The Third Day「Last Sunset」
「…何を言ってるんだ…?」
「待っていたんだよ、今日と言う日を。お前が研究を完成させて、何もかもに絶望して、この国を、この国と共に在った自分自身を棄てて、その最後に俺に会いに来てくれるであろう、この日をな。もう研究室の連中は全員帰した、俺とお前、二人きりだ」
「…だからと言って、何故俺がお前を殺さなくてはならないんだ!?」
「…もう、俺は自分の腐った研究に手を出したときから死んでいたようなものさ、世界がこういう風になってしまう事を聞かされて、尚その原因の核に携わっていたんだからな。だから、最後の別れに、この国と共に在った、この国と共に在る事しか出来なかった俺も、お前と一緒に旅立たせてくれ、お願いだ」
友の手に握られたナイフの銀が、この薄暗い研究室の中で一際に眩しい。その眩しさの中に、自分が逃げ込んで行ける輝かしい天国が見えるような気さえしてくる。そして、その光の中にぼやけて映る哀れな男二人の輪郭が、二人の内のどちらか、或いは両方が今にもその世界の中ではっきりとした存在となって行く事を象徴しているかの様で、物悲しく見えた。
「…待ってくれよ、俺には、人を…ましてやお前を殺す事なんて…出来ないよ」
出来ないよ、か。なんて薄汚い嘘を付くのだろう。お前の研究成果は人殺しの効率化、子供をその親を不幸にする為の戦時産業プロセスの開発だろう?しかし、どんなに人としての正しさを見失っても、私はこの男だけは殺す事が出来ない。この男と、この男の中にいる、きっと人として認めて貰えている幸せな私だけは、失いたくない。
彼は笑った。優しい笑顔だった。そして、その笑みが嬉しい事、喜ぶべき事を一つも表現していないと言う感じの、子供が許しを請うような、そんな笑顔だった。
「そう言うと思ったよ、お前は昔からそうゆう奴だったよな。自分の意見ばかり見て、相手の意志は殺してしまう。だから相手の意志がお前の意見の尊重だったとしても、そんな物は信じてこなかった、そうだろ?俺と同じだよな、だから俺達はこんな殺伐とした鉄の檻の中でずっと上手い事疵を舐め合って来たんだ。お互いに触れ過ぎて傷つけ合う事も、離れ過ぎて不安になる事も無く、檻の格子の間から手を伸ばして、その手を握り合う事で分かり合った様な積もりになってとりあえずの安心を得て来た。でもそんなのじゃダメだ、ダメなんだよ。俺達が本当に狂いそうな程汚れてて痛んでて舐めて欲しい疵は、その檻の向こう側の、鉄に体温を奪われてすっかり凍えてしまっている、凍え過ぎてその痛みさえ忘れてしまっている、この胸に有るんだからな」
それは、私に向って言っている言葉ではない、他人にそんな極限の依存を訴える大人なんていない、それは、母親の愛を知らずに生きて来た子供の飢え、その飢えの癒し方を知らないまま大人になってしまった人の嘆きだ。そして嘆きは、人が終に望みを手にする事が出来ない事を悟った時に叫ばれる。全ての明るい可能性の終局点、人にとっての死に際、彼は遺言を言っているのだ。
「でももうダメだな、そんな疵、もう何処に有るのかも分からないから。そんな何処に有るかも分からない疵を探して、随分自分の体を傷つけたよ、こいつでさ」
そう言って、彼は白衣の袖を捲って見せた。今まで見たことも無い彼の暗部だった、まるで彼の人生とは彼を何処まで傷つける事が出来るか、という事が目的だった、と思わずにはいられないほど、無数の傷痕が細い腕に広がっていた。
「…頼むよ。これ以上惨めになりたくない。これ以上惨めになったら、きっとお前は俺が友である事を許してくれないだろう。だから、俺がお前の友人でいられている内に、現実世界に有る小さな夢の中で、綺麗に消えさせてくれ」
気付くと私の手はナイフを握っていた。いつの間に、ナイフは私の手に有ったのだろう。彼の話に気を取られている間に、そっと握らされていたのだろうか、それとも、話の中で自然と私は無意識の内に彼の悲しい願いを叶えてやろうと言う気になっていたのだろうか。それとも、私自身が、この友人の唯一の救いで有る、少しばかりでも生きている価値の有る内に、消えてしまいたいと思ったから、なのだろうか。
ナイフを見詰める。輝く光の天国が、さっきよりも近い。私の輪郭もはっきり、鮮明に映っている。
「…これが悪い夢で有ってくれて良かった。いい夢は、醒めた後が余りにも悲しすぎるから…」
彼の瞳は、沈み行く赤をずっと見詰めていた。その瞳に映った色が消えた時、私は彼の瞼を閉じてやると、そっとその場を後にした。




