元婚約者から逃げられなかった
夕方、今日のご飯は何にしようかと呑気に歩いていると、突然手を掴まれた。振り返ると全く知らない人がいた。「人違いです」とやんわりと注意してみるが、手を離す気配がない。
「やっと見つけた……!」
人違いではなかったらしい。驚きのあまり、声が出ない。だって本当に知らないんだもん。見覚えがあるような気はするんだけど……。
手を掴んできた男はテレビの中から出てきたのではと思うほどのイケメンさん。サラサラで艶がある黒髪を揺らして言った。
「覚えていない? 俺はアルダー。アルダー・アンクレアン。君の婚約者だよ」
「私には外国の方の知り合いはいませんし、婚約者なんていません。人違いではないでしょうか?」
「ああ、記憶がないんだね」
だめだ、話が通じない。そもそも、ナンパにしても、私に話しかけるのはおかしい。きっと、このまま話していたら、変な事務所に連れて行かれて高価なものを買わされる……!
「婚約者さんが見つかると良いデスネ!」
人混みを利用してイケメンさんから逃げる。久しぶりに走ったせいで息が上がってしまい、これ以上は走れそうにない。でも……。
「電車に乗れたから大丈夫でしょ」
電車に乗る人の中にあの人はもちろん居ない。私はほっと胸を撫で下ろした。
「ってことがあってさ」
「何それ、こわー」
怖い思いをしても、ただでは起き上がらないのが私、筒井凛音である。私にかかれば昨日のことを笑い話に昇華することだってできるのだ!
「でもなんで私にしたんだろう? そんなに騙されやすそうかな?」
「りんりんって、一人っ子だからなのか、ぽわぽわしてるからね〜」
自分ではしっかり者のつもりだったんだけど……。それでも紫ちゃんには言われたくない。
「もしかしたら、それ、本当なのかも? だったら、前世からの恋人? ロマンチックだなあ! 記憶を忘れた恋人をそれでも愛するって素敵だわ」
昨日の男が「君の婚約者だ」と言っていたことを思い出して苦笑いをする。
「ええー。ないない。私はそもそもスピリチュアル的なことは信じないし。てかさ、前世からの愛って嫌だな。普通に重い」
「前世から? ないわー」と切り捨てた私に彼女がため息を吐いた。彼女はロマンチストなところがある。恋愛小説とかもかなり好きで、最近、前世での恋人がまた付き合う話を読んだとか言ってたっけ。
「そういえば、りんりん今日は暇? 駅前に新しいカフェが出来たんだよ! それで、チケットを――」
「あーごめん。今日はバイトで……」
「えー。でもバイトなら仕方がないか……。りんりん、帰りが遅くなるなら気をつけて。最近、暖かくなってきたから変質者も増えてて夜は危ないよ?」
「ふふ、お母さんみたい」
彼女はお母さんと言われたことに対して、「そんなに老けてない!」と怒りを露わにした。
私が「私を狙う人がいるなんて思えないなー。大丈夫だよ」と言ったら、「分かってないでしょ!」と叱られた。やっぱり、お母さんだ……。
「中学の後輩がバイト先にいるって言ってたよね? 方向も同じだろうから、一緒に帰ってもらいなよ!」
「うーん。じゃあ千歳くんに一緒に帰って貰おうかな……」
彼女は「絶対に一人にならないでね! りんりんは可愛いから!」と念を押した。今日は心配性な親友のためにも帰りが遅くならないようにしよう!
「あ! リリー! 昨日の今日で会えるなんて。俺たちはやっぱり運命の糸で繋がっているんだね!」
昨日のイケメンさんがバイト先に入店した。確かに、バイト先はこの人に会った駅の近くのコンビニだから出くわす可能性はあったけど!
