後編 第2部
フォルト・ド・パルティアーノはかつて父に匹敵する最強の騎士だった。
馬上槍試合の覇者『漆黒の狼』と互角に渡り合えたのはこの人だけ…国王自慢の騎士と呼ばれた伝説の猛者だ。
リオーネは今まさにそのフォルトと対峙していた。剣と盾を持たされ、剣戟の真っ最中だった。
「さあ、打ち込まぬか。躊躇うでない。」
フォルトは厳しい口調で言った。その表情には一分の温情も浮かんではいない。鋭い眼差しを差し向け、高い位置からリオーネを見下ろしている。
リオーネは既に散々打ち込まれていた。まったく隙のないフォルトに、どうやっても一撃を当てられない。
…あの時お父様に当てられたのは、教官が声をかけてくれたからだ…私の実力じゃない。
リオーネは悔しかった。公爵は少しも姿勢を変えていないのに、自分はもうボロボロだ…
「もう限界か?一撃も食らわせられないとは…口ほどにも無い。」
フォルトは剣を納め、盾を従者に手渡した。
「今日はこれまでだ。罰として腕立て伏せを100回。」
フォルトは容赦なく言った。リオーネは一瞬だけ彼を瞠目し、両手を地につけた。フォルトが監視する前で、罰を甘んじて受けた。
「痛たたっ…」
全身のあちこちに傷みを感じて、リオーネはつい口走った。
シュベール城に来てからというもの、ほぼ毎日戦闘訓練の連続で、既に全身痣だらけだった。その上、公爵一家との食事の際はチュニックではなくドレスを身につけよと公爵に命じられており、毎日増えて続ける痣だらけの肌を皆に晒す結果となっているのだ。
その日も修練を終えたリオーネは、身体を引きずる様にして廊下を歩いていた。早く歩きたくても足が動かない…
「お腹が空いた…」
リオーネは呟いた。晩餐までもう暫く…それにはまた窮屈なドレスを着なければならない。
「セオ様との暮らしが懐かしい…あの時が一番幸せだったな。」
リオーネは声を出して言った。
従者として振舞っていた時の方が自由だった。今は何一つさせては貰えない。
何もかも召使い達がするからだ。
「教官…私、生きてる感じがしません…せっかく騎士になる機会を得たのに…おかしいです。」
シセルの顔が頭に浮かんだ。こんな時はいつも彼を思い出す…シセルがそばに居てくれたらと思ってしまう…
教官は誰よりも私を理解してくれた…捻くれた私を受け入れ、迷っている私を導いてくれた…
「いけない…また鼻水が出てきちゃった…」
リオーネは袖で涙と鼻水を拭った。シセルが居たら笑われるところだ…
この冬、シュベール城で新年を迎えたリオーネは14歳になった。
フォルトから直々に拍車が贈られ、リオーネは正式な騎士見習いとして、ようやく認められたのだ。
「泣いてる場合じゃない。明日こそ公爵に一撃当てて鼻を明かしてやるんだから…漆黒の狼の娘を舐めないでよね…」
シセル・バージニアスの弟子が軟弱者だと思われたくない。胸を張って教官に会うと決めていた。それがリオーネの心の支えだった。
それから数日が過ぎ、フォルトから父の来訪を告げられた。
数日間は滞在すると言う。
「お父様が来るなら、教官もきっと来る…」
やっとシセルに会える…リオーネの心は躍っていた。シセルには話したいことが山ほどあった。
「姫様…お着替えを…」
その朝も侍女達がやって着て、いつものように上質なドレスを着せられた。フォルトに切るのを禁じられ、少し伸びた髪も整えられる。
「こちらは公爵様から姫様にと…」
最後に、侍女の一人がリオーネの頭にサークレットを乗せた。瞳と同じ色の宝石がはめられた金のサークレットだ。
「完璧です。」
侍女達は満足気に言って笑顔になった。
まもなくグスターニュの騎士団が到着すると、迅る気持ちを抑えてリオーネはエントランスへ向かった。ドレスの裾が邪魔で急ぐことが出来ない…仕方なくゆっくり歩いた。そのおかげで上品に見えているかも知れない…リオーネは自嘲した。
