The Second Day「Blind is My Lover.」
もう一度繰返そう。僕は騙されたと思っているし思っていない、また騙された僕を僕だと思っているし思っていなく、騙されていない僕をこそ僕だと思いまた思ってなどいない。こんな状態が如何したら有り得るのか。それは、僕に今まで一度として騙されたり騙されていなかった期間が無い、もしくはそういった期間以外の記憶が無い、と言う状態だ。記憶は、本当に全く無い。自分が今いるこの世界以外の記憶は何も無い。ただただ思うのは、この世界が何処か異常だなと言う危険情報が脳裏を忙しく往復し続けているという一点だ。つまり、正常と思しき世界への妄想―これは天国願望と紙一重で、この思想自体を正常だと見なすのは非常に危険である事は承知の上―は持っているのだが、それが実在するのかどうかは全く不安でどうにかこの世界を愛そうと努力の様な苦悩は持ち続けているのだが、如何してもそれが上手く行かずに一方通行の片思いに終わってしまう。想っているのは、この世界だ、突如この見知らぬ冷徹な外気に触れた矮小な赤子を弛まぬ熱情で以って絶えぬ愛撫と望まぬ抱擁とを一心不乱に提供しようとする彼女、彼女の名は母だ。母は子を愛す。だが子は母を愛するとは限らない、特にその母と呼ばれる身近な他者が注ごうとする愛と言う水溶液が無色透明無臭無味無感情な水様液でない場合は、その母の愛、と言う世界を持ったばかりの彼にとっての全世界の気象を司る自然力学が曇り空を怒りの雷雨を蔑みの夜霧を静けさの無風を褒めの朝露をそして永遠への虹を照らす七面のプリズムを華麗に超時空的に彩る術を知る大空の造型師でない場合は、感情ではない筈の愛を感情だと断定してその他自分の色々な色々が渦巻く感情の魔窟にその元愛を放り込んで出来上がったぐちゃぐちゃでどろどろで血みどろで貪欲で貧相な人面を持った元愛を有ってはならない母乳として彼の口に肉食動物の積極性で含ませようとする場合は。
さて、先ほどの普遍的な僕、つまり、何らかの因子との関係性が過去形の僕と現在進行形の僕、これを今の僕に当て嵌めるとすると、それはこの両者である、と言う事になる様に思う。僕は、何らかの因子に、かつて騙され、そして今なお騙されている、という事だ。僕はもう或る意味合いでは騙される事から完全に解放されている、何故なら僕は騙された自分を過去に実際いた自分として確固とした認識を確立しているからだ。だがしかしそれでその騙される事は終わっていない、その騙されている事、または騙された事というのが、僕に以前の記憶が無い事、また僕が以前の記憶を失った事、だからだ。僕は騙され続けている、それも完璧な情報遮断の中に隔離されて全く閉じた空間の中で騙され続けている。これは、騙されている、という確固とした認識とは呼べない、この場合で騙され続けていると言うのは、本質的な所で騙されているか騙されていないか、それを確認する立場から完全に切り離されているその状態、記憶喪失を指しての事であるからだ。僕は騙されているか否か云々を語る立場に無いのだ、単純にそれだけだ。この世界に、外が有るか無いか、つまり、この世界が有限か無限か、この問いに答えられるだけの必要十分条件が自己認識の為の知識として入手出来なければこの命題にはピリオドを打つ事など出来はしない。
だが僕はこの問い掛けを日夜欠かす事が出来ない、何故なら僕はこの世界を愛していないからだ。僕はこの世界を愛している、この世界が僕を愛しているから、等と疲れ切って溺愛の中に溺愛したくは無い。この世界が僕を愛するなら、僕は、この世界が愛しているその僕を殺してやりたい。だからこそ問う、自分が愛すべき世界は何処にあるのか。自分が愛すべき世界は、今のこの僕を、殺してくれるのだろうか、と。




