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中編

グスターニュ城に到着して間もなく、リオーネはカインと別れを告げた。

双子として生まれ、これまでずっと一緒だった二人が経験する初めての別れだった。

「元気でね。カイン。」

「君もね。リオン。」

二人は笑顔で抱きあった。

「次に会う時はお互いに騎士だ....僕は信じてる。必ずだよ。」

リオーネの耳元でカインが囁いた。

「うん。約束する。」

リオーネは頷いた。

辛い時いつも傍にいて励まし支えてくれたカイン。次に会えるのはいつだろう....

いずれブランピエールの名を継承し、主君となるカイン・アンペリエールを歓待すべく、グスターニュ騎士団の騎士達が居並んでいる。

カインは笑顔を浮かべると、リオーネに背を向け、堂々と彼らのもとへと歩いていった。彼はこれから騎士団の中で厳しく鍛えあげられ、国王の騎士を目指して行くだろう。

残されたリオーネはしばらくその場に佇んでいたが、出迎えていた近衛隊の騎士に促され、城の中へと案内された。

エントランスに入ると、すぐに懐かしい顔が見える。近衛隊の紋章入りの黒衣を着たシセルだ。同色のマントを羽織っていて、普段の彼よりもずっと威厳ある姿だった。

「よく来たな。」

シセルは変わらない穏やかな口調で言った。

「旅路に問題はなかったか?」

「はい。皆に気遣っていただきました。」

「そうか。」

シセルは微笑み、背後に控えている騎士に、ご苦労だった。と伝えて下がらせた。

二人きりになると、シセルは改めてリオーネに向き直った。

久しぶりに観るリオーネの容姿は驚くほど変化していた。

身長が僅かに伸び、姿体はしなやかな曲線を描き、顔つきも以前よりずっと大人びて見える。半年間でこれ程までに人は成長するものなのだろうか....

「これからどうするのですか?」

リオーネが尋ねた。

「疲れているだろうが、すぐに出立だ。アノック城までたいした道のりではないから、日暮れ前には着けるだろう。」

シセルはリオーネを伴って、すぐにグスターニュ城を後にした。

本当なら君主の姫君として歓待されるべきであるのに、今のリオーネはリオンという名の騎士見習いに過ぎない。男子と観るには無理があるこの麗しい姫を、シセルは一刻も早く猥雑な場所から引き離したかった。

城門を抜けて橋を越え、平原に出たところで少しだけ拍車をかける。

リオーネの馬はもう以前の様な子馬ではなく、並走していても無理せず順調に歩を進められるようになった。馬を駆る姿を見ても、その著しい成長ぶりが伺える。

…数年後、姫はどんな姿になっているのだろう....

シセルは将来のリオーネを想像して目を眇めた。きっと凛々しくも美しい大人へと変貌を遂げているに違いない。

一方、リオーネはこれから仕える主の事をぼんやり想像していた。名はセオノア・アノック....独身で日課は散策。仕事は画家だという。

お父上が画家だと言うなら、ご本人も絵を描くのは当然よね....でも日課が散策って....

リオーネの周囲にそんな人物はいなかった。絵を描く者を見たことすらない。

いったいどんな方なのだろう....

「リオン、天候が怪しい...少し急ぐぞ。」

シセルが言い、駆ける速度を上げた。見上げると今にも泣き出しそうな雲が空一面に広がっている…

時を置かず降り始めた雨に、シセルは一旦馬を止め 、しばらく雨の止むのを待つことにした。

樹木の下にいるものの、滴る水は容赦なく二人を濡らしている。雨足も弱まる気配がなく、シセルは途方に暮れた。

「夕暮前に着くのはもう無理だ....」

仕方なく、先にある小さな村落を目指すことにした。距離はあるが、ここで夜を迎えるわけにはいかない。

「少しの辛抱だ。ちゃんとついて来るんだぞ。」

シセルはリオーネにフードをかぶせて言った。

打ちつける雨の中、リオーネは巧みに馬を駆っていた。弱音を吐くこともなく、ピタリと後に着いて来ている。

私だけなら今日中にたどり着けるのだが.....

すでにずぶ濡れなリオーネを見て、これ以上先に進むのは無理とシセルは判断した。ともかくどこかでリオーネの身体を温めなければならない。身体が小さい分、消耗は著しいはずだ。

村落を回り、なるべく状態の良さそうな家を探した。ようやく見つけた一軒の家は家畜小屋と納屋が別れていて、納屋には藁が積まれていた。

「一夜の宿を借りたい。その納屋で構わない。礼は弾むぞ。」

シセルが声をかけると礼金を目にした主人は喜んで承諾した。シセルはすぐにリオーネを先に納屋に入らせ、荷物を馬から下ろして後を追った。

「リオン、大丈夫か?」

シセルの問いにかけにリオーネは頷いたが、どうやら震えが治らない様だった。

シセルはどう対処するべきか迷った。ここには暖をとるための物がない。ずぶ濡れの服を脱ぎ、藁の中で過ごすしか方法が見つからない。

「寒い....」

リオーネが言った。その唇が青く変色している。

躊躇ってる場合じゃない....

シセルは意を決してリオーネに言った。

「服を脱いで藁の中に入るんだ。さあ、早くしなさい。」

シセルの言葉に、リオーネはすぐに従った。寒くて堪らない...濡れた服を着たままでは凍えてしまう...

