海風が漂う
高瀬文彦は横浜の冬風がコオトを揺らし、その肌にあたる寒さに逃げ出すかのように他の人よりも早足で歩いていた。
海が近い土地からか、ここの風は他の所よりも冷たいような気がしていた。足は氷に浸っているように冷たく、文彦には咳払いも見られ、風の予兆も感じられた。街を歩く人々の顔も決して優しくはないというように見えた。
その道沿いに建つ建物に文彦は足を止めた。彼はいつもここに来る時はまず足をじっと止め、その建物を見つめるのが癖であった。
周りに建つ絢爛な建物とは違い、この建物は密やかに建っているように見えた。決して華やかでないわけでもないのだが、文彦はこの雰囲気を保つことは難しいように思われた。だが彼はそれがここを好む理由でもあった。
二階建てのこの建物は二階は鹿鳴館というダンスホオルになっている。勿論、東京の鹿鳴館とは関係もなく、ただその名に肖って拝借しただけである。文彦はそちらには足を踏み入れてことはなかった。
その下の一階にはカフェエがあり、文彦は秋からの常連になりつつあった。
小さな段を上がり、扉を開けると、まず建物中の中央に位置するシャンデリアに目が行く。来た客はまずそのシャンデリアを見て、ここのカフェエの位を見定めるのである。
文彦もいまだにそのシャンデリアに目が行ってしまう。最も文彦以上の常連や女給などは流石に慣れてしまったという様子である。
文彦はこのカフェエに通うのはここで働くすみれという女給に会うことが目的であった。建物に入り、シャンデリアから目を離すとまず、すみれの姿を見つけようと部屋の中を見回している。
「高瀬さん、いらっしゃい」
文彦と目が合うと同時にすみれは文彦に声を掛けた。
ここで働く女給達ではすみれは一番背が高く五尺三寸はあると思われた。華奢な体つきに細長い目をし、まつ毛は長い方であった。髪を束ね、その川の流れを思わせるその清らかな美しさを文彦はいつも見る度に声をあげそうになっていた。
文彦はすみれと共に部屋の一角に通された。特別室と題された部屋のすぐ近くであり、文彦はなんとかしてその部屋に行ってやりたいという気持ちを抑え、すみれに酒をやった。
「あら、風邪かしら、」
「いや、そうじゃない。冬は毎年こうなんだ」
「そう、若本さんが高瀬さんは体が弱いって言っていたけれど、本当だったのね」
若本とは高瀬の友人で、元々は文彦は若本についていく形でこのカフェエに寄った。以来、高瀬はその時に出会ったすみれに熱を上げ、週に三回多い時は四回もカフェエを訪れていた。
「僕は元々は病弱でね。これでも良くなったんだよ。でも、これじゃあ出兵はできそうにもないね」
「いいじゃないの。高瀬さんが死ぬなんて想像もできないわ」
「けれど、自分でも時々、結核なんじゃないかと思う時があってね。血を吐くわけじゃないんだけれど、どうもね」
「高瀬さん、気を弱くしちゃダメよ。病は気からって言うじゃないの。男はもっと強くなければ」
文彦がすみれに惚れた理由はここにあった。他の女給にはない女の強さがあった母を思われせる大きい背中を文彦は感じていた。
文彦は元来下戸というわけではないが酒は飲む方ではなかった。だが、カフェエに通ってから酒を飲む量が増え、文彦は自身が飲める体質であるということに初めて気がついた。
ここを初めて若本と寄った時も若本は酔い潰れたのに対し、文彦は悠々と酒を飲んで、酔い潰れた若本ともう一人の女給を他所に文彦はすみれと仲を深めていった。
なので、酒が強く注文も多い文彦は店からすればお得意様なのであった。すみれが良くするのも無理はなく、店全体としても文彦の来店は喜ばしいものがあった。
「若本さんは高瀬さんが常連になっていることに驚いていたわ。何か言われてないかしら?」
「何も。最近はお互いに大学のことで忙しくて顔を合わせてないんだ。今年になってからは正月に会ったっきりだから」
「そう、先日ここに来て、女給達がみんな若本さんの顔を見るなり、高瀬さんの話ばかりするから面食らっていたわ」
「僕のいない所で僕の話をするのは恥ずかしいな。やめておくれよ」
「言い出したのは私じゃないわよ」
すみれが飲んだ酒は強かったようで、すみれはもう顔を赤くし始めていた。高瀬もこの時はかなり酔ったようで、家までずっと酒が回り、機嫌が良かった。
家に帰ると、そのまま部屋に上がり、着替えもせず、横になった。ここ最近はこのような自堕落な日々が続くが文彦はこれは新しい自分に変わったのだと自負するだけであった。いつかは家の者に小言を言われる覚悟でいるが、それまではこの生活を楽しんでおこうと思っていた。