エントランスでは公爵が父を出迎えていた。その周りに騎士達が控えている。
「教官…」リオーネは小さく呟いた。
黒の紋章入りチュニックとマント姿のシセルが見えた。彼もリオーネに気づき、視線をこちらに向けている。
駆け寄って抱きつきたい衝動に駆られ、リオーネは胸が苦しくなった。
…だめ…口をきいたら、また泣いちゃう。
リオーネは離れたところで立ち止まり、その場で控えた。
「リオーネ。」
ユーリが歩み寄って来る。父に会うのも久しぶりだ…
「元気そうじゃないか…安心したぞ。」
「お父様も…」
リオーネはかろうじて言った。
ユーリはリオーネの様子がおかしいことに気づいた。目が潤んでいて、口を固く結んでいる。
なるほど…とユーリは思った。リオーネの向く方向をちらと垣間見てほくそ笑む…
「あいつもお前に会いたがってる…行ってやれ。」
ユーリは小声で言った。
父の言葉に驚き、リオーネは目を見開いた。まるで自分の気持ちを見透かされているかの様だ。
リオーネは頷き、ドレスの裾を持った。小走りにシセルに方に駆け寄る…
シセルは真っ直ぐ駆け寄って来るリオーネを見て目を細めた。
…美しくなった。
シセルはその場で跪いた。両腕を広げる訳にはいかない。
「お久しぶりです姫君。お元気そうで何よりです。」
リオーネは彼の目前で立ち止まり、少し考えてから右手を差し出した。
「貴方も…シセル。」
シセルはリオーネの手を取り、指先に口づけをした。
触れ合うことが許されたのは一瞬で、二人はすぐに離れ、リオーネは父とともに奥へと入って言った。
シセルは自分の手を見つめ、首を横に振った。リオーネの指には痛々しい傷があった。それも無数に…
その夜、晩餐に出席していたリオーネは父と公爵が酔い始めた頃合いを見計らい、自分の部屋へと下がった。
就寝の準備を整えた侍女達が立ち去るのを待ち、「おやすみなさい」と伝えたあと、素早くチュニックに着替える。
教官はもう控えの部屋に戻っているはず…
城内の事は熟知している。近衛隊長の控え室がどこなのかも解っていた。
夜更けなので人影はないが、リオーネは慎重に周囲を確認しながら先へと進んだ。もしここで周囲に見つかれば、シセルにもあらぬ疑いが及んでしまう…
ようやく目的の部屋にたどり着いたリオーネは、静かに扉を叩いた。
「誰だ。」
中から声がする。間違いなくシセルだ。
「教官…私です。早く開けて下さい。」
すぐに扉が開き、シセルが現れた。リオーネを見るなり即座にその身体を中へと押し込め、扉を閉める。
「何を考えてるんです。貴女は!」
シセルはいきなり窘めた。
「こんな夜更けに忍んで来るとは…」
「だって、こんな夜更けじゃないとまともに口もきけないんだもの…」
リオーネも反論した。
「だからと言って…」
「お邪魔なら帰りますけど…」
「そんな訳ないだろう!」
シセルは声をあげ、リオーネを思いきり抱きしめた。
「教官…」
リオーネもシセルを抱きしめる…シセルの温もりが嬉しい…
シセルは感動していた。愛おしくて仕方がなかった。
リオーネが来た…危険を冒して!
「やっと会えました…すごく寂しかったです。」
リオーネは素直に言った。
「私もだ…」
シセルも正直に告げた。
「謝罪させて欲しい。貴女を護れなかった事を…」
「謝罪?」
「もっと早く気づいていたら貴女を引き留められた…こんな傷を負わせることもなかった…」
リオーネの手を取り、シセルは指で慈しんだ。
「ああ、バレちゃった…」
リオーネは手を引っ込めながら苦笑した。
「本当は…満身創痍なんです。公爵様の訓練がとても厳しくて…でも、最近は少し打ち返せる様になったんですよ。」
リオーネは言いながら袖を捲り上げた。
シセルは唸った。リオーネの腕は痣だらけで、素肌の色が見えないほどだった。
「全身か…この痣は?」
シセルの問いに、リオーネは笑顔で頷いた。
「頑張りの勲章です。」
シセルは言葉を失った。なんということだ!