リオーネが服を脱ぐあいだ、シセルは背中を向けて荷物の中を探り、纏える物を探した。濡れずに使えそうな物は、自分のマント一枚だけだった。

「済んだか?」

シセルは訊いた。

「はい、教官。」

震え声でリオーネが答える。シセルは振り返り、藁に埋もれているリオーネにマントを手渡した。

「これに包まって身体を温めると良い。私は主人に言って食べ物をもらって来る。」

そう言うと、彼は外に出て行った。

残されたリオーネはシセルのマントに包まったが、彼はどうするのだろうと気になった。

暫くすると、シセルが木の器を持って戻って来た。器からは湯気が上がっている。

「身体が温まるぞ。」

器を受け取ると、リオーネはスープを口に入れた。そして、微笑みながらそれを見ているシセルに言った。

「教官もずぶ濡れです....」

シセルは平然としているが、金糸の髪からは水が滴っていた。

「私は大丈夫だ。気にするな。」

シセルは答え、リオーネの脱いだ服を絞って適当な場所へと干し始める。

「貴方のスープは?」

スープを全て飲み終える前に、リオーネは尋ねた。

「私はもう済ませた。」

シセルは短く言った。

嘘だ....とリオーネは思った。

教官だって人間だ。きっと寒いに違いない....でも、スープもマントもこれしかない。だからそのままでいるんだ....

「サー・バージニアス」

リオーネは呼んだ。

シセルが驚いて振り返る。

「まだ寒いわ。そばに来て私を温めなさい。」

シセルは愕然とした。リオーネの表情は真剣で、口調があまりに高圧的だったからだ。

「それとも、貴方は私を凍えさせる気なの?」

なおも命令口調でリオーネは言った。

シセルは呆然とリオーネを反目していたが、次には恨めしそうな表情になった。

「それはご命令でしょうか、姫君...」

「ええ、そうよ。」

「お言葉ですが、それには少し問題が....」

「問題なんて何もないわ、サー・バージニアス。とにかく私は寒いの。早くなさい。」

リオーネは容赦しなかった。シセルを凍えさせるくらいなら、少しぐらい傲慢になって従わせても構わないと思った。

シセルは暫く躊躇っていたが、やがて深く溜息をつき、服に手を掛けた。

それを見てリオーネはほっとしたものの、すぐに視線を背けた。シセルの素肌が露出して行くのが判る。とても正視できない.....

リオーネは再び藁の中に潜り込み、シセルが来るのを待った。

シセルは困惑しながらも距離を置いてリオーネの隣へと座る。

「もっと側に寄らないと温まれないでしょう。」

リオーネはシセルに身体を寄せ、マントを彼の背にかけた。

「姫君....」

リオーネの姿体を見ないようにしながら、シセルは菫色の瞳を覗き込んだ。

「....違う。私はリオンです、教官。」

リオーネが口調を切り替えて不敵に笑った。

シセルは愕然とした。

私は姫に弄ばれたのか....⁉︎

「こうでもしないと、教官は服を脱がないと思ったのもので....」

リオーネは満足気だった。勝ち誇ったように笑みを浮かべている。

実際、二人の温もりでマントの中は温かかった。

「立場を使い分けて従わせるとは...酷い暴君だ。」

シセルは恨み言を言った。

「頭を使えと言ったのは教官ですよ。」

澄まし顔で言うリオーネに、シセルは思わず苦笑した。呆れ果てて非難する気にもなれない。

「敵わないな...リオンには。」

「少しは成長したでしょう?」

シセルが密かに動揺している事など微塵も知らず、リオーネは平然と身体を寄せている....視界には入らないが、マントの下には全く別物の身体と反応が隠れていると言うのに....

そのまま夜を迎えてしまい、リオーネはやがて眠りに就いた。シセルはそのあどけない寝顔を飽くことなく見つめた。ほんの少し間を置いただけの近さで姫君がいる。自分を疑うこともせず、安心して寝息をたてている…

「貴女は可愛い過ぎる。本当に危険だ…」シセルは呟き自嘲した。

セオノア・アノックは私とは違う。恐らくこんな感情には至らないだろう....

シセルは余計な杞憂や邪念を振り払った。この先、如何なる手を使ってもリオーネの身を守らねばならない。立場がどうあろうと、自分が姫の護衛であることに変わりはないのだ。


翌朝、起床した二人はすぐに出立した。

晴天のもと数時間ほど進み 、ちょうど服が乾いた頃にアノック城が見えて来る。道から外れ、森を奥に進んだ場所に、その小さな城は建っていた。ペリエ城もこじんまりした城だが、アノック城はそれよりもずっと小規模だった。

「これが...城ですか?」

リオーネは唖然としていた。想像していたものと全く違う。これはまるで館のようだ....

「ああ。れっきとした城だ。さあ、城主殿に挨拶をするぞ。」

二人は馬を降り入り口まで歩くと、シセルが扉を叩いた。

「グスターニュの使者、シセル・バージニアスだ。城主殿にお目通り願いたい。」

反応を待つ間も、リオーネは頭を巡らせて周囲の様子を観察していた。ここには人の気配がない。召使い達が働いている姿も見えない。

本当にペリエ城とは大違いだ....

