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飼っていたウサギが殺された、その事に気が付いたのはずっと後の事だ。明人はそのことに気が付くことなく生き続けてきた。それはまだ明人、今では皆からジョーカーと呼ばれる男が子供のころの話だ。明人は幼少期に母親に捨てられ、孤児院に入った。苛められやすい体質の男でよく苛められた。苛められることが彼の居場所だった。そんな彼の唯一の友達、それは飼育小屋にいるウサギだった。明人は苛められると、よくウサギに会いに行った。温かくて柔らかいウサギは明人に唯一、温かみを与えてくれた。明人の幼少時代は環境的騒乱の真っ盛りの時期で、世間がそうであったように孤児院も荒れていた。いじめを止められる人も孤児院には存在しなかった。しかし、幼い明人にはそんなことも知る由はなく、明人は苛められる日々を過ごしていた。そんなある日のことだった、孤児院の職員があわただしくウサギ小屋で何かしている。明人はただそれを怯えながら見ていた。小一時間もたつと職員は去って行った。明人は去る職員とは対照的にウサギに駆け寄っていった。そしていつものように頬ずりをした。温かく柔らかいウサギに。しかし、その至福の時を冷たい声が切り裂く。
「そいつらは偽物だ」
声のした方を振り向くと顔に光が当たったような錯覚が生じる。そこには天使のように整った顔の男が立っていた。風で長髪が揺れる。
「僕はアキヒトだ」
男は顔を瘤で歪めた明人の顔を見て、初めて心配してくれた。そうして二人のあきひとは出会った。ずっと苛められて居場所がそこしかなかった明人にとって一条はもう一つの居場所となった。なぜか一条は明人に優しくしてくれたのだ。一条が来てからというもの明人は苛められなくなった。一条は賢く、強く。美しかった。しかし、一条は孤児院では苛められていた。明人にはその理由がわからなかった。明人は後になって、それがねたみや嫉妬によって行われていたことを知った。明人は一条になつき、二人は親友になった。
成長した明人は人一倍屈強な体躯を得、孤児院では一番喧嘩が強くなっていた。一条はより美しく、より賢くなっていた。孤児院でボスのように振舞っていた明人だったが、一条には頭が上がらなかった。それほど一条には感謝していたし、彼が明人にとっての安全地帯だった。そんなある日、始めた会った時と同様にウサギ小屋の前で二人は立っていた。その頃には明人にもそのウサギが機械で出来ていることに気が付いていた。アルゴリズムで動く単純な機械。環境的騒乱事件の波紋。
「なぁ明人」
一条は真っ赤な夕日に照らされて話し出した。
「なんだ……改まって」
明人は真っ直ぐな彼の視線を受け止めきれない。
「実は職員から聞いたんだが、俺たちをもらってくれる者たちがいるらしい」
「本当か?」
明人は一条を睨む。自分を棄てた母親の事を思い出す。親など信じられない。
「ああ」
そう言って微笑む一条を明人は見つめる。
「こんな事を言うのは恥ずかしいが、俺はお前さえいれば……」
明人の声は途中で小さくなる。
「それじゃダメなんだよ」
かすれた声を一条がはねのける。その荒々しさに明人は震える。
「なんで……」
「俺たちはもういい年だ。もう社会に出なければならない……」
明人は思わずうろたえる。
「俺たちはずっとここに居るわけにはいかないんだ!」
長い髪を揺らして一条がわめく。
「わ、わかったよ……俺はお前が一緒ならどこへでもいくさ」
余りの熱さに明人はなだめにかかる。
「そうか……ありがとう」
一条は微笑みながら明人の手を取った。その瞳には涙が浮かんでいた。
「俺たちはずっと一緒だ」
