第三曜「大きな君の、死の下で」
骨は語る、貴方は時計の針をどの様に思って生きていましたか?また、自身がなるとしたら時計のどの部位ですかボクは答える、時計の針は時間を少し鋭利で辛辣な不快物としての認識色を強めてしまった様に思います、あの針共が時支配を貫く正義ではなく守る薔薇の花の守護的意味合いでの三剣士で在った事は人々の背中の何か飛翔に関することごとくを血塗る結果となってしまいましたね、寝る起きる歩く歩く事で日々大切な何かから遠ざかって行く、そこに舞い戻る為には翼でなくてはならないがあまりに恐怖で体内記憶の落下感が心臓の鼓動に絡まり付いてくるのを否定できずしかし否定しなくては自ずと時否定から来る自己否定に対処できず段々飛べない自分と飛べない環境にいる自分の区分を忘れていく、その自己否定は時と空のうち時を否定している為存在確立を空のみの肯定により成立させているという事になる、つまりそれ以上良くも悪くもならない単なる今現在という存在の情報を保存したいという本能的自己防衛願望がその自己否定を生んでいる、時間による発展性を一切無視した超受動の心理です。これを否定できるのは時間を肯定できるのは翼という名の今を飛び立ちその先のまだ見ぬ自分に出会おうという希望的観測を行う意欲に他ならないんです、ただこの翼の飛行の安定性に時は何の保証もしてはくれない、たとえその先に空が無くても、翼が乗った時という風の流れは止まる事が無い、時間は自分の意思や生死を超越したところで流れている、時支配を逃れる事は出来ない、時支配は自分をいとも容易く殺す事が出来実際そうされる事になるのかもしれない、そう考えた所でその骨は初めて自分の答えを口にした。自分は時計の針を自分を刺し殺した無慈悲な神の指だと考えているが、それでも尚時計の針になりたい自分は、自分を殺した物の象徴だと考えている物になりたいというのはおかしいだろうか、ボクは、わからない、と答えた。でもボクは、針に指し示されているだけの数字になりたいと答えるよりは、より自然で正直な回答だと思った。