しばらくすると、ようやく扉が開いた。初老の男が現れて礼儀正しく頭を下げる。

「お待たせしました。どうぞ中へお入り下さい。」

シセルは頷き、リオーネを促した。

扉を通り抜け、エントランスへと一歩足を踏み入れる。

「わあ....」

リオーネは思わず驚きの声を上げた。

その壁には、沢山の絵画が飾られていた。肖像画や風景画、草花や動物などの絵が、ところ狭しと並んでいたのだ。

「この絵画は全て城主殿の手によるものか?」

リオーネの疑問をシセルが代わりに尋ねてくれた。

「この城の全てではありませんが、殆どがセオノア様の作品です。」

男はエントランスから奥へと廊下を歩き、光の差し込む明るい広間に二人を案内した。

リオーネはまた目を見開いた。

正面の大壁に大きな肖像画が飾られていた。豪華な装飾で縁取られたアーチを描いた縁に、微笑みを浮かべた美しい女性が収まっている…

絵に目を奪われているリオーネを横目に、シセルは薦められた席に着いた。リオーネは時を忘れたように動かない。

..姫は絵画に興味がある様だな。

これは発見だとシセルは思った。両親でさえ恐らく知らない事実に違いない。

「その絵は私の母です。」

不意に声が聞こえ、リオーネは驚いてその方向に振り返った。

そこには青年が立っていた。声からすると男性のようだが、容姿は女性のように見える…

「ようこそアノック城へ。私が城主のセオノアです。」

セオノアはゆっくりとリオーネの方へ歩みより、横に並んで向かい合った。

「君がリオン?」

セオノアは優しい眼差しで問いかけた。間近に観るその顔色は透けるように青白い。リオンは我にかえって姿勢を正し、床に膝を着けて跪いた。

「はい。リオンと申します。城主様。」

「そんなに畏まらないで。私はそう言うの苦手だから....」

セオノアは微笑みながら自らリオーネの手をとり、立つよう促した。

セオノアは華奢だが長身で、リオーネよりも頭ひとつ分は大きかった。瞳の色は栗色。目元は憂いを帯びて優しげだ。

「セオノア殿、お目にかかれて光栄です。我が名はシセル・バージニアス。グスターニュ城にてペリエ男爵の近衛を務めております。」

シセルは軽く跪いて自己紹介し、すぐに立ち上がった。

「本日より、私の教え子であるこのリオンをこちらへとお預けし、従者としてお仕えさせて頂きます。」

「うん。大丈夫。この子とは仲良くなれそう。」

セオドアは微笑みながら頷いた。

「私の方こそよろしくね、リオン。」

女性の様な声音に戸惑いを感じながらも、リオーネは「はい、城主様」と笑顔で答えた。

「早速だけど、少し手伝って欲しいことがあるの。一緒に来てくれる?」

セオノアが言った。

「サー・バージニアス、私達が戻るまでここで待っていて下さい。」

「心得ました。」

躊躇いを感じたが、シセルは頷いた。セオノアに邪気は無い。それは十分承知している。

セオノアとリオーネが連れ立って広間から出て行った後、広間に控えるシセルは、その間に家令や召使いの様子をゆっくり観察する事にした。

もうすぐリオーネを残して去らねばばらない。

素行の悪い者がいれば、密かに排除する必要もあるだろう....


「ここが私のアトリエ。」

セオノアは2階へと上がると自分のアトリエにリオーネを案内した。

「ここに座って。」

セオノアに勧められ、リオーネは部屋の中央にある椅子に座らされた。

セオノアは少し離れた場所のキャンパスの前に立ちリオーネに向き合う。

「こんなに可愛い子が来るなんて予想外だった。騎士見習いと言うから、もっと粗野な子だと思ってたの。絵画の価値が判る子供なんて殆どいないし、作品の扱いだって酷く乱暴で...だから、従者も要らないと拒絶していたんだけれど....」

セオノアは言いながら手を動かしていた。キャンパスに何かを描いている様だった。

「それとね。これから私がここにいる時間は、君は自由にしていて構わないわ。」

「自由....ですか?」

リオーネは反問した。

「そう。自分でしたいと思う事をする...そう言う時間。ある意味、それも君にとっては修練ね。」

セオノアは言ったが、リオーネには今ひとつ理解出来なかった。指南書には従者は常に主人のために待機せよと書かれてあったはず...

「私はお邪魔なのでしょうか?」

屈託なく問いかけるリオーネに対し、セオノアも「その通り。」と躊躇いもなく答える。

「あ、でも散策にはついて来てね。外でスケッチをする時は助手が必要だから。」

「助手...ですか?」

「そう。私の仕事は絵を描くことだから、君は画家の助手。」

「はあ....」

つい気の抜けた声を出してしまい、リオーネは手で口を押さえた。

この人と居ると緊張感が緩む....教官に見咎められたら大変だ。

「解りました。城主様」

背筋を伸ばすリオーネに、セオノアは微笑みを浮かべた。

「君はとても良い子なのね...でも、あの強そうな騎士が帰ったら、私のことは「城主様」じゃなく「セオ」と呼んでね。そのほうが自然だから...」

「それは...ご命令ですか?」

「君にとってその方がいいならね。」

セオノアは片目を閉じて悪戯っぽく微笑んだ。

リオーネは素直に頷き、セオノアの瞳を見つめて言った。

「ご命令とあれば。そう致します。」

「うん。良い返事。」

セオノアは手を止めると、じゃあ、戻りましょうか。と言った。


広間に戻ると、シセルが席を立って二人を出迎えた。

リオーネはホッと安堵した。少し離れていただけなのに、なんだか教官が懐かしく感じる…

昨夜のシセルの温もりを思い出す…藁の中に埋もれながら、一つのマントに包まれて眠った時の暖かさを…

「主殿と並んで歩くとは何事だ。リオン。」

シセルはいきなり嗜めた。

リオンは夢から覚めてシセルを瞠目した。現実の教官はやっぱり厳しい。

「私がそうしろと命じたのです。サー・バージニアス。」

セオノアはリオーネを庇う様に前に出て言った。

「この子はもう私の従者なのだから構わないでしょう?」

思わぬセオノアの反発に、シセルは驚き押し黙った。庇われたリオンは彼の後ろから顔を覗かせている。

私の従者か...それはそうだが....