二人は手を組んで、肩を並ばせた。真っ赤に夕日が燃えていた。
それから数日後、二人を含め数人の孤児は黒いスーツの男たちに引き取られた。
「大丈夫なんだろうな」
孤児院から出るときに不安で明人が訊くと、
「大丈夫さ。俺たちは新しい翼を手に入れるんだよ」
一条はふっと微笑んだ。明人もそれにつられて微笑む。一条に教えてもらった笑い方で。明人は取りあえず一条に従うことにしていた。俺にはこいつがいれば大丈夫。こいつを信じていればきっとうまくいく。明人の経験がそう言っていた。大丈夫だ。しかし、それは裏切られた。真っ白い研究施設。白い翼と黒い蔓。体に入れられた異物。血に染まった仲間たち。冷たくなった死体。虐殺の主となった親友。生暖かい仲間の血。永遠に続くかと思われる闇。
「明人、待っててくれ……僕はきっと」
殺戮の限りを尽くした友人の後ろ姿。背から伸びる異形の翼。
「俺は……お前がいなければ生きていけない!」
明人は必死に叫ぶ。去って行く一条がふっと振り向く。翼の棘が下の死体を容赦なく切り裂く。血が生暖かい悪臭を放つ。
「明人、苦しかったら笑うんだ。それに僕たちは繋がっている」
そう言って一条は去って行った。待ってくれ。明人は喉がかれても叫んだ。しかし、一条は帰ってこなかった。そして明人はジョーカーになる。
闇がジョーカーを、触手を喰らう。誰かの平手打ちでジョーカーはハッと我に返る。
「何、ボーっとしてるんだ!」
アルゴがジョーカーを引きずっていた。
「死んで……ない」
ジョーカーは体中に痛みを感じて自分の生を実感する。俺は生き残ってしまったのか。あの時と同じように。生きる場所を失ったのに。
「バカ野郎!」
アルゴの平手打ちが再びジョーカーを襲う。激痛に体をよじらせて、ジョーカーはさっきまでの事を思い出す。
「何が起こっていやがる……」
言う事を聞かない体を持ち上げると、闇と真っ赤な触手が戦っているのが見えた。互いの血をまき散らしながら、体を削りあっている。明らかに触手が劣勢だった。闇はワニのような牙だらけの口を開けて、容赦なく触手を喰っていた。耳まで裂けた口から触手のかけらが零れ落ちる。触手はその身体を闇に巻き付けて抵抗する。
「逃げるぞ」
闇に見とれるジョーカーをアルゴが必死に現実に戻す。二人は身体をもつれさせながら、這った。気が付くと森を抜けていた。
「や……やった」
アルゴがぼんやりと呟く。
人を感知して電灯が一気に明るくなる。
「やった。俺たちはあの地獄から逃げ出したんだ!」
アルゴがジョーカーを引きずりながら道路の中心に出た。明るい所で見るとアルゴはそばかすの残る美青年だった。赤茶けた髪が電灯に照らされ、輝く。
「さて、車はこの辺に……」
ジョーカーを引きずりながら周囲を見渡した。引きずられるジョーカーは下から、
「おい、俺をどうするつもりだ……」
睨みつけるジョーカーの視線にアルゴは静かにほほ笑んで、
「お前らがいつも運ばれている病院に連れて行くだけだ」
ジョーカーは引きずられながらため息をついた。ジョーカー達の作戦行動は筒向けだったのだ。
「お前……CIAか……」
アルゴはそれを無視して、車を探す。
「あったぞ」
アルゴは車のキーを開けると、
「さてかわいいベイビーを乗せなきゃな」
ジョーカーを持ち上げ、後ろの席に乗せた。引きずられていたせいで痺れていた痛みが蘇りジョーカーは喘いだ。
「てめぇ……」
「さて、行くぞ」
運転席に乗り、車を発進させる。車は静かに森から抜けていく。ジョーカーはため息をつき、窓を見た。俺は助かったんだな。血をしみこませながら、シートに体をうずめる。気が付くとうとうとし始める。ここで眠ってはいけないとわかっていても、なかなか耐えられない。しかし、睡魔はすぐに去った。ジョーカーの瞳にあの肉の塊が映る。
