表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
EGRIGORII  作者: もてぬ男
3/10

かえせ!居場所を

 3話です稚拙な文章ですがよろしくお願いいたします。

 どろどろとした闇が自分を侵食する。ジョーカーはその影から逃げ続けたが、走っても走っても逃れられない。やがて闇はあんぐりと口を開けてジョーカーを喰らった。ジョーカーは激痛で目を覚ました。そこは清潔なベッドの上だった。

「やぁ。お目覚めかい?」

ゆっくりとロバートが近づいてくるのが見えた。

「ここは……」

ジョーカーの問いにロバートは、

「この前のホテルさ」

ジョーカーはその言葉に安心しため息をついた。ゆっくり起き上がり傷を見ると、どうやらあの芋虫との戦闘は本当だったらしい。こうして怪我を負っても奴の存在に現実味が沸かなかった。

「マイクは?」

腕の具合を見ながらジョーかが尋ねる。

「マイクは今もあんたが運び込まれたのと同じ病院で治療中だ」

闇医者さ、とロバートが笑う。ジョーカーはコンタクトから情報を取る。マイクはかなりの重傷を負ったようだ。

「まぁそれはいいんだが……」

ロバートはふと兵士の顔になり、

「次の標的が見つかったそうだ」

ジョーカーは一瞬、さっき見た夢を思い出していた。闇が自分を食らい尽くす夢。あれは明らかに芋虫ではなかった。ならば何なのか。

「情報部が今情報を集めているが近日中にせん滅作戦が行われるらしい」

ジョーカーは歯噛みした。プロの傭兵が1人死亡、2人負傷した任務をこんな短期間で連続してやるなんて無謀だ。

「作戦は誰がやるんだ?」

ジョーカーはロバートを睨みつけた。

ロバートはばつの悪そうな顔で、

「あのややこしい試験を受けて、わざわざこのおかしな任務につく奴はそうそういないだろう。だからまた俺たちでだ」

ジョーカーはうつむいて震えた。俺はいいとしてマイクは戦えない。この任務、何かがおかしい。ジョーカーは違和感を覚えつつも久しぶりに見た夢の内容と怪物たちが無関係のように思えなかった。ジョーカーはうつむいたまま微笑んだ。待っていやがれ。ジョーカーは夢で自分を喰った闇を睨みつけた。


 芋虫との戦闘から一週間がたったある日、作戦の待機命令が出された。

「芋虫の次はこれか……」

作戦の概要を見たロバートは思わず唸った。ジョーカーもそれには同感だった。作戦概要の殺害対象にはグリム童話の人魚のような怪物が載っていた。童話と違うのは少し下半身の魚の部分が大きいことと活動領域が海ではなく下水だということだった。それ以外は眉目秀麗である点さえも共通していた。

「ジョーカー行けるか?」

ロバートがそう言の準備を始めながら言う。ジョーカーは無言で頷き、作戦の計画を練り始めた。俺は再び女の子を殺すのか。ジョーカーはふと数日前にいた戦場で殺した少女の事を思い出す。口の中で鮮血の味が蘇り、ジョーカーは素早くそれを頭から振りはらった。



 作戦の待機命令から2日後、ついに作戦が発動した。ロバートとジョーカーは敵の活動時間である夜7時から12時の間を狙って行動を開始した。車で30分程度走り、目的の下水に近いマンホールを見つけこじ開ける。

「本当に入るのか?」

ロバートはマンホールを開けるジョーカーに震える声で訊いた。

「当たり前だろ」

ジョーカーは静かに下水道に降りた。一瞬で拡張現実が静かになる。ロバートも渋々ついてきた。

「酷い臭いだ……」

ロバートが装備をつけながらぼやく。下水道の中はじめじめとしていて暗く、不気味だった。ジョーカーはロバートが装備をつけ終わるのを見て、行軍を開始した。少し身体の節々がいたんだが気にしてはいられなかった。この時ばかりは拡張現実の輪郭をはっきりさせる装置や光量を増幅させる機能が役に立つ。今ジョーカーやロバートがつけているコンタクトは軍用なので、その分野に特化している。か弱い電灯が暗い下水道をぼんやりと照らす。ジョーカーたちは静かに進みながら敵の兆候を探す。しかし、それらしきものは全くない。たまにゴミが流れてくる他は動きが一切見られない。強烈な臭いと濃厚な闇と圧倒的な静寂だけがあたりを包んでいる。静かすぎてジョーカーは耳が痺れる様な感覚を感じた。