その言葉に違和感を感じた。今更ながらリオーネが自分の手を離れるのだと実感する。

「出過ぎたことを申し上げました。」

シセルは認め、謝罪した。

「リオン、マシュに部屋へ案内させるから、君は荷物を持って行きなさい。整理もしておいてね。」

はい。と答えるリオンの瞳が自分に注がれているのを意識しながらも、シセルは敢えてそれを無視した。セオノアの言う通り、リオンは今日をもってアノック子爵の従者になった。騎士への第一歩を踏み出したのだ。

リオーネが行ってしまった後、セオノアは席に着き、シセルにも着席するよう促した。

「サー・バージニアス、尋ねたいのだけれど....」

セオノアは言った。

「リオンは女の子よね?」

シセルはセオノアを反目した。真実を隠すつもりは無かったが、こんなにも直ぐに看破するとは....

「その件については、改めてお話をするつもりでおりました。」

「先に承諾させておいて、後から説明を?」

「申し訳ありません。」

シセルは深く頭を下げた。

「理由はリオンが私と同じだと....そう思ったのでしょう?」

責めるような口調だったが、セオノアの目は怒りに満ちてはいなかった。

「そこまでお気づきとは....」

さすがのシセルも舌を巻いた。この洞察力は称賛すべきだろう。

「いかにも、リオンは女子でありながら男子のような心を持っています。それ故、幼い頃よりお父上の様な騎士になりたいと切望されている....私は姫君の教育係として、そのご希望を適えて差し上げたいと考え、お願いに上がりました。」

「なんて無謀な....」

セオノアは呆れて言った。

「いかに心が男の子でも、周囲はリオンを認めない。それは私が一番よく知っていることよ。当然、貴方だって解っているでしょう。」

「さればこそ....です。周囲の無理解に屈せず、貴方はその地位を確立しておられる。勇敢に抗い、立派に闘っておいでだ。そのお姿こそ、私がリオンに学んで欲しいこと。知って欲しい事実なのです。」

セオノアはシセルを黙視した。その表情から、彼が真剣であることは明らかだった。教育係としての責任感からとは言え、周囲の誹謗や差別を覚悟で常識外れな行動に撃って出るとは…

この騎士は戦士でありながら何処となく自らに対する肯定感がない...不思議な人だ…

「私が勇敢だと言うのは表現が過ぎるわね....」

セオノアは言った。

「確かに、私には画家という肩書きの上に認められた地位がある。それは揺るぎない事実よ。....でも、リオンが求めるものが私の内にあるかは甚だ疑問ね。」

自身が抱えている心の矛盾をリオンも抱えていると思うと、セオノアの胸は苦しかった。...確かに、この複雑な想いを分かち合えるのは私だけかもしれない....

「リオンの両親はその事をご存知なの?」

「無論、承知しています。」

シセルは頷き、ユーリからの親書を手渡した。

「リオンは...ご領主の姫君⁉︎」

セオノアは思わず声をあげた。

「はい。名はリオーネ・ド・アンペリエール。父君は現グスターニュ城主、ユーリ様です。」

「と...言うことは、リオンの身に有事が起きれば、私は間違いなく縛り首ね。」

セオノアは親書の内容を読みながら苦笑した。現領主が善良な人物なのは周知のところだ。よほどの災難が降りかからない限りそうはならないだろう.....

「解りました。私からもお返事を書きましょう。」

セオノアは家令の老人を呼び、ペンと用紙を持って来させると、その場で素早く筆を走らせた。その文字は美しく、セオノアの学識の高さが伺える。

「さあ、騎士殿。これでリオンは正式に私の従者になりました。もう悔いはありませんね?」

「悔い.?」

シセルは親書を受け取りながら問い返した。

「先ほどからずっと、リオンの事ばかり気にしているでしょう?」

図星を突かれ、シセルは動揺した。

そんなに態度に現れていたのか....私は。

「...では、私は城に戻ります。」

シセルは立ち上がって言った。

「お別れは?リオンを呼びましょうか?」

「いえ、その必要はありません。」

「そう。」セオノアは頷いた。

シセルは足早に城の外へと出ると騎乗し、躊躇なくアノック城を後にした。

明日また様子を見に来ればいい…昨夜の雨で帰還が遅れた。急いで戻らねばならん。


「行ってしまったわね.…」

去り行くシセルの姿を密かに見送っているリオーネにセオノアは言った。

「彼と離れるのは寂しい?」

リオーネはセオノアを見上げながら首を横に振った。

「いいえ。私には城主様がいらっしゃいます。寂しくはありません。」

「嬉しい事を言うのね。」

セオノアは優しく微笑むとリオンの髪を撫でた。

「それと...城主様じゃなくて、セオでしょ?」

「あ、はい。セオ様。」

躊躇いを感じるものの、リオンは慣れなければいけないと思った。主人の意に従う事、それが従者の務めなのだ。

「さあ、それじゃあさっきの続きね。」

セオドアはリオーネの背に掌を添えて歩き出した。

アトリエまで来ると、リオーネを外で待つよう支持し、セオノアひとりで中へと入って行く。

リオーネは廊下で待つあいだ、去って行ったシセルのことを想った。

...寂しくないなんて嘘。本当はもっと一緒にいたかった。

リオーネは、自分がどれほどシセルを必要としているかを自覚した。依存してはいけないと知りながらも、その想いを止めることができない…でも、教官はお別れを言ってくれなかった...視線さえ合わせてはくれなかった。

なんだか悲しい。心に穴が空いたようだ....

