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悪魔がいっぱい  作者: 安曇野レイ
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悪魔の原稿

 山田集一はコタツに入っていた。右手に鉛筆を握り、左手は原稿用紙を押さえている。

「無理だ」

 彼は呟くと鉛筆を両手で折ってしまった。

「短編なんか書ける訳がないじゃないか…僕は長編作家なんだ。自分に才能が無いのも良く分かってる。無理だ、不可能だ。何もかもエージェントのせいだ。僕がこんなに苦しむのは、決して自分のせいじゃないぞ」

 それでも折れてしまった鉛筆を握り直し、彼は原稿用紙に鋭角を近づけていった。だが、紙からは〈書けない〉というマイナスの磁力が働いているかのようだった。彼は腕を引っこめざるを得なかった。

 集一は目を前にチラリと向けた。テレビの上の掛け時計は午前十一時半を告げている。「もう十二時だ! あと三十分で書けたら僕は天才だ」

 腰元に寄せてあったケータイが鳴った。集一は投げやりな気持ちで電話に出た。

「はい、ああ及川さん。もう駅に着かれましたか。はあ。そうですか。なるべく、ゆっくり来て下さいね、いいえ、こっちの話です、それじゃあとで」

 集一は電話を切った。鉛筆をみんなボキボキと折ってしまった。自分のしたことに胸がむかついた。砕いたものをそっと寄せ集めるとゴミ箱に持っていって、涙ぐみながら捨ててしまった。

 電話が鳴った。「くそ!」と叫ぶと集一は受話器をとって怒鳴った。

「山田、です!」

 明るい声が耳元で広がった。

「お困りのあなたに吉報です! たった五分であなたの短編小説を完成させて御覧に入れましょう!」

 それは女の声だった。聞いたこともない声だ。

「あんた誰です」

 機嫌のわるい集一はムッとして言い返した。相手は態度を変えなかった。

「悪魔です! 一度、わたしと話をしたかったのでしょう、集一さん。あなたの『死の起源』、読みましたよ」

 いきなり真っ白な閃光が彼の目の前で発生した。目を開けると、煙の中に若い女が立っていた。

「お困りでしょう、助けてあげますよ!」

 両手を伸ばして女は言った。よく見ると赤茶けて豊かな髪の中に黄色っぽい角があり、耳のそばから垂直に立っている。

 彼女は全身にピッタリした真っ赤なラヴァースーツを身につけていた。自分の胸の大きさを誇るように、悪魔は背中を反らしてもったいぶったウィンクをした。

 エージェントの松井なら喜ぶだろうが、集一は違った。彼は悪魔という存在のことなら本で読んでよく知っていたからだ。それに、彼は朴念仁だった。

「ふざけるな! 短編小説一つで魂を売ってたまるもんか、失せろっ!」実際、彼はそう怒鳴っていた。

「山田集一さん。あなたが責任感の強い作家だということを、わたしたちはよく存じあげております」

「不法侵入者の君に命令する、出て行けっ!」

「才能よりも信用でしょう? わたしが出て行ったらどうするのかしら? ねえ、どうするのかしら…」

「来るな、触るな!」

「恥ずかしがり屋なのね。良ければもっと肉感的な女性になっちゃおうかしら。論より証拠。どうぞ、これを」

 女が掌を上にして差し出すと原稿の束が出現した。彼は鉛筆書きのその束の上にある題名を見て、思わずひったくっていた。

「貴様! なんだこれは? 『怒りの虹』だと?」

 彼の視線はコタツの上にある一枚の原稿に向けられた。

 そこには〈怒りの虹〉があった。集一は悪魔のくれた原稿と、自分が題名しか描けなかった一枚とを見比べた。二つは同一の筆跡だった。

 悪魔は彼の後ろからのぞき込んで耳元にささやいた。女の髪が集一の頬をなぞり、彼はぞくっとした。

「そこにあるのは、〈あなた〉そのものが描いた作品。読んでみたら分かるわ。〈あなた〉自身だってことが」

 言われるまでもなく集一は話の筋を追っていた。文体も人物も、表現の仕方までが彼のものだった。

「盗んだな! そうか、だから…」集一はわなわなと震えた。

「もちろん、悪魔ですもの。あなたが書けなかった理由がこれで良く分かったでしょう? あなたは本当はちゃんと書いていたのよ。あたしが横取りしちゃっただけなの」

 集一は拳骨を振り回して飛びかかった。悪魔が手を一振りすると真っ黒な鎖が幾筋も現れ、彼を覆った。気が付くと集一は畳の上に打ちつけられて、とりこにされてしまっていた。