どうにかして、追い払いたいと思い、彼を睨みつける。すると、頭の中でカチリとピースがはまった音がした。
アルダー・アンクレアン。私はこの名前を知っていた。なんで今まで忘れていたんだろうと思うくらいだ。彼が言った通り、前世で私と彼は婚約者だったのだ。
アルダーは次期王、私――リリーは伯爵令嬢で、婚約を結んでいた。二人は絆を育めていた、と思う。でも、隣国に留学していた公爵令嬢が帰国したことで、その関係は終わった。
そもそも、伯爵令嬢のリリーがアルダーと婚約できていたのはリリーより上の爵位の家に適齢期の令嬢がいなかったからだ。居たとしても、既に婚約か、それが出来ない条件があった。
つまり、リリーの婚約者はその公爵令嬢によって奪われた。
リリーはアルダーのことが好きなメンヘラでヤンデレな女だった。家庭環境がよろしくなかったリリーはアルダーだけに固執するようになっていた。
リリーを気にかけてくれた使用人も何人か居たけど、そのアドバイスも全部無視。アルダーに近づく人は全員敵の精神で生きていた。
王太子の婚約者という権力でリリーは横暴に振る舞った。愛想を尽かされるのは仕方がない。酷い婚約者なんて捨てて、家柄も性格も見た目も全て上の令嬢に乗り換えるのは自然なこと。でもリリーは許せなかった。
アルダーが彼女に触るたび、彼女に何かを送るたび、彼女と話すたび。リリーは怒り狂って八つ当たりし、色々な人に喧嘩を売りまくり、公爵令嬢にさえも無礼な態度を取った。
そして守ってくれる人も居ないリリーは処刑されることになった。「逃げよう」と言ってもらったこともあったけど、アルダーへの気持ちが偽物になるみたいだったから断った。
死に際、愛憎入り混じった酷い顔になるのが分かっていたから、誰にも見せたくなかった。リリーは処刑を待たずして、自ら崖を飛び降りて死んだ。
アルダーが転生してまで私に会いにきた理由、それは私への復讐以外に考えられない! 愛する女――公爵令嬢に酷いことをした私を自らの手で断罪しないと気が済まないってことかしら。
アルダーには正直悪いと思ってる。でも、今世では関係ない。そうでしょう? 私は優しい両親と友達に囲まれたこの幸せな環境で生きていたい。だから、知らない振りをしよう。記憶のない人に復讐なんてしても意味がないと考えてくれるかもしれないし。
「どうした? まさか記憶が?」
「いいえ全く。これっぽっちも覚えていません」
「とりあえず、連絡先ちょうだい?」
レジのカウンターに十一桁の数字が書かれたメモ用紙が置かれた。アルダーの後ろに人が並んでいる。不味い。この迷惑客を早く捌かないと……。
「ほ、他のお客様がお並びですので……」
「連絡先を知れたら帰る」
「そういったサービスはございませんので……」
「……仕方がない。店員じゃない、君にもらおう」
彼は不穏な言葉を残して店から出ていった。
「すみません、お待たせしました……」
アルダーの後ろに並んでいたお客さんを対応した。が、ものすごく気まずかった。
人見知りな千歳くんにも心配され、「レジ代わりましょうか」と言われる始末。でも会わないわけにはいかないな……。外で待っているのが見えている。
「先輩、あの不審者に会う時、僕も連れていってください」
「でも、迷惑をかける訳には……」
「気にしないでください。女性だけだと、舐められますし、誘拐されてしまうかもしれません!」
紫ちゃんもだけど、千歳くんも発想がすごいっていうか、心配性っていうか……。でも、アルダーは怖いので、着いてきてもらうことにした。
「えっと、こんばんは……。待たせてしまってすみません」
「で、その男は誰?」
アルダーは冷え切った目で千歳くんを見た。千歳くんは私を庇うように立ち、睨み返した。
「その前にあなたが名乗ってください。素性の分からない人に関係性を問われても答えられません」
「……一色伊織」
「あ、ちゃんと日本人……」
何言っているんだこいつと言う幻聴が聞こえた。でも、最初に前世の名前を名乗ったこの男が悪い。
「で、そっちはどうなんだ」
「千歳くんは私のこ……」
「恋人です」
「はあ?」
アルダーもとい一色は腹の底から出たような、低い声で聞き返した。私も恋人発言に驚いて声が出そうになる。
千歳くんは私に向かって口に指を当てるジェスチャーをした。作戦ってことなのかな?