「お待たせ。」

セオノアが戻って来て言った。

手にはキャンパスと布袋を持っている。

「荷物をお持ち致します。」

リオーネはすかさず言った。

「そう?じゃあお願いね。」

セオノアはリオーネに荷物を手渡すとエントランスに向かって歩き出した。扉を開けて外へ出る。

リオーネはセオノアの後を追いながら周囲を観察した。アノックの森は静かだった。小鳥のさえずりと木々が僅かに凪ぐ音しか聞こえない。

「時が止まっているみたいでしょう?」

セオノアは振り返らずに言った。

「ここには静寂しかない....それが良いの。私はこの場所が一番好き。」

「お寂しくはないのですか?」

「全然。むしろ人が嫌いだから。」

「人が...嫌い?」

小声で呟くリオーネの声に、セオノアは歩を止めて振り返った。

「ああ、君は別よ、リオン。」

慌てた様にセオノアは言い、かがみ込んで否定した。

「君は大好きだから。....ね。信じて。」

「あ...はい、大丈夫です。」

リオーネは戸惑いながら頷いた。

「良かった....」

安堵した様にセオノアは息を吐いた。

セオ様は不思議な方だ...とリオーネは思った。あんなに沢山の人物画を描いているのに人嫌いだなんて...それに、男性のはずが、容姿も口調もまるで女性のよう..…考えてみれば、自分も同じなのだと言うことに気づいた。以前にシセルが言っていた人物の一人がセオノアだったのかも知れない。

教官は私のために考えてくれたんだ...

そう思うと心が温くなった。寂しさも少し紛れるような気がした。

その後もしばらく歩き、セオノアはようやく立ち止まった。

「うん。ここが良い。」

そこは小さな泉のある場所だった。美しい緑の絨毯と一本の大樹が空に向かって枝を伸ばしている…

「ここに人を連れて来たのは君が初めてよ。」

荷物を持ったまま立っているリオーネの周りをセオノアは歩きながら言った。

「ここにキャンパスを置いて、それから君はここ…」

命じるがままのリオーネを座らせると、セオノアはまたキャンパスに向かい、再び何かを描き始める。

木漏れ日の中で作業する彼の方が絵画の様だ…とリオーネは思った。

…私にそんな才能は無いけれど、思ったものを形に出来るなんてすごいな。

人としても画家としても、セオノアは尊敬できる主であることは間違いない様だ。

昼は、城で働いている数名の召使い達と家令、そして一匹の飼い犬とともに小さな歓迎会が開かれた。

「ここに集まっている者は、皆んな家族も同然よ。」

セオノアはそう言って全員をリオーネに紹介した。屋外で働く者を含めても10数名しかおらず、どおりで人を見かけない訳だ…と納得する。

そのうえ、セオノアが小食であまり丈夫ではないことも判明し、日頃楽しむのは果実酒ばかりだと、こっそりマシュが教えてくれた。

だからいつも顔色がお悪いのかな…

リオーネは思った。食事はきちんと摂りなさいと教えられて育ったので、自分は丈夫なのだと思う。

「セオノア様はずっと孤独に過ごされていた。その間に、食事の愉しみさえ忘れてしまわれたんだよ。」

「孤独…?」

「そう。お小さい頃からね…」

何故?と訊いたが彼は答えてくれなかった。広間の大きな絵の母親や、画家というモガート・アノックは何をしていたのだろう....

「…だが、これからはきっとお変わりになるだろう。お前が来てくれたからね。」

「私…?」

「あの方のあの様な表情を観たのは初めてだ...余程お前が気に入ったのだよ。」

マシュは目を眇めて言った。きっとこの老人はセオノアに幼い頃から仕え、親代わりだったに違いない。

「セオ様のお顔の色が良くなるよう努めます。」

リオーネは笑顔で言った。


翌日から、リオーネは精一杯働いた。

朝起きるのが苦手なセオノアを辛抱強く待って起床させ、ほとんど摂ることのなかった朝食を一緒に食べ、愛犬を連れて森への散策に同行した。午後になってセオノアがアトリエに詰めると、リオーネは「自由時間」を使って自室を掃除し、その後は両親から贈られた本を読んで過ごした。

ある日のこと、いつもの様に起床し、セオノアに声を掛けつつ窓から外を覗いていると、霧の立ち込める樹々の中に何かの影が見えた様な気がした。

「あれはなに....?」

リオーネは身を乗り出して 目を凝らした。樹々の間を何か大きな生き物が動いているようだ...

「ヘラ鹿のようね...」

セオノアが傍に並んで言った。

「セオ様...起きて...」

「....静かに。」

セオノアは言って、そっと 窓の外を見つめた。

やがて現れたその生き物は、驚くほど巨大で立派な角を持った鹿だった。

「こんなに大きな生き物は見たこともありません...」

リオーネは呟くように言った。

「この森にいるのは知っているけれど…こんな場所に現れるのは初めてよ。奇跡だわ。」

ヘラ鹿は一頭でさまよい、ゆっくり草を食んでいたが、厩舎の馬のいななきを耳にすると首を上げ、再び森へと還って行った。

二人は暫く沈黙していたが、やがてリオーネが我に帰り、セオノアに向かって言った。

「お早うございます。今朝は…お早いのですね。」

セオノアは苦笑した。リオーネが拍子抜けした様子だったからだ。

「昨夜はお酒を飲まなかったの…そのせいか調子が善いわ。」

あなたがいてくれるおかげよ。と言って、セオノアはリオーネの頬にキスをした。


最後の別れをせずにリオーネを置いてきたシセルだったが、

数日に一度はアノック城に足を運び、密かにその様子を見守っていた。

ある時はセオノアの食事の世話をし、またある時は外へと遣いに走り、日課である散策の伴や馬の世話をなど、リオーネは感心する程よく働いている。セオノアとの関係も予想以上に良好で、二人が仲睦まじく会話をしたり、楽しそうに笑っている姿も日常的に見ることが出来た。