 インターホンが鳴った。

「あら、きっと及川さんよ。それじゃあたし、原稿を届けてくるから」

 床の上の集一は声を張り上げようとした。悪魔が指を突きつけると口にガムテープがピッタリ貼り付いていた。

 みじめな作家の耳に、担当と悪魔の会話だけが聞こえてきた。

「おや! あなたは? 山田さんは?」

「疲れて眠っていますの。はい、これが原稿ですわ」

「二、四、六、八…確かに三十枚。すみませんが、中に入って読みたいんですがねえ」

「あら、その必要はありませんわ」

 集一は玄関の方で光が放たれるのを見た。及川の、酔っぱらったような声がする。

「これはなかなか面白い! きっと受けますよ。それじゃ、わたしはこれで帰ります。山田先生によろしくっ!」

「いいえ」

「は?」

「山田大先生ですわ」

 及川の笑い声が薄情にも遠去かって行く。

 悪魔は戻ってきた。

「あなたの魂はわたしのもの」もう一度指さすと、集一はすっかり自由になった。

「泥棒! 強盗! なんてやつだ! 僕がいったいなんの取引を願ったっていうんだ! お前に僕の魂を奪う権利なんてあるのか?」彼は大声で叫んだ。

「それじゃ勝負しましょう。昔から決まっているのよ。悪魔と人間の戦いは、つまりこういうことなの。人間の魂は、最初から悪魔のもので、たまにある人物だけが取り戻す権利を生み出すってこと。山田集一さん、あなたみたいな昔気質の作家にそれが出来るとお思い?」

「やらないでおけると思うか」彼は目をすえた。

「もし、あたしと契約を続ければ、あなたはそこにいながらにして作品を生み出せるとしても? オマケにあたしがずっとそばにいてあげても駄目かしら? 毎日色んな女性になったげるわ。わたしの心は、あなたのものよ」

 言うなり、悪魔は一糸まとわぬ姿になった。

「僕は勝負する。悪魔め、作家の原稿を盗むことが、どんなに罪深いことか思い知らせてやる!」

 彼は歯を食いしばり、目をつぶって言っていた。

「今のあなたには魂がないってことを忘れないでね」

「僕は人間としてお前に勝負をいどむのだ!」

「いいでしょう。でも、あたしが〈親〉よ。ルールはあたしが決めるわ。あなたは質問するだけ。そうね、大目に見てあげる。三回まで自由に質問しなさい。そのあとで〈絶対にできっこない〉命令をしてみなさい。あたしができなかった時は、あなたの勝ちよ」

「ではさっそくやってやる…。たとえば、時間跳躍なんてどうだ? 本能寺の変から織田信長を救い出すなんてこと、できるのか? おまえは因果律にとらわれないのか?」

「くっだらない質問」

 悪魔は穏やかな波の打ち寄せる海辺に、サングラスをかけて横になっていた。集一の部屋の畳が半分、砂浜にうずもれてしまっている。その向こうは夕暮れ時のビーチで、沖を流れているヨットに明かりがついたところだ。ビキニ姿の彼女は口元にワイングラスを運びながら、第一の質問に答えた。

「見て? あたしは空間も思うがまま。時間だってお手のものよ。何百万年かしたあと、魚とコンブが陸を歩いているわ。けれど、そいつらの言葉だってあたしには分かるんだから。過去でも未来でも、自由自在。だけどね、あなたの命令で変えてしまうのは、あなただけの時間よ。信長が生きていたらという時間を生きるのは、あなたひとりだけなの。自分の欲望には責任を持つことね。あなたの望んだ歴史は誰とも分かち合うことはできない。そう、ま、あたしをのぞいては、誰も変化に気づかないからね」

