「レイモンド・カークスは、気狂いにございます」
※私の作品としては珍しく、ハッピーエンドではございません。
苦手な方はお気を付けください。
グラナダ侯爵家に仕える騎士、レイモンド・カークスは、無骨な男だった。
日がな一日、身体を鍛えるか仕事に励むか。
そんな日々を送る男だった。
例えば昼番の日は朝日が昇るのに合わせて起床し、軽く身だしなみを整えると早朝の稽古へ。
たっぷりと汗をかいた後は水を浴びて身体を清める。
「お、今日も精が出るな、レイモンド」
「これはお館様、おはようございます。水、使わせていただいております」
「気にするな、自由に使っていいと言っておるだろうに」
律儀にレイモンドが頭を下げれば、お館様、彼を雇うグラナダ侯爵は朗らかに笑った。
水が豊富とは言い難いこの辺りで、稽古上がりの騎士が自由に水を使うことを許可している貴族がどれだけいるものか。
ほとんど社交などしないレイモンドは詳しくないが、決して多くないことだけは間違いだろう。
更には、朝食までしっかり用意してくれるなど。
「侯爵家の騎士がみすぼらしくては、格好がつかんだろう?」
などと侯爵家の体裁を理由にしているのがまた、粋である。
だからレイモンドは、グラナダ侯爵への忠誠心を強く持っていた。
領地を持たぬ男爵の次男として生まれ、身を立てるために騎士となった直後に両親が、ついで兄が流行病で亡くなり天涯孤独となった彼にとってグラナダ侯爵は親代わりのような存在であるため、その忠勤ぶりは比類なきもの。
そんな彼を信用し、侯爵が出歩く際には必ずと言ってもいいくらいに、レイモンドを護衛の一人として伴っていた程である。
朝食の後は侯爵邸の警備。真面目に勤めていればすぐに昼食時、同僚と交代しながら手早く食べ終われば一服することもなくまた警備へ。
屋敷の者が知る限り、レイモンドがゆっくりと昼食を摂ったことはない。
昔は朝も夕もそうだったのだが、見咎めた侯爵が身体に良くないから朝と夕はゆっくりしっかり食べるようにしたという逸話もあるほど。
誰よりも真面目に、誰よりも長く警備の仕事をした後、夜番の騎士と交代し、報告書を纏めて一日の仕事を終える。
夕食を摂った後は、夜の一人稽古。これは、朝に比べれば軽めに切り上げるようにしていた。
といってもそれは、侯爵から身体を休めて体力を回復させるのも仕事の内だと言われたからであり、言われる前は寝る間も惜しんで警備の仕事につき、あるいは身体を鍛えていたくらいに滅私奉公な男だった。
そんな生活に変化が訪れたのは、侯爵の娘であるミシェルが貴族学院に通うようになってからのこと。
「レイモンド、ミシェルの行き帰りはお前に任せる」
「私も、レイモンドがついてくれるならば安心です」
敬愛するお館様とその愛娘からこう言われて、レイモンドは身命を賭してでも守り抜こうと誓った。
早朝の稽古を終え、朝食を摂った後に通学するミシェルの馬車に馬で併走。
学校に到着後は馬車溜まりまでミシェルを送り、校舎内へ入るのを見届けた後、すぐ隣に併設された彼の母校でもある騎士訓練校に設置された待機施設へと足を運ぶ。
貴族学校内に護衛を入れることが出来るのは王族のみであり、侯爵家の騎士であるレイモンドは中に入ることが出来ない。
かと言って侯爵邸に戻れば、万が一の際にミシェルの元へ駆けつけることが出来ない。
ということでレイモンドを始めとする各貴族家の護衛騎士達は、騎士訓練校にある待機施設で時間を潰すなり、後輩達の訓練に参加したりと思い思いの過ごし方をしていた。
多くの護衛騎士達がそれなりに寛いでいる中、レイモンドは一人研鑽に励む。
流石に体力を使い果たすような訓練をしていては、いざという時にミシェルの元へと駆けつけられない。
だからレイモンドは、この待機時間を使って技を磨くことに専念していた。
それだけの時間を一心不乱に励めば、技の冴えは余人の追いつけるところではなくなっていく。