最近では午後になると一人きりで中庭にいて、ひたすら何かを書いていることが多くなった。何を書いているかは判らないが、その様子があまりに可愛いので、シセルは危うく声を立てて笑いそうになり、これでは様子見というよりまるで覗きのようだと猛省したものだった。

ともあれ、リオーネの従者としての生活は充実しており、今のところ不安要素は皆無であると言って良さそうだ。このまま一年を過ごせば成人に向けた準備を進めることができる。何もかも計画通り...シセルは胸をなでおろした。


10月の終わり

いつもの様に身を潜めていたシセルの前に、当たり前のようにセオノアが現れたのでシセルは驚き、苦笑せざるを得なかった。

本当にこの人物は如才がない。いつから気づいていたのだろうか....

「リオンが遣いから戻るまで、中へどうぞ。」

暖炉の前の席にシセルを誘い、セオノアは召使いに果実酒を用意させた。勤めとはいえ、外気はすでに冷たい。それにこの騎士がいれば、帰ってきたリオンが大喜びするだろう....

「実は、リオンをマティーユまで連れて行きたいの。マーロウ伯爵の城でご令嬢の肖像画の下絵を描くためよ。」

「マーロウ伯?..」

「ええ、あの方は私の絵画の兼ねてよりの出資者なので断ることは出来ないわ。リオンを置いて行くのは不自然だし、それではあの子が納得しないでしょう?」

「勿論です。主に尽くすのが従者の務めです。」

言葉で肯定しても、本心は否定しているとセオノアには解っていた。リオンにとって「教官」でも、この騎士にしてみればリオーネは主君の姫君であり、彼の方こそがリオーネの従者なのだ。

シセルは沈黙し、暫く思案した後、ようやく口を開いた。

「...では私も同行致します。但し、リオンには貴方が私を護衛として指名した事にしておいて頂きたい。」

「それは願ってもない事だけれど…」

セオノアは眉根を寄せた。

「貴方には職務があるのでは?」

「私は閣下の近衛です。姫君の件は閣下よりの勅命を受けたもの。何よりも優先されます。」

「まあ....」

セオノアは思わず感心の声をあげた。

「男爵は本当に、リオーネを加護しているのね。」

「姫君にはお気の毒ですが...それが現実です。」

シセルの言葉に、セオノアは首を横に振って苦笑した。

「お父上の加護をして「気の毒」と形容するなんて....皮肉なものね。」

私の身の上からしたら、何とも羨ましい関係だと言うのに。

その時、外で馬の足音が聞こえた。

「リオンが帰ってきた様ね。」

セオノアは扉の方へと歩いて行き、リオンを出迎えるため扉を開いた。

「ただいま戻りました。」

リオーネはエントランスを抜けてセオノアに言った。

「お遣いご苦労様...さあ、中で暖まりなさい。」

セオノアの言葉に従い、はい。と答えると、リオーネが入って来る。

「リオン。」

シセルはすぐに声をかけた。

リオーネはシセルの姿を見て一瞬たじろぎ、固まった。

「教官....」

「元気にしていたか?」

頷きはしたが、何も言えない。会えて嬉しいはずなのに....

...あれ?どうして涙が出るんだろう....おかしいな。

リオーネが泣き出すのを見てシセルは驚いた。思いもよらないことだった。

「ずっと我慢していたのよね...」

セオノアがリオーネの肩を抱いて言った。

「貴方が別れをきちんとしないから、リオンはとても寂しかったのよ…でもこの半年間、すごく頑張っていた...だから褒めてあげて。」

シセルは戸惑いながらもリオーネの側へと歩み寄った。自分を慕って泣く姫君をどう慰めたら良いのだろうか...

「温かいミルクを用意するわね。」

気を利かせてセオノアは席を外した。二人の気持ちが痛いほど伝わって来る。

性を2つ持ったセオノアには、男女双方の葛藤が理解できるのだ。

...シセルが羨ましい。リオンにとってあの騎士は、泣くほどに特別な存在なのだから…

日に日に深まっていくリオンへの愛情ゆえ、シセルへの嫉妬を感じていた。愚かしい事だが、これも呪われた宿命だ。

「さあ、もう泣くな…」

シセルは言い、手を延ばしてリオンを軽く引き寄せた。

「 これ以上泣くなら姫君と呼ぶぞ...」

シセルの胸に額を乗せてリオーネは首を横に振った。シセルの声が心地いい....

