The Fifth Day「No Titled」
僕は見た、真実の光を、自分の体の外に有るそれを、余りある眩しさにて僕の目自体を白へと変容させようかと言うそれを、そしてその真実の光が僕のあまりにも黒く腐敗している内部を浄化しようと優しく僕へと向けた陽光で照らすのを、見た。僕は、涙を見た、自分の涙を、自分の内側から堪らず溢れ出すそれを、受動的に、傍観者として、地上を目指して垂れて行く一筋の光の糸を眺めた。何故、涙なのか。僕は答えを知っている、すぐ側まで手を伸ばしてくれている彼女のその手を取る事が何を意味するのか、彼女の笑顔に口を寄せその唇の読唇を唇で行う静かなる愛撫の告白が僕の全体をどう支配してしまうのか、それを行う前からすっかり知ってしまっている、何故なら、それは僕が遠く自らの透明を願った「破壊の記憶」、であり、僕と僕の目が遥かに見据えた永遠郷への通過儀礼であるからだ。即ち、彼女の天使名は、告死。そしてその告げられた突き付けられた避け様の無い恐るべき真実を、光だと、自分の宵闇を切り裂き導く指導者、父であると、僕は従順なる祝福と歓喜の涙で以って受け入れようとしているのだ。その涙に、恐怖色は薄い、僕の目がわざわざ自己の平和の終了を、苦痛と羞恥が混沌と発生するだけであろう切ない廃れし物の観察をするのは、それが喜びと言う蝶の脱皮した皮膚、成長の暗示、未来への揺ぎ無い予感としての過去、だからだ。そしてそう、その涙はもう一つ、別の感情を謳う泡沫でもある、それは僕が僕の死を僕の死と思っていなくまるで他人の死の様に、それもどこまでも自分でしか無いが他人である自分の分身の死、最終的に自分という個性に残る事が出来なかった敗者としての自分の死、それを勝者の側に立つ自分が思うと言う事、弔いに沿う思いの念だ。悲しいとか寂しいとか悔しいとかもう疲れたとか、それはそう言った現実を割り切った結果論存在としての記号にはならない、ただ、全てだ、自分と言う全てを思い、全てを知る自分の死を思った時そこには割り切れる感情など存在しない。全感情でも無い、全く自分自身であった様な他者が死んだ時、その時にはもうこちらの感情の源泉である、心、それもまた死んでしまっているのだ。空虚。何も無い、そうとしか呼べない様な状態が、傍観しつつ真実の光を祝福する僕が主観的に思う能動だった。
死にながら生きている僕が自分の死を眺めつつ真実の光を喜びつつ居る環境状況は今、夜である。