「おいリリー。どういうことだ」
彼は私の肩を強く掴み、問いただす。作戦なら「私も知らない」と言うことも出来ない。どう答えようかと思いつつ、私が黙っている間、彼が私の肩を掴む力がどんどん強くなっていく。
「いたっ」
私が小さく悲鳴を上げた時には千歳くんは一色の手を私から剥がしていた。
「触るな。そもそも先輩はリリーなんて名前じゃない」
「なんでお前にそんなことを言われなきゃいけないんだ……!」
「先輩が迷惑に思っているの、分からない? ……ここから立ち去るか警察を呼ばれるか、どっちが良い?」
千歳くんは淡々と一色に言い放った。一色は立ち去る方を選んだようで、千歳くんを睨みながら去っていった。
「わー! ありがとう、千歳くん! かっこよかった!」
「そ、そうですか? それは良かったです」
一色が見えなくなり、喜んだ私は勢い余って千歳くんに抱きついた。彼の「ハグしてます……」という控えめな声で我に帰り、慌てて距離を取る。
「ごめん! 嬉しくて、ほっとしちゃって」
「気にしてません。むしろ……いやなんでもないです。先輩を守れたみたいで良かったです」
ふわっと笑う彼を見ていると、一色と相対していた彼とは別人のように思える。でも、彼自身にはその自覚はなかったようで、それを伝えると「変わってましたか!?」と驚いていた。
「立て続けにお願いしちゃって悪いんだけど、駅まで一緒に帰ってくれない? 友達に危ないから一人で帰るなって言われちゃってさ。私はもう子供じゃないのに、過保護だよね」
笑いながら紫ちゃんに言われたことを話すと、彼は真剣な顔で「その友達は過保護じゃないです」と返されてしまった。確かに、今日は一人だったら危なかったかもしれないけど……。
「では駅に向かいましょうか」
「うん。エスコートよろしくね。恋人さん」
「えっいや、あれは……!」
「大丈夫、あれを本気にする痛い女じゃないから。ちゃんと守るための嘘って分かってるよ」
「あ、はい」
この日は送ってもらった甲斐もあって無事に帰ることができた。
「うげっ」
もう見なくて済むと思っていたものを見てしまった。突然ものすごく嫌そうな顔をした私を見て、紫ちゃんが体調を気遣ってくれた。
気づかないでくれという私の願いは届かず、一色は私に気がついて、その上話しかけてきた。
「こんにちは」
「コンニチハ」
片言で挨拶する私を見て彼は笑った。今日はバイトもなく、そのまま真っ直ぐ帰れると思っていたのに……。
固まる私を見て、紫ちゃんが「これって例の?」と耳打ちした。私は控えめに頷いた。
「な、なな何のようですか! いくらイケメンでもりんりんに手を出すことは許さないから!」
「りんりん。良い名前だね。ねえ、りんりんも俺のことかっこいいって思う?」
「あー顔は良いデス。……りんりんって呼ぶのやめてください」
「じゃあ、なんて呼べば良い?」
やられた、誘導尋問だ……! リリーやりんりんと呼ばれるのは絶対に嫌だ。……名乗るしかない。
「凛音か。やっぱり可愛いね。ぴったりだよ」
「……それはどうも」
「あ、目的を忘れるところだった。俺は今までのこと、反省したんだ。だから、埋め合わせをしたいんだ」
「埋め合わせ?」
「そう。駅前のカフェで何か奢らせて?」
その話に食いついたのはむしろ紫ちゃんだった。駅前のカフェは昨日話していたお店のことかな。
「良いじゃん、めっちゃ高いパフェでも奢らせちゃいなよ! 今日、バイトはない日でしょ?」
「迷惑だっただけで、被害は被ってないから……」
断るために適当なことを言う。迷惑な奴とはお茶なんてしたくねえよという圧も少し込める。
「迷惑をかけていたのは事実だ。俺のためだと思って付き合ってくれ」
「昨日は他の子を誘って私だけ美味しい思いしちゃって、少し申し訳なかったんだよね」
二人から言われて断りきれなくなる。紫ちゃんを「守ってくれるんじゃなかったの!?」という気持ちを込めて、じとっと睨む。彼女のロマンチストなところが今は憎い。
結局、断りきれなかった。「学校が終わったら迎えにいくからね」と言われ、もう逃げられなくなった。
「チケットはお持ちですか?」
「チケット?」
「はい。開店直後はどうしても混んでしまうので、今週はチケットを持つお客様だけに入店していただいています」
そういえば、紫ちゃんがそんな話をしていた気がする。……ちゃんと調べておかないといけなかったなあ。
「これですよね」
「はい。ではご案内します」
「も、持っていたんですか?」
「誘ったからね。もちろんだ」
彼は爽やかに笑った。やっぱりかっこいい。前世のことがなければ、純粋にこの時間を楽しめたのにな。
「昨日も一昨日もごめんね。凛音」
「はい。……その理性があるならどうしてあんな変質者のような真似を?」
「手厳しいな。会えて嬉しくて、つい。今は反省してる」
彼の顔は本当にただ、嬉しいと言っていた。……とても、私を恨んでいるように見えない。なら、どうして……今になって?