「きっとレイモンドは、この国一番の騎士になれますわね」
などとミシェルに言われれば、一層励んでしまうのも仕方のないところ。
そしてまた、剣に専心し忠勤一筋な男へ屈託なく笑いかけてくる少女に心惹かれるのも、致し方ないことであった。
だが彼は、無骨な忠義者だった。
己の心をそっと押し殺し、ひたすらにミシェルを警護する日々。
「レイモンド、お前もそろそろ身を固めたらどうだ?」
そうグラナダ侯爵から言われることもあったが、彼は首を横に振るばかり。
「お嬢様が無事学園を卒業し、御婚姻なさるまでは、身の自由が利く独身でいたいと存じます」
あるいは忠義一徹とも取れる言葉に、グラナダ侯爵もそれ以上は言えなかった。
恐らく、レイモンドの気持ちを薄々とは感じ取っていたのだろう。
侯爵とてレイモンドの事は評価していたが、しかし、貴族社会は身分だなんだ、どうしようもないことが多い。
その最たるものが、グラナダ侯爵家を襲った。
ミシェルへと、第二王子との婚約が王命として言い渡されたのである。
王妃が生んだ第一王子に比べて、側妃が生んだ第二王子は、どうにも見劣りがするところが多い。
この分では順当に第一王子が立太子するであろうと見られていたのだが、国内でも有数の貴族であるグラナダ侯爵の後ろ盾を得て第二王子を盛り立てようと側妃が画策したのである。
王家との繋がりにさして興味のなかったグラナダ侯爵としては迷惑な婚約ではあったが、王命とあれば拒むことも出来ず、婚約は結ばれた。
それが悲劇の始まりだった。
既に学園内で恋人を作っていた第二王子は、王命によって決められた婚約者を疎んだ。
恋人である男爵令嬢や取り巻きである貴族令息達を使って、ミシェルをいびる日々。
第二王子の婚約者となって王族に準じる立場となったミシェルにも護衛の騎士が付けられることになったが、それも第二王子の息がかかった近衛騎士。
本来であればミシェルに対して暴言や不当な扱いがあれば王家に報告せねばならない立場である近衛騎士は、第二王子の言うがまま、ないことないことを王家に報告するばかり。
そんな日々を送れば、いかにミシェルと言えども顔に陰りを帯びてくる。
「お嬢様、学園で何かございましたか?」
「いえ、何でもないの、大丈夫よ、レイモンド」
問われて返したミシェルの笑顔は、どう見ても無理をしているもので。
レイモンドは急ぎグラナダ侯爵へと報告、ミシェルを根気強く諭し、聞き出した内容を元にすぐさま国王へと訴えたが、おざなりな調査がされるばかり。
ならばと婚約解消を訴えれば、あれこれと理由を付けられて逃げられる。
学園を休学させることも考えたが、この国で学園を無事卒業出来なかった令嬢の行く末は、残念ながら閉ざされてしまうと言わざるを得ない。
これといった手が打てないままでいたある日。
学園内でパーティが行われたのだが……ミシェルが、帰ってこなかった。
帰らぬ人となった。
その時、レイモンドは学園内に入れなかった。
駆けつけることが出来なかった。
パーティ会場で、第二王子がミシェルを悪し様に罵り、捏造ばかりの証拠で断罪されたのだという。
そんなことはしていないと言い返したミシェルは、理路整然と反論した。
ミシェルは、正しかった。それは、第三者から見ても明らかだった。
だから、第二王子は憤慨した。
命じられるままに、取り巻きの一人がミシェルを斬った。
真剣を持ち込むことなど、護衛騎士にしか許されぬ場で。
そんな狼藉がまかり通ってしまった、その時。
レイモンドは、学園内に入れなかった。
駆けつけることが、出来なかった。
顛末を聞かされたのは、物言わぬミシェルがグラナダ侯爵邸へと帰ってきてからだった。
レイモンドの握り込んだ手には爪が食い込み、血が流れていた。
グラナダ侯爵の目は血走り、見開かれ、瞬きを忘れたかのようだった。
「……第二王子殿下と取り巻き連中は、いかが相成りましたか」
