた。

 朝靄。

 湿った石畳。

 眠たげな街。

 あの日以来、私は肉を食う気になれなかった。肉を食らえばあの獣性が、再び鎌首を跨げるような気がしたからである。

 いつも通りパンの耳を齧りながら、自転車を漕ぐ。

 ふと。

 配達前の新聞の一面下、小さな記事が目に留まった。

『行方不明者捜索』

 よくある記事だ。

 普段なら読み飛ばしている。

 だが、その時だけは違った。

 載せられていた少女の写真。

 金髪。

 碧眼。

 年の頃は八つほど。

 名前。

『エミリー・エヴァンズ』

 私の指先から、新聞が滑り落ちた。

 朝風が紙面を捲る。

 かさり。

 かさり。

 その音が。

 あの晩、銀皿へナイフを入れた時の音に、妙によく似ていた。

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