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Singalio Rou' Sel' fier-Autrue ch Rutuc  作者: 篠崎彩人
Last Week「破壊の記憶・後編」

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The Second Ray: "Fairy-Lamp"

 あかい世界だ。すべてがあかい。わたしをみたしている世界のすべてがまっかだ。さっきからくちのおくからたれながれてくるちへどさえきれいなかわのみずのながれにおもえてくるほど、むこうのほうにあるさきゅうがかぜにふかれてくずれていくさまがこなごなになったばらのかべんがそらをまっているふうにみえるほど、あかい。わたしはてんをあおぐ。そしてそらのぜんたいをおおうゆらゆらとしてしんぞうのようにみゃくうつものをかくにんする。そのくうきのけっかんがこどうするおとはきこえない、もうこまくはきのうしていない、さっきからみみのあなはちではないとおもうがなんらかのえきたいがとろとろとこぼれおちてきていて、そのえきたいのふだんひふにふれるべきではないせいしつのあかしとしてかおのさゆう、みみふきんのぶいがへんにねつをもっていて、いたい。ときどきじぶんがまっすぐあるけていないことにきづいてからだをまっすぐにしようとするとさらにからだのばらんすをくずす、つまりわたしのばらんすかんかくじたいがもうくずれている。だからばらんすをととのえようとするのをやめたが、やめるとこんどはしかいが90どくらいかたむいたりする、くびのきんにくのどこかがひかりにやききられたのかもしれない、つまりいまくびのほうこうをしはいするのはじゅうりょくと、くびとじめんとのあいだにあるしょうがいぶつとしてのじぶんのにくたいだけだ、いまはどうやらひだりかたがあがっているのでみぎにくびがいっている、ちへいせんがたてにみえる。たてにみえるちへいせんをあるこうとしてあしがありもしないそくめんをあるこうとしてしまう、そのかんきょうてきおうをとめることができずわたしはさっきから25ほから33ほのあいだでてんとうしている。さいわいてんとうといってもあるくそくどじたいそうはやくはないのでうけみをとるためのてがいまやふずいするにくとほねのやなぎでしかないこのじょうたいでものうにちめいしょうがおよぶことはない。のうにちめいしょうがおよばないのでいまややなぎでしかないてがじめんにはげしくまさつするときのいたみのかんかくもいまだじゅうぶんにきのうしている、ころぶたびにさゆうどちらかのてがくるおしいほどじめんにこすりつけられてわたしはこえにならないひめいをあげる、たぶんちょうかくがまだあったとしてもこのひめいはちゃんとおんせいとしてききとることはできないだろう、のどをふくめて、こうないはもうかんそうしきっていてうごかそうとするとくだけるのではないかとおもうほどいたむからうごかさない、そしてこのはっせいにかんするいちれんのそしきをしんどうさせることをしなければこえはおしつぶされたありのあっしゅくおんれべるでしかだすことはできない、そんなくうきしんどうはこえとしてがいぶにとうたつするまえににくのかべにきゅうしゅうされてきえてしまう。ああころんでしまう、またたてのちへいせんがよこにながれていく。そしていたみだ、もういたみのかんかくがわたしをころすのではないかというくらいきょうどのきけんしんごうがやいばのついたじょうほうとしてわたしののうにつきささってくる。そして、たつ。たつときはもうてがつかえないのでなんとかあたまをじめんにおしつけるようにしてしりをうかせるようなしせいでまずあしからからだをもちあげる。そのあとひざをじめんにこていしてあたまをうかせる。あたまをうかせるといってもくびのきんにくがしんでいるのでじょうはんしんでうかせる。あたまはいがいにおもいのでじょうはんしんがちょっとそるようなしせいまでもってくる、ちょうどしたをむいているかおがじめんにくっついているひざをまっすぐみつめるいちになる。そしてそのじょうたいをそらしたしせいでつまさきをじめんにくいこませるようにしてまっすぐにたちあがる。これをいままで176かいやった、いま177めにしてひとつちがうことがあった、やなぎのようなてがさっきのしょうげきでいっぽんなくなってからだをはなれていた。みぎてだった、だからいまはもうすでにひだりのほうがからだがおもい、うまくたたなくてはさいしょからばらんすがくずれてしまう、さいしょからばらんすがくずれるところぶまでにへいきんしてあるけるきょりはかくだんにちがってしまう。これはさけたかった。さけたかったのでいっそもうかたほうのてもちぎっておこうとおもった。そのばでなんかいもひだりてのほうからころんで13かいでようやくぼろっととりのぞけた。これでしっかりあるくことができる。わたしはほっとしてまたたちあがろうとする。たちあがろうとしたところで、ぽと、とくびすじにえきたいのかんかくがあった。くびをじぶんであげることはできない-てんをあおぐのはめせんだけでやった-ので、ころんであおむけになった。あめだ、とおもった。とてもきもちがよかった。わたしはそのあめにみたされたまま、きゅうにしにたくなってきた。じぶんはなんのためにこんなかんきょうのなかをくもんするせいのれんぞくをせんたくしているのだろう、いっそもうじゆういしによるせいのせつだん、じさつをもとめてもよいのではないか。しんではならないこんきょはなんだ。じゅせいだ。じゅせいのかちはじさつのあんらくにまさるのだろうか。かのじょののこしてくれたせいのかちがじゅせいのかちにひとしいのだから、じさつをえらぶどうりはないはずだ。ならば、かのじょへのあいのこんきょはなんだ?

 かのじょは、わたしをえらんでくれたじょせいであり、わたしのえらんだじょせいだ。いや、それだけではあいではない、あいはあいてのためにしぬかくごをもつかどうか、あいてのいのちをじぶんのいのちよりこういとみるかどうか、できまる。そしてかのじょはそれをじっせんした、わたしのいのちをかのじょのいのちのそんぞくよりもゆうせんした、だからかのじょのあいのありかのたしからしさはじゅうにぶんだ。だがしかし、かのじょはほんとうにそのあいだけのためにじぶんのみをとしてまでわたしをまもってくれたのだろうか。わたしがそのかのじょのぎせいのためにまもろうとするこのいのちのかちはどこだ。

(ナーユ…)

 わたしがけっこんしてつまとしてもなお、あいすることができなかった、けっこんいぜんのだんかいすらこえていなかったかのじょ。かのじょへのみれんが、わたしをいまのこの世界へとみちびいているのだろうか。かのじょへのつうれつなつぐないのねんが、てんしだとだんていされていたかのじょのじこにんちをつらぬいてねむっていたはるかかこのきおくをよびさましたのかもしれない。かのじょがわたしをあいしてくれていた、そのきおくを。いまではもうとおすぎてはっきりおもいだすことのできないあいまいな、だけれどとてもたいせつなきもちのために、わたしをすくい、じぶんをなげうって、えがおのままに、しょうめつしていったのだろうか。わからない。ただ、どちらにせよ、わたしのからだにやどるこのいのちこそが、かのじょのありか、かのじょのそんざいそのものであることにはかわりがなかった。そしてわたしは、そんなかのじょのじゅんすいなおもいのこもったこのいのちをなげすてることなどできない、わたしをあいしてくれたかのじょを、こんどこそ、あいしとおしてみせる。

 あのときわたしがおもった、てをなくして、てにはいる、とべるわけではない、ちいさな羽根は、このむねのなかにあったのだ。そうかくしんしたときには、わたしはもうふりしきるあめのなかでたちあがっていた。そしてあめにひやされてこごえそうになっているその羽根を、もうむねのなかにしかない、ひとの羽根でだきしめた。

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