「取り調べのため離宮に軟禁されているらしい。今ものうのうと生きているそうだ」
淡々と。
侯爵の執務室で二人は、会話をする。
怒りなどという感情は、とうに振り切った。
考えるのはただ一つ。
いかにして奴らに復讐するか。
いや。
侯爵は、それでも貴族だった。
父親でもあるが、貴族だった。
一族や領民達に累が及ばぬよう差配をしてから、というのが先に来る。
彼は、侯爵だから。貴族の手本と言っても良い彼を、ミシェルが敬愛していたから。
しかしそれでは、事を重く見た他家が防備を固めるかも知れない。
あるいは密やかに始末するかも知れない。
それではだめだ。
だめなのだ。
ミシェルの無念は、彼らの手で晴らされねばならない。
だから。
レイモンドは、決意した。
「お館様。どうか私を解雇してくださいませ」
「なっ、何を言うんだレイモンド!?」
まさかの発言に、侯爵が椅子から腰を浮かすも、レイモンドは落ち着いた顔だった。
「私は此度の一件で心が壊れ気狂いとなりました故、これ以上お勤めすることが出来ませぬ。
よって、解雇していただきたく」
「……レイモンド? お前、まさか!?」
一瞬でレイモンドの考えを見抜いたグラナダ侯爵が問うも、レイモンドは諾とも否とも答えない。
ただ静かに、そこに佇むのみである。
そんなことをさせるわけにはいかない。
だが侯爵が必死に頭を巡らせるも、妙案は一つも浮かばない。
「お館様。事は急を要します。手をこまねいている間に、ゆっくりと眠らせる茶が差し入れられるかも知れませぬ。
疾く、解雇通知書を。私の署名を残さねばなりませぬ」
「く、ぅ……レイモンド……お前はっ、お前という奴はっ」
溢れる涙を止める事も出来ず、グラナダ侯爵は言葉に詰まり。
それでも、これ以上はどうにも出来ぬと、家令へと指示を出した。
レイモンドへの解雇通知書を作成し、そこに侯爵とレイモンドが署名。
そして、長きにわたり忠勤してくれた彼を領地で療養させるべく馬車を用意した、という形を取った。
「お館様……お心遣い、感謝いたします」
「こんな、こんな形で遣いたくはなかった! だがっ、だが私はっ!
すまないレイモンド、至らぬ主ですまないっ!」
「とんでもございませぬ。お館様は、私にとって最高の主でございました。
ですから私も、身命を賭すことが出来るのでございます」
「今この時ばかりは、何の慰めにもならぬっ!」
侯爵は泣いた。
己の無力に、至らなさに。何より、愛しい者達を守れなかったことに。
「それではお館様。これにてお暇申し上げまする。
これより先、レイモンド・カークスは気狂いにございます」
「馬鹿者……本当にお前は、馬鹿者だ!」
ボロボロと涙をこぼしながら、グラナダ侯爵はレイモンドの乗る馬車を見送るしか出来なかった。
馬車が侯爵邸を、そして王都を出て、しばし。
「これくらいならば、いいだろうか」
ぽつりと呟いたレイモンドは、馬車の扉を蹴破り、飛び出した。
走る馬車から飛び降りたというのに、くるりと器用に受け身をとってすぐさまその場に立ち上がる。
「レイモンド殿!? な、何をなさいます!?」
護送していた騎士が、御者が驚き慌てる前で、レイモンドはゆっくりと言葉を発した。
「レイモンド・カークスは、気狂いにございます」
は? と騎士や御者が呆気に取られた瞬間。
レイモンドの身体が疾風のごとく動き、瞬く間に彼らを打ち倒してしまった。
「……数分で目覚めるだろうか。すまぬな、これも必要な茶番ゆえ」
同僚であった彼らを道の脇に寄せた後、レイモンドは踵を返した。
やがて日も落ちる頃合い。
第二王子達が軟禁されている離宮。
その入り口となる門前に、レイモンドの姿はあった。
「……カークス卿? いかがなされました?」
門番は、レイモンドの顔見知りであった。
ある意味で都合が悪く、ある意味で都合がいい。
ニッカリと、レイモンドは笑みを浮かべた。
その笑顔に、門番達の気が緩んだのが……良かったのか、悪かったのか。