「お父様には言わないで。公爵様に悪気はないの。いつもはとても善くして下さっているし…それに、お父様ったら嘘が下手だからお母様にすぐに気づかれてしまうわ。このことをお母様が知ったら、今度こそ離縁されちゃう。」
「それはそうだが…」
心配そうなシセルにリオーネは胸を張って言った。
「私は大丈夫です。必ず準騎士になって教官の隣に並びます。それまでもう少し待っていて下さい。」
「リオン…」
腕の中にありながら、リオーネは最も遠い場所にいる…
シセルは切なかった。自分の不甲斐なさを改めて感じた。
姫を引き戻そうなど愚かな考えだった。リオーネ様にとってこの試練は必要不可欠なもの…私の助けなど初めから必要なかったのだ。
「解った…」シセルは言った。
「楽しみに待っている。…だからあまり自分を虐めるな。身が持たないぞ。」
「はい。なるべくそうします。」
リオーネは笑顔で頷いた。
その後は、沢山の報告をした。セオノアの話や絵画のこと、宮廷で会った国王のことなど…話題は尽きなかったが、シセルはそれを微笑みながら聞いてくれた。シセルもグスターニュでの出来事を説明し、お互いに楽しい時間を過ごすことができた。
別れの時間になると、リオーネは扉の前に立ち、名残惜しそうに言った。
「最近思うんです。教官が…いつも傍にいてくれたらなぁって…ずっと一緒だったら良いのに…って。そればかり考えて、胸が苦しくなる…変ですよね?」
リオーネは笑ってみせた。恥ずかしそうに…
「じゃあ…また鼻水が出る前に帰ります。おやすみなさい、教官。」
リオーネは瞳を潤ませ、一度だけ鼻をすすると、手を振りながら部屋を出て行った。
残されたシセルは呆然となり、暫くその場から動けなかった。
「何だ…今のは…」
リオーネの言葉がじわじわと浸透して来る…段々に全身へと波及し、遂には頭へと到達した。
「リオーネ…」
シセルは扉を開け廊下へと飛び出した。しかし、リオーネはすでに闇の向こうに消えていた…
シュベール城の大広間で行われた会議では、国王の勅命による戦地への遠征について話し合われた。先ずは広大な領地を有するフォルトとユーリが意見交換を行い、その決定を配下である地方の諸侯へと伝える流れだ。
「陛下はバルドへの侵攻をお決めになった。我々も挙兵せねばならぬ。」
地図を広げながらフォルトは言った。
「いよいよ重い腰を上げるか……」
ユーリも唸るように答える。
「長い戦いになるぞ…バルド軍は強敵だ。 国境付近の兵が対岸から度々攻撃を受けている。戦局は常に劣勢…このまま放っておけばいずれ砦は陥落するだろう。」
「兵を送ればまた多くの者が犠牲になる…気が進まん。」
ユーリは言った。
「ほう…最強を誇るそなたが弱音か?」
「俺自身のことはどうでもいいが、騎士や兵は命を賭して戦っている。国王のくだらない意地のせいで、現場はすでに死者の山だ…」
「は…私の前でよくぞ言う。義理でもあれは兄ぞ。」
「それにしてはいつも否定的じゃないか…国王自慢の騎士だと言うわりに。」
フォルトは絶句し、ユーリを瞠目した。
「私を挑発しているのか、漆黒の狼。」
「いや、見たままを言っている。」
気まずい沈黙が訪れた。周囲が重い空気に包まれる…
やがて、フォルトが嘲る様に笑った。
「自身は命を賭しても構わないだと?…偽りを言うな。妻君を残して戦地へ行きたいと思う筈がない。…もっとも、そなた亡き後のことは心配せずとも良いぞ。シャリナの後見は私が喜んで引き受けよう。」
…気安く妻の名を呼ぶな。
ユーリは鼻を鳴らした。本当に油断も隙もない…
「とにかく、第一陣は間も無く編成される。今のうちに志願する者を募っておくことだ。対岸の敵を制圧すれば進軍の突破口となる。功労者には相当な褒美が与えられるぞ。昇進を望む者には願っても無い機会となろう。」
「御意に。」
ユーリは頷いた。たとえ不本意でも、挙兵は領主の務めなのだ。
会議を終えたユーリはリオーネの部屋に行こうと考えていた。情勢が変われば会う時間もなくなる。今のうちにシャリナへの土産話を聞いておくべきだろう…
