Act.1 虫籠で羽化を待つ蛹
光 八歳
香 六歳
満 二歳
あの夜から、私は蝶の夢を見続けている。
闇に呑まれ、煌めきながら散った母の翅。
紅色に咲き誇りながら、腐り落ちる彼岸花に沈んだ父の華。
そして、伸ばしても重なることのない妹の小さな手。
すべてを失ったあの時が、私の始まりだった。
もしも記録に名を残せるのなら、私はこう書き記すのだろう。
――これは、一人の女が血と闇の中に生まれ落ちた物語である、と。
全ての始まりは15年前。
冬の国。
三方を鉱山に囲まれた平地。
その中には一夜の夢を売る街がある。
その平地の中からすればほんの小さな土地。
そこは売られて身を売る蝶たちの虫籠。
『快楽街』
そう言えば聞こえはいいかもしれないが、実情を話すと塀に囲まれた娼館街。
私、一条 光が生まれたのはこの虫籠の中だった。
娼館の中で一番の美貌と、知恵を持つ娼婦とその娼館を警護する男の間に生まれた第一子。
黒い髪と金の瞳を持つ……この色は父譲りだった。
娼館で生まれた子供は外に出ることはない。
母と同じく娼婦となるか、誰かに見初められて妾……ならまだマシだけれども性奴隷になるか。
そんな私は8歳の小娘であった。
「姉さま!姉さま!では、今夜は母様と寝られるのですね!」
「そうね」
「今日こそ姉さま、母様に碁でお勝ちくださいね!」
2歳年下の妹はキャッキャと嬉しそうに弾んだ声でそう言った。母と同じ赤色の髪……母はその色を「紅茶色」と言うが、この髪色と部屋を暖める暖炉の光に似た橙色の瞳を持つ妹は母とよく似た柔らかな顔で笑う。
「頑張るね」
そう答えるが、母に碁で勝つなど無理な話だ。もしも私が碁で勝ったら、母は蝶……つまりは娼婦を辞めると言っている。ソレがどういう意味か、私は理解し始めていた。無理であるけれども、母は私と妹に優しい嘘をついてくれているのだと分かり始めていた。
今日は母が仕事のない日だ。
「光、香、一緒にお風呂に入りましょう?」
綺麗な着物を纏っていた母がこちらに来た。まだ2歳の弟を抱き上げたまま、私と妹の香に微笑む母。妹と同じ紅茶色の髪と橙色の目を持つ母は誰よりも綺麗だ。
『快楽街』一番の蝶。
触れることの敵わぬ至高の蝶。
それが私たちの母だった。
『快楽街』の時間はこれから。
それでも母が夜を休めるのは身体ではなく、芸を売るからだと知っている。
母は他の蝶とは違う。
身体ではなく類まれなる頭脳を使い相手を喜ばす。
母が私と妹に身体売らずに済むように知識と芸を仕込んでいるのは薄々感じていた。
母の優しさだと分かっている。
「さあ、行きましょう。」
そう言って差し出された片手を妹は嬉しそうに握る。そして妹の手を私が繋いで、娼館の裏側の風呂場に向かった。風呂にはたくさんの花が浮かべられて、その匂いを付けて男を呼び寄せる。泡立てた洗剤で母が妹の髪を洗う。
「今日はどうしましょうか?香姫?」
「えっと……ウサギさん!」
「はーい!」
妹の答えに母はにこやかに笑いながら紅茶色の髪に白の泡を付けて天へと向ける。そうすると本当にウサギのような2つの耳が出来上がる。
「じゃあ、今度は光姫にって……光!なんで私に洗わせてくれないの!?」
妹が現れている間に自分の髪を洗ってそして泡を流したところでショックを受けた母がこちらを見ていた。
「……髪乾かしてくれればいい。」
私の言葉に母はふわりと笑う。
綺麗にされた私と妹、そして弟が風呂から上がり、私達の濡れた髪に母が触れる。
不思議と髪はさらさらと乾いていく。
いつも不思議で、他の人にはできない事だった。
その後は母の私室に招かれる。無駄なものはほとんどない、質素な部屋だ。
パチン、パチン。
静かな音が部屋に響く。
白と黒の碁が盤を埋めていく。
パチッ。
私が打った最後の黒の石を見た母が目を丸くした。
隣で見ていた妹が「わああ!?」と嬉しそうな声を上げる。
盤を見れば黒の勝ち。
「姉さまが勝った!」
妹の嬉しそうな声が部屋に響いた。母も驚いた顔で盤を見て、そして私を見た。
「……凄いわ、光。まさか貴女に負けるなんて……やっぱり貴女は……。」
そう言った母は寂しそうに笑った。
「やっぱり姉様はすごいわ!」
私のことを誉める妹は碁の勝負を理解できる。それも凄いことなのだが、私は盤を見ながらため息を吐いた。
「でも今夜は私の勝ちよ。」
「ええええ!?姉さま勝ったのに!?」
「違うよ、香。私は母様にハンデを貰っているの。最初から8個、石が多い。だから勝ったの。」
「そう、光はよく分かっているわね。香はもう少しこういうことが分かるようになるといいわね。でも二人とも凄いわ。こんなにも碁を理解できるなんて……私が小さい頃は出来なかったわ。」
そう言いながら笑う母にどこか違和感があった。
その理由など、今では闇の中だ。
「母様、寝ましょ!」
香の底なしの明るい声に招かれて、妹と、弟と、母と、私の4人で布団に入った。あっという間に眠る香と満。私もうとうとと半分夢の中に行きかけた。そっと頭が撫でられる。
「貴女のその頭脳は一条の血でしょうね。」
「いち、じょう?」
「あなたたちのお父様の家よ。」
そう言われて複雑な気分になる。
父は父親と思いなくない男だった。
酒を飲み、母を殴ろうとすることもある。母は意外にも強く、父を抑え込むことをする。悲しそうな顔で父を諫める。
父は一般的には強い人間らしく、問題ごとが起きると武力で制圧する。
ただ、父を不思議に思うことがあった。ハッとして問題を起こした客たちを投げ飛ばす。何故か分からないが、その瞬間に空気の揺らぎのようなものを感じていた。
ただ、私は……。
「あの人、嫌い。」
「……そうは言わないであげて、光。全部、全部私が悪いの……あの時……。」
夢か真か分からない微睡みの境で見た母の涙は本物だったか、幻想だったかは分からない。
「……でもあの時、死んでいたら、貴女たちに会えなかったわね。」
ただ、酷く悲しそうな声で母はそう言った。