彼は「これが美味しいらしいよ」なんて呑気にメニューを見ている。そんな彼の真意が見えない。
「凛音はこれが好きだったよね」
彼が指差したのはたっぷりと生クリームが使われた甘い甘いショートケーキ。確かに前世、私はこれが好きだった。でも、話したことは一度もない。まさか、私の様子から好きだって察してくれていた……?
前世と今世では育ってきた環境が違うから、今はタルトの方が好きだけど。
「今はタルトの方が好きです。フルーツとベリーか……。どっちにしよう」
私がメニュー決めに手こずっていると、彼は店員に「フルーツタルトとベリータルトを一つずつ」と注文を済ませてしまった。
「フルーツとベリー、半分こにしよう?」
「わー! ありがとうございます!」
私は美味しいタルトを堪能した。私の目の前に置かれているタルトがどんどん減っていく。しかし、彼の前のものは減る気配がない。
「……もしかして、甘いものが苦手でした? 私に合わせてもらってすみません」
「良いんだ。俺は君の幸せそうなその顔を見ているだけでも幸せだから。あ、残りも食べる?」
側から見て、幸せそうだと一瞬で分かるほどだらしない顔をしていたということだろうか。恥ずかしい。
「タルトはそんなに要りません! 太ります。死活問題です」
「そう? 凛音は細いと思う」
「女性は太りやすいんです!」
「凛音。俺はそのままの君が好きだよ」
「なんでいきなり口説こうとするんですか……」
心拍数が上がる。認めたくないけど、ドキドキしてしまっている。
急に婚約者を名乗るような変人に、自分勝手な野郎に、「好き」と言われて嬉しくなってしまった自分がいた。
彼はずっと眩しかった。暗闇の中に居た私を表舞台に引き摺り出してくれた。今世では出会いこそ最悪だったけど、明るい笑顔に絆されている自分がいる。
アルダーに出会う前のリリーはいつも泣いていた。出来の良い妹と比べられ、「なぜ出来ない」と叩かれ、ほとんどの使用人はリリーを冷遇した。
王太子――アルダーの誕生日パーティーに呼ばれた時もリリーは俯いていた。
「これ、美味しいよ」
上からの声でリリーは顔を上げた。そこには太陽の化身のような美しい少年がいた。リリーの記憶には、太陽の光が反射しキラキラと輝く髪や何の含みもない笑顔がこびりついている。
彼が差し出してくれたのはたっぷりと生クリームが使われた甘い甘いショートケーキ。リリーがショートケーキを好きになったのはこの時だ。
リリーの頭の中には、本当にアルダーのことしかない。
「どう? 美味しいでしょ」
「う、うん……」
「やっぱり、俯いていたら勿体無い。笑顔の方が可愛いよ」
「か、可愛い……?」
「そう! では可愛いレディ。僕と踊ってくれませんか?」
他の人が妹に向けるような視線、かけるような言葉をもらったリリーは困惑していたが、それ以上に嬉しかった。その嬉しさが自分を見てくれたからなのか、褒めてくれたからなのかは分からないけれど。
この日、リリーは恋に落ちた。
「……なんで私に構うんですか? その、前世は分からない人に復讐とかするの、意味ないと思うんですけど……」
「ふ、復讐!? 俺が!?」
彼は首を勢いよく振って否定した。その上、彼は「リリーが好きだからに決まってる」と言った。
「どんなところが好きなんですか?」
