はじまり2
「まさか今頃になって、お前がここにやってくるとはな」
眼帯を付けたケーディンは、向かいに座るクロフに話しかけた。
窓から明るい光が差し込み、炉の上にかけてある鍋の中の湯がくつくつと煮立っている。
「ちょっと色々あって遅くなったけど、あの時の約束を果たしに来たんだ」
ケーディンは豪快に笑う。
「おれはお前が約束を忘れているか、どこかでくたばっているかとずっと思ってたんだけどな」
「残念だね。この通り、ぴんぴんしてるよ。まあ、死にそうな目には何度も会ったけれど」
クロフは苦笑いを浮かべる。ケーディンはあごの無精ひげに手を当てる。
「お前、二年前に会ったときと、ずいぶん変わったな」
クロフは持っていた木のカップをテーブルに戻す。
無意識のうちに自分の身なりを見回し、そこで初めてケーディンの両目が見えないことに思い至る。
その気配を察したケーディンは、思わず吹き出した。
「そういうわけじゃない。今のおれにはお前の外見なんてわかりっこないんだよ。そうじゃなくて、雰囲気だよ、雰囲気。二年前に会ったときは、やたら敬語を使って、いかにも育ちのいい神官様、っていう取っつきにくい印象だったんだよ。覚えてるか?」
クロフは木のコップの中に揺れる薬草湯をのぞき込む。
「だが、今のお前は、肩の力が抜けたって言うのか、自然ないい話し方になったな」
ケーディンはテーブルに肘をのせる。
「まあ、おれの気のせいかも知れないが」
「ありがとう。それはほめ言葉として受け取っておくよ」
二人のいる部屋の窓から、春先のやわらかい日差しが差し込み、テーブルの上に飾られた花を明るく照らす。
廊下に足音が響き、戸口から一人の女の子が飛び込んでくる。
「ごめんなさい。遅くなって。これ、わたしが焼いたリンゴのパイです。吟遊詩人様のお口に合うかどうか」
女の子はテーブルの真ん中に大きな丸い木の皿を置く。
その中には狐色にこんがり焼けたパイが、部屋中に甘い香りを漂わせている。
「ありがとう、とてもおいしそうだよ」
「よかった」
女の子はそう言って、クロフにパイを切り分けた。
「はい、これはお兄ちゃんの分」
切り分けたパイを今度はケーディンに渡す。
ケーディンは目が見えないのが嘘のように、器用に木の皿を受け取る。
クロフが戸口に目を向けると、廊下の薄暗がりから恨めしそうな目がいくつもこちらをのぞいている。
「お姉ちゃん、ぼく達の分は?」
女の子はパイを木の皿に取り分けている姿勢のまま固まった。
顔を赤くして足早に戸口の方へ歩いていく。
「こらっ! 吟遊詩人様の前で、何やってんの!」
「いや、別にかまわないけれど。君たちも良かったらパイを一緒に食べないかい?」
クロフが女の子を諭す。
「ほら、吟遊詩人のお兄ちゃんも、ああ言ってることだし」
子供達は抜き足差し足、女の子の隣を通り過ぎていく。
「もおっ!」
女の子はパイを切り分けていた木のナイフを腹立ち紛れにがむしゃらに振り回す。
「ただし、あんた達の分は、お客様に切り分けた後だからね!」
女の子はテーブルの上に出しておいた三つ目の皿に、パイを盛りつけ、それを片手に持ったまま部屋を見回した。
「あの、吟遊詩人様のお連れの方は?」
クロフは窓の外を指さし、苦笑いを浮かべる。
「ケーディンの目の治療には、きれいな泉の水が必要だからって、森の泉に向かったよ」
女の子は木の皿をテーブルの上に置き、ケーディンを振り返る。
「女の人を一人で森に行かせたの? 信じられない。どうしてお兄ちゃん、着いていってあげなかったの?」
ケーディンは女の子の冷ややかな視線を感じ、立ち上がった。
「お前な、おれは目が見えないんだぞ! 目が見えなくて、どうやって森の泉まで着いて行けと?」
「でも、お兄ちゃんは元傭兵なんでしょ? 目が見えなくたって、あまり生活に不便は感じてないみたいだし。そんなお兄ちゃんでも、女の人一人くらいなら守れるでしょう?」
「無理言うなよ。目が見えないおれが、どうやって相手を守るんだ」
「物語にはいるじゃない? 盲目のかっこいい剣士。あ、お兄ちゃんはかっこよくないけど」
「お前な、おれをあんな化け物みたいな奴等と一緒にするんじゃない」
クロフは苦笑いを浮かべ、この兄妹げんかを見ていた。
「それに家の中でもおれは不便を感じているんだぞ。その証拠に、しょっちゅう物にぶつかるじゃないか」
「それはお兄ちゃんの図体がでかいだけよ。この前なんて、戸口にだって頭ぶつけたじゃない」
クロフは木のコップを両手で包み、薬草茶を一口飲み下す。
兄や妹の言い合いや、弟達のにぎやかな声に包まれて、クロフは窓の外をのんびりと眺める。
窓の外では若草色の草木が芽吹き、色とりどりの花があちらこちらに咲いている。
小鳥がさえずり、虫達が花々の上を忙しそうに飛び回っている。
クロフは湯気のうっすらと立ち上るコップの中をのぞき込み、もう一口お茶を口に含んだ。