「あっアルゴっ!後ろに奴が!」
「何だと!」
アルゴはすぐさま車を自動に切り替え、座席からショットガンを取り出した。素早くそのまま、窓から体を乗り出す。
「何て野郎だ」
消音されない銃声が森に響く。ジョーカーはアルゴとは反対側の窓から身を乗り出してそれを見ていた。散弾が肉の触手を一層赤くする。しかし、絡み合う触手はちぎれた破片を投げて、そのまま迫ってくる。遠くのライトが人を感知して光るが、すぐに遠くに消えていく。
「あいつ、腹で這ってるんだな」
アルゴが弾を変えながらぼやく。確かにジョーカーから見える触手は足がない。つまり足を撃って動きを止めることが出来ない。
「これじゃ市街地に奴をおびき寄せるだけだ!」
車が激しくカーブし、進路を変え、触手の怪物に突っ込んでいく。ライトでたらされた怪物は毛玉とよく似た構造のナメクジのような物体だった。
「やる前に言えっ!」
ジョーカーは激しくシートにぶつかりながら叫んだ。しかし、その叫びも窓のへばりついた触手の欠片が消し去る。ジョーカーは窓が赤く染まっていくのをただ見ていた。傍観することしかできないのだ。触手は車にへばりつき、ドアをこじ開け始めた。めりめりと金属が裂ける。裂け目から触手が入りこんでくる。
「アルゴ!」
アルゴはハンドルを切りながら、ジョーカーにショットガンを投げる。ジョーカーはそれを受け取り、その柄で触手を殴る。顔に血が飛び、触手の欠片が車内に飛び散る。血が抜け、肉が削げたジョーカーの力では触手を叩き落とすことはできるもはずもない。触手はべりべりと金属を破り、車内に入りこもうとした。必死にそれをジョーカーは押しかえす。熱くねっとりとした感触がジョーカーを包み込んだ。ジョーカーが触手と格闘しているなか、がこん、と車が揺れた。
「やばい……タイヤが」
アルゴが叫んだ瞬間、車がスリップし、ガードレールに突っ込んだ。事前にブレーキを踏んでいたため、衝撃は弱かったがそれでも窓ガラスは全部割れ、二人は血まみれだった。
「くっ……」
ジョーカーは辺りを見回して、触手を探した。しかし、視界が真っ赤で何も見えない。だが何かが車内で蠢いているのは分かった。ジョーカーは柄を触手に押し込んだ。触手の力は強く、体力のないジョーカーの腕は簡単に負けてしまう。
「ぐっ……」
体に力を入れると、体中から血が飛び散る。それでも折れそうな歯に力を入れる。視界が真っ赤に染まり、ついに見えなくなる。それでも力を込める。俺は……奴に会わなければならないんだ。ジョーカーは気力で動いていた。それでも体のあちこちが悲鳴を上げる。
『何をやっているんだ。僕たちは友人じゃないか。僕たちは一つじゃないか』
ふと心の中に一条の声が蘇る。しかし、一瞬力を抜いただけでジョーカーは車の奥に押し込められてしまう。ジョーカーは目をつむる。自分の体の周りを熱い粘り気のあるものが満たす。それがジョーカーを侵食しようとした時だった。あの闇の声が聞こえた。ジョーカーは一瞬、一条の姿を思い出す。それと呼応するかのように車の天井がバリバリと引き裂かれる。金属が悲鳴を上げるような音を立て、歪んでいく。ジョーカーはそれをただ見つめていた。天井は完全に引きちぎられ、夜空が見えた。星が光る綺麗な空を背景に闇が姿を現した。口は血にまみれ、体中が棘のように突き立ったその姿はまがまがしく、地獄の悪魔のような姿をしていた。闇は触手の本体に噛みつくと、触手を車から引きはがし、無残に食いちぎった。ジョーカーの体も触手から引きはがされ、大量の血をふき出した。雨のように千切れた破片が降り注ぐ。車をへこませ、音を立てて触手が落ちる。闇は裂けた口を開け、ジョーカーを見たかと思うと―目と呼べる部分は見当たらないが―ふっと興味を失ったかのように去って行った。ゆっくりと地響きを上げながら闇は去って行った。その後ろ姿にジョーカーは、去って行った一条の背を思い浮かべていた。