「本人に向かって言うのは恥ずかしいな……」
彼は耳を赤くして、指を折りながら話した。
「まず、可愛い。好きになったきっかけは一目惚れだったかな。パーティーで大人たちに囲まれていて疲れていたところで君を見つけたんだ。見たことがない子だったから、一瞬天使が現れたのかと思ったよ」
リリーがアルダーを好きになったきっかけのパーティーのことだろうか。リリーは冷遇されていたからお下がりのドレスを着せられて、髪も伸ばしっぱなしだったから可愛いとは思えないけどな……。
「あと、笑顔も可愛い。強がりの隙間から覗く年相応の笑顔が好きで、初めて俺に笑いかけてくれた時、もう一度恋に落ちるかと思った。そして優しい。リリーの方が辛いのに、俺を気遣ってくれるんだ。でも見ていられなくて、辛かったな。どうして俺には力が無いんだろうって。今すぐに家から連れ出してやれたらって……」
「大丈夫です。あなたの心はきっと届いていましたよ」
アルダーはリリーの心の支えになっていた。そのことを伝えて、彼の心が少しでも軽くなるなら良いと思った。
「やっぱり、君……」
「記憶はありませんよ。これはただの推測です」
やっぱり余計なことを話すと前世の記憶があることがバレそう。それでも、リリーの想いを伝えてあげたいと思うのはだめだろうか。
「些細な動作、言葉から気持ちって伝わると思うんです。だから、きっとリリーの力になっていましたよ」
私の言葉を聞いて彼は照れくさそうに笑って「ありがとう」と言った。
「まだあるけど、聞く?」
「人の恋バナって美味しいものなんですね」
「君のことでもあるけどね」
今までの焦ったような思い詰めているような、そんな顔ではなく、初めて彼が年相応の顔をした気がした。
「印象的だったのは、俺が剣術の試合で小さな怪我をした時。単なる擦り傷だったんだけど、リリーは真っ青になって過剰なほど手当てをしてくれたんだ。ちょっと笑ってしまったけど、嬉しかったんだ。ああ、こんなにも想ってくれているんだって」
「か弱そうに見えて、芯があって強いところも魅力的だ。妃教育は厳しいものと聞いていたが、彼女は泣き言一つ言わずにこなしていた」
「何度も嫌味を言われていた。でもリリーはそれに負けず努力していたよね。俺の婚約者はお前らなんかに負けないぞって自慢したかったんだ。はは、ちょっと恥ずかしいな」
「紅茶を入れてくれたことがあったんだ。メイドに習ったと言いながら。その時の紅茶の味は忘れられないな」
次から次へと出てくる惚気話に顔が赤くならないように必死だった。「そんな深い意味はなかったです。ただ他の女性に嫉妬していただけなんです」と訂正したい。どうやら彼の中のリリーは美化されているようである。
「なら、どうして別の女性と親しくしたんですか」と言いかけてぎゅっと口を噤む。こんなこと言えば前世の記憶があると分かってしまうし、残酷な現実を突きつけられるのも嫌だ。
もしかしたらアルダーはリリーが死んだ後、公爵令嬢と仲違いでもしたのかもしれない。それか、リリーが死んだことを自分の責任だと思っているのか。
彼の話を聞いているうちに空が茜色に染まってきた。
「もう夕方だ。そろそろお別れかな」
夕日に照らされて輝く彼の髪がアルダーと重なった。
前世は前世、今世は今世。そう思っているのに。
ねえ、この思いはどっちなの?