「本当に居るんだろうか下水道に人魚なんて」

心配するロバートの声が耳の骨を振動させて伝わる。

「大丈夫さ、マンホールにだって人魚はいる」

ジョーカーの口の動きを読み取り、微量な声を増幅させて機器がロバートに伝える。

「うぉっ!こんな映画誰が見るんだ」

ロバートがコンタクトに映し出された映画の情報に静かに驚く。声を出していない事からそれほど驚いていないのだろう。水をかき分ける音を静かに出しながら二人は進んだ。

「何もないな」

ロバートが静かにため息をつくと、ジョーカーの頬を何かがそっと撫でた。ぬるりと冷たい髪の毛のような感触がジョーカーの頬を伝わる。ジョーカーは素早く動いて、肩のショットガンを抜いた。すべるようにセーフティーを外し、照準を合わせる。ジョーカーのショットガンは銃身を切り詰めたソードオフであり、殺傷力が通常より高い。

「何かいるぞ」

ジョーカーが呟いた時、きらきらと光るものが下水の中を動いたのが見えた。それは魚の鱗の光沢に違いなかったが、それはあまりにも長くグロテスクだった。

「奴だ!」

二人は光沢に向けて発砲した。銃撃の炎が水面に怪しく映し出される。弾がはじかれる鈍い音がして、ゆっくりと人魚が水面に浮かんできた。どうやら力尽きたようだった。

「あっけないな……」

ロバートが呟くと、人魚の全身のうろこが逆立った。まるでヤマアラシの針のように逆立った鱗が冷たい輝きを見せて飛んできた。ジョーカーは素早く倒れ、足でロバートを転ばせる。しかし、非生物的な速さで飛んでくる鱗は、倒れこむロバートの体をずたずたに裂いていく。肉と血が鱗に乗ってまき散らされる。温かい血をジョーカーも浴びてしまう。ぽたぽたと肉と水滴が垂れる。

「うおっ」

大きな水しぶきを上げ、ロバートが倒れた。その頃にはロバートの生体反応は消えていた。ロバートの血がゆらり、と下水の中を朱に染める。人魚は上半身を上げ、再び鱗を飛ばしてきた。ジョーカーは咄嗟に避け、遮蔽物となる壁に隠れた。人魚はぬるん、という艶めかしくグロテスクな動作で下水の奥に消えて行き、それと同時に鱗が壁やロバートの体から引き抜かれる。鱗には黒い髪の毛が絡まって、本体へ戻っていく。そしてロバートの亡骸がゆっくりと人魚の方に引きずられていく。ジョーカーは笑いをこらえるのに必死だった。しかし、下半身は恐怖で震えていた。止まれ、大丈夫。まだ俺は正常だ。ジョーカーはつまらないジョークを思いだして必死に笑みを作った。大丈夫、笑えているなら俺はまだ正常だ。ジョーカーは顔に狂気の笑みを張り付け、人魚を追撃すべく走った。


 拳固が腹にめり込み、幸司は一瞬気を失いかける。青い空を仰ぎ見て倒れたいが、横にいた男がそれを許さない。

「これくらい耐えろよな」

周りにいる男が幸司を見て笑っている。何で僕がこんな目に遭わなきゃならないんだ。そう目が訴えないようにするが大変だった。数か月前に高校に入学してから幸司は陰鬱ないじめを受けていた。出身の中学が同じの別の科の3人だ。