「レイモンド・カークスは、気狂いにございます」
唐突に告げられ、その意味が頭に入ってこない門番達の前で、レイモンドは剣を抜いた。
息を吸うよりも自然に抜かれたため、門番達は気付くことが出来ず。
息を吐くように剣が振られた時に、抜かれたと気付いた。
剣の腹で一撃、二撃。
二人居た門番は、あっさりと意識を飛ばして倒れ臥した。
剣を収めたカークスは、そのままズカズカと離宮の中へ足を進めていく。
離宮の端にある門の近辺では、見咎められることはなかった。
だが、奥へ奥へ、王子達が居るであろう区画へと向かえばそうもいかない。
「まて貴様、何用だ! いや、そもそも何やつだ!」
ついに、警備にあたっていた騎士から誰何された。
だがレイモンドは、そちらへと顔を向けることさえせず。
「レイモンド・カークスは、気狂いにございます」
とだけ答えて……激高しかけた騎士の懐へと飛び込んだ。
拳で顎を下から上へと打ち上げれば、如何に鍛えている騎士と言えども意識を保つことなど出来はしない。
そうすれば騎士は崩れ落ち、当然、ガシャンガシャンと鎧が盛大に金属音を響かせた。
「ろ、狼藉者だ~! 出会え、出会え!!」
近くに居た騎士が声を上げるも、レイモンドは意に介した様子もなく奥へと進む。
もちろん、その前には幾人もの兵士や騎士が立ち塞がる。
「止まれ! 止まらねば斬るぞ!」
複数人に囲まれ、刃を向けられ、脅され。
普通の人間であれば、足がすくむところだろう。
だが、レイモンドの足は止まらない。
「レイモンド・カークスは、気狂いにございます」
淡々とした言葉と共に、剣が抜かれた。
いつの間にか。
そうとしか言えぬ呼吸で抜かれた剣は、振り抜かれた後で抜かれたと認識された。
兵士や騎士達が、剣の腹で叩かれ倒れた後に。
何が起こったか、わかった者は一握りもいなかった。
「敵襲! 敵襲!」
「かかれ、かかれ! 構わぬ、斬り捨てよ!」
そんな怒号が飛び交う中、レイモンドは粛々と進む。
淡々と剣を振る。
彼の後ろに、幾人もの騎士が倒れ伏す。
王家の離宮を守るからには精鋭たる近衛騎士のはずだ。
だが、そんな彼らが次から次へと斬りかかっても、レイモンドを止めることが出来ない。
しかも、ここまでレイモンドは一人も斬っていない。
どれだけの技量差があれば、そんなことが出来るというのか。
そんなどうしようもない状況で、一人の近衛騎士が立ちふさがった。
「なんだ、あの芋臭い女の護衛騎士じゃないか!」
それは、学園内でミシェルの護衛を担当していたはずの、近衛騎士だった。
ミシェルが死んだというのに、何一つ気にしていないような軽薄な表情。
きっと彼からすれば、ミシェルの死など些事なのだろう。
身体の内から怒りが溢れてくるも、レイモンドは顔に出さない。
顔にも声にも出してはいけない。全てが無駄になってしまうから。
だから。
「レイモンド・カークスは、気狂いにございます」
応える言葉は、それだけだった。
ただ一つ違ったのは。
刃を、向けた。
磨き抜かれた技量で振るわれた刃は、上等な近衛騎士の鎧を易々と断ち切った。
「は……? え……? な……?」
斬られた近衛騎士は、何が起こったのか理解することも出来ぬまま、事切れた。
本当であれば三寸刻みに切り刻みたいところではあるが、今はそんな時間がない。
一瞥すらせずに、レイモンドは奥へ奥へと。
こんな状況でもなんとか守ろうとする近衛騎士達の動きを見れば、どこを守りたいかがわかる。
同時に、彼らがどれだけ不本意に守っているかも。
そんな彼らに哀れみを覚えながらも、まっすぐに、正面から、気狂いらしく、踏み越えていく。
流石に無傷とはいかぬ。
だが幾度斬られようとも顔には痛みを出さぬ。
無造作に見えるよう剣を振るい、その腹で殴り倒していく。
いや、幾人か、見覚えのある顔は斬り捨てて。
そうして、辿り着いた離宮の奥。
ここか。
見当をつけた部屋の扉を蹴破れば、まさにその通りであった。