「閣下、少しよろしいでしょうか…」
背後からシセルが言った。
「何だ、シセル。」
「此度の遠征ですが、出征のお許しを頂きたく存じます。」
「何…」ユーリは驚いて振り返った。
「本気で言っているのか?」
「勿論です。叶うなら指揮官として、隊を率いたいと思っております。」
ユーリは憮然としてシセルを反目した。彼の眼差しは真剣だった。
「お前は近衛の隊長だ。俺が出征しない限り、戦地に出向く必要はない。」
「熟知しております。…ですが、私には欲しいものがあり、それを得るために武勲を立てねばならないのです。」
「武勲…?」
「パルティアーノ卿の仰る通り、この戦いは千載一遇の機会です。砦の守備を再構築し、強化を図ることでバルド侵攻への糸口が掴める…対岸の敵を制圧する事も可能となるでしょう。私の目的はその功績です。」
「そんなに簡単な話ではない!」
ユーリは思わず怒鳴った。
「功績が欲しいのは解る…制圧出来れば破格の報償を賜ることになるだろう…だが、その代償が自分の命では何の意味もない。」
シセルがすでに決意を固めているのは明らかだったが、ユーリはあえて反対した。この任務がどれほど過酷で危険かを知っているからだ。
何がお前をそこまで突き動かしているんだ…
「お前の欲しいものとは何だ。」
ユーリは尋ねた。
「それは…」
「俺にも言えんのか?」
シセルは迷った。許されるものなら真実を告げたい…しかし、偉大な男爵であるユーリに、どうしてリオーネが欲しいと言えるだろう。
「今は…申し上げられません。お許しください。」
頭を下げてシセルは言った。今は言えない…私にはその権利がない…
さも辛そうなシセルに、ユーリは深く溜息を吐いた。
「リオーネにどう説明する?そんな話を聞いたらあいつが泣くぞ…」
「姫君は準騎士となるまでこの城に留まるお覚悟を決めています。…告げればお心を乱すことになる…報告の必要はありません。」
淡々としている様で、シセルの表情は苦渋に満ちていた。動揺は隠しようがなく、心の内が明け透けだ。
お前が欲しいものとは、やはりリオーネか…
ユーリは確信した。間違いない。リオーネとシセルは互いに惹かれあっている…シセルはリオーネを賭け、命懸けの勝負に出ようとしているのだ。
「愚かなことを…」
ユーリは声に出して言った。
「そんな面倒なことをしなくても出世の道はあるんだぞ。かつて俺がそうであった様にな。」
「そうかもしれません…しかし私は正騎士として、リオーネ様の手本となりたいのです。」
「シセル…」
ユーリは首を横に振った。もはや説得は無駄に違いない。シセルは誰より高潔だ。だからこそリオーネの心を掴んだのだろう。
「…話は理解した。検討しよう。」
ユーリは言った。
「ありがとうございます。」
こんな話を聞かされた後で、俺はどんな顔で娘に会えばいいんだ…
ユーリはどうにもやるせない気持ちになった。事実を知ったリオーネの顔が目に浮かぶ…きっと俺を責めるだろう。
「本当に損な役回りだな…」
ユーリは呟いた。
明日にもグスターニュの一団が帰路につくと知った夜、リオーネは再びシセルの部屋を訪れた。これを最後に暫くは会えないと、父に釘を刺されていたからだ。
「お父様が来てくれたお陰で、痣がだいぶ薄くなって来たんです。」
リオーネは笑顔で言った。
「まあ、手加減されているってことだけど…たまには自分を甘やかしてもいいですよね?」
リオーネの痣を確認しながら、シセルは頷いて見せる。
「パルティアーノ卿が容赦ないのはユーリ様もご存知だ。おそらく骨休みをさせるおつもりで手加減されたのだろう。」
「うーん…多分お父様にもバレてたのね…これ。」
剣を持つために負った傷だけは隠すことができないため、父がそれを密かに観て察したのだろうとリオーネは思った。
「なあリオン…」
シセルが言った。
「この先、戦争によって多くの騎士が進軍を始めることになるが、リオンはそれをどう思う?」
「戦争…ですか?
