緊張
あ、やっぱり元に戻ってる。
朝方、ソファの上で目覚めた私は、フニフニ揺れるおひげに気付いた。
一時間も働いていないけど、緊張のせいか疲れてソファで丸くなった時、そんな気がしたんだよね。
すっかりダブダブになってしまったリオトのシャツから這い出ると、小さく折りたたんで私の為に用意してくれたクッションの下に隠す。
さてと、もうすぐリオトが起きてくるから私はもう一眠りしよう。
食器類が無くなっていることにリオトが驚いたりした時、知らんぷりしとくためにもタヌキ寝入りしないと。……ネズミだけど。
* * *
って、爆睡したー!!
ガバリと起き上がった私をリオトは柔らかく目を細めて見たけれど、部下の人はまるっきり無視している。
二人の話し声で目が覚めたんだなと思いつつ、辺りをキョロキョロと見回すと、私が片付けたままの部屋の状態だった。
少しだけ丸まった紙屑が増えているけど。
あれ? お部屋がちょっとだけ綺麗になったことは思いっきりスルー?
腐臭に混じって、花の香りもするのに……。人間の嗅覚じゃわからないのかな?
それにしたって、廊下に食器類と生ゴミも出してたのに?
なんだか拍子抜け。
私の仕業だと気付かれたらまずいとドキドキしつつ、それでもちょっとワクワクしてたみたい。
矛盾してるのは分かっているけど、しょんぼりとしてしまった。
そんな私の傍にリオトが近づいて、そっとソファに腰を下ろす。
部下さんはいつの間にか音もなく消えていた。忍者か。
「そういえば……」
言いかけたリオトに、私はドキリとしてしまった。
やっぱりバレてた?
緊張して逆立ってしまった毛を、リオトは少しためらってから優しく撫でてくれた。
おおおう。気持ちいいっっす!
首の辺りをゆっくりと指でくすぐるように触られると、思わず力が抜けてしまう。
そ、そこ……弱いみたい。
「名前……まだ決めてなかったね?」
名前?
突然の……と言うより、今更なリオトの発言に驚いた私は、うっとりと閉じていた目をパチリと開けた。
「なんて呼べばいいかな?」
私の様子を見て苦笑するリオトの言葉は、まるで私に問いかけているように聞こえるけど、これは自問してるんだよね?
ふうむ。名前か。
首を傾げてリオトを見上げると、真剣な蒼い瞳と目が合ってしまった。
んん? 私の答えを待っているんじゃないよね? まさかね。
でもそうだな。どうせなら、可愛い名前がいいな。
その時、ふと目についた机の上に乱雑に積まれた書類。
私ってば、実はこの国の文字が読めるんだよね。エッヘン。
そして小難しい文字の羅列の中で、ひとつだけ綺麗な文字を見つけた。
“ジャスミン”
前世でも花の名前だったけど、この世界でも偶然に同じ花の名前。
そう、あの白い花。
すごく嬉しい。
だって、私の前世の名前はジャスミンの和名“茉莉花”だったから。……あ、私、まりちゃんって呼ばれてたんだ。うん、少し思い出した。
これはもう絶対、ジャスミンがいい。
だから私は不審に思われるかもしれないのに書類の上に飛び乗ると、ジャスミンの文字を前足でポンポンと叩いた。
リオトはちょっと驚いたようだったけど、すぐに笑って頷いた。
「ジャスミン……。うん、素敵な名前だね?」
自分の希望が通ったことが嬉しくて、私はこの状況がおかしいとは少しも思わなかった。
だから得意になって、その後も深夜になると床を拭いたりして掃除を頑張った。
* * *
――二日後の深夜。
相変わらず、リオトは食器が消えてジャスミンの香りが漂っていることに何も言わない。
まさか気付いていないってことはないよね。
このまま続けていいのかなと思いながら、人間に変身した私は壁際の棚から今日読む本を選ぶ。
掃除も今のところ食器を廊下に出して床や棚を拭いて、庭に花を摘みに行くぐらいだから、すぐに終わるんだよね。
だから簡単そうな内容の本を読んで、この世界のことを少しでも勉強する。
夜目がきくお陰で月明かりがあれば十分だから。
それから本に夢中になっていた私は、リオトが起き出したことに気付くのが遅れてしまった。
寝室と居間を繋ぐドアが開き、足音が真っ直ぐこの部屋へと向かって来る。
慌てた私は本を抱えたまま立ち上がって、隠れる場所を必死に探した。
ネズミの時にはいくらでもあるのに、人間の姿だと見つからない場所はあまりない。
結局、ガサゴソと大きな音を立てて、執務机の下に隠れた。
居間からのドアを開けて部屋を覗いただけじゃ見えないけど、ちょっと室内に入ればすぐにわかる。
「……ジャスミン?」
ドアが開いて、リオトが私に呼びかけた。
月明かりが窓からさし込む室内は、深い蒼の色に染まっている。
ど、どうしよう? 正直に出て姿を見せるべき?
そうしたら、ここから去らないといけなくなる?
ううん、そもそも私を見てジャスミンだって分かるかな?
侵入者だって思われたらどうする?
焦って色々なことを考えていたけど、時間にすると一瞬だったと思う。
このまま黙って隠れていたら、リオトは私を捜し始めるかも知れない。
ゴクリと唾を飲み込んで、私は覚悟を決めた。
「チュ、チュウチュウ……」
「……」
白々しかったかな?
ネズミっぽく鳴いてみたつもりだったんだけど。
今まで一度もリオトの前では声を出したことないけど、やっぱりバレた?
どうしよう……。
続く沈黙が私の喉を締めつけるようで、上手く息が出来ない。
心臓の音がリオトに聞こえてしまうんじゃないかと思うくらいにバクバクしている。
リオトは小さく溜息を吐くと、笑みを含んだ声で優しく囁いた。
「ジャスミン、いたずらも程々にね? じゃあ、おやすみ」
どこか意味深な言葉だったけど、ホッとした私はあまり気にしなかった。
リオトは静かにドアを閉めて、寝室へと戻って行く。
もう今日は寝よう。
どっと疲れが押し寄せて、私は本を片付けるとソファに丸くなった。
花の甘い香りが辺りに漂っている。
そして私は何も考えることなく、あっという間に眠りに落ちた。