気が付くと清潔なベッドに寝ていた。天井の様子からすると、ここは前回も運ばれた闇病院のようだ。俺は助かったのか……。ジョーカーはひとまず安堵の息を吐いた。腕は点滴が繋がれ、体中が包帯で覆われていた。
「あら、起きたのね」
ジョーカーに気が付いたのか、金髪のナースが近づいてきた。明らかに看護師免許を持っているようには見えない。
「良くその傷で生きてましたね」
柔らかそうな唇が震える。言葉ほど驚いていない様子からすれば日常茶飯事なのだろう。
「良い筋肉……触ってもいい?」
言いながらもう触っているがジョーカーは痛みで何とも言えない。
「あんたさぁ……堅気じゃないね」
柔らかな肉体を押しつけながら、ナースはジョーカーに顔を近づける。
「髭も電動、髪も適当って感じね。鏡みてないでしょ」
甘い息がジョーカーに降りかかる。
「あんた、Mニューロンアプリをほとんど使ってないでしょ。それじゃ社会不適格―」
ジョーカーは女の言葉を遮り、
「おい……俺の他に連れはいなかったか?」
ジョーカーは絞り出すように訊く。デカートやマイクは、ルーシャスは生きているのだろうか。そしてアルゴ。
「居たわよ。でも、あんな人と付き合うのはやめなよ」
ナースはジョーカーから離れ、
「あ、そう言えば、あの人あんたに手紙おいていったよ」
そう言って小さな手紙をジョーカーに押し付けてきた。盗み見したりしないのは、見たら自分も巻き込まれてしまうからだろう。ジョーカーは静かに手紙を開いて、内容を確認するとすぐに棄てた。
退院しホテルに戻ると、デカートの姿があった。フロントで一人、入り口を眺めていたところを見ると、生き残ったのはジョーカーだけなのかもしれない。
「よぉ生きていたか」
デカートは喜んでジョーカーに寄ってきた。
「他は?」
ジョーカーは喜ぶデカートをよそに訊いた。デカートはうつむいて、
「ルーシャスはあの怪物に殺される前に敵に殺害された。マイクは精神に問題を抱え、作戦から外された」
「そうか……」
ジョーカーも自分の靴を見た。ジョーカーたちも所詮は傭兵だ。特定の国の戦死者には含まれない。自由に取り替えのきく駒だ。
「まぁ良かったよ。一杯やらないか?」
部屋にジョーカーを案内しながらデカートが笑う。哀しさに溢れる戦士の微笑み。思想に原理に、もっと簡単に言えば「正しさ」振り回される悲しき戦士たちの顔。人間が本当の「正しさ」にたどり着くまでどれくらい血が流れるのだろう。どれくらい死体が積み上げられるのだろう。カイル、ロバート、ルーシャス。この戦いだけで何人失ったのだろうか。しかしジョーカーは彼らの顔を思い出せない。今までと同じように。
「すまん……俺は用事があってな」
部屋にたどり着く前にジョーカーはデカートの誘いを断った。
「そうか……親御さんか?」
デカートがふと哀しげな顔をした。もしかしたらデカートは親を環境的騒乱で失ったのかもしれない、とジョーカーは思った。ジョーカーは問いに曖昧に答え、ホテルを去った。
ジョーカーが道を歩いていると、一人の女性が話しかけてきた。
「あら!ユウちゃんじゃない?」
視界に飛び込んでくる広告と同じくらいうるさい女性だった。中年の眼鏡をかけた小太りの女性だ。
「ええ」
ジョーカーは計画通りに微笑んで女性に従った。女性はジョーカーを自分の甥だと勘違いしているらしい。