「う、うわぁぁぁぁ!!」
騒ぎを聞いていたのだろうか、身構えていた騎士崩れのごとき男が斬りかかってきた。
ああ。
理解したレイモンドは、その剣を手の甲で打ち払った。
遅い。
軽い。
鈍い。
こんな剣で斬りかかったというのか。
無抵抗の者しか斬れぬような、こんな惰弱な剣で。
口を衝きそうな怒りを、拳に乗せて男を殴った。
「レイモンド・カークスは、気狂いにございます」
「ばびゅう!?」
と、意味不明な悲鳴を上げながら吹き飛び転がった男の頭を、蹴り飛ばした。
グシャリ、ゴキリ。骨が折れる音が、二つ。
頭蓋が砕け首の骨が抜けたか。
どうでもいい。息の根が止まったことが確かであれば。
「フ、フレイムランス!!」
そこに、攻撃魔術が飛んできた。
炎の槍。中級攻撃呪文にあたり、個人を攻撃する魔術としては高威力な部類である。
そのはずなのだが。
全く揺るぐことなく、レイモンドはそこに立っていた。
ゆっくりと、彼に攻撃魔術を放った……確か公爵令息であるはずの少年へと向かって歩みを進める。
「レイモンド・カークスは、気狂いにございます」
「は、はぁ!? フ、フレイムランス! フレイムランスゥゥゥゥ!!」
一発、二発。普通ならば致命傷となったであろう炎の槍がレイモンドに当たっても、その歩みは止まらない。
ついに、その眼前へと立って。
「レイモンド・カークスは、気狂いにございます」
もう一度そう告げれば、紙でも切り裂くかのように少年の身体を両断した。
「き、貴様! お、俺をこの国の王子と知っての狼藉か!?」
床にへたり込んだ第二王子が、それでも虚勢を張って声を荒げる。
だが、レイモンドの顔には何の変化もない。
変化させてはいけない。
だからこそ、その顔は、言葉にできぬ凄味と恐ろしさがあった。
「ま、まて、止まれ! た、助けてくれ、金ならいくらでも払う!
それとも官位がいいか、俺ならいくらでも出世させてやれるぞ!」
その言葉と同時に、レイモンドの足が止まった。
それを見て、第二王子は思わずほっと息を吐く。
だが、彼は勘違いをしていた。
「レイモンド・カークスは、気狂いにございます」
レイモンドが足を止めたのは、単に彼が王子を間合いに捉えたから。
淡々とした言葉、いつの間にか振り下ろされていた刃。
愚かな第二王子は、唐竹割りに両断されたこともわからぬまま恐怖のうちにその生涯を終えた。
「こ、来ないで、来ないで!」
最後に残った一人、第二王子の恋人だった男爵令嬢がへたり込んだまま後退る。
僅かに湿る絨毯、かすかなアンモニア臭。
そんなものは、レイモンドにとってどうでも良かった。
一歩、また一歩、レイモンドは歩みを進め。
急に、男爵令嬢の顔が、勝利を確信したかのように歪んだ。
激しく響く複数人の足音。
レイモンドへと押し寄せる騎士達の気配。
「討ち取れ! この狼藉者を討ち取れ!!」
指示の声が飛び、レイモンド目掛けて槍が繰り出され。
その腹部へと、背中へと、数本、穂先が刺さった。
「あ、あははははははは!! ざ、ざまぁ! あたしにこんなことするから!!!」
真っ青な顔のまま、勝ち誇る男爵令嬢の前で。
背や腹を刺されて致命傷を負ったはずのレイモンドが。
ニヤリと、笑った。
「レイモンド・カークスは、気狂いにございます」
「……は?」
それが、男爵令嬢の最期の言葉だった。
致命傷であるはずなのに。
動くことなど出来ぬはずなのに。
レイモンドは、一歩だけ前へと進んで。
この場に居合わせた多数の近衛騎士が誰一人として反応出来ぬ速さで振られた剣が、令嬢の頭をカチ割った。
誰も、何も言えぬ数秒。
レイモンドが、数歩足を進めれば、突き立てられていた槍の穂先が抜けていく。
それから、呆然とした顔でいまだ彼に槍を向けている近衛騎士達へとゆっくりした動きで振り返り。
「レイモンド・カークスは、気狂いにございます」
神職者のごとき荘厳さで告げた彼は。
その場で崩れ落ち、息絶えた。