リオーネは首を傾げた。
「よく…解りません。国王陛下に従うのが騎士の務めなら…それは名誉なこと…なのかな…」
「そうだな…名誉のために騎士は命を賭して戦う…名声、意地、誇り…その全てが我らの存在価値そのものだ…」
「それが騎士というもの…ですよね。」
リオーネの率直な感想に、シセルは笑顔を浮かべた。
「リオンは戦地への出征は誉だと思うか?」
「そう思います。」
「じゃあ、私が志願しても文句はないな?」
「え…?」
リオーネはシセルを反目した。
「教官が…戦地に?」
「もしもの話だ。」
シセルは笑って見せたが、リオーネは不安を覚えた。
「戦いに挑めば、当然、死も覚悟せねばならない。。殉死すれば英雄として高く評価されるが、それで全て終わりだ。」
「教官…」
「私は戦士だ。いずれその日が訪れるかも知れない。だが、リオンには別の戦いをして欲しい。護りのための戦いは、攻めの戦いよりもはるかに強力だ。国を護り、民を護る事こそ、騎士の重要な務めだと私は思っている。」
リオーネは黙って頷いた。少し難しい話だが、理解はできる。
「…立派な騎士になれリオン…周囲の人々を護り、導くことのできる、屈強な戦士に…」
リオーネの髪を撫でながらシセルは言った。その空色の瞳は、優しく清く澄んでいた。
「教官…今日は何か変ですよ…それってまるで…」
リオーネはそれ以上言えなかった。言えばシセルが遠くへ行ってしまいそうで怖かった。
「ああ、そうだな。脅かしてすまない。」
シセルは思い直しように笑った。
「最後の夜だ。もっと楽しい話をしよう、」
その一年後、バルド領
一年に及ぶ攻防の末、ルポワド軍はようやく対岸を越え、バルド領へと侵攻を開始した。砦を拠点に次々と援軍が送られ、バルド領内での戦いは熾烈を極めた。一群はさらなる奥地へと進軍し、多くの人々がその戦いの犠牲になった。
シセル・バージニアスはその渦中にあって飛躍的な功績を残したものの、長期化する遠征の果てに、最後はその生死すら不明になった…
翌年、シュベール城で 二年の歳月を過ごしたリオーネは、今日この日に、パルティアーノ公爵による最終的な認定試験に挑もうとしていた。
すでに城内の観衆が多く集まり会場を取り囲んでいる。伝説的な猛者であるパルティアーノ公爵と『漆黒の狼』の娘であるリオーネの真剣試合とあって、その感心度は飛び抜けて高かった。
完璧な装備を身につけたリオーネは、剣と盾を持ち、会場へと向かった。この試験でフォルトに認められれば、準騎士として堂々と故郷に帰ることができる。辛く長かった修練にようやく終止符を打つことができるのだ。
会場の中央に立つと、観衆から歓声があがった。ヘルムの向こうにパルティアーノ公爵が見える。同じくヘルムを被り、しっかりとした装備を身につけていた。
「これより、騎士見習いであるリオーネ・ド・アンペリエールの準騎士認定試験を開始する。公爵閣下に一本でも撃ち込みが成功すれば、リオーネは準騎士として国王陛下への推挙を賜ることができる。見届け人は我ら騎士団、そしてここにいる観衆全てで行うものとする。」
シュベール騎士団長が口上を述べた。観衆が拍手で応える。
フォルトが前に進み出て、剣を前へと差し出した。リオーネも同じ姿勢をとった。刃が触れれば戦闘開始だ。
リオーネは一瞬の見極めに全力を捧げた。体格差と持久力において圧倒的に不利な自分には、短時間のうちに一撃を加える必要がある。相手に二度打ち込まれれば負け、今までの努力が全て水の泡だ…
「行くぞ!」
リオーネは攻めに出た、得意の素早さと軽快さで一撃を繰り出す。
…失敗。攻撃は盾に阻まれた。瞬時に防御の姿勢に転じる。フォルトの強力な反撃がリオーネを容赦なく襲い始めた。一撃を身体に受けないよう必死に 防御しながらひたすら攻撃の機会を待つ…
「相手の力を受け流せ。体力を温存しつつ、隙を見極めて攻撃しろ。」
シセルの声が聞こえた。
「はい、教官!」リオーネは応えた。
そのリオーネの戦いぶりは、観衆を大いに驚かせた。リオーネに少しの期待もしていなかった彼らが息を呑み、遂には声援を送り始める。
「負ける訳にはいかない…勝って、準騎士として教官の隣に並ぶんだ!」
直後、フォルトの強打を左足に受けた。リオーネは低く呻いて悶絶した。痛みで動けない。もう一度くらえば万事休すだ。
しかし、フォルトは仕掛けることなくリオーネの腕を乱暴に掴み、「立て」と言って促した。リオーネはすぐに立ち上がり、再び防御の姿勢をとった。
フォルトがさらなる攻勢でリオーネを追いつめる…いつも以上に容赦がない。じりじりと後ろに下がりながら、それでも相手の隙を伺った。
「撃って来ぬか、腰抜けめ!」フォルトが叫んだ。
…今だ!
