大人になるとき
わたしの生まれ育った国には、変わった成人の儀式があった。
精霊の訪れを経て、大人になる。
精霊はその者が一人でいるときに、目の前に現れ、その者の未来を示す。
精霊は様々な姿をしている。人間の姿を取るときも、獣の姿を取るときも、あるいは竜のような存在しない生き物の姿を取ることもあった。しかし共通点もある。精霊は決まって瞳の色が異なるのだ。
精霊の未来の伝え方も様々である。直接的な言葉で伝えることも、謎解きのような間接的な言葉で伝えることもある。何かものを渡して伝えたり、あるいは精霊の姿そのものが未来を示したりすることもあるらしい。
精霊が訪れる時期は人によって異なる。おおよそ、十代半ばから後半頃である。
十九歳になっても、わたしのもとに精霊は訪れなかった。
同じ年頃の村の女の子たちはとっくに精霊が訪れ、皆嫁いでいった。精霊の訪れがない者は婚姻することは出来ない。
わたしは親にも他の村の者たちにも、問題児として持て余されていた。
一年ほど前までは両親はわたしのことで心を痛めていたが、妹が一六で精霊の訪れを受けて以来、わたしのことはすっかり諦めていた。精霊の訪れを受けてすぐに、妹は先に成人した幼馴染と婚礼を上げた。もうまもなく、妹は第一子を産む。
精霊の訪れを受けなかった人間はいない。近所に住む父方の伯父は二十歳になる一週間前に精霊が訪れたらしい。
だから、わたしにもきっと訪れる。
あの頃のわたしはそう信じていた。
あの時代のあの国では、女が生きていくためには結婚する以外方法はなかった。首都では女にも僅かばかりの職があったようだが、辺境の村に生まれ、学もないわたしには縁がない話だった。
わたしは両親と結婚した兄一家と暮らしていた。両親の田畑は長男の兄のもので、わたしは田畑の世話と家のことを手伝っていた。肩身は狭いが、両親も兄たちもどうしようもないこととして受け入れていた。
わたしは一日でも早く精霊が来ることを願った。
自分よりも年若い者たちに精霊の訪れがあったことを聞かされる度に、息が詰まった。なぜわたしのところにはいつまで経っても来ないのだろう。わたしの日頃の行いが悪いのだろうか、それとも前世でとんでもない悪行でも為したのだろうか。
それは周りの者たちがわたしについてずっと言っていた言葉だった。
初めてそう言われたときは深く傷ついたが、次第にそれが真実ではないかとわたし自身も思うようになっていった。
二十歳になる二日前、わたしは彼と出会った。
その日、わたしは義姉に頼まれ、隣村への買い出しに行った帰りだった。
日は沈みかけ、太陽が血のように真っ赤だったことをよく覚えている。
村の外れの荒れ野に差し掛かったとき、人が一人こちらへやって来るのが見えた。
荒れ野をずっと行くと隣国に繋がっているが、隣国とは険しい山脈で遮られており、人の行き来はほぼなかった。
だからわたしは期待してしまった。
それが人ではないもの、精霊ではないかと。
それが近づくと、ぼろぼろの小汚い格好をした男だとわかった。
わたしはどきどきしながら男の顔を見た。
そして息が止まりそうになった。
男の右目は青、左目は緑だった。
やっと、わたしのところにも精霊が来たのだ。わたしは胸を高鳴らせ、精霊が未来を示すのを待った。
「お嬢さん、ここは銀朱国で間違いないかな?」
わたしは精霊の言葉を理解できなかった。それがわたしの未来の何を表すのか、全くわからなかった。
精霊は同じ言葉を繰り返した。
「言葉わかる?」
わたしはやっとそれが精霊ではないかもしれないと気付いた。
それ――男の言葉には妙な訛りがあったがこの国の言葉を話していた。
男は隣国から、山脈を越えてやって来たという。
当時のわたしは両目の色が異なる人間がいるとは信じられなかったが、彼はどう見ても人間だった。
第一、精霊は未来を告げると消え、もう二度と現れることはない。
男はカラスと名乗った。本当の名前はこの国の人間には発音しづらいから、そう呼んでくれと言った。
わたしはカラスを村へと案内した。彼はどこでもよいから屋根のある場所で休みたいと言った。
精霊のような外見の得体の知れない男を村に入れてよいのかとは思った。しかしこのまま彼を放っておくことは出来なかった。いま思えば勝手に自分と境遇を重ねていたのだ。普通の人間ではない、という点で。
「悪いけれど、ここで休んで貰える」
わたしは彼を、普段使わない納屋に案内した。家族や他の村人に見られたくなかった。ただでさえ大人になれないわたしが余所者を連れてくれば、何を言われるかわかったものではない。
納屋には今の季節は使わない農具や壊れた道具などが乱雑に並べられている。埃っぽく、居心地がいいとは言えない。
しかしカラスはわたしに感謝した。
