72話 僕の前では、そのままでいて。
馬車を降りると、マルクールの城下町が見下ろせる丘だった。町の優しい灯りが目に入り、空には月が見えていた。
「姉さん、寒くない?」
「大丈夫。ありがとう」
しばらく、並んで町を見ていた。町の人が平和に生きられるように、願った。そして、どこかにいる茨の魔女の気配を探ろうとしてみたが、そんな力はなかった。なぜわたくしは魔女と呼ばれているのかすらわからなくなってきて、ちょっと可笑しかった。
柵によりかかったシリルは月明かりに照らされ、なんとも言えない色気をだしていた。告白される前はかわいい弟だとばかり思っていたのに。
なんだか悔しい。シリルはわたくしのかわいい弟であった。でも、それをシリルは望んではいない。
そんなことを考えていると、シリルの顔、近い!!! 月光に映る真剣な表情のシリルにどぎまぎしてしまう。そう思うと、ころっと表情を変え、瞳を優しくゆるめた。
「僕の兄さんの話はしたっけ?」
「シリルのお姉さんはわたくしです!」
自分でもなぜかわからないが、強く言った。
「わかっているよ。もしかして、張り合っているの」
シリルはこらえきれずに笑う。
「いいえ! 時々シリルは、わたくしがお姉さんだということを忘れているようなので!!」
「えっ!? 忘れようがないけれど? 僕は姉さんが姉さんで本当によかったよ。でもいまは……そうでもないかな」
シリルがわたくしから視線を外した。
「ええっ? わたくし、姉失格?」
思った以上のダメージが足にめぐり、柵につかまった。
「違うよ! やっぱり、一度家族になってしまうと……その……それ以上の関係になるのはなかなか難しいよね」
「ままま、まあ。そうよね……」
ふたりとも黙った。それでも、マルクールの夜景はとても綺麗で。見ていれば、気まずさなんてなかった。
「ごめんね。お兄さんの話よね。シリルが幼い頃に亡くなったことしか知らない」
「そう。兄さんは長男で、僕から見たらなんでもできた。運動も学業も、経営も。でも呆気なく事故でなくなった。それからしばらくして、兄さんはすごく無理をして頑張って、できる自分を演じていたってことを知ったんだ。姉さんと兄さんはとてもよく似ていると思うよ」
わたくしはうなずく。
「僕は兄さんの真似をして、できる自分を演じた。当然、できなかったけどね。だから、姉さんが、魔女や公爵令嬢のあるべき姿の役を演じていることにもすぐに気がついた」
「演じているなんて、大げさね。人はだれしも、小説の登場人物のように役割を与えられ、その役と踊っているだけよ。もしくは、”役を与えられていない役”として踊っているだけだと思うわ」
シリルはわたくしを悲しげに見つめる。
「姉さんに婚姻を申しこむ人たちはすごい人ばかりだ。アルトメイアの皇子にマルクールの王子。姉さんはその人たちと無理をして、つま先を立てたまま、踊り続けるの? なかには姉さんが魔女であることを利用しようとしている人だっているのに?」
「ジョシュア殿下のことね。誤解です。あの方はたしかにわたくしが魔女だから近づいてきましたが、それだけでは無いように見えた。魔女の未来を考えてくださっているのはたしかなようです」
「違うよ! 僕は姉さんが心配なんだ。このままでは、死んだ兄さんのようになってしまうんじゃないかって!!」
感情のままに出てしまったであろう大声は、マルクールの町に響いた。
「僕ができることは姉さんを自由にすることだ。魔女の役割、公爵令嬢としての役割、茨の魔女を探す? そんなことはいい。ただ、僕のそばにいてほしい。僕はそのすべてから姉さんを守るよ」
見つめるシリルの視線が熱かった。
「……シリル」
「ほんとうはこんなこと言うつもりじゃなかったんだ。姉さんはどうせ、茨の魔女のことであたまがいっぱいだろうし。そんななか、たくさんの人から言い寄られて大変だろうから。僕が守ってあげられたらと思っていたのに……」
わたくしはシリルの手をにぎった。1年前は細くて、頼りないと思っていたが、いまのシリルの手はおおきくなって、たしかにわたくしを守ってくれる男の手だ。
「ありがとう。わたくしはシリルが弟になってくれて、心から嬉しい。ただ、フェイト・アシュフォードという役から降りるつもりはありません。たしかに、わたくしはある意味茨の魔女に捕らわれている。この状況を打開しないと、さきのことを考えられない。だから――」
シリルは首を振った。月夜に光る涙は、不謹慎だが、とても美しいと思った。
「それ以上は言わなくていいよ。ただ、僕は姉さんが望む、望まないにせよ、近くにいるからさ」
「ありがとう。シリル」
わたくしの声は、町にとけていった。