「...寂しい思いをしたのだろうが、私もそうだった。騎士になる者は皆そうだ。それが当たり前だと思っていた。」

「教官も...?」

リオーネはシセルを見上げた。

「信じられない...」

「私も一応人の子なんだが...」

シセルはリオーネの涙を手で拭った。

「だがまあ、鼻水を出すほどではなかったぞ....」

リオーネは顔が熱くなった。シセルが笑っている。恥ずかしさで火を噴きそうだ。

「顔を....洗って来ます!」

リオーネはシセルを突き放して背を向けた。

やっぱり...教官は意地悪だ。

それでも嬉しくてたまらなかった。シセルがいるだけで心が躍る。 何故こんな風になるのか....自分でも解らなかった。


3日後

セオノアはリオーネとシセルを伴ってマーロウ伯の居城を目指した。

マティーユまでは馬車で2日の道のりだ。

リオーネはセオノアと馬車に乗り、シセルは騎乗して護衛についた。

その甲斐あって旅は安全に続けられ、予定通り2日後には目的地に到着した。

「待っていたぞ。養い子よ。」

マーロウ伯は両腕を広げてセオノアを歓迎した。

「お久しゅうございます。我君。変わらずのご健勝ぶり…何よりです。」

セオノアは跪き、伯爵の手を取った。

「うむ。そなたも元気な様で安心したぞ。顔色も善くなったようだ。」

「そうでしょうか?」

セオノアが反問すると、マーロウは後ろに控えているリオーネをちらと見遣った。

「噂を耳にしておるぞ。従者を傍に置いているそうだな…あれがそうか?」

あれという表現に不快感を感じたが、セオノアは「はい」と頷いた。

「騎士見習いのリオンと申します。以後、お見知り置き下さい。」

「何とも麗しい顔つきの従者ではないか…さぞ愛しいであろうな。」

マーロウがリオーネを見つめて目を眇める。セオノアは動揺を隠しつつ言った。

「私の従者は13歳ですが...確か姫君も13におなりでは?」

「ああそうだ。来年には婚姻を考えているが、まあなんと言うか…」

マーロウ伯は眉根を寄せて口ごもった。

「…とにかく、娘を美しく描いてくれ。宮廷に送る肖像画だ。この婚姻が決まれば、さらに報酬を上乗せしよう。」

「ありがとうございます。尽力致します、閣下。」


その夜、リオーネとシセルはセオノアに与えられた部屋に集まって暖をとっていた。従者に与えられる寝所は寒く大部屋で、とてもリオーネが寝られる場所ではなかったからだ。

リオンは暖炉の前の長椅子ですでに眠っており、二人はその寝顔を見守りながら会話をしていた。夜更けに男女が同室するなどありえないところだが、事実上は男三人であり、特に問題が起きようはずもなかった。

「どうやら対象の姫君はかなり癖がお強いようですね。」

シセルは静かに言った。

「この城の者が噂しているのを何度も耳にしました。伯爵は王族との婚姻をお望みの様ですが、臣下は皆懐疑的です。」

その報告に、セオノアは深く溜息を吐いた。

「素材としては最低ね...」

「その様です。」

「姫君を落ち着かせるために何か気を惹く物があれば良いのだけれど…」

「気を惹くもの....ですか?」

セオノアは頬杖をついて思案した。13歳と言えばまだ少女と言えるが、初めて恋を知る年頃だ…貴婦人となる直前に一番効果的なのは...

「あ…」

セオノアはシセルを瞠目した。

「気にも止めなかったけれど、貴方はかなり美男だわ。」

「は…」

「もしかしたら、これはいい思いつきかも知れない。」

セオノアは柄にもなく不敵な笑みを浮かべた。その様子に、シセルは悪い予感を感じるのだった。


「え...ええ⁉︎」

リオーネの衝撃は凄まじかった。

目の前に現れたシセルがあまりに艶かしい姿だったからだ。

着ているのは上質な絹のブラウスに黒のショーツだけ。胸元が大きく開いていて、とても魅力的だ....

唖然としているリオーネを見て 、シセルは咳払いをした。

「そんなに見るな。セオノア殿に頼まれたんだ。」

「へええ...」

シセルが珍しく恥ずかしがっているのを見て、リオーネは可笑しくなった。

いつも笑われてばかりだもの...笑ってもいいよね。

「いつまでも笑っているんじゃない…」

シセルが嗜めるも、リオーネは笑うのを止めなかった。チラチラと垣間見ては小さく肩を震わせている。

日頃の雪辱を果たしているな..とシセルは思った。本当に生意気な弟子だ…

「憶えていろよ。」

シセルは密かに誓った。後で必ず復讐してやる…


噂の姫君が伯爵夫人に伴われて現れた時、リオーネは母娘二人が同時にシセルに魅了されたのを目撃した。狙った通りセオノアの横に立つ眉目秀麗な青年に目を奪われているようだ....

「彼は私の子弟です。勉強のため見学を許可しました。どうぞご容赦下さい。」

セオノアが頭を下げたあと、シセルが続けて言った。

「私の存在は空気も同じ....どうかお気になさいませんよう。」

ハッタリもいいところだ....

自分のセリフに呆れつつ、シセルは意図的に微笑んだ。

後ろに控えているリオーネはさぞかし腹を抱えている事だろう。

そのリオーネの役目は、主に姫君の姿勢と服のひだや宝飾品の直しだった。

未だ少年であるという理由から、姫君に触れることを許されたのだ。

姫君は同じ年頃だと言うが、赤身の全くない白く美しい肌をしていた。

高価な宝飾品と華美なドレスを身に纏い、クルクルと巻いた長い髪は花やリボンで飾られている。

母親である伯爵夫人はリオーネをこき使い、自分の納得がいくまで注文をつけた。お陰でリオーネは夫人に罵られて散々な思いをしたが、娘をより美しく見せたい親心は少し理解できた。

...きっとお母様はこんな女の子が欲しかったんだろうな...

