第三曜「不可逆ランデブー」
前へ前へと向かう不可思議な文字通りの現実逃避から開放されていた私は、今では現実的な現実、とでも呼びたくなる事情に直面していた。先程までが「朝」の一連行動とするなら、これから足の回復へと向かうまでの時間が「夜」、と言う事になる。不自由していない手という道具を最大限に利用して、次の「朝」への自己欺瞞的な活力を肉体的にも精神的にも補充しておかなくてはならない。これを怠った場合の世界の無慈悲がどの程度かは知らないし、知ろうという程の好奇心も余力も無い。せめてこの「夜」くらいは、束の間の平穏に身を浸らせておきたいものだ。
そしてその夜行性の人間に課せられた行動が何かと言えば、簡潔に言って食料確保である。ほぼ一日一食を定義付けられている私には、恐ろしく重要かつ難度の高い作業である。光源というものがあのか細い月の外枠から齎される極細微な分量でしかない事、一度として同じ場所に留まる事を許されていないと言う事実が、事の非常さ、非情さを際立たせていた。そして何より、移動には明らかに不向きな手を最大限に生かしてそれを確保しようと言うのは、今日までそれを達成してきた自分を信じられないくらいだった。ある種、もう新人類を名乗っても可笑しくない境地に達しているのかもしれない。
「朝」に現れるあの月は、唯一の光源なのだから太陽を名乗らせても可笑しくは無いのだが、こんな狂気世界での生活を強いられる以前の太陽への感謝(そんな感情は、以前無かったとはいえ)の気持ちからあの名に落ち着いている。月なぞ詩人の幻想美に彩られていない裸の姿では、全く評価できた存在ではない。
だがそんな月でも今では程度はどうあれ燈し火である。利用していない訳ではない。この世界の闇のヴェールを脱がせる物と言えばやはりどんな他の五感よりも視覚であり、その視覚に必要不可欠な隣り合わせとなる物といえば光であるからだ。私は「朝」に有って時刻を刻々と有意義に過ごしていく間、何も月の愛に応える従順の証としてのみ目線を行使させている訳ではない。世界の物理を垣間見れるその知の媒介者を通じ、この未知なる悪夢の広がりに佇む有機物無機物の情報を少しずつ取り入れている。
森を走る事が有り、河を走る事が有る。何日も山を上る時が有り、そして何日も山を下って行く。月はその時々によってその様相を変えていく。森を走る時なら、森の木々の頭上を越え私の視界から漏れない位置で世界を照らす。河を走る時、私の足に揉みくちゃにされる光の飛沫が辺りに撒かれる。山を上る時には、私の行方の遥か彼方に、下るときには、眼下をさり気無く満たしている。そして今の様に平地を走る時、それは私に何かを語り掛ける様な位置でうっとりと佇む。来る日も来る日も、私の忠誠は乱暴な方法で確かめられていた。