「そりゃ!」

殴打に幸司は再び体を区の字に曲げる。昼に食べた弁当が胃から昇ってくる。

「っきったねぇ!」

一人が嘔吐する幸司をなじる。幸司は倒れて、昼飯を残らず地面に吐き散らした。

「無様だな」

3人は飽きたのか去って行く。幸司は、ほっとしながらも父親が毎日のように朝早く作ってくれる弁当を吐いてしまったことを悔いた。なんで、なんで誰も助けてくれないんだ。幸司は服についた吐しゃ物を水に当てながらこする。しかし、これで汚れが取れるわけもなく、授業中には皆から好奇の目にさらされることだろう。ふと泣きたくなるが、涙などとうに枯れていた。汚れた服のままでクラスに戻るが誰も幸司に理由は聞かない。巻き込まれるのが怖いのだ。皆、幸司をチラリと見て携帯ゲーム機や友人に視線を戻す。幸司は机に座ると教科書を取り出す。服から異様な臭いがするが気にしないように必死に教科書を読み込む。替えの制服を持って来ることのできるほど幸司の家は裕福ではなく、午後の授業はこれで受けるしかない。これでは幸司の社会評価点数、通称SAPは落ちる一方だ。臭いのせいもあるが教科書など面白いわけもなく周りのゲームが気になりだす。僕もあれ欲しいなぁ。幸司は哀しげに顔を教科書に戻す。ふと臭いに耐えられなくなって黒板に目を向けると幸司の視界に一人の少女が入る。一瞬にして幸司は少女に釘つけになる。クラス一の美少女、奥村沙希である。サラサラの黒髪、ぱっちりとした目、すらりとした身体、内から発される溢れる自信。何もかもが幸司と対照的だった。彼女の美貌は非凡の物であり、中学生のころからモデルをやっているという。そんな沙希に幸司は憧れていた。さっきまで殴られていたことも忘れて彼女に見入ってしまう。ぼんやりと沙希を眺めているうちに授業の始まりを告げるチャイムが鳴る。我に戻った幸司は小さくため息をついた。


 広い池の前に一人の少女が佇んでいた。彼女は静かに震えている。恐怖からではなく怒りから。

「ねぇ、沙希居るの?」

闇夜を映した水面は黒く濁っており、派手な服装をしている少女とは対照的だ。電灯で照らされ油を感じさせるぬるりとした輝きを放っている。

「うぉっそいわねぇ……これであたしのSAPが落ちたらどうすんのよ」

少女が神経質に靴で地面を叩いていると、どこからか美しい歌声が聞こえてくる。

「何この歌?」

取り出したスマートフォンからふと顔を上げ、歌の方向を見た。

「どこから聞こえてるのかしら、うるさいわね」

少女はむっとして池の方向に顔を向けた。すると少しだけ池の表面が波立ち、近くにあるボートが揺れている。

「風かしら」

特におびえる事もなく、少女はスマホに目を戻した。再び地面を靴で叩いていると、地面に大きな水滴が落ちるのが見える。地面に不気味な黒いしみが出来る。

「ん?」

ふと顔を上げようとするとスマホの画面に水滴がかかる。

「何よこれ!」

激昂して茶の残る黒髪を揺らして顔を上げたその時だった。少女の視界に人魚のようなグロテスクな生物が現れた。そしてそれが何かわかる前に少女は池に引きずり込まれた。少女は声さえあげることが出来なかった。少し経った後、池で大きなあぶくが弾けた。そして何事もなかったかのように池は静寂を取り戻した。


 朝、幸司は通学路を何事もなく歩いていた。おかしいな、今くらいの時間にあいつらが来るのに……不自然だ。幸司は自分が何事もなく通学していることに感動すら覚えていた。

『今日の幸司サンの心理傾向グラフは良好デスネ!この調子でガンバリマショ!』

SAPに付属している心理グラフ機器が明るい声を発す。こんなことは久しぶりだった。流石にあいつらもSAPの点数が気になりだしたんだろうな。SAPで就職や進学、その人の扱いまで変わっちゃうもんな、当たり前か。幸司は清々しい気分で校門を抜け、教室に入った。清々しい気分の幸司とは対照的に教室は暗い雰囲気が漂っていた。幸司は自分の席に座り、ぼんやりとこの雰囲気の中心を探す。するとその発生源はすぐに見つかった。昨日までは周りに明るい笑顔を振りまいていたはずの沙希が席に座って泣いていた。SAPの心理傾向グラフは最悪の値を叩き出していた。周りではたくさんの女子が沙希を慰めている。何かあったのかな、と幸司が勘ぐっていると、いつもより早く担任が教室に入ってきた。担任の心理傾向もあまり良くない。担任は心理グラフと同じような顔色で、

「みんなも知ってると思うが、2組の西谷が昨夜、死体で発見された」

そう言うことか、幸司は泣いている沙希を見る。2組の西谷は沙希と同じ事務所のモデルで二人は友人であり、ライバルだった。ある時は心の支えにもなったのだろう。幸司はがっくりとうなだれて机を見た。かわいそうに沙希さん……。それから幸司は、指向性音声のSAPの心理音声がわめくのをぼんやり聞き流して、授業を過ごした。


