第二曜「月の檻」
音も立てずに今日一日分の狂気を回想の回避の為に念入りに嘔吐しながら、私は下から上へ、そして「また」上へと上って行くふざけたお月様を憎しみ交じり喜び交じりに見送っていた。そして愛らしい疲労感と純真な重力とに思い切り抱き締められ、私は自らの意思とは関係無く全身で彼らを歓迎する。そして唐突に自分に手が生えている事を「思い出した」私は、見えないその双子の頭を血が出る位に愛撫してやった。ついでに先程御預けだった口の中も楽しんだ。どうやら肉の丘には骨の石碑が順序良く立ち並んでいる。
私には一つの精神と、二つの肉体が有った。もしくは、一つの肉体に二つの精神と言う解釈も夢があって宜しかろうが、どうしてもそれでは筋の通らない単純な理屈が有った。私の精神が連続性を持っている、という点だ。「私」という一つの個性が、自分の二つの肉体を別のものとして認識している。それはつまり、手の生えていない、足だけの時の自分、と、今の様に、足が全く機能を果たせない程疲労の極致に達している状態であり、その不足をどれ程補填するのか甚だ不明瞭だが、とにかくも雑草の様に生き生きとまるで今までの不在を弁解する様子も無くそこにある手、そして手よりは遥かに自分の一部分として愛着と信頼の持てる足、その両方がある自分だ。先程「思い出した」と表現したのは、私が後者の解釈に頗る憧れるからだ(それですら、あまり喜べた状態ではないと思うが)。でなければ、私は自分を新人類とでも解釈すれば良いと言うのか。
そして今の私、足の不自由を手で補おうという機動力の低下著しい私は、この状態においてやらなくてはならない事柄が沢山有った。と言うより、足の自由を獲得すればそれは即ち運動に直結したので、行動の自由と言えば今しかない。何故なら、私の足の使用耐性の回復は、先程の月の地平と言う胎盤を破る上昇を意味していた。簡単に言いかえるなら、それが私にとっての「朝」の始まりだった。
月が私の走る行動のきっかけとなるには訳が有る。月の運動は、必ず或る一点で止まる仕組みになっている。それは、私の目の前だ。私が正面を向けば私の視界からその完全円が微塵も外枠を隠せない位置で停止する。外枠、と言う表現になったのは月が所謂日食の時の光輪部分でしか無いからだが、私がその外枠以外を正面だと、つまり、月から目を離そうとすると世界が一変する。私は地面にへばりつく無様な四つ足動物的な存在になる(この時手が無い(はずな)ので二足だが)。そう、月と私の視線とは重力を介した主従関係に有る。私の視界は、月の御姿をこの上も無く有り難く素晴らしく見逃せない物として拝み倒し続ける為の固定枠に過ぎなかった。
では、その場に胡座を掻き、そして月が静かに立ち上っていく様を眺める事にしよう。そうすれば走る必要はなくなる。だがそれが出来ない。何故か。月が私の「立っている状態での」目の前にあるからだ。私の目線が座っている状態での高さから見ていたのでは月は満足してくれないらしい。必ず私は地上の一部分にされてしまうのだ(ちなみに地形的に私の真正面にいても月が私の視界に収まる事の無いときは、目の前には存在しないのだが、それでも上を向くなり下を向くなり、立っている私の目線とその月とが合わないといけなかった)。
では今度はその場に立ち尽くすか?それも無理だった。しばらくは持つが結局はまた重力の虜になる。月自身が、どうしてか私の全力疾走と同じだけの速さで遠ざかっているからだ。
私は走っている。常に、それも全力で。