リオーネはシャリナを思い出し、少しセンチな気持ちになった。自分の我儘を受け入れてくれた母...いつも穏やかで優しく、泣いている時は抱きしめてくれた。

お母様の声が聞きたいな.…

そう思うと、つい目頭が熱くなった。


「まったく伯爵夫人の態度と言ったら!」

セオノアは文句を言った。

「伯爵は妻子に甘すぎるわ。あのわがまま姫もリオンとは大違い。落ち着きはないし、最悪よ!」

滞在5日目にしてついに耐えきれなくなったのか、今夜の子爵は珍しく荒れていた。シセルを部屋に呼びつけ、執拗に酒を勧めて来る。

「どこの姫君も多少なり我儘で傲慢なものです。リオーネ様は特別だ。」

シセルもすでにかなりの量を飲んでいた。未だ正気を保つ程度ではあるが、リオーネに対する夫人の扱いには怒りを感じていたからだ。

「そうよね。リオンは本当に可愛いわ…素直で純粋で…こんなに愛おしいと感じるのは初めてよ。」

.セオノアは言って、自分のベッドでぐっすり眠っているリオーネを見遣った。

「出来ればずっと傍に置いておきたいくらいよ...私の一生のパートナーとして....」

シセルはセオノアを凝視した。

「一生のパートナー?」

「...でも、リオンが好きなのはサー・バージニアス....貴方だわ。今はまだ目覚めていないけど、いつか気づいてしまう…その気持ちに...」

彼はそう言って悲しい目をした。

セオノアは酔っていて正気ではない。戯言だ…

シセルはそう思う事にした。しかし、リオーネへの感情が真実であれば聞き捨てならない。セオノアの言うパートナーとは、一体どの関係を意味するのだろう。

「貴方もリオーネを愛しているのでしょう?」

セオノアはなおも言った。

「隠したって無駄。顔に書いてあるもの...」

酔った勢いとは言え、子爵の問いかけはシセルを困惑させた。

確かにリオーネを愛おしいと感じる。それが正直なところだ。

「だからと言ってどうすれば良いと言うんだ...」

シセルは低く呟いた。まったくやりきれない....話が複雑すぎるんだ。

セオノアが静かに笑っている...自嘲か、それとも同情からか...

シセルは自ら酒を盃に注いで飲み干した。冷静になれと理性が叫んだが、苛立ちは止めようがなかった。

「その調子よ、騎士殿。あの子への思慕はお互いに秘密…今夜中に封をしてしまいましょう…」

セオノアは虚ろに微笑みながら盃を頭上へと掲げて言った。

「迷える画家と騎士の夜に...」


「これでいいわ。」

セオノアは自ら描いた何枚もの下絵を眺めて頷いた。

「あとはアノックに帰って完成させるだけ...今日中に帰る支度をしましょう。」

その言葉を聞いたシセルは安堵した。ようやく「美男の弟子役」から解放される。この7日間は地獄だった。城中の貴婦人がギャラリーとして押しかけ、廊下を歩けば絡まれた。時には夜の誘いを受けたこともある。

「もう演技をする必要はないな。」

シセルは絹のシャツを脱ぎ捨てた。リオーネが残念がるのを尻目に、あっという間に元の姿にもどってしまった。

「惜しいわ。いい男だったのに…貴婦人たちがさぞかし落胆するでしょうねぇ…」

セオノアまでもが揶揄したが、騎士に戻った彼が「微笑む」事はもう二度と無かった。

昼前にリオーネとシセルは二人で荷をまとめ、セオノアの道具とともに馬車への積み込みを始めた。気付けば作業をするシセルを見ようと多くの貴婦人たちが窓から覗いており、ひときわ目立つあの姫君も 、身を乗り出してこちらを見ていた。

「姫君達が別れを惜しんでいますよ、教官。」

作業の手を止めずにリオーネは言った。

「最後にもう一度演技をしてあげてはどうですか?」

私も見たいし...と小声で呟き口角を上げるのをシセルは見逃さなかった。

この姫はまだ私をいじるつもりらしい....

シセルは一計を案じた。今こそ復讐の時だ。

「演技か....」

シセルは手を止めてリオーネを見つめた。

「では、私の弟子にも協力してもらおう。」

「…協力?」

シセルが傍へと歩み寄って来る。そして姫君達の方向に向かって丁寧にお辞儀をすると、次にリオーネの身体を引き寄せ、思いきり抱きしめてキスをした。

一瞬で場が凍りついたのは言うまでもない。シセルが男色であると誰もが認識したことだろう。

貴婦人達は驚きと嘆きの声をあげ、姫君も衝撃を受けて呆然となった。周辺にいた全ての人々の目も、二人に釘付けとなった。

やがて唇が離れると、二人は互いに見つめ合った。

「教官...少しやり過ぎではありませんか?」

リオーネは小声で囁いた。

「評判が落ちますよ。」

まだ額が密着していたが、リオーネは冷静だった。

「それはお前も同じだ…当分噂は消えないぞ。」

そう言って不敵に笑うシセルの声音に、リオーネは彼の意図を察した。

どう考えても教官らしくない行為…まさか?

「これって…単なる嫌がらせ...」

「散々笑ったお返しだ。」

傍目には見つめ合う恋人同士のように見える…しかしそこに愛の存在はカケラもなかった。




「…私が留守の間に、父上が...?」

「はい。セオ様の絵を取りに来たと仰り、いくつかお持ちになりました。」

セオノアの顔から血の気が引いた。父が来た。よりにもよって不在の間に…」

「アトリエにも?」

「申し訳ございません。お止めしたのですが、伴の者に制止され..」

セオノアは マシュの言葉を最後まで聞かず、階段を駆け上がった。

アトリエ内に入り、部屋の隅までその絵を探した。しかし、それは何処にもなかった。モガートが持ち去ったのは明らかだった。

「なんと言うこと....」

セオノアは茫然となってその場に座り込んだ。

「セオ様...?」」

リオーネが心配そうに覗き込む。

「大丈夫ですか?」

菫色の瞳で見つめながら、リオーネは細い指でセオノアの頬にそっと触れた。

「リオン…」

セオノアは思わず腕を伸ばしてリオンを抱きしめた。

「私は…大変な事をしてしまった…」




後編につづく


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