それから数日後。
事態に収拾を付けるための会議が招集された。
「どうしろと言うんじゃ、これは……」
会議の上座、議長の席で国王は頭を抱えていた。
そもそもの発端が、王命の婚約に不満を抱いた第二王子の暴走。
言ってしまえば、王命に背いたわけである。本人は死んでしまったが。
さらに、それを諫めるべき側近達も加担した。本人達は死んでしまったが。
そしてそれを煽ったのが男爵令嬢だった。本人は死んでしまったが。
「第二王子殿下の学園内での振舞いに関しましては、色々と問題があったようです。
教師や生徒から、様々な証言が……」
「つまり、近衛騎士が上げていた学園内の報告は、虚偽であったと」
「それも、第二王子殿下の差し金だったようでして……」
あまりのことに、国王は天を仰いだ。
なお、虚偽の報告を上げていた近衛騎士は半ば第二王子の取り巻きと化していたため、離宮に警備という名目で詰め込まれていた。
その結果、全員がレイモンドに斬られて死んでしまったが。
「何を迷っておられるのです! 王族殺しとしてレイモンド・カークスの一族郎党は皆殺し、主であるグラナダ侯爵にも責任を問わねばなりますまい!」
「レイモンド・カークスはな、天涯孤独なのじゃよ」
「……は?」
息巻いていた貴族が、間抜けな声を漏らした。
この機会にグラナダ侯爵を失脚させたい彼としては、その程度で怯むわけにもいかないが。
「な、ならばグラナダ侯爵に責任を取っていただかねば!」
「レイモンド・カークスは、我が娘ミシェルの件で心を病んだため、解雇しております。
解雇通知書はこちらに。また、療養のため、我が領地へと向かわせました。こちらは門を出る際の記録になります」
淡々とグラナダ侯爵が証拠を提示すれば、国王はそれらに目を通して小さく頷く。
「……ふむ。療養に向かう途中で暴れ出し、引き返してきたようじゃな」
「グラナダ侯爵領へと向かう街道の途中で、扉が壊れた侯爵家の馬車が見つかっております。
また、レイモンド・カークスが暴れた際に殴られ気絶していた御者と騎士からの証言とも一致いたしました」
「つまりグラナダ侯爵は、すべきことはしていたと」
王都とその周辺の治安を担当する騎士団長が補足の説明をすれば、先程の貴族も言葉に詰まる。
「で、ですがそれでも、彼奴を抑え込めるだけの人数を用意すべきであったのではないですか!?」
それでも、何とか追求の言葉をひねり出したのだが。
「結果論じゃな。そもそも、近衛騎士団数十人がかりで止められなかった男を、侯爵家の私兵のみで抑え込めというのは無理があろうぞ」
「ぐぬぬ……」
流石にこう言われては、言葉を返すわけにはいかない。
返してしまえば、すなわち王家が揃えた近衛騎士団よりも侯爵家私兵団の方が強いと言ってしまうことになる。
そんな発言をしてしまえば、不敬であると追及されるのは彼となってしまうだろう。
だが、異議のある者は他にもいる。
「そもそも、本当にレイモンド・カークスは狂っていたのですか?」
当然と言えば当然とも言える疑問に、離宮の警備責任者である近衛騎士の隊長が答えた。
「彼は離宮に入る時から最後まで、自分は気狂いであると繰り返しておりました。感情を揺らすことなく、淡々と。
それも、最後に残った男爵令嬢を斬り捨てたその瞬間においても、です。これが復讐のためであれば、雄叫びの一つもあげるのではないでしょうか」
「むう……それもそう、か……」
「それ以上にですね、彼がまともな状態ではなかったことがはっきりする物証がございまして」
そう言って彼が提示したのは、斬り裂かれた鎧だった。
「剣の一太刀で金属鎧を斬り裂くなど、まともな人間の成せることではございません。
彼は、伝説に言うところの狂戦士、バーサーカーになっていたとしか思えないのでございます」
「狂気に身を支配され、人ならざる力で破壊を振りまく存在、か……確かにそうとしか思えぬな、この有様は」