「ねぇ私の家に来ない?加奈もいるわよ」
ジョーカーは女性の誘いを受け、彼女の車に乗った。もちろん、女性はジョーカーの叔母などではないし、加奈と言ういとこも知らない。この女性は巧妙に変身したアルゴなのだ。病院で手渡された手紙はアルゴからの手紙だった。なぜこの男が自分にこだわるかはジョーカーにはわからなかった。女性はジョーカーを車に乗せると目的地を言い、車を発進させた。
「さて、お芝居もここまでだ。仕事の話をしよう」
アルゴは元の声を出して、笑った。しかし顔は女性のままだ。
「いい加減お前の正体を教えてくれ」
ジョーカーは窓の外を眺める女性を睨みつける。アルゴは振り向かずに、
「俺はCIAだ」
ジョーカーが震えるのを見て、アルゴは振り向いて笑う。
「だが、お前らを襲った連中とは違うぞ」
ジョーカーは怒りで腰に指した拳銃を触りたくなる。
「おいおい、物騒な物はしまうんだ。それに俺たちにとってもお前らを襲った連中は敵だ」
ジョーカーは無言でアルゴを見つめ、
「説明してくれるよな?」
「わかったよ……」
アルゴは首を振ってため息をつく。
「俺たちはボスのコードネームから『ハウンド』と敵からは呼ばれている。どんな組織でもあることだが巨大化すれば、その分思想や意見もバラバラになり、様々な派閥が存在し始める。CIAでもそれはあるんだが、その中で世界のバランスを崩そうという計画を立てる連中がいてな、俺たちはそれを追っているんだ」
「じゃあ、なぜ俺に接触を図るんだ?」
アルゴはジョーカーを睨み、
「俺たち『ハウンド』は世界のバランスを崩そうとするCIAを止めようとしているんだ。そしてそれに米軍やお前らJ・セイバーが関わってくるのさ」
「お前と対立しているCIAは一体、何をしようとしてるんだ?」
ジョーカーの問いにアルゴは顔をしかめる。同族だからこその嫌悪だろうか。
「奴らの目的は米軍が造り出し、放ったエスプリを回収することだ。目的は不明だがな」
「まて、エスプリってのは何だ……」
ジョーカーは今まで倒していた異形の怪物を思い出す。奴らがエスプリなのか、ジョーカーにはわからない。
「資料によれば米軍の極秘開発した、人間の意識とつながり、それを具現化する兵器だ。しかし、実用には至らなかった」
アルゴは真剣な顔で夢のような話を始める。
「エスプリは人の体に寄生し、その意識を読み取りそれを具現化する。でもエスプリは過剰なストレスや精神の上がり下がりに影響を受ける。そうするとエスプリは暴走し、宿主の言う事を聞かなくなる。それがお前の殺してきた殺害対象だ」
ジョーカーは戦慄した今まで自分が殺してきたのは人間だったのだ。人間に変身した怪物ではなく、怪物に変貌した人間だったのだ。
「じゃ……奴らは元々人間だったのか?」
「ああ、そうだ。ただの人間だ。しかし何のために米軍がこんなことをしているかは不明だ。米軍がエスプリを放ってくれたおかげで、日本では女子高生が10人、男一人が死んでる」
だからこそ、と言葉を切りアルゴは真剣な表情をした。
「だからこそ、米軍と俺たちと対立するCIAの行動を監視しなければならない」
正義が燃える瞳をジョーカーはただ淡々と見つめていた。あの男―一条―と同じ目。アルゴはふと不気味に笑いだし、ジョーカーを一瞥し、
「一条と言う男を覚えているか?」
一瞬、ジョーカーの視界が揺れる。翼の男。俺を裏切った男。まるで心を見透かされたかのようだった。
「それがどうしたんだ……」
思わずジョーカーは怒鳴ってしまう。心臓が狂ったように鳴る。SAPがそれを咎めるがジョーカーはそれを無視した。
「なぜ貴様がそれを知っているんだ!」
ジョーカーは怒鳴り、アルゴに噛みつくように顔を近づける。
