98話 ブラッド殿下
わたくしは後ろの崖をちらりと見た。崖の下は見えない。岩が切り立っていて、落ちれば死ぬだろう。
マデリンの馬車を一瞥する。こんなところで終われない。最強の魔女が待ち構えているのだ。
「こんな状況になっても、まだわたくしと一緒にいたいと思ってくださるのですね」
ブラッド殿下に笑いかけた。
殿下も頬を持ち上げた。目が笑っていない。
「ああ。ずっと、一緒だ。こなければ、僕にも考えがある」
「考えがある、ですって?」
声が裏返らないように細心の注意を払わなければならなかった。まゆげが直角にでも立っているのではないかというほどに、眉間に力がはいる。笑顔をなんとかはりつけたまま、ゆっくり後ずさった。
「そうだ。このさきは言わせないでくれ。たのむ」
そう言って、肩をつかまれた。あと1メートルぐらいで崖から落ちてしまう。
「もちろんです。殿下にもさまざまな事情があって、このようなことになっているのでしょうから。すべてを知っているわたくしには殿下のことが手に取るようにわかります」
「さすが、フェイト。すべてを受け止めてくれる君を僕はどれだけ愛しているか」
肩に置かれた殿下の手にわたくしの手を重ねた。
「ずっと、一緒だ。フェイト」
殿下の茶色の瞳を見つめた。
わたくしは、その手を思いっきりはねのけた。
「はっ?」
殿下の目が、ひらかれた。
「手に取るようにわかるのは、その自分勝手さ、ですよ。ブラッド殿下」
殿下をにらみつけた。
「いい加減にしてください!!! わたくしの気持ちも知らないで、まだ、一緒にいたいと勝手に思っているのですね。これだけは墓場まで持っていくつもりでしたが、いいでしょう。わたくしが未来でなにを見たのかをお話しします。おかげでこの3ヶ月あまり、つねに死について考えざるを得ませんでした。わたくしは死ぬまでにしたいことを10個つくり、それを実行してまいりました。なにかを解決しても、次から次へと問題がおこり、トラブルは止むことをしらない。なんとわたくしがブラッド殿下に剣をならったこともあるのですよ。その間も、自分がいつ死ぬのかをずっと考えておりました。今度どなたかに毒を使われる場合は、ひとの人生を踏みにじる行為だとご理解ください!!!!!!」
殿下を突き飛ばすほどの勢いで、まくし立てる。
殿下はあっけにとられている。
「まさか、まさか……僕はフェイトに、毒を、飲ませた……のか……それで、フェイトは死んで、過去にもどってきた、と?」
「おっしゃるとおりです。ちなみに貴方様の刃に貫かれ、絶命しました。まさか、毒で死ぬことさえできないとはおもいませんでした。人生とはわからないものです。おかげでわたくしを傷つけようとする方々は総じて良い方達ということがわかりました。毒を盛られないとわからなかったほんとうの姿を知ることができました。アラン殿下も、バルクシュタインも、わたくしの為に辛い思いをその身に背負ってくれました。そして、わたくしにこのような力があることだって、死ななくてはわかりませんでした」
饒舌になりすぎたと思って、くちをつぐんだ。
殿下のからだは震えだし、あたまをかきむしった。
強い朝日に照らされ、汗をかきそうなぐらい暑かった。
「それで、いまのフェイトは毒を飲んではいないんだね?」
殿下は目を見ひらき、くちをぱくぱくとさせた。
「ええ」
「他になにか不具合は? 僕は、なにか君にしなかったか」
「ええ。いまのところはなにもされておりません」
殿下が地面に膝をつき、上半身を地につけた。
「よかった……」
涙声がする。背中がこきざみに動いている。
「フェイトが毒を飲んだのなら、なんとしても、どんな手を使ったとしても解毒させるようにするだろう。もし、僕がフェイトとおなじ、人生をやりなおす力があるのなら、絶対にフェイトが毒を飲まないようにしたよ」
「殿下……」
からだを起こし、殿下はあたまをさげた。
「ほんとうに申し訳ないことをした。消えるよ。フェイトのまえから。マルクールにももどらない」
わたくしを見つめる茶色の目は澄んでいた。
時間が経って、飽きるほどわたくしを見つめていた殿下は、何度かうなずいた。
わたくしはうなずき返した。
「承知しました。それが殿下のご意志であれば」
そして、わたくしは最後のお願いを殿下に告げた。
殿下の笑い声が響く。笑いすぎて瞳が濡れていた。
「フェイトらしいよ。子どもの時はいっぱい、いたずらをしたよね。君のほうがよっぽど僕のお母さんの跡を継いでいるよ」
「ええ。あの頃はほんとうに楽しかったですね」
