アップルパイとレモンティー
周りの言っていることが2割しか分からなかったとしてもしょげる事はない。確かに泣きたくなるような有様だが、まださじを投げる程ではない。酷い時には文字通り無なんだから、それに比べたら大層ましだろう。むしろ2割も分かるなんて僥倖である。どんな事でも足掛かりさえあればたいてい何とかなるものだ。分からないというのはヒントである。というより姿形を変えた問いであり、形を作り損なった問いである。分かることは既に問われている。そして問われるものは既に答えられている。注視しなくてはならないのは問われないもの、問われていないもの、問おうにも問いようのないもの、問われるよりも前にあるものである。"a priori"な問い。言うのは簡単だがやるのは俄然困難だ。なんせ目隠しで綱渡りするようなもの。
どんなものにも濃淡があるように分からないことにも当然ある。淡いところ、分かりそうで分からなそうなところ目掛けて突っ込むのだ。清水の舞台から飛び降りるみたく。そこも分からない?方角ですらも?それなら仕方ない。眠るのだ。泥のように。後は妖精が何とかしてくれよう。大抵のことは。我々ができることなんて本当に限られていてピンボールの玉ぐらいちっぽけな物だ。
考えてもみてほしい。我々はなぜ言葉が分かるのか?色が分かるのか?海が分かるのか?説明してみてほしい。子供にも分かるように。それはそういうものだと言いたくなるだろう。まさしくそう。それはそういうものだ。何故かは知らないが、いつの間にか何となく分かっていてそれで支障はなかった。分からないという壁にぶつかるまでは。
分からない領域は無数に広がっており、分かる領域はごくごく僅か。分からないと気づくのは分かるの最前線が分からない領域に接触した時。境界が認識されるその瞬間だ。そこで我々は壁を嘆き、頭をぶつけ、子供のように泣きじゃくる。分かること自体が天からの授かり物だというのに。何とも贅沢なものだ。何はともあれ我々はそこで四苦八苦し悪戦苦闘する。運が良ければ境界が押し広がり新しい景色が見えるようになるかもしれない。しかし、大抵の場合はそう上手くはいかない。そのうち暴れ疲れて寝てしまう。眠っているうちに忘れてしまう。何かの拍子で以前の問いを思い出す。同じ場所を訪れた時に壁が変化しているのが分かるだろう。これは壁が動いたのではなく、私の分かる領域が変化したのだ。これこそまさに妖精の成せる術。
分からないことは妖精に聞こう。妖精があなたの元を訪れる限りは。どうやったら妖精が訪れるかって?そんなことは簡単だ。アップルパイとレモンティーを机の上に用意すること。小さな装飾品で妖精の家を設えること。そしてよく眠ることだ。