「知ってるも何も……」
アルゴは困惑したように顔をゆがめ、
「一条はこの事件と大きく関わっていてな。俺たちと対立するCIAと組んでいるらしい。俺たちの最重要人物なんだ。もっと言えばリーダ的存在と言ってもいい。首謀者とも言える」
アルゴが冷静に言うのを見て、ジョーカーは自分が我を忘れていたことに気が付く。
「お前は一条と同じ孤児院の出身で、仲が良かったそうだな」
アルゴの目が光り、ジョーカーを睨む。ジョーカーは無言でうつむいた。
「そして、旧エスプリ計画にも二人で参加した、と」
アルゴはわけの分からない事を言った。
「なんだその……旧計画ってのは」
アルゴは女性の顔を微笑ませて、
「米軍が環境的騒乱事件の時に行ったエスプリの計画の一つさ。主に身寄りのない子供たちやホームレスを使って実験をしたんだ」
語るのを止めアルゴはジョーカーの方を見た。
「お前もその旧計画に関わっているんだよ」
ジョーカーはその言葉の意味がわからなかった。
「俺も……関わっていた?」
「ああ、記録ではな。まぁ実験は失敗したらしいが」
ジョーカーは呆気にとられ、無言でアルゴを見つめた。刻まれたしわをまじまじと見るように。ジョーカーの手が激しく震えだす。ジョーカーは自分の体を探り、異常がないか確かめた。臓器が体の中で震えるような嫌な感覚がした。
「俺は……大丈夫なのか?」
ジョーカーはアルゴの顔を恐る恐る見た。
「大丈夫さ。記録によれば、お前の実験は失敗し、自分に寄生したエスプリを制御できなかったらしい。記憶にはないかもしれんが」
ジョーカーは自分の中に巣食う闇を思い出し、震えた。ワニのような頭、狂気のようにとがった全身の棘、この前会った怪物はもしかしたら俺のエスプリだったのかもしれない。
「いっ、一条はどうなったんだ!」
ジョーカーはアルゴに掴みかかった。アルゴはそれを解き、
「一条は俺たちと対立するCIAと組んでいた。そしてエスプリを追っていた。米軍もそれに勘付いたのか一条を追い、お前らJ・セイバーに暴走エスプリの排除を頼んだ」
「じゃあまだ一条は捕まっていないんだな」
ジョーカーは内心ほっとして訊いた。しかしアルゴは神妙な顔つきで、
「いや、一条は米軍に捕まった後、自爆した。最近あったホテルの爆破事件だよ。現場から奴のDNAも検出された。奴は死んだ」
ジョーカーは意図せずにカッと目を開いてしまう。奴はまた俺を見捨てて……。ジョーカーは何を信じて生きればよいか一瞬わからなくなる。孤児院で俺に居場所を与えてくれた一条。いつも生きる道を定めてくれた一条。失敗してもまた何かに挑戦する意思を与えてくれた一条。そして俺を残して消えた一条。彼が死んだ。
「おいおい……」
アルゴが明らかに落ち込んだ様子のジョーカーを見て慰める。
「確かに言い友達だったのかもしれんが、やつは殺人やテロを起こしている」
「俺は……俺は別に何ともねぇ」
ジョーカーは笑おうとするが笑えなかった。
「朗報……とは言えんが、もしかしたら奴は生きているかもしれん」
ジョーカーは一瞬にして笑顔に戻る。
「まぁ憶測だがな。一条が教祖を務めていた新興宗教団体『生きろ団』はまだ一条が生きていた時と同じように動いている」
アルゴは顔を輝かせるジョーカーを見て、困惑した顔をしていた。
車がちょうど街を一周した所でアルゴは紙の資料を取り出した。
「実は次にお前らの攻撃対象になるだろうエスプリ対象者のデータがあるんだ」
アルゴは得意げに笑った。
「それを追って一条が来るかもしれないのか?」
アルゴはそれを聞いて頷き、
「とはいっても、これを信じていい情報かは分からん」