それにわたしは決まりが悪くなった。感謝されるようなことはしていなかったから。
わたしはそのあとこっそりと寝具と食事を、彼のもとに運んだ。
翌朝、家族と朝食を取っていたとき、父がわたしに話しかけてきた。
わたしはカラスのことがばれないかと気がかりだったので、急に呼ばれぎょっとした。
「今日はお前の二十歳の誕生日前祝いの日だな」
わたしは驚いた。
自分の誕生日など、ここ数年は誰も祝わない。
「誕生日前祝いってなに? 聞いたことないんだけど」
「二十歳になる前日は特別な日なのよ」
わたしの問いに、母が答えた。
前祝いのため、わたしは今日一日家で休んでいるようにと言われた。
カラスのことがあったので、わたしはその言葉に甘えた。
人がいないときを見計らって、わたしはカラスがいる納屋を訪れた。
「ざわついてるようだけど、今日は何かあるのかい?」
「そう? 何もないはずだけれど」
カラスは今日の晩にここを出発するという。銀朱国の都を目指すらしい。
見識を広げるため、カラスは世界中を回っているという。
わたしはカラスに食糧を渡して、別れを告げた。今晩はわたしの前祝いらしいから、見送ることは出来なさそうだった。
義姉と甥たちは義姉の実家に出掛け、両親と兄も不在で、家にはわたし一人きりだった。
静かな家の中でわたしは手慰みに針仕事をした。
こんなにのんびりと過ごすのは久しぶりだった。
精霊の訪れがないままわたしは二十歳になろうとしている。そんなわたしでも家族は誕生日を祝ってくれる。大事にして貰えている。だから、いつか来る精霊の訪れを信じて待とう。
その時のわたしは本当にそう思っていた。
日が沈み始めた頃、わたしは家族の帰りが遅いのを訝りながらも、暢気に過ごしていた。
そのとき、カラスが突然家に入ってきた。
驚くわたしに対して、カラスは焦った様子でわたしの手を掴むと、無理矢理外に連れ出した。
「どうしたの? 家に来たら村の人に見られるじゃない」
「早く逃げないときみは殺される!」
思ってもみなかった言葉にわたしは絶句する。
「何言っているの? 殺されるって誰に?」
「きみの家族だよ!」
「うそでしょう? あなた何を言っているの?」
滅茶苦茶な話だ。冗談にしか聞こえない。
しかしカラスは真剣な表情だったし、掴まれた手は振り払えなかった。
「おい、逃げたぞ!」
後ろで兄の声がした。
振り返ると、見たことのない形相で兄と父、そして数人の村人がこちらを追いかけてきた。
彼らはみな武器か、武器になりうる農具を持っていた。
わたしはぞっとして、足を速めた。
わたしとカラスは村を出て、追手を何とか撒いたのち、荒れ野へ入った。
「なんでこんなことになるの……」
「成人できないから、と言っていたよ」
カラスは旅立つ前にそっと村の様子を伺ったところ、たまたまわたしを殺す話を聞いてしまったらしい。
言葉を失うわたしに対し、カラスは尋ねた。
「成人できない、というのはどういう意味だい? きみは明らかに成人に達した年齢じゃないか」
「何言っているの? 精霊の訪れがないんだから、成人できないに決まっているじゃない」
カラスは訝し気な表情をした。
「精霊の訪れってなんだい?」
わたしはあっけにとられた。
精霊の訪れという成人の儀式が、国を問わず、行われているものだと思っていた。
カラスの国にはそんなものはないという。それどころか、この風習は銀朱国にしかないという。
そもそも、銀朱国以外では精霊は存在しないという。
瞳の色が異なる生き物は、数は少ないが、普通に存在するものだとも教えられた。
一日にして、わたしが信じていたものは壊れてしまった。
精霊の話を聞いたカラスは、銀朱国の都に行くのは諦め、別の国を目指すという。この外見では騒動の元になるだけだと。
そして、わたしは、カラスに付いていった。
恐らく、成人したことを偽って、誰も知らない場所で暮らせば、銀朱国でも生きていけただろう。
精霊の訪れがあったかどうかは、他人に証明は出来ないのだから。
けれど、あの時のわたしはもうあの国にいたくなかった。
あのあと、わたしはカラスの足を引っ張りながらも、何とか山脈を越え、隣国に渡った。
カラスの知人を紹介され、苦労しながらも何とかわたしはこの国で暮らした。カラスは別の国へ旅立った。それ以来、二度と彼に会うことはなかった。
十数年後、銀朱国は他国に滅ぼされた。
成人の仕来りも失われたという。
あの国の大人になれた者たちが本当に精霊の訪れを受けたのか、偽りを告げたのか、あるいは幻覚を見たのか、わたしにはわからない。
ただ、カラスと出会ったことで、わたしの子供時代は確かに終わった。
わたしにとっての精霊は彼だったのだろう。
いまの、老いたわたしはそう思う。