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悪魔がいっぱい  作者: 安曇野レイ
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悪魔の右腕

 長井一郎は無感動な人間だったが、善人だった。

 ある日天使が彼の家のインターホンを鳴らし、警告を与えに来た時も、畏怖の念を抱いたけれど、驚きはしなかった。天使は高校の担任と同じ姿格好で、背が低く、分厚いビン底眼鏡をかけ、唇は薄くて出っ歯だった。

一郎の部屋で彼と二人きりになると、途端に息苦しくなるような後光が射し始め、お客は自分が天使であることを宣言した。目に見えない翼がはばたき、一郎はその場に跪いていて飛ばされまいと畳の縁に爪を立ててふんばった。

「間もなくここに悪魔がやって来ます。彼奴は君の魂を地獄へ持って行こうとするが、決して従ってはなりません」天使は言った。

「もちろんです」

 固く約束をすると光は薄れ、一郎はまともに目を開けてもよくなった。そこには退屈な教師が一人立っているだけだった。教員はぶつぶつぼやきながら、大した疑問も抱かず、帰って行った。

 居間のテレビをつけ、再放送の恋愛ドラマを眺めて三十分も経った頃、電話が鳴った。クラスメイトの安藤浩子の声で、「私は悪魔。これから行くから待っててね」と通達があった。

 果たして、一郎が受話器を元に戻した瞬間、彼女が直に玄関の扉をノックした。

 二人は彼の部屋で座布団の上に座り、腰を落ちつけてじっくり話をした。

 一郎がいれたレモンティーを互いにすすり、味について下らない話をした後、これという前置きもなく本題に入っていった。

「気付いていないかも知れないけれど、あなたって実は、世界で最も優れた詐欺師なのよ。ジョージ・パーカーってご存じかしら?」

 一郎は首を振った。目の前の安藤は、学級の副委員で、書道部の部長だった。真面目で、何にでも真剣だから、いつもきつい表情をしているが、一郎は時たま目にする彼女の笑い顔を心から尊敬していた。

 自分のように無感動な人間には、一生かかっても手に入れられないものだと思っていた。本当に、楽しそうな笑顔だなあ、と思ったら、もう忘れられなくなっていたのだ。

 だから悪魔に体をのっとられた浩子が、その微笑をふりまきながら、懸命に自分を説得する様子は、心が踊ってしまうような素敵な眺めだった。

「ジョージはアメリカの詐欺師だったわ。マディソン・スクエア・ガーデンや、自由の女神像を売ったことがあると言ったら、その狡猾…いいえ、才能ぶりが分かるでしょう?」

「そうだね」

 彼は心から同意したしるしに頷いた。

 そういう話は昔からよくあったことだと本で読んで知っていたが、黙っていた。田舎者をだますケチな手合いだということも分かっていたが、会話は相手をそこにいると認めなければ成立しない。彼女がしゃべっているあいだは、一郎は喜んで口を噤んでいた。

 実際は浩子の笑みが賛同を求めるのなら、太陽が南から昇ると言われても一郎は喜んで頷いていたに違いなかった。恋愛とは人生を肯定する絶対の手段である。

「話が早くて助かるわ。あたしがここに来たのわね、一郎さん。あなたのエージェントとして働きたいからなの」

 浩子は----悪魔は見もだえして、興奮していることをあからさまに打ち明けた。

「天 使がここへ来たでしょうね…。でも、これは悪魔の無償奉仕。そう、世界で初めて悪魔が人間の才能に惚れてしまったのよ。もちろんあなたは学生で、お金持ち の大人たちをだますのには、風格が足りないけれど。でもそれっぽちの抜けている穴なんかは、あたしが十分に埋めてあげます。お客を連れてきて あげるわ。あなたは彼らと話し合って、みんなを納得させてしまえばいいだけ。神戸ポートタワーでも、近代博物館でも売りなさい。きっと驚くわ、どんな突拍 子もないことでもあなたの口から出た言葉なら、みんな丸飲みしてしまうでしょうから! あたしはあなたの才能に荷担したいんですよ。そして、人が人の魂を 奪い取るのを永遠に眺めていたいの、どうかお願いよ!」

「永遠って?」

 感動の薄い少年は、熱烈なスピーチの中に悪魔が洩らした一言を聞き逃さなかった。

 浩子は少しもひるまず、むしろ自信ありげに応えた。胸は激しく上下し、顔は恥じらいもなく紅潮していた。空気までがピンク色に輝き、部屋の何もかもがぼんやりと輪郭を崩した。

「もちろん、あなたの魂はわたしが管理して差し上げます。そうすれば二人は、最も優秀な魂収奪のパートナーになれるわ! 永遠に人間の魂を盗み続けるの。あたしたちは二人で一匹、究極の悪魔になれるんです」

