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はじまり3



 芽吹き始めた木の枝や下草をかき分け、ディリーアは泉の石組みの前にたどり着いた。

 泉の石組みの前には、小さな木桶と石で出来た女神の像が安置してある。

 ディリーアは石の上に残った水の流れた跡に手で触れ、辺りを見回した。

 ――泉は枯れてしまったのか?

 ディリーアは石組みの側の土に耳を当て、静かに目を閉じた。

 暗闇の遠いところから、かすかな水のせせらぎが聞こえてくる。

 ――やはり、水は地中に潜っただけか。

 ディリーアがそう考えていると、側の茂みが風もないのに揺れ、そこから一匹の蛇が這い出てきた。

 白い蛇は赤い舌をちろちろと出し、金の瞳でディリーアを見上げた。

「久しいな、水の女神よ」

 白い蛇は地に響くような声でつぶやく。

「月の神か」

 ディリーアは青く涼やかな目差しで見下ろす。

「わたしに何の用だ? まさか月の神の使者を追い返された恨み言を言いに来たのか?」

 白い蛇は身をくねらせ、泉の石組みの上に這い登った。

「あれはたまたま、火の神が人間として生きる意志が強かっただけのこと。お前のせいでも、ましてや使者の責任でもない」

 ディリーアの青い瞳と、蛇の金の瞳がぶつかる。

「それで?」

 ディリーアは目をそらさずに尋ねる。

「一体わたしに何の用だ?」

 蛇はくっくっと声を立てて笑う。

「忠告をお節介にもしてやろうと思ってな」

 白い蛇は赤い舌を出し、ディリーアを見上げる。

「お前は、人間としてこの地上に生まれ落ちてから、ずいぶん色々な経験をしたようだな。それでどうだ? いい加減悟っただろう?」

「何のことだ?」

 ディリーアは短く答える。

 蛇は金の目を妖しく光らせ、口元を奇妙に歪める。

「人間の愚かさだ」

 ディリーアは黙ったまま、蛇を見下ろしている。

「人間は同種族でありながら互いに憎しみ合い、戦い殺し合う。自分の理解できない存在を嫌悪し、排除しようとする。お前も今までに見てきただろう? そのような人間達を」

 ディリーアはうつむき、青い目を細める。

「そうだな。そのような人間はごまんと見てきたな。だがな」

 蛇の次の言葉を遮るように声を張り上げる。

「そうではない人間もごまんと見てきた。世界には、他人を思いやり、労ってくれる人間もいる。クロフがそうだ。あいつは、わたしが大蛇の姿をしていても、驚かなかった」

 ディリーアは淡々と語る。

「火の神の生まれ変わりだから、あいつは特別だからとか言いたいんだろう? だがな、あいつは太陽の女神の啓示に導かれはしたが、火の神の記憶は持っていない。それなのに、あいつはわたしのところに来て言ったんだぞ。あなたの姿が醜いとは思わないと。わたしはそれが嬉しかった。そして、覚悟一つあれば、わたしの姿を見ても怖く思わない人間がいることを、本当に嬉しく思ったんだ。それだけで、わたしは救われ、希望を持つことが出来た」

 森の木々を揺らし、春先の冷たい風が吹き抜ける。

 乾いた音を立てて、下草が風になびく。

「もう一つ忠告しよう。もしお前がこの泉の流れを取り戻したならば、近い未来、この村で泉の水を巡って争いが起こるだろう。この土地は実りもそれほど豊かではなく、人々はいつも水に不自由してきた。だがそれ故に、周囲の権力者はこの土地に興味を持たなかった。この土地が水の豊かな土地になれば、必ずや権力者はこの土地を手に入れようと躍起になるだろう」

 ディリーアは青い目を細める。

「確かに、月の神の言うことも一理ある。だが、わたしはそんな先の未来のことまでは責任もてない。水の女神として、限りない命を持っていた頃なら別として、今は限りある人の身、お前の言う愚かな人間の一人だからな」