 悪魔はゆっくりとウインクした。集一はぶるっと頭をふって、質問を続けた。

「…では二つ目。おまえはその…<物知り>なのか? どんなことでも知っているのか?」

「はあ? ふざけてるの?」

 悪魔はテーブルの上のグラスを払った。グラスは壁にふっ飛んで行って砕けた。彼女は深紅のテカテカと光るドレスを着、口には煙草をくわえている。後ろの方でジューク・ボックスが ジャズを鳴らし、カウンターの奥でバーテンが何事かとシェイクを止めて目をむいている。悪魔は両手をテーブルに叩きつけて、向かい側の席に座っている集一に 迫った。

「あたしは全知全能よ!」

「…違うな。お前の知識には限界がある。お前は僕の心を読むことはできないんだ。お前が怒っているので分かったよ。僕が何をするのか分かっているなら、そんなに髪を逆立てる必要はないはずだろ? 知っているんだったら。ほら、耳の穴から煙まで吹いちまってる」

 集一はニヤっとした。

 バーの明かりが落ちた。女悪魔はがっくりと首をうなだれている。その顔は、彼女の髪と、天井から揺れているランプの影になっていて見えない。

「それで…? あんたは、心を読んでみろって言うわけ?」

「いや。全知全能なのは神様だけだ。それはフェアじゃない。僕は、最初の約束通り、お前が〈絶対にできっこない〉命令をさせてもらおう。お前はそれをしなければならないんだろ? さあ、やってみせるんだ」

 悪魔はゆっくりと顔を上げた。その目に、集一は初めて恐れが浮かんでいるのを見た。悪いことをたくさんして、みんなばれてしまった少女の目だ。彼は丸テーブルの上にあったグラスを手に取ると、薄暗がりにちょっと光を透かすように、傾けて飲んだ。どうして彼女のグラスをとりあげたのかといえば…勝利の味がどんなものなのか、知っておきたかったのだ。集一は下戸だったが、悪魔の選んだワインが極上なのは分かった。それを味わい、記憶に刻んだ。いつか小説に書くために。

 グラスを元の位置に戻すと、彼は腕を伸ばし、壁をまっすぐ指さした。暗がりの中で、女悪魔がわずかに動くのが見える。

「走ってゆけ。どこまでも。お前のエネルギーがつきるまで。この先へ、どこまでも駆けてゆけ」

 空間がぐんにゃりとよじれた。何もかもがぼんやりした。

 悪魔は震えながら背を向けると、「あなたって…やっぱり素晴らしかったわ!」と言い残し、それから、一目散に走り出した。

 彼が指さした方向へ向かって走っていく。どこまでもどこまでも走り続け、あっという間に小さな点になり…悪魔は消えた。おかしな空間は、真っ白な光を放ち、次に目を開けた時には、集一は自分の部屋を取り戻していた。

 クスクスと抑えきれない笑い声を立て、集一は両腕をまっすぐ上に伸ばした。「よし…僕は書くぞ!」

 彼はコタツにもぐりこもうと、振り返った。

 集一はあっけにとられて口をぽかんと開けた。目をしばたいた。

 天井の高さにまでそびえる原稿の山が、部屋を占領していた。一枚、二枚、ヒラヒラと舞い落ちてくる。不意にコタツの足が折れ、原稿の雪崩が起きて、彼は呑みこまれた。

 彼は原稿の海からはい上がると、その題名を、文体を読み、それから次々に部屋を渡り歩いた。トイレも風呂桶も、キッチンの流しも原稿の山だった。電子レンジも冷蔵庫も。流しの下も靴箱も。そして原稿を読むたび、記憶がよみがえってくるのだった。女悪魔に奪われたものが、復活するのだった。

「これも! これも!」

 集一はページをめくりながら歓喜に満ちて叫んだ。

「僕の原稿だ! 僕の原稿だ!」

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