アルゴはばつの悪い顔で資料をジョーカーに渡した。そこには趣味の骸骨のデザインが施されたサイトがコピーされていた。
「何だこれは?」
ジョーカーが尋ねるとアルゴは苦虫を噛み潰したような顔をした。
「それは最近「正義」の名のもとに殺人を繰り返している男のサイトだよ。手口からエスプリだと推測されている」
「こいつは何もんだ?」
ジョーカーは殺しを楽しむ男の姿を思い浮かべ、戦士の目つきになる。
「そいつはこの国の警察官だ。そいつは殺害対象に挑戦状を突きつける。まぁ殺害対象も法で裁けないワルなんだが、それで殺害対象の態度が変わらなければ殺す。まぁ愉快犯だな」
愉快殺人犯は自分の殺人に巧妙なルールや戒めがある場合が多い。
「このサイトはその殺人鬼が殺した死体や殺害対象、殺しの場所などを示し、絶対的な力を見せて改心させるのが目的なんだ。まぁそのあと食ったりしないのがまだいいがな」
アルゴはジョーカーの資料をもぎ取り、
「これがその写真さ」
ぼやけた画像ではあるが、その写真にはクモのような足を腹から生やした人間の姿が映っていた。ジョーカーはそれを無言で見つめていた。
「さっきは言いそびれたがな、一条たちのグループはこれを超える悪だよ」
アルゴは反論されることを予想し、唇を結んだ。しかし、ジョーカーは何も言わなかった。ただアルゴを見つめているだけだ。
「お前は知らんかもしれんが、奴らは連日爆破事件を起こしている。それなのに9.11のようにテロ自体が目的ではないんだ。奴らにとってテロは一種の脅迫なんだ。奴らは間接的に大量の人質を取り、何かを米軍に要求している。それが何なのかわからない。俺が手にしているようにエスプリの情報はCIAなら手に入れることが出来るはずだ。だからエスプリの情報ではない。奴らは米軍の持つ何かを奪い、それを使用して何かを起こそうとしている」
アルゴは自分の言葉をかみしめ震えた。
「奴らが世界のバランスを崩そうとしている、というのは分かる。だが爆破テロを連日で行える連中が本当に求めていることとは何なのだろうか。もしかしたら、それは環境的騒乱事件を超えたレベルのカタストロフかもしれない」
アルゴの言葉にジョーカーも震える。社会とは関わらない孤児院にいたジョーカーでも環境的騒乱事件の異常性は肌で感じられた。
環境的騒乱事件。現代では誰もが歴史で習う近代の重要事件。それは歴史近代のテストの山と言っても過言ではない。21世紀初頭、苛烈を極めた自然環境の破壊は加速した。それが原因で様々な事件が起きたのだが、環境的騒乱事件を引き起こした自称に比べると小さい物だった。環境的騒乱事件の直接的な原因。それは環境破壊が引き起こした突然変異ウイルスによるパンデミックだった。PLウイルスと呼ばれたその悪魔は、まず猿の脳内から発見された。PLウイルスは猿に感染し、脳内の一部を刺激し異常に凶暴化させるのだが、PLウイルスは数日で変異し人間にも感染するようになる。人類は集団ヒステリーのごとく、皆が暴力と血の祭を引き起こした。しかし、それも数か月で終わりを告げる。ウイルスの抗体が作られたためである。しかし、数か月だけの事件でありながらPLウイルスによる騒乱事件は大量の死者と建物の破壊を巻き起こした。それは完全に『自然』を制御し、不確定要素を駆逐したはずの人類にとって大きな汚点となった。人類はウイルスを克服すると、まず驚異的な技術力によって自然を再生した。本当は再生できない物の方が多かった。そして徹底的な制御の元、それを管理した。世界の自然環境は巨大なバイオスフィア2となったのだ。制御され、統制された自然環境は以上に進化した突然変異ウイルスなどはもう吐き出すことはできなかった。その管理を行う企業体にはハダリ社なども含まれている。しかし、人間は世界中の環境を巨大なバイオスフィア2にしたことには飽きたらず、自分たちの身体の不確実性、つまり「自然」を消そうと現在躍起になっている。
