ナイフ×婚約者はヤンデレなのか?
「ただいま」
「……」
僕と彼女、そこに響くのは僕の声のみ。
彼女の手にはナイフ。
僕の手にはカバン。
これがいつもの僕ら。
彼女がおかしいという訳では無い。
ただ彼女の愛が少し深いだけ。
普通じゃないというのもわかっている。
だけどこれは彼女ができる数少ない愛情表現。
僕はそういう彼女が本当に愛おしい。
それでもやっぱり帰ってきて早々ナイフは怖い。彼女に置いてきてもらうようにしなければ。
でも彼女の顔を見ればその気持ちは完全に消えてしまう。
この愛おしさを抑えることが出来ない。
ナイフを彼女の手から取り靴箱の上に置いて、そっと。
「……」
「……」
割れ物に振れるように繊細に。
これが彼女の愛情表現に対する僕のお返し。
口に出せたらどれだけいいことか。
愛してる。少し不器用な所も、綺麗なその顔も。
だけど彼女にはそれが許されない。
大好き、そう伝えれたらどれだけいいか。
私も大好き。そう伝えてもらえればどれだけ嬉しいか。
どうして僕らには。
時々、彼女をこんな風にした神を恨みたくなる。
僕らの“愛してる”を取り上げた神を。
存在しないものを恨む。それしか僕らには出来ない。
“仕方ない”それで片付けることが出来たなら、今の僕らは変わっていたのだろうか。
あれさえなければ。
僕らは今も笑い合い、好きを伝え合えた。
3年前の9月27日、あれは起こった。
今でもこの脳裏に鮮明に焼き付いている。
その日僕らは一緒に帰っていた。
一緒に出かけていたという訳ではなく、偶々職場帰りに出会い、そのまま一緒に行動しているというわけだ。
事件が起こったのはそんな最中。
遠くから走ってくる黒い影。その手には鈍色に光るナイフが。
それが何なのかに気づいたのは周りから聞こえる叫び声、奇妙に空く中央。
気づいた時にはもう彼女は影にナイフを突き立てられていた。
「動くな。この女殺すぞ」
そう影、全身黒のフード男が言い、彼女の首にナイフを少しずつ押し付けていく。
「やめろ」
それ以上押し付けたら。
「やめろ!」
彼女の首から赤い線が。
「やめろォォォォ!!」
「来ちゃダメ!」
僕は飛び出してしまった。どんな状況かも、彼女の声さえも忘れて。
「な、何だ……あ」
案の定フード男のナイフ持った手が狂った。
そしてその手の先に持っているナイフは、彼女の首に大きな傷を生んだ。
フード男の声からするに、怪我をさせるつもりはなかったのだろう。ただ人質として使おうと思っていた。それを僕が。
数分後にはほとんど全てのことが完結していた。
ただひとつを除いて。
僕と彼女はあの後、救急車に運ばれ病院へと。
僕は軽傷であった。だが彼女は。
「彼女は、声を失いました」
医師からそう言われた。
医師にどうしてと何回も何回も聞いた。
「声帯が切られています」
返ってくるのはその言葉。
ハハ。
僕が悪いのか。あの時無策に行かなければ、彼女の制止の声を聞いておれば、こうはならなかったのかもしれない。
彼女に謝った。できる限り多く。でも帰ってくるのは罵倒ではなく
“ありがとう”
この14画。
彼女の親御さんにもひたすら謝った。
それでも帰ってくるのは。
「娘を助けてくれてありがとう」
罵倒ではなく感謝。しかも涙を流して。
僕はその日一睡も出来なかった。
次の日も、彼女が入院している病院へ足を運んだ。
面会の手続きを済ませ扉の前に立つ。
音のならない扉のその先に彼女は居た。
微かな光が刺し照らすその部屋。そこに1人。ただ外を見ていた。
僕が来たことに気づいたようで彼女はこちらを向き微笑む。
その笑顔に迎えられながら僕はベッドの近くの椅子へ腰掛ける。
「ごめん」
“どうして?”
そう彼女が紙に書く。
何に対するごめんなのか自分でもよく分からない。声を奪ったことに対することなのか、彼女を危険に合わせたことに対してなのか。ただ、謝らなければならないという義務に乗っ取った謝罪。
“そんな顔しないで”
余程険しい顔をしていたのだろう。彼女がそう言ってくれる。
“私はね、私と貴方。2人揃って生きてるそれだけでいいの”
「でも」
“生きてりゃなんとかなる”
そう彼女は綴り笑って見せてくれたのだった。
「生きてりゃなんとかなる、か」
そう唐突に呟いた僕を彼女はキョトンとした顔で見つめそして、赤くなっていく。
「……」
そして無言で僕の胸をたたき出した。
その無言に含まれた意味は『思い出さないで』といったところだろう。
僕ら2人には言葉はいらない。
わかる訳では無い、感じるんだ。
僕は彼女のことを、彼女は僕のことを。
愛してる。
「あ、そうだ。言」
言。それは僕の婚約者。3年前に声を失くした僕の最愛の人。
「いくら料理の途中だからといってナイフは持ってこないでね?」
言は一瞬キョトンとした表情を作り、そのすぐ後に納得したような表情を作って、笑った。
彼女は近くにあった紙とペンを取ってそこにこう。
“あれはヤンデレごっこ”
そう悪戯な笑みで綴った。
訂正。まだ僕は彼女を完全に知らないみたいだ。
僕もまた彼女と一緒に笑った。
知らないのなら知っていけばいい。だって僕らには時間がある。
この先もずっと。
未だ伝えていない想い、今ならちゃんと言える。
「言、僕と結婚してください」