子どもの頃に思いをはせた。いまよりずっと背が低くて、巨大な迷路みたいだった王城。まだ、お母さまがいて、アラン殿下、ブラッド殿下、クロエさまもいた。みんなが笑っていた。そこには、幸せが満ちていた。
「わたくしがあの頃よりももっと幸せにあふれたマルクールにしてみせます」
「楽しみにしているよ」
風が吹き、波音が胸に響く。
別れの気配を感じた。
わたくしは、殿下から目をそらした。
「さよなら、フェイト。遠くからずっと、君を守りつづけるよ」
「殿下、その件に関しまして――」
殿下がにこやかに笑ったあと、崖に向かって走った。
「謹んでお断りいたします!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
わたくしの絶叫は、潮の音にはかき消されなかった。
「わたくしなんかにとらわれず、ご自分の人生を生きてください!!!!!!!!!!!! さようなら!!!!!!!!!」
殿下はふりかえり、いつもの人なつっこい笑顔をむけた。そして、仰向けのまま飛んで、背中を崖の下へたたきつけるように消えた。
わたくしは身をかがめて、崖のしたをのぞき込んだが、殿下は見えない。高い波が岩を飲み込んでいた。おそらく死んではいないだろう。
わたくしはそのまま、へたり込んだ。
「頑張ったねぇ。フェイト。怒ったフェイトには剣聖も魔女も蛇でも、手も足もでないよ」
イタムが頬をこすりつけてきた。
「わたくし……そんなに怖い、ですか?」
別の意味で驚愕した。
「……自覚……なかったんだねぇ……」
イタムの目が泳いでいた。
わたくしは目を閉じ、しばらく、そのままでいた。
潮騒の音を聞き、野鳥の鳴き声を聞き、太陽の差す光をまぶたの裏に感じながら、これまでの人生を振りかえった。
脳裏に浮かんだのは、ジョージ護身術での最後の稽古の日。
ジョージは最後に口酸っぱくだまし討ち、隙をつくることを復習させたあと、厳かに傲慢に言った。
「いいか。もうダメだと思ったら、そこからが勝負だ。絶対にあきらめるな。常にあたまをフル回転して、これまでの情報をすべて組み合わせて、逆転の糸口をつかめ。それから――」
ジョージはカールした髪をガシガシ掻いた。
「二度はいわねぇ。嬢ちゃ――いいや、フェイト。おまえ、死ぬ気……だよな。もしくは死ぬようなことをするつもりだ。それだけは俺が絶対に許さん!!! 死んだら、もう一度俺がおまえを殺しにいく。だからな、絶対生きて帰ってこいよ。そうしたらな、俺は……ああ、くそっ。土下座して謝ってやる! 厳しくしすぎてすまなかったってな。だから、いまは謝らん!! 全部終わったら、俺に顔を見せろよ。あと、最後の飴だ。持って行け!」
ジョージは初めてわたくしの名前を呼んだ。こみ上げてくるものを隠すように、詰め込めるだけ飴を頬張った。
「ありばほぉぉござぃまふたぁ」
「いや、聞き取れねーよ。最後までしまんねーな。いまのは聞かなかったことにする。ちゃんとすべて終わらせて、俺に礼をしにこい。そしたら、今度こそ、おまえを世界一の剣士に――」
わたくしはさえぎって、挨拶をする。
「それでぇわぁ。しつぅれいしまう゛す」
飴をもっきゅもっきゅと頬張らせ、去っていった。
わたくしは手のひらを見つめる。その手はまだ剣だこも、稽古の傷もついていない綺麗な手だった。
「師匠。最後にいい人ぶっても絶対に許しませんからね。また根こそぎ飴を奪ってやりますから、首を洗って土下座待機してお待ちくださいませ」
飴が恋しくなった。
いや。最後に思うのがジョージではダメではないか。自分にツッコミをいれ、王城にいるアラン殿下を思った。
馬車の扉がひらく音がした。
わたくしは目をゆっくりとあける。
召使いに抱えられているマデリンが、やる気のない拍手をよこす。
「よくぞ、茨の魔女をしりぞけたな。褒めてつかわす。さあ、フェイトよ。最期の戦いといこうか。一方的な虐殺にならぬことを心より願っておるぞ」
あくびまじりにマデリンが言った。
「望むところです。魔女対魔女の最期の大勝負、受けて立ちましょう」
わたくしはドレスに隠していた長剣を抜いた。
「そんなおもちゃで妾にどうやって勝つつもりだ。妾が逆の立場であったら、土下座して、許しを請うぞ。それが、粋なマルクール流じゃろう?」
「よくご存じで。過去も含めわずか3ヶ月しかマルクールにいなかったのに、よくおわかりで」
「ああ、土下座をすれば、なんでも許される。悪しき風習よの。妾がその風習と、照覧の魔女を終わらせよう。安心して、死ぬがよい」