結局、連絡先を渡してしまった。以前貰った彼の連絡先を見ながらぼーっとする。
プルルルル、プルルルル。電話の着信音が鳴った。慌ててスマホを取り、相手の名前を確認する。
「えっ。嘘、一色!? もう電話してくるの!?」
ただの音声通話で、顔が出るわけでもないのに、髪に変な癖が付いていないかを鏡で確認する。
「よしっ」
一度深呼吸をしてから電話を繋げる。
「もしもし……?」
「良かった。繋がった。凛音に嫌われたかと思ったよ」
「電話に出れない状況だっただけですよ」
「今は平気?」
「まあ。もうその用事は終わっているので」
口が裂けても、「あなたからの電話に驚いて、身だしなみを整えていました」なんて言わない。
彼は咄嗟の言い訳に納得したようで、気にすることなく話している。純粋なところも前世から変わってないな。心配されたくなくて吐いた嘘も彼は信じていたっけ。叩かれた痕を「転んだせい」にするのは無理があったとは思うけど。
「あ、お母さんに呼ばれたから切りますね」
「大丈夫か?」
「え、何が?」
「凛音の母親、妹だけ贔屓するような奴だっただろ? 辛い思いしてないか心配で……」
「お風呂に入りなさいって言われただけです。そもそも私に妹なんて居ませんし」
彼は今の話じゃなくて、前世の話をしている。やっぱり、一色は前世と今世を混ぜてしまっているみたいだ。
「庇う必要はないぞ? 俺ならきっと助けられる」
「私はリリーじゃない! お母さんを悪く言わないで!」
それでもなお、母を悪者に仕立てようとする一色にイラッときて、大声を出してしまった。その声を聞いた母が「あら、嬉しい」なんて言っているけど、今は無視。「馬鹿、最低!」と言い捨てて電話を切ってお風呂に入る。
湯船に浸かっている時、さっきは言いすぎたと思って、お風呂から上がった後、メッセージアプリで謝った。「気にしてないよ」と返してくれたものの、顔は見えないから少しだけ怖かった。
一方的に電話を切ってしまってから何日かは彼と会うことはなかった。向こうが先に言ったとはいえ、私も酷いことを言ってしまったから少し心配だ。
「凛音。この前はごめん」
そんなことを考えていると、門の前で待ち伏せされていたのか一色が私の前に現れた。とりあえず、怒っては居なさそう?
「私も最低とか言っちゃってごめんなさい」
「仲直り記念にまたデートしない?」
「デ、デートって!? またって何!?」
「昨日のあれ、デートだと思っていたのは俺だけだった? 寂しいな」
「た、確かに! あ、あれはデート、でした……」
異性とお茶して、その上間接キスもしていた。これは間違いなくデートでは……!?
「凛音は笑った顔も可愛いけど、照れてる顔も可愛いな」
「ちゃ、茶化さないでください! 初デートは遊園地で、観覧車の中でファーストキス、みたいな夢を持ってたのに。意識もしないままあんなにあっさりと初めてを奪われるなんて……」
「じゃあ、あれは無しにして、一緒に遊園地に行こう」
「……え?」
「初デートは遊園地、でしょ? 隣の駅からバスに乗れば、小さいけど、遊園地に行けたはずだ。すぐにでも行こう!」
一色に強く手を引かれて駅まで歩く。初めて出会った時と同じかそれ以上に強引なのに、私は彼を憎めないでいた。
「せん、ぱい……?」
声の方を向くと、千歳くんがいた。彼は一色の方を見ていた。
「どうして、その男と……! その男はまた懲りずにストーカーでもしてるんですか?」
彼は一色を睨みつけた。しかし、一色はなんともないような顔をして言った。
「ストーカーじゃない。俺はもう恋人だから」
「「え?」」
「酷いな、凛音。今日はデートだって言ってくれたじゃないか」
「それは言いましたけど……んっ!?」
一色は私の言葉を遮るかのように、頬にキスをした。私は思わず赤くなって思考停止してしまう。一色は私の頭を撫でながら千歳くんに言い放った。
「これで分かっただろ? 偽物の恋人」
「なっ。お前が一方的に恋人だと主張しているだけだろ! 先輩の気持ちも考えてっ!」
「ふーん。偽物は否定しないんだな。まあそうだろうとは思っていたが。恋人が苗字で呼ぶ訳ないからな」
千歳くんは涙を浮かべ、私を縋るように見た。私は一色と繋いでいた手を離し、千歳くんの方へ向かった。