フォルトの連打が止んだ瞬間、リオーネは渾身の力を込めて一撃を繰り出した。
剣がフォルトの脇に入り、その衝撃でリオーネの剣が真っ二つになった。
会場が静寂に包まれる…
「…勝者、リオーネ・ド・アンペリエール!」
少しの沈黙の後、団長が声をあげた。観衆からも歓声があがった。
リオーネは息が上がりその場から動けなかった。しかし、全てが終わったことに安堵し、空を仰いで瞼を閉じた。
「やりましたよ…教官…」
「見事な闘いぶりであったぞ…」
ヘルムを脱ぎながらフォルトが言った。
「え…⁉︎」
その顔を見た瞬間、リオーネは唖然とした。
「国王…陛下?」
そこにいたのはマルセルだった。紺碧の瞳でリオーネを見つめ、口角を上げて微笑んでいる。
「さすがはあの狼の娘だ…ただの姫ではないとフォルトに聞いてはいたが…」
「陛下…!」
リオーネはすぐさま跪いた。
まさか…相手にしていたのが国王陛下だったなんて…
「そなたの力量、しかと余が見極めた…。そなたを準騎士と認め、その称号を授けよう。」
マルセルは言い、リオーネの肩に自らの剣を乗せた。夢に見た瞬間だった。
「準騎士リオーネ。ルポワドの王たる余に仕え、生涯その忠義を尽くすと誓うか?」
「はい。この身の全てを陛下のために捧げます。」
リオーネが答えると、観衆から祝福の拍手を贈られた。全てを見届けたフォルトも、目を眇めて微笑んだ。
「寂しくなる…」
帰還するリオーネを見送るべく、エントランスに立ったフォルトが言った。
「そなたを実の娘の様に思っていた。…手放すのが惜しいほどだ。」
「ありがとうございます。公爵様。 」
リオーネも笑顔を浮かべた。
「とても充実した日々でした…失礼ながら、私も公爵様をここでの父と思っておりました。本当に、感謝以外の言葉が見つかりません。」
「リオーネ…」
フォルトは両腕でリオーネを抱き寄せた。
「そなたを抱くのは初めてだな…これで最後となろうが…」
「公爵様…?」
「さあ、では父に感謝のキスをしてくれ、それで全て完璧だ。」
リオーネは頷き、フォルトの口端にキスをした。フォルトも満面の笑みを浮かべてそれに応えた。周囲には性格が悪いと酷評のパルティアーノ公爵だったが、何故かリオーネには誰よりも優しい父だった…
フォルトに別れを告げた後、領地の境界まで供をしてくれたシュベールの騎士達に別れを告げ、リオーネはいよいよグスターニュ城を目指した。
「もうすぐ帰ります。教官…」
ようやくシセルに会えると思うと、リオーネの心は喜びで満たされた。
一刻も早くシセルに報告したい…一緒に喜びを分かち合い、頑張ったことを褒めて欲しい…
そびえ立つグスターニュ城の輪郭が見え、次第に大きく迫って来た。リオーネは拍車をかけ、石橋を渡って城門へと近ずいた。
「誰だ、名を名乗れ!」門番が尋ねた。
「グスターニュ領主アンペリエール男爵の娘、リオーネ・ド・アンペリエールです。シュベール城より帰還しました。門を開けて下さい。」
リオーネが誰かを知ると、門番は慌てて門を開いた。リオーネは感謝の意を伝え、城門をくぐり抜けた。
報告を受けたユーリやシャリナが出迎える。側近や近衛の騎士達も大勢集まって来た。リオーネは馬を下り、先ずはシャリナと抱き合った。
「ただ今帰りました、お母様。」
「お帰りなさい…私のリオン…」
リオーネが母と会ったのは三年ぶりだった。自分とカインがペリエ城を去ってから、母は父と暮らしを共にするため、グスターニュに居を移していたのだった。