 数人の友人から見送られて沙希は家に帰ってきた。皆の姿がなくなると、沙希は小走りで自分の部屋に急いだ。部屋に入り、やつれた自分の顔をぼんやりと見つめる。完璧だわ。沙希は自分の演技にふと微笑みを漏らす。沙希は大きく息を吐くと、髪をかき上げて自分のクローゼットを見た。あれはやっぱり夢じゃないみたいね。沙希は妙に頑丈なクローゼットを開いた。たくさんの服を押し分け、そこに隠れている段ボールを見つける。沙希は水でふやけた段ボールをゆっくりと開けた。そこには魚ともクモとも思えない生物チックな物体が横たわっていた。肉で出来た生物的な部分と機械の部分が複雑に絡み合い、独特の形を造り出している。明らかにおしゃれ好きな女子高生の部屋とは不似合いな物体である。

「えさ、あげなきゃね」

沙希は先刻とはうって変って明るい表情でキッチンに向かう。鼻歌混じりに沙希は台所のツナ缶を開ける。「あれ」が現れたのはつい最近のことだった。それは沙希の所属する事務所のメンバーの中でのテレビ出演が決定した日だった。テレビに出られるのは一人だが、テレビに出れば認知率も大きく上がり事務所の看板になれる。しかも、そこでの評価で女優やタレントとしての活躍も期待できるかもしれない。そんな見逃せないチャンスを目の前にしたとき「あれ」は現れたのだ。沙希はあがり症ではなく、しかも機転が利くので、ぜひ自分が、と思っていた。しかし、プロデューサは沙希か西谷かで迷っていた。沙希はツナ缶をさらに移すのをふと止めて拳を握った。これでいいのよ、ずっと前からあいつのこと嫌いだったし。お母さんとお父さんの助けにもなるし、私にはこれしかない。だから仕方ないのよ。沙希はツナを乗せた皿をそっと段ボールの中にいれた。すると巻貝のようになっていた物体から触手のような物体が出て、それを喰った。それはツナを飲み込むたびにグロテスクな鱗が光沢を放つ。もうこれには頼りたくない、そう思いながらも沙希はこれを棄てることができない。沙希は汚いものに蓋をするように段ボールを閉じ、クローゼットにしまった。


 西谷の死から数日後、沙希はうつむいて学校から帰っていた。演技ではなく本当に落ち込んでいた。友人には気にしていないようにふるまっているがどうしても荒が出てしまう。おかしい。何であいつが。沙希は気持ちが昂るのを必死で抑えた。SAPの点数が落ちたらそれこそテレビ出演などありえないのだ。しかし、どうしても怒りがこみあげてくる。沙希はテレビ出演に選ばれそうな同じ事務所の少女の事を考えていた。なんであの娘が。いい子だけど地味で人見知りのあの子なんかにテレビ出演がこなせるわけがない。「本来なら沙希になるところだけど、ここは一皮むけさせようということで紀子をテレビ出演させようと思うんだ」プロデューサの声が蘇り、沙希は激昂しそうになる。許せない……私の居場所を奪うやつなんて皆殺しだわ。沙希は平静を装い家に入ると、すぐさま自分の部屋に急いだ。クローゼットを開け、あれを取り出す。沙希が触った瞬間、乾いた表面がぬるりと湿りだすのがわかった。

「さぁ……行くわよ」

あれは沙希の体を包むようにして触手を伸ばしていった。触手は沙希の体から伸びる触手と結合し、ひとつになってゆく。沙希の体を熱い快感が駆け回る。体中を湿った触手が這う。肉体の熱を機械部分が冷やしていく。沙希は思わず喘ぎ声を上げた。

「ふふふ……まってなさい……」

快感と憎悪で正常な判断力を失った沙希は本能の赴くまま、自室から飛び出した。向かうはあの池。そこで奴は藻屑と化す。


 静かな住宅地に囲まれた貯水池に少年の姿が映っている。

「本当に……本当にここを泳ぐの?」

幸司は恐怖に震えながら一人に訊く。幸司の恐怖などどこに吹く風と言った様子で少年は、

「あたりまえだろうが。それとも何か?嫌だってのか?」

少年は顔を歪めて微笑んだ。3人はじりじりと幸司を池の方に追い込んでいく。目の前には真っ暗な貯水池が広がっている。当たり前だ、もう時間は夜の9時を軽く超えている。超推知には足など絶対につかない。幸司は恐怖で震えだした。