「私、アイツのことを好きになっちゃったんだ。だから、強制されている訳ではないよ。心配してくれてありがとう」
一色に聞かれるのは恥ずかしいから聞こえないように千歳くんの耳元で話す。
千歳くんの顔は見えない。けれど小刻みに震えていて、動揺していることが伝わってくる。彼は私に吐き捨てるように囁いた。
「でも、アイツはあなたのことを見ていない」
「どういうこと?」
「アイツが好きなのはリリー。つまり先輩の前世だ。あなた自身を好きな訳じゃない! あなたはきっと永遠に一番にはなれない。だから……!」
彼がその先を言う前に一色が私の手を取った。
「行こう、凛音。バスの時間になる」
「また……アイツが」
一色に手を引かれ、バス乗り場へ急ぐ。千歳くんが何かを言っていたみたいだが、ICカードが反応した音でかき消されて聞こえなかった。
中学生になってからはなんだかんだ行けていなかったから、小学生ぶりの遊園地。それも、好きになった人とのデート。
平日ということもあって、アトラクション待ちの長蛇の列はできていなかったから、目一杯楽しむことができた。それなのに、どこかにモヤがかかったみたいで、気分は少しも明るくならなかった。
千歳くんが言った「永遠に一番になれない」という言葉がずっと引っかかっていた。私たちはお互いのことを知らなさすぎる。会ってたった数日で、お互いのことは何も知らない。だから、前世基準で私を測ろうとするのは普通だと思っていた。
でも……。もし、彼が好きなのが、執着しているのが、リリーだとするならば辻褄は合う。彼にとって、凛音はただの入れ物で、前世のことだけを好きだったなら。
前世の裏切りがもし、何かの勘違いで。彼が今もリリーのことが好きでいるならば。
考えたくない。前世と今世は違うのだから。
「観覧車でファーストキスって言ってたよな」
からかうような口調で、でも真剣な眼差しで言った。私の体もほんのりと熱を持つ。雰囲気に流されてしまいそうになる。
「一色さん。一つだけ、確認したいことがあります」
「一色さんだなんて他人行儀な呼び方はやめてほしい。伊織と呼んでくれ」
けれど、その前にこれだけは確認しなければならない。彼が好きなのは"誰"なのか。
「一色さん。私のことが好きと言ってましたよね?」
「ああ、急にどうしたんだ?」
一度深呼吸をして心を落ち着かせる。
「それは、私がリリーだからですか?」
「ああ。……最初はそうだった」
「……最初は?」
「『リリーじゃない』と言われてから考えていたんだ」
それは電話で八つ当たりのように言った言葉だった。
「君の笑顔が好きだ。愛されていると分かるような、大輪の花のような笑顔が好きだ。しっかり者だと思われるように振る舞っているのに、スイーツを前に取り繕えなくなって目を輝かせる所もすきだ。不審者同然だった俺にも優しく接してくれる所が好きだ。少し心配にはなるけどね。それに……」
「……褒め殺さないでください!」
「赤くなって、可愛い」
「み、見世物じゃないです!」
「減るものじゃないんだ、見せてくれ」
「減ります! 何かが! 確実に!」
そうやって言い合っていると降りる時間が近づいてきた。彼はからかうように「ファーストキスはできなかったね」と囁いた。
「良いんじゃないですか? 私たちのスタートは酷いものでしたし」
観覧車が地上に辿り着き、扉が開けられる。私はぴょんと飛び降りて手を差し伸べた。
「これからよろしくお願いしますね、伊織さん」
また裏切られるかもしれない。その恐怖は消えないけれど、前世とは違って周りには頼れる家族や友達がいる。だから、きっと私は大丈夫。
「って伊織さん!? 早く降りて! 二周目に行くつもりですか!」
「……あっ! ごめん!」
降り忘れそうになった恥ずかしさからか、それとも別の理由からか。彼の頬が夕日と同じ色に染まっていた。
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ifルートがあります。「元婚約者から逃げたい」
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