父との挨拶が済むと、リオーネは視線を巡らしてシセルの姿を探した。
「お父様、…教官はどこ?」
リオーネの問いに、ユーリの表情が曇った。横に立つシャリナも何故か黙って俯いている。
「え…?」
リオーネは異変を感じた。両親だけじゃない、周囲の家臣や騎士達も苦渋の表情を浮かべていたのだ。
「リオーネ。」
ユーリは言った。
「シセルはいない。二年前にバルド攻略に出征した後、行方不明になった。生死は未だ分からないままだ…」
その言葉の意味がわからず、リオーネは呆然と父を瞠目した。
「…どういうことですか?教官が…どこにいるかわからないって…」
ユーリはリオーネの顔色が悪くなるのを見て、とっさに肩を掴んだ。
「シセルは敵地に深く侵攻していた…そのために帰還が遅れているだけなんだ。きっともうすぐ帰って来る。必ずだ!」
「お父様…」
リオーネはただ茫然としていた。シセルが出征していた…それすらも知らされていなかったのに、生死までわからないなんて…
そうだ…シュベール城での最後の夜…教官はそのことをほのめかしていた…あの言葉は、まるで遺言のようだった…
「あの時…行かないでと言ったら、あなたは行かなかったの?」
リオーネは言った。
「私が姫として命じていたら、シセルは行かずに済んだ?」
「リオーネ…」
リオーネの目から涙が溢れた。悪い予感がしていたのに、なぜそれを伝えられなかったんだろう…
「シセルは正騎士としてお前の手本となりたいと言っていた。武勲を上げ、出世をして、お前の前に立ちたいと…」
「私の…?」
「そうだとも…シセルは誇り高い騎士だ。例えお前が命じても、その意志を曲げる事はしなかっただろう。」
リオーネは泣きながら頷いた。それは自分が一番よく解っていた。
「信じて待つんだ。あいつは誰よりもお前を大切に思ってる…お前を置いては逝かないさ…」
ユーリは穏やかに言った。ユーリ自身もそのことを信じたかった。死んでしまっては意味がない…シセルはきっとリオーネのために還って来る…
「シセル…シセル…」
子供の様に泣くリオーネを、シャリナが優しく抱きしめた。
…リオーネはシセルを愛してしまった…騎士になることだけを夢見ていた、男の子の様なリオーネが…
かつての自分がそうであった様に、リオーネも辛い日々を過ごさなければならない。そう思うと、シャリナは切なくて仕方がなかった…
数ヶ月後ーー
リオーネはペリエ城にほど近い丘の上に来ていた。
春の風が爽やかに草原を凪いでいる…様々な花が咲き乱れ、まるで花の絨毯のようだ。
「あの時と同じ…」
リオーネはその場に座って花を眺めた。摘もうとして手を伸ばしたものの、やっぱり出来ない…
ここはシセルが花冠を作ってくれた想い出の場所だ。騎士がそんな物を作るなんて変だとあの時は思った。
「でも…すごく嬉しかったな…」
シセルの笑顔を思い出して、リオーネはまた悲しくなった。
もうずっと泣いてばかりいる。グスターニュ城にいるのも辛くて、独りでペリエ城に戻って来た。独りならいつでも泣ける…そう思った。
「また泣いているの?リオン…」
背後から声が聞こえた。振り返ると、そこにセオノアが立っていた。
「セオ…いつの間に?」
セオノアはリオーネに並んですわり、その肩を抱き寄せた。泣き顔を覗き込んで笑顔を浮かべる。
「…可愛い顔が台無しよ…これじゃキスもできないじゃない。」
自分のハンカチで涙を拭いてくれる優しいセオノアに、リオーネは黙って寄り掛かった。ペリエ城の近くに居を移して以来、彼は毎日のように来てくれる…
