95話 さようなら、殿下
わたくしは、アラン殿下の部屋の前に立った。
離れたところで衛兵がこちらを見ていた。
何度もノックをしようとしては、ためらう。
肩に乗ったイタムがわたくしをなめる。
イタムをなでて、一息ついて、ノックした。
ノックと同時に扉がひらいた。
扉のまえで待っていたかのような素早さだった。
「いらっしゃい。さあ、なかに入ってくれ」
殿下はタキシードから着替えず、待っていてくれた。
婚約破棄をお伝えしたからだろうか、いつもの輝くプラチナブロンドの髪はくすみ、無理して笑っているのが見てとれる。
「すみませんが、なかに入ることはできかねます。ここで、お話をさせてください」
わたくしは扉のまえに手のひらをむけた。
「そうか……わかった」
落ち込みを隠そうともしない殿下。
「ブラッド殿下のお母さまであられるクロエさまより、ブラッド殿下宛ての手紙を預かっていますね。それをお借りしたいのです」
「どうして、そのことを?」
「クロエさまより話を伺ったことがありました」
「ほとんど会ったことはなかったはずだが?」
殿下が疑いの目を向けた。
「よく忍びこんで、仲良くなっていたのです」
嘘だ。ほとんど面識はない。
「……それはわかったが、なぜ、手紙が必要なのだ」
わたくしは髪を触って、笑顔をつくった。
「実はブラッド殿下に手紙があることを話してしまいまして。どうしても見たいとおっしゃるので、わたくしが代わりに参りました」
「なぜ、ブラッドが直接来ない」
「殿下とブラッド殿下は仲が悪く、頼みづらいとのことでした」
殿下はしげしげとわたくしを見つめ、うすい唇をなんとか、動かした。
「フェイト、君は、ブラッドのことが好きなのか」
「えっ」
殿下の目は落ちくぼんでいた。こんなに憔悴した姿を見たことがない。
「だから、婚約破棄なのか。ブラッドがフェイトを好きなことは知っていた……」
言葉を切って、殿下はうつむいた。
「ちっ……違います。わたくしは……」
その後をつむぐことができなかった。これまでやってきたこと、前回の世界でなにがあったのかを話すことはできない。殿下にも危険がおよぶ。
前の世界での、アラン殿下の行動を思いかえしていた。
わたくしがブラッド殿下に言い寄られても、なにもせず、なにも言わなかった。
――その行動の意味は、わたくしをあきらめたからだ。毒で死ぬとわかった殿下は、わたくしを手放した。そこに感情や思いがなければ、簡単だっただろう。
違う。殿下は心から辛かったんだ。わたくしが婚約破棄を望むだけでこんなにも悲しんで。ブラッド殿下にも嫉妬して。
殿下はどんな気持ちでバルクシュタインに声をかけたのでしょう。いったいどんなお気持ちで、わたくしに婚約破棄を宣言したのでしょうか。
殿下は心から、わたくしを愛してくださっていたのですね。
わたくしは顔をしかめ、お腹にちからを入れた。あふれ出そうになるものを、必死で、必死で耐えた。
「殿下、わたくしは夢を見ました。そこでは、アラン殿下から突如婚約破棄を告げられ、ショックを受けます。辛くて、めそめそと泣いてしまいました。しかし、それには理由があることがわかって、そうしなければいけない訳もわかって。でも、わかり合えたのもつかの間。ふたりはまた、はなればなれになります。そうして、わたくしは目覚めたのです」
「それは……辛い夢だったな。それにしても俺が、フェイトを婚約破棄だって? 信じられない。夢とはいえ、絶対にありえない」
殿下は首をふった。白い、きれいな顔が青ざめている。
「いいえ。殿下はご自分が必要だと判断されれば、婚約破棄をします。どんなにご自分が辛くて、どうしようもなくても、わたくしのためを思って、辛い決断をなさる方。それが、アラン、です」
わたくしの手は力を入れすぎて赤くなっていた。
その手を見た殿下がそっと、手をにぎる。すべすべとした感触がした。
「これまでわたくしのためにしてくださったこと、けっして忘れはしません。ありがとうございます」
わたくしはあたまを下げた。頬と目元を見えないようにぬぐった。
「フェイト……」
しばらく、沈黙が続いたが、嫌ではなかった。
「それと、誤解なさっているようですが、ブラッド殿下は、幼なじみです。それ以上の感情はありません」
