腐界
なんか臭い。
意識を取り戻した私は、今までの事は全て夢だったのかと目を開けて思った。
視界に入ったのは緑豊かな木々ではなくて、どっかのお家の天井。
見覚えがあるような、ないような……と考えつつ、更に視界に入ったのはフニフニ揺れるおひげ。
あ、これ、私のおひげだ。
ということは? と手を上げてみたら前足。
なんだ、やっぱり私はネズミなんだ。
よいしょ、と体を起して自分を見下ろす。
いやん、相変わらず艶やかで綺麗な毛並み。
自分で言うのもあれだけど、超かわいい。
フワフワで気持ちいいんだよね。
さっそく毛づくろいを始めた私は、ふと我に返った。
ちょっと私、呑気すぎない?
こういう場合はまず現状把握だ。
ここはどこ? わたしはだれ?
そう、これ大事。
まずここは、どこかのお家。人間が住むお家。
この部屋は無人だけど、人の気配はあちこちでするからけっこう大きいお家。
たぶん、この部屋は物置……というか、ゴミ溜め?
ここはまさに腐界。
比喩でも何でもなく、本当に何か腐ってる。
とにかく臭い。
次に、私は前世が人間だったネズミ。
でもこの臭いは例え人間のままだったとしても耐えられないと思う。
尋常じゃないよ。
いくら私がネズミだからと言って、こんな汚い部屋に捨てるなんて酷い。
って、ちょっと待って。
私、トラさんに襲われたんじゃなかった?
それで昇天……じゃなくて、気絶したんだ。
と言うことは、ここってひょっとして……エサ入れ?
わんこは穴掘ってエサを隠したりするし、私だってエサを蓄えるの大好きだし。
もちろん、そのまま忘れるなんてことはないよ。うん。たぶん。
やっぱりここは、あのトラさんのエサの隠し場所?
いぃぃやぁぁ!!!
私もこのまま忘れられて腐っちゃうの? 臭っちゃうの?
それともなぶり殺されて食べられちゃうの!?
やだよぉ! 怖いよぉ!
パニックになった私は部屋中を駆け回った。
よいしょ、こらしょ、どっこら、ひゃっほう!
とりあえず走ってると気持ちが落ち着く。
昔はこの部屋、書斎だったのかな?
机に椅子、それにたくさんの本に積み上げられた書類の束。
床に散乱した丸められた紙屑。
ところどころに見えるのは腐った食べ物らしきもの。
あれが臭いの元だ。
本棚を駆け上がって、えいっ! と散乱した紙屑の上に飛び降り、また別の本棚を駆け上がる。
ああ、走るって気持ちいい。
よし、今度はソファに着地だ。
とうっ!
さっきまで寝ていたソファには私が包まれていた清潔なシーツ以外は何ものってない。
周りにはソファよりも高く、色々なものが積まれている。……というか散乱している。
あ、やばい。
騒ぎすぎたみたいだ。
誰かが来る。
か、隠れ場所! どこに隠れる!?
この腐界に飛び込む? 臭いけど! 自慢の毛並みが汚れちゃうけど!!
慌てた私はまたパニック状態になって、再び部屋の中を駆け回り始めた。
そして開いた扉。
「あ、目が覚めたんだね」
「……」
机の上にナイスバランスで積まれた本。その上で硬直してしまった私に、にこやかな笑顔を向けて近づいて来る青年は森の中で見かけた一人だった。
色々な物をなぎ倒して、踏みつけてるけど、全く気にしてないみたい。
逃げなきゃ、と思うのに私の体は言う事をきかない。
仕方なく覚悟を決めたけど、自慢の毛は恐怖に逆立っている。
そんな私を青年は両手でひょいと抱えあげると目線を合わせて楽しそうに笑った。
「軽いね?」
いえ、ネズミにしてはかなり大きいんです。
「喉乾いてない? お腹すいてない? 何食べる?」
そんな矢継ぎ早に質問されても、答えたらおかしくない? 私ネズミだよ? というか、この人はなんでこんな自然なの?
「何か持ってくるから、ちょっと待っててね」
青年はそう言って私をソファに下ろすと、また色々な物をなぎ倒し、踏みつけながら部屋から出て行ってしまった。
私、チュウとも何も応えてないんだけどな。
この世界って、ひょっとして私の知らない世界?
それともこの体験は死の間際に見ている夢か何か?
自慢の毛を引っ張ってみたら痛かったので、とりあえず現実ということでファイナルアンサー。
しばらくして戻って来た青年はソファの前に据えられていた机を発掘して、強引にスペースをあけてお盆を置いた。
小ぶりのチーズサンドとニンジンなどの野菜、それにボウルに入ったお水。
久しぶりのご馳走に、私は嬉しくて遠慮もせずにパクパクと食べ始めた。
けど、ある程度お腹が満たされてきたら、色々なことが気になりだした。
とりあえず臭い。
それから、この腐界に沈むソファにくつろいで座る青年のこと。
あんまりじっと見ないで欲しいな。
恥ずかしくなるから。
ニンジンを前足で持ったまま、ちらりと青年を見たら、優しげな蒼い瞳と目が合った。
髪の色は濃い茶色で顔立ちは整ってて、かなりの美青年。
日焼けた肌が健康的でいいね!
出来たら人間の時に彼と出会いたかったな。
あ、でも万が一にも恋愛関係に発展してたら死んでも死にきれなかったかも。
そんな私の考えをまさか読んだわけじゃないだろうけど、彼はクスリと笑った。
「そういえば、まだ自己紹介してなかったよね? 僕はリオト。――リオト・パントレ。このパントレ王国の第二王子なんだ。よろしくね」
まるで握手を求めるように差し出されたリオトの右手に、思わず私は小さな左前足をちょこんとのせた。
この世界って、ネズミと人間は仲良しなんだね。