ジョーカーはウサギを殺した大人たちの姿を思い出し震えた。
「奴らは企業体や政府の極秘情報である脳の言語機能や理性に関する資料をかき集めている。やはり何か『環境的騒乱事件』に関係があるに違いない……」
「環境的騒乱のその先……」
ジョーカーがポツリと呟くと車内が凍る。
「先と言えば、究極の二択だろうな……最終的に自然である俺たちの身体を完全に棄てるか、自然に身を任せ凶暴な獣そのものになるか」
神より与えられた肉体を技術で蹂躙し社会の部品に還元されるか、それとも社会そのものを獣となり蹂躙するか。
「JG・バラードやPJ・イトーじゃないんだから……んなことあるわけねぇさ」
笑うアルゴの顔が引きつる。しかし、一瞬にして真剣な顔になり、
「実はJ・セイバーは、一条がお前に接触する可能性を見越してお前をこの任務につかせたらしい、もしだ。もしその時お前は奴を撃てるか?」
ジョーカーはその言葉にびくりとなる。俺が奴を撃てるだと……憎たらしくて、憎たらしくて、でも奴がいなければ俺は誰に生を認めてもらえるのだろうか。母親の歪んだ顔が脳裏を横切る。
「あんたなんて、いらない!なんで生まれたのよ!」
環境的騒乱のせいで冷たかった孤児施設の職員の顔が稲妻のように脳裏に駆け巡る。
「もう厄介事はよせ!何もするんじゃない!ただすわってりゃ俺たちは幸せでいられるんだ!」
閃光のごとく映像が脳裏に映し出される。親から棄てられ、職員からも見放され、同世代からさえもいじめられることしか価値がないと言われたジョーカー。そんな彼の唯一の居場所。生存を許してくれる場所。それを撃てるのか。いや、撃てない。失望するアルゴの姿が思い浮かぶ。もしかしたら俺の腕に全世界の人類の命や未来がかかっているのかもしれない。それでも自分を棄てた人類を救う意味などあるのか。仕事だから治療を施してくれる治療兵。仕事だから話しかけてるれるトム、カール。任務だから関わってくれたロバート、マイク、カイル、デカート。自分が一条の過去に関わっているから、J・セイバーの傭兵だから助け、関わってくれるアルゴ。
「お前、いい奴だな。気に言った」
一条の言葉が明人の傷ついた心を優しく包み込んでくれる。
「俺はお前が好きだ」
一歩間違えればおかしな言動とも取れることを澄んだ瞳で言ってくる一条。優しくしてくれた一条。様々なことを教えてくれた一条。ジョーカーにも本心の笑顔で微笑んでくれた一条。それをジョーカーは殺せるのか。自分を棄てた世界を助けるために。
「俺には……できないッ」
ジョーカーは激しく喘いだ。一条を殺すことは自分の殺すことだ。
「そうか……」
気が付くと辺りは朱に染まり始めていた。最近では月や木星、太陽を改造する計画まで出ているという。車は静かに走り続けた。
読んで頂きありがとうございました。今回で最初の事件が一区切りになります。これから大量の新キャラの登場、物語の枠が定まっていく予定です。
わりとどうでも良い話ですが、実はグレゴリの一話の敵は当初、人魚の予定でした。しかし、人魚編は話や敵にインパクトが欠けるので、インパクトのある話として芋虫編が挿入されました。実際、見てみると人魚編は戦闘が結構呆気ない。芋虫編はバリバリ「ベルセルク」の一話をまねているので、かなり片鱗が見られます。何とか抑えてやらなかったけれど、本当は「死なねぇぜ!流石超越者!」もやりたかったなぁ。この作品、著作権的にやばいんじゃなかろうか、なんて思う今日この頃でした。また次の章でお会いしましょう。