「でも、僕にそんな才能が本当にあるんだろうか?」

「あ るのよ! 何故ってあなたは、本当に善人だからよ。善人は善人を知っているもの。どんな人間も、心の中心には善人を育てている。どんな殺人鬼だって、心の 中心にはやっぱり善人がいるわ。ただ、人によってはそれを憎んだり、悲しんだり、喜んだり、楽しんだり、愛したりするという違いがあるだけ。それが本性と いうものなのよ。

「中心に同じものがあると信じているからこそ、あなたたち人間は社会という共同体のバランスと正気を保っていられるのじゃないかしら? そしてあなたは、全て の人の中にある善人を知りぬいてしまっている、世にも希な存在なの。これは、誰だって素敵なことだと思わずにはいられないことよ…。それさえ知っていれ ば、全人類をコントロールすることだって夢じゃない。

「すべてをコントロールするのよ! それが、悪というものよ」

 聞いていると、褒められていると思ったり、けなされているのではないかと疑ったりで----一郎の表情には喜怒哀楽の色模様が複雑に横切った。

「どうかしら、一郎さん。あたしと組んでみません?」

 悪魔が居住まいを正すと、彼女の感情のエネルギーで緩みきった部屋が元に戻った。

 しばらく彼は考え込み、当の悪魔の浩子といえば、大人しく正座して、永く人間との間に交わされてきた、例の〈契約〉を始める最初の一言が、彼の口をつくのを待ち受けていた。

 残りのレモンティーを飲み干すと一郎はそれを口にした。

「君に協力して、僕にメリットは? 君が求めているのは、つまり自分の仕事を手伝ってくれませんかってことだよね。君という悪魔の言うことをきけってことだよね? 君は、僕に何かしてくれるの?」

「永遠の命を与えてあげます!」一郎はむせ返った。いきなり大量の薔薇が彼女を取り巻いたのだ。

「だけどそれは、君のお楽しみに含まれてないかい? 結局、君という悪魔は、僕を使って自分の永遠の旅に見合うだけのお楽しみを手に入れたいだけなんだ」

「分かったわ。確かに、フェアじゃなかったかもね」

 二人は互いにニヤリとした。

「あなたの欲しいものを言って頂戴。どんなものでも叶えてあげます。だけど、一度望みを叶えてしまったら、あなたはわたしの右腕になるのよ。そして、二人で、世界中の人間の心を永遠に征服し続けましょう! 二人は最強の悪になるの!」

 それが君たち悪魔という存在の弱点なんだな、と一郎は思った。悪魔って奴は、何でもかんでもサービスしすぎなんだ。もちろん人間の魂にはそれだけの価値があるからかも知れないけれど、要するに待つことができない、根っからのギャンブラーなんだ。

 飼い犬に初めにしつけるのは、お手とお座りと、待て、だったよなと一郎は考えてみた。きっと神様は、いつまで経っても〈待て〉を覚えようとしないからこそ、天上から悪魔を放り出したのじゃないだろうか。

 一郎は思った。----結局、人間は従順な生き物なのかも知れないな…。神様にあっては神様に、悪魔にあっては悪魔にしたがってきたのかも知れないもの。

 さて、僕はどっちにしようか…。

「どんな望みでもいいの?」

 悪魔はとびっきりの笑顔でうなずいたので、危うく一郎は気力を失いそうになった…。この微笑のかたわらで、永遠に旅をすることができたら、それはきっとどんなに…。

 だが一郎は無感動な人間で、世間の些事に関心を持っていなかったとはいえ、根は善人そのものだった。

 結局彼は世の正しい行いを為す英雄たちと同様、自分でもよく分からない心の命ずるがままに、面と向かって悪魔に逆らってしまったのだった。

 一郎は弱々しく笑った。

「僕の願いは…君と気持ちよく、仕事がしたいからなんだけど----今のままじゃ、それは無理だからね。つまり、<悪人になること>」

 一郎は辺りが真っ暗になり、絹を裂くような悪魔の絶叫で気を失ったのだと思った。気が付くと浩子の姿はなく、自分は床に横たわっていたからである。ティーカップは二つとも残っていた。夢ではなかった。

 印象的だったのは、女のヒステリーを思わせる光景が----部屋のカーテンが散々に引き裂かれていて、それでも柔らかいその生地が、眠っていた自分の体を優しく包みこんでいたことである。カーテンはちょっぴり濡れていた。彼女の涙だった。


*   *   *


 けれど悪魔はあきらめなかった。


 あれ以来、何故か一郎と浩子は親しくなり、放課後に待ち合わせたり、お互いの部屋を訪れたりしたのである。

 やがて結婚し、二人の間に男の子ができた今でも、時々あの悪魔が浩子の顔に現れてはささやくのだ。「まだ気が変わらないの?」と。妻の目で、悲し気に訴えることがある。そう、しょっちゅうという訳ではないが。

 担任の姿をかりた天使の方は、何度も忠告をしにやって来るほど暇ではないらしい。二度と一郎の前には現れなかった。人生の価値ある厳しい忠言とは、そのようなものかも知れない、と彼は時々思うのである。


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