「これで良し…」
セオノアは言って、リオーネの頬にキスをした。
「今日はね、良いものを持って来たのよ。」
「良いもの?」
「そう。だけど大き過ぎてここまで持って来られないから、馬の側まで取りに行って貰える?」
「ええ、良いわ…。」
リオーネが立ち上がり、馬が繋がれている場所に向かって歩いて行く…
それを見届け、セオノアは反対方向に歩を進めた。
「いつまでそこにいるつもり?」
歩みを止めずにセオノアは言った。
「これ以上リオーネを泣かせるなら、私があの子を奪ってしまうわよ。」
木の陰に隠れて立っていたシセルは、セオノアへと視線を向けた。
「それは困る。」
「だったら早く行きなさい。今すぐに!」
セオノアは命じると、すぐにシセルに背を向けた。
「まったく…まともに見てられない。もう帰るわ。後は頼んだわよ、バージニアス子爵!」
シセルは姿勢を正し、セオノアに深く一礼すると、リオーネのいる方向に歩いて行った。
「あれ…?」
セオノアの馬は居なかった。。いたのはリオーネの馬だけ…
「どういうこと?」
リオーネは首を傾げた。
「聞き間違いかな…」
セオノアのもとに引き返そうとリオーネは踵を返した。一歩踏み出そうとしていきなり何かに阻まれる。
「痛っ」
リオーネは鼻をぶつけて声をあげた。何にぶつかったのか判らず、手で鼻を押さえながら上を見上げる…
「つねに周りに注意を払えと教えたはずだぞ…リオン。」
「え…?」
リオーネは自分の目を疑った。
「教官…?」
リオーネは口を開いたまま彼を見つめた。空色の瞳が自分を見ている…
「本物…?」震える声でリオーネは言った。
「確かめてみるか…?」
シセルは言い、両腕を広げた。
「おいで、リオン…」
リオーネの目から涙が溢れた。シセルが目の前にいる。憧れの騎士…尊敬する教官…大好きな人…
「シセル!」
リオンは泣きながらシセルの胸に飛び込んだ。
…生きていた。シセルが帰ってきてくれた!
シセルはリオーネを強く抱きしめた。想いが溢れる…遠く離れた戦地で、この温もりを何度夢に見たことだろう…
「寂しかった…せっかく騎士になれたのに…教官がいなくて…」
リオーネは嗚咽しながら言った。
「そうか…本当によくやった。さすがは私の弟子だ!」
シセルの言葉が嬉しくて、リオーネはますます泣きじゃくった。
「…これでようやく求婚できるな。」
「…求婚?」
顔を上げたリオーネを、シセルは愛おしげに見つめた。
「私の妻になっては貰えないか?…そうすれば、ずっと一緒にいられる…」
シセルは告げた。リオーネにとっては思いがけない言葉だった。
「私も…シセル。」
リオーネも応えた。
「ずっとあなたと一緒にいたい。」
リオーネの即答に、シセルは満面の笑みを浮かべた。
「愛しているよ…リオーネ。」
二人は喜びを分かち合った。視線を絡めて見つめあった。
「すごい鼻水だ…」
シセルが笑いながら言った。
「これじゃキスは無理だぞ…」
「こんな時に…酷い…」
リオーネは鼻水をすすり、シセルを睨んだ。
「シセルの馬鹿…大嫌い。」
「…本当か?」
綺麗に鼻水をふき終えたシセルがリオーネに顔を近づける…
「嘘。そんなはずない。」
リオーネは顔を上げ、シセルの頭を引き寄せた…
花の香りが鼻腔をくすぐる…暖かな陽射しと爽やかな風が、愛し合う二人を優しく祝福していた。
ペリエ城に春が訪れた。
運命の騎士、リオーネとシセルの物語…
おしまい。