「そうか、わかった」
殿下は部屋にもどり、がさごそと音をたて、もどってきた。
「クロエ様の手紙だ。ブラッドにはひどいことをしてしまった。一緒にいってあやまりたい」
「承知しました。まず、わたくしがブラッド殿下の許可をとりますね。そうしたら、ふたりは仲なおり。一件落着です」
わたくしは強く、笑った。
「それで、いまブラッド殿下はどちらにいらっしゃいますか」
「アルトメイアの貴族のパーティがあってそちらに行っている。いまごろは終わって、南の海沿い近くにいるのではないか」
「ありがとうございます。もうひとつお願いが。手頃な剣をかしていただけませんか」
「剣……。いったいなにに使うのだ」
「マデリンと劇の話になったとき、王族が使っている実物の剣を見たいと所望しておりまして」
殿下は嫌な顔をせずに、宝飾がこまかい長剣をかしてくれた。これならば、あつかえる。
そのまま辞去してもよかったが、なんとなく立ち去れない雰囲気だった。
「また、明日になったら話そう。そうしてくれないか」
すがるように目尻をさげ、蜂蜜色の瞳で訴えかけてくる殿下。
「……そうですね……」
言葉を濁した。
濁したところで、なにも変わらない。
これでいいのか。
これが、殿下とお話できる最後の機会だろう。
わたくしは、爪をてのひらに食い込ませた。
眉間にしわを寄せる。
息をゆっくりと、吸った。
酷薄な笑みを顔にはりつける。
「ああ! もう。ほんっっっっと。嫌になります。わたくしがちょっと、心変わりして、婚約破棄をお願いしたら、これです。なんですか、なんという落ちこみよう。貴方様は王子なのですよ! 女はいくらでもいるし、何人でも側室にむかえるという心積もりでいてくださいな。そういうところですねー。そういうところ、なの、で、す、よ! 殿下。わたくし、甲斐性がない、女々しい男は大っ嫌いです。だから、これで、婚約を解消させてください!!!!」
殿下の顔から、血の気がひいて、膝をついた。見て見ぬふりをしていた衛兵がさすがに駆けより、殿下をささえた。
わたくしは息をのんだ。
殿下が泣いていた。ぼたり、ぼたり、と涙がたれて、鼻にしわを寄せた。
「他の女など必要ない。フェイトさえいてくれれば」
「殿下には他にふさわしい方がおります。貴方様の幸せを願っています。さようなら」
おじきをして、逃げるように去った。
階段を降りて、王城の廊下に出た。
まわりにだれもいないことを確認した。
わたくしは廊下の角のカーテンに顔をうずめた。ほこりっぽい匂いがする。
カーテンをくちにあて、叫んだ。何度も、何度も、叫んだ。噛んで、ぐりぐりと歯噛みした。
声にならない、悲鳴のような声がでた。
頬にあたたかいものが流れる。
落ち着くまで、そうしていた。
イタムが、わたくしのからだをはってくる。
頬をなめた。
「ごめんなさい。フェイト。私がマデリンにこの魔法をあかさなければよかった。フェイトを生かすやり方を他に思いつかなかった。まさか、こんな風になってしまうなんて」
首をおりまげて、しょげるイタムにうなずく。
「いいえ。この力があるからこそのチャンスです。感謝しかありません。結末こそおおきく変わりましたが、アラン殿下を助けることはできそうです。それであれば、わたくしが悪役令嬢になって嫌われるぐらい、どうってことないです。本の主人公、ヴァイオレット様にも、きっとよい悪役令嬢だと褒めてもらえるはずです」
わたくしのしゃべりはぐずぐずになっていたので、イタムは全然聞き取れなかっただろう。
「アラン殿下はいい男だね。あの人は何度世界を繰り返しても、フェイトを助けようとしてくれた」
わたくしはしゃくりあげる胸をおさえた。
「ええ。わたくしにはもったいない方でしたよ」
イタムを抱きしめた。
王城を出た。
満月が、まばゆく照らしている。
虫の涼やかな鳴き声が耳にはいる。
マデリンと召使いが馬車を用意して待っていた。
「乗れ。妾と一緒に茨の魔女のもとへいくぞ。覚悟はよいかの」
「ええ、結構! わたくしを舐めていると、やけどではすみませんよ! そちらこそ、覚悟なさい!」
マデリンが鼻で笑った。それを合図に馬車がゆっくりと走り出した。




