2 フィリクス王太子殿下
それから私は王宮の廊下を走り続けた。行く当てなどない。ただ二人が逢瀬をしていたあの部屋から出来るだけ離れたかった。見たくない、聞きたくない、とにかくあの場所から離れたい。
そう思いながら私は走り続けた。
「あ・・・」
気付けば目から涙が溢れていた。泣くのはいつぶりだろうか。王宮で貴族たちに卑しい身分だと陰口を叩かれたときですら泣かなかったというのに。
私は本当にアレックスのことが好きだったらしい。アンジェリカ殿下とキスをしているあの瞬間を見るまで彼を心から愛していたし、信じていた。
だけど、彼はそうではなかった。私を邪魔だと思っていたのだ。
そう思うと次々と涙が溢れてくる。私はこれ以上動くことが出来なくなり、その場に座り込んでしまった。
「うっ・・・うぅっ・・・ふぁっ・・・」
私はその場で一人泣き続けた。
どれだけの時間が経ったのだろうか。
(ここはどこだろう・・・?)
気付けば知らない場所にいた。私はここに来たことはない。どうやら走っているうちに随分遠くへ来てしまったようだ。
(そろそろ戻らないと・・・)
侍女たちが突然いなくなった私を心配している頃だろう。私はそう思い、立ち上がって辺りを見渡してみるもどっちへ行っていいのか全く分からなかった。どうやら私は迷ってしまったらしい。
(迷ったの・・・?あのときと同じ・・・)
そのときの私の脳裏に浮かんだのは初めてアレックスと出会ったときのことだった。
あの頃は彼が迎えに来てくれた。しかし、今回ばかりはそうもいかないだろう。今頃アレックスはアンジェリカ殿下と逢瀬をしているだろうから彼が迎えに来てくれることは絶対にない。
(はぁ・・・どうしようかな・・・)
私が途方に暮れていたそのときだった―
―ガサガサッ
「!?」
突然足音がしたのだ。
驚いて音のした方を見てみると―
「え・・・」
予期せぬ人物がそこにいた。
「王太子・・・殿下・・・?」
私の視線の先にいたのは、アンジェリカ殿下の兄であり王太子でもあるフィリクス殿下だった。彼は目を丸くしてこちらを見ている。驚いたのは私だけではなかったようだ。
「聖女殿・・・か・・・?」
私を見てしばらく黙り込んでいた王太子殿下が口を開いた。
私はハッとなってそれに答えた。
「あっ、す、すみません。道に迷ってしまって・・・」
王族しか入ってはいけない場所だっただろうかと不安になった。
私は王太子殿下と話したことはほとんどない。ただ王家主催の舞踏会で遠くから見たことがある程度だ。王太子殿下は妹君と同じ輝くような金髪に紫色の瞳をしている美丈夫である。歳は私より二つ上で非常に優秀な方だと聞いている。
そんな彼は私の言葉を聞いてとんでもないことを言い出した。
「そうか、なら私が君の部屋まで案内しよう」
「・・・え」
(今・・・案内するって言ったの・・・?)
私は王太子殿下の言葉に驚きを隠せなかった。私は聖女とはいえ、元の身分は平民である。それに比べて彼はれっきとした王族だ。
そう思った私はすぐに断ろうとした。
「い、いえ、そこまでしてもらうわけには・・・」
しかし彼もまたそう簡単には引かなかった。
「遠慮はいらない。道に迷って困っていたのだろう?」
「・・・」
そう言われると何も言い返せなくなり、結局王太子殿下に部屋まで送ってもらうことになった。
「・・・」
「・・・」
私は王太子殿下の後ろについて王宮の中を歩いた。お互いに一言も発さない。二人の間を沈黙が流れた。
(何だか気まずいな・・・)
そう思ったそのとき、殿下が突然私の方を振り返った。
「・・・答えたくないなら別にいいが、君は何故泣いていた?」
「・・・!」
まさかそれを聞かれるとは思わなかった。どう答えればいいのか分からなかった私は言葉に詰まってしまった。
「え、えっと・・・」
そんな私を見た殿下が何かに気付いたかのように低い声で尋ねた。
「もしかして・・・君の婚約者と私の妹が原因か?」
「・・・ど、どうしてそれを」
私が思わずそう口にすると彼はハァとため息をついた。
「やはりか・・・聖女殿―いやソフィア嬢、愚妹が本当に申し訳ないことをした。謝らせてほしい」
王太子殿下はそう言うと私に対して深々と頭を下げた。
「えっ!で、殿下!顔を上げてください!」
王族が平民にこんなことをしてはいけない。誰かに見られたら大変だ。
その声で顔を上げた殿下に私はハッキリと告げた。
「殿下が謝る必要はありません。王女殿下は素敵な方ですもの。アレックスが好きになるのも分かりますわ。それに、もう吹っ切れましたから」
私は不安げに私を見つめている彼を安心させるようにニッコリと笑った。
「そうか・・・」
私のその言葉に殿下は考え込む素振りをした。どこか納得がいかないといったような様子だ。
そしてしばらくして彼は再び口を開いた。
「お詫びと言っては何だが、何か困ったことがあれば何でも私に話してくれ。出来る限りのことはしよう」
「ふふふ、そのお気持ちだけで十分です。ありがとうございます、殿下」
その後、私は殿下に送ってもらい無事に部屋へと戻ることが出来た。
私はそのまま部屋にあったベッドに突っ伏した。
「・・・」
アレックスと王女殿下のことを思い出すたびにまた涙が出てきそうになる。王太子殿下にはもう吹っ切れたと言ったがそれは嘘だ。本当はまだアレックスの裏切りに傷ついている自分がいる。
信頼していたからこそ、裏切られたときの絶望感が大きかった。
(・・・だけど、このままじゃいけない)
私はアレックスの裏切りに心がズタズタになりながらも、あることを決意した。