 ディリーアは石組みの上に祭られている石の女神像に触れる。

 女神像は長い間風雨にさらされ、輪郭しかわからなくなっていた。

「最後に、お前に尋ねたいことがある」

 ディリーアは顔を上げる。

 白い蛇の金の瞳からは、依然何の感情も読み取れない。

「もう一度、水の女神として天上に戻りたいか?」

 金の瞳に初めて哀れみの感情が宿る。

「さあな。人間の女として、最後まで人生を送ってみないと、わからないな」

 白い蛇は何も言わず、茂みの奥に消えていった。

 強い風が木々を揺らし、ディリーアの黒髪を揺らす。

 ディリーアは長いため息を吐いた。

 森に再び小鳥の声が戻ってきた。

 森のあちこちから動物のたてる物音、木々のざわめきが聞こえてくる。

 ディリーアは泉の石組みの前に立ち、そっと手を合わせる。

「水よ、吹き出せ」

 ディリーアが叫ぶと、ごぼりと小さな音が地中から響いてきた。

 水の流れるせせらぎとともに、石組みの上を細い水が流れ出した。

「おーい」

 森の小道の向こうから、クロフのディリーアを呼ぶ声が近づいてくる。

 クロフは茂みをかき分け、道の小道を歩いてくる。

 その後ろに女の子、杖をついたケーディンが続く。

 女の子は泉の水が流れているのを見て、あっと叫んだ。

「うそ、この泉の水は数十年以上前に枯れたはずじゃあ」

 驚いている女の子の横を通り、ケーディンはディリーアに近づく。

「それで、おれの目は、治してもらえるんだろうな?」

 ケーディンはディリーアに疑いの表情を向ける。

「ああ、この泉の水があれば大丈夫だ」

「なら、いいが」

 ケーディンは鼻を鳴らす。

 ディリーアはケーディンを泉の石垣に座らせ、その眼帯を外す。

 眼帯の下から現れたのは、赤く焼けただれ、黒ずんだ皮膚だった。

 女の子が思わず顔を背ける。

 ディリーアはその両目に指で触れようと手を伸ばした。

 途端、ケーディンがその両腕をつかみ、ディリーアにだけ聞こえる小さな声でささやく。

「まさかあの大蛇が、こんな細い腕をした女だとは、驚きだな」

「クロフから、聞いたのか?」

 ディリーアは青い目を驚きに見開く。

「おれが頼んで教えてもらったんだ。あいつは悪くない」

 ディリーアは小さなため息をついた。

「それでどうするつもりだ? わたしを殺すのか?」

 その問いに、ケーディンは豪快に笑って見せる。

「今更あんたをどうにかしようとは、思っちゃいないさ。おれも元傭兵なんでね。自分が生き残るために殺した奴や、おれを殺そうとした奴のことを、とやかく言うつもりはない。こっちが殺さなきゃ、自分が殺されていただろう。それは、仕方のないことだ」

「ならば何だ? わたしに何か言いたいことがあるのだろう?」

 動きを止めた二人に、クロフと女の子は不審の目を向ける。

「ただな、あんたも大蛇として苦しんできたんだろうが、おれも二年以上目の見えない不自由な生活を送ってきたんだ。わびの一つもしてくれなきゃ、割が合わない」

 ディリーアは急に顔を赤くして、ケーディンにつかまれていた両腕を振りほどく。

「誰が、そんなこと!」

 ディリーアは顔を真っ赤にして叫ぶ。

「おいおい、怒るほどのことかよ?」

 ケーディンは無精ひげの生えたあごをさする。

「謝ることくらい、子供にだって出来るだろ? ごめんなさい、って言ってくれれば、それで許してやろうと思ってたのにな」

 ディリーアは二の句が継げなかった。

 かろうじて怒りを飲み下し、口を開く。

「ご、ごめんなさい」

 蚊の鳴くような声でつぶやく。

 ケーディンは肩をすくめ、妹や弟達にするのと同じように、ディリーアの黒髪を撫でる。

「わかればいいんだよ」

 人なつっこい笑みを浮かべ、ディリーアを見下ろしていた。



「もう行くのか? もっとゆっくりしていけばいいだろうに」

 ケーディンの見送りに、クロフは門前で馬の手綱を握り、静かに微笑んだ。

「ありがとう。でもあまりここに長く留まっていると、離れられなくなりそうだから」

 別れを惜しむケーディンに、女の子が茶々を入れる。

「もう、お兄ちゃんったら。いつもいつも大げさなんだから」

 ディリーアは馬の背の上でため息をついた。

「やれやれ、こいつの目を治しに来ただけなのに、散々な目にあった」

 森の泉でケーディンの目を治した後、三人が村に帰るとその噂は見る間に広まった。

 噂を聞きつけた村人達が森の泉に押し寄せ、大混乱となったのだ。

 そしてその水で、村人達の病が本当に治ったからたまらない。

 村ではすぐに盛大な祭りが執り行われた。

 その祭りは三日三晩続き、そのため二人は今日まで村人達に村に引き留められていたのだった。

「じゃあ、もう行かないと」

 クロフは栗色の馬の首を撫で、ディリーアの前に飛び乗る。

「おい、言い忘れたが。あの姫さん、今度結婚するそうだぞ。相手は森の化け物を退治した、神官長らしい」

 ケーディンと女の子が遠ざかっていくクロフに手を振る。

「もし南に行く用事があったら、寄ってやれよ。姫さん、喜ぶぞ!」

 クロフは二人の姿が見えなくなるまで、ずっと手を振り続けていた。

 村の家々が丘の彼方に見えなくなって、クロフは前に向き直った。

「残念だったな」

 ディリーアはクロフの背にもたれかかり、その腰に両手を回す。

「ひょっとしたら、姫と結婚していたのは、お前かも知れないぞ。なにしろ姫は、お前のことが好きだったんだからな」

 ディリーアはたたみかけるように言いつのる。

「どうせお前のことだ。姫の気持ちに気付かなかったんだろう?」

 クロフは気まずそうに視線をそらす。

「そっちこそ、北の国でコナルと仲が良かったみたいだけど」

 今度はディリーアの方が渋い顔をする番だった。

「君の姿を見るなり、いきなり抱きついてきてさ。ぼくがいない間に、何があったんだか」

「べ、別に、何もない」

 辺りに気まずい沈黙が落ちる。

「まあまあ、夫婦げんかは犬も食わぬと申しますし。それくらいにしておかれては」

 栗毛の馬はゆったりした歩調と同じように、やわらかな口調で話す。

 空では温かい日差しと、馬ののんびりしたひづめの音が野原に響く。

「もういいよ。どうせ、全部終わったことだから」

「そうだな。過ぎたことよりも、これからのことを考えないとな」

 クロフとディリーアは背中を合わせ、二人して青い空を見上げる。

「まずは、ぼくが火の神であった頃の記憶を取り戻さないと」

「わたしは、今のままでもいいと思うぞ」

 ディリーアはこともなげに言い放つ。

「無理して思い出す必要は無いし、それに、わたしは今のお前も、好きだぞ」

 ディリーアはクロフの背中に自分の背を預け、足を投げ出した。

 クロフの返事はなかった。

 ディリーアがクロフの後ろ姿盗み見ると、耳の辺りがわずかに赤みを帯びていた。

 両手を思い切り空に伸ばし、ディリーアは緑の香りを胸一杯に吸い込む。

 青空の高いところでは、太陽を背にしてヒバリがさかんにさえずっていた。


                                      おわり


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