易々と切り裂かれた断面にこびりつく、赤黒い痕跡。
これを着て動いている人間もろともに斬り捨てられたことが容易に想像出来てしまい、その場に居た全員が身震いをしてしまう。
そんな存在が暴れた結果はもはや事故、いや、それを通り越して天災と言っても過言では無いように思えた。
「これは、どうにも出来ぬことであった。よって、グラナダ侯爵に責は問わぬものとする」
「ははっ」
国王が裁定すれば、居並ぶ貴族達は頭を下げた。異を唱える者は、一人もいなかった。
そして、会議は終了となったのだが。
グラナダ侯爵以外の貴族が退席したところで、国王は侯爵の傍へと歩み寄った。
「グラナダ侯爵……我が愚息が、すまなかった。私の教育が間違っていた」
そう言いながら、国王は頭を下げる。
彼とてこの一件で息子である王子を失った。
結果、側妃は心を病み、それこそ気狂いとしか言えない状態になってしまい、離宮に閉じ込められてしまっている。恐らく彼女が出てくることは、二度とないだろう。
だがそれは、第二王子と側妃の自業自得としか言いようがない。
国王たる彼には国王としてなすべきことが山積みであり、その責任は果たされねばならないことを彼はよくわかっていた。
そしてまた、グラナダ侯爵も貴族であった。
「頭をお上げください、陛下。謝罪を、受け入れます」
彼が決起すれば、国を二分する内乱へと発展させることも可能だろう。
だがそうしなかったのは、国への忠義ゆえ……ではない。
レイモンドが気狂いを演じて守ったグラナダ侯爵家のためであり、侯爵領に住む人々のためである。
そのことは、国王ももちろんわかっていた。
「……レイモンド・カークスは、どこまで見通していたのだろうな……」
恐らく、全てであったのだろう。レイモンド・カークスは無骨な男だったが、知恵の回る男でもあった。
そして彼の考えが読めたからこそ、グラナダ侯爵もそれに合わせた手が打てた。
しかし、それを口に出して認めるわけにはいかない故に。彼が身を犠牲にして打った一手を最後までやり遂げるために。
侯爵は、こう答えた。
「さて、わかりかねます。レイモンド・カークスは、気狂いでございましたから」
と。
こうして、第二王子の愚行に端を発した騒動は、様々な傷痕を残して幕を下ろした。
この一件は貴族社会の婚約・婚姻における教訓として語り継がれることになる。
結果、政略結婚であっても相手を軽んじることが減っていったという変化は、評価していいことなのかも知れない。
また、グラナダ侯爵の娘ミシェルは、王家がその名誉回復に奔走し、事件の犠牲者として手厚く葬られることとなった。
グラナダ侯爵領にある小高い丘にその墓が建てられ、領民達が足繁く通い、花が絶えることはなかったという。
そんな彼女の墓に寄り添うように。あるいは守るかのように一本の剣がささっていたのだとか。
※ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
こちらの作品は、昔読んだ時代劇風漫画というか劇画というかの記憶がふと蘇り、触発されて書いたものとなります。
話の筋は結構違っていますし、レイモンドが言っていた台詞も違うものになっておりますが……もしかしたら、おわかりになる方もいらっしゃるかも知れません。
思い出した彼の生き様があまりに強烈で、形にしたくなってしまいました。
もしもご存じの方がいらして、不快になられましたら、申し訳ございません。
もしもよかったと思っていただけましたら、いいねやポイントで評価していただけると大変ありがたいです。
※追記:感想欄にて、その漫画は鶴岡伸寿先生の「士魂 鉄忠左衛門の最期」であるとタイトルを教えていただきました!
30年近く前の、読み切り漫画だというのに複数の方が覚えてらして……本当に凄い作品だったのだなと、改めて思います。
※連載版もございます。下の方にリンクを出しておきますので、もしよろしければ。