「そ……そうだよね」

幸司の笑顔は恐怖でひきつる。

「さぁ入れよ」

一人が強く幸司を押す。

「みんなお前が惨めな姿をするのを見てすかっとしてSAPの心理傾向を改善させているわけよ。だからさ、やらないわけにはいかないんだよね」

一人がふとため息をついた。

「仕方ねぇだろ、俺たちだって暇じゃねぇ。皆が求めてるからやるんだよ。ライブ発信してよ。ははは」

「……うそだろ」

幸司は絶望に押し潰されそうになった。クラスのみんなも、沙希さんも僕がいじめられるのを見て喜んでいたっていうのか。嘘だろ……そんな。

「早くしろや……俺だって暇じゃないんだよ!早く服を脱げや」

幸司は絶望と恐怖で震えながら服を脱ぐ。そんな……僕は本当に一人ぼっちじゃないか。苛められている僕を見るみんなの視線を僕は勘違いしていたのか……。幸司はふと笑い出した。人は現実を直視できなくなった時にふと笑ってしまうものだ。

「さ、泳げ。さてカメラ、カメラ」

幸司はパンツ一丁になり、柵を超えた。古い施設なので警告音が出ることはない。僕は道化になってやろう。そして死のう。母さん、やっと会えるね。ごめんね父さん、いままでありがとう。足をつけると意外と冷たく、体が激しく拒絶する。しかし、柵の向こうの少年たちは空き缶を投げつけて促してくる。もうやるしかない、そう思い飛び込む。「正しさ」が数値化された世界。SAPが人間を正しく導く世界。でも結局ここは地獄だ。正義なんてクソだ。


 沙希は月を水中から眺めてぼんやりとテレビの事を考えていた。なんであたしじゃないんだろう。ふとため息をつき、小さな泡が舞う。西谷と同様の方法で紀子を殺害しようとした沙希だったが、紀子が記録用コンタクトを付けていたことで断念。次に備えて「あれ」を体になじませるために泳いでいたのだ。人のあまり来ない住宅地のはずれの貯水池のはずだったが、泳ぎ始めてすぐ人影が近づいてきた。こんな時間に何だろう、沙希はエラで呼吸しながら、その様子をじっと見守った。すると同じクラスの杉田幸司だとわかった。しかし、わかると同時に彼の異常の行動に沙希は目を疑った。沙希も一度、幸司がいじめられている映像を目にしたことがあった。しかし、悪いとは思いながらもそれを止めることはできなかった。沙希は少し場所を移して苛めの主犯を探した。すると先の奥に数人の少年が立っているのが見えた。そして、その手に遺書と思われる紙が握られているのも。ゆっくりと犬かきで貯水池を回る幸司を見て、沙希は今自分のやらなくてはならないことに気が付いた。


 数分泳いだところで幸司の身体は冷え、筋肉が硬直し始めた。体中が悲鳴を上げ、幸司は力を抜きそうになる。

「あと5周しろよー」

肺が破れてしまうほど呼吸が辛い。もう何も考えられなくなっていた。そしてついに体が沈み始める。体に無駄な力が入って震える。そして幸司は水中に沈んでいく。もうダメだ……。幸司は目を開け、自分の死を覚悟した。すると水中に見えないはずの母親が見えた気がした。

「かぁさん……」

幸司は息が漏れるのも構わずに母親の名を呼んだ。そうか、ここは天国なのか。幸司は体が軽くなるのを感じた。

「会いたかったよ…母さん」

どうしようもなく言葉が漏れる。母親の顔が少しずつ近づいてくる。幸司は小さい頃の母親の頬ずりを思い出す。しかし近づいていくうちにそれが母親の顔ではないことに気が付く。

あれは……沙希さん!?一瞬、幸司の意識がはっきりする。なぜここに沙希がいるのか。死ぬ自分を見届けに来たのか、そう思った時、沙希が強引に幸司の唇を奪った。幸司の意識は一瞬で覚醒したが、何かに体を絡め取られていて身動きが取れない。沙希の口から空気が生命が吹き込まれて幸司に伝わっていく。

「大丈夫だから、あたしに身を任せなさい」

僕は幻想を見ているのだろうか、幸司は口に残る唇の感触に震えながら沙希に身を任せた。気が付くと岸にいた。

「お、お前意外と泳げるんじゃねえかよ……」

「つまんね」

3人はぶつぶつと文句を言いながら去って行った。一人残された幸司は貯水池を見た。そこには誰もいなかったが、腕に絡みついた何かの感触と唇の感触が妙に生々しく残っていた。

「僕は夢を見ていたのだろうか……」

幸司のつぶやきは静寂に飲み込まれていった。

